※ 見る人によっては、気分を害する発言、描写がございます。
お気をつけて。
それは、この幻想郷が紅霧に塗れた頃の事だった。
人里において、異変というものは程度がどうであろうと背筋の凍るような緊張感を強いられる。
外で遊ぶ子供は家に閉じ込められ、常識のある大人もみだりに外には出ない。
一人の例外を除いては。
砂を踏みつける音がした。里の入口近く。空を見上げ、赤い霧を睨みつける青年の姿。
「行くのか?」
その背を見つめる人影が在った。寺小屋で歴史を子どもたちに教えている彼女は、心配そうに青年に言った。
「ああ、行ってくる」
頷いて、そう返す。
「死ぬぞ。そうでなくても怪我をする」
「ああ」
「何故だ。お前は人里の人間じゃない。そもそも幻想郷の人間ですら無い」
「だが陰陽師だ。戦う力はある。――大丈夫。ルールに従うさ」
死にはしない。そう言って、笑ったのだろう。背を向けた彼の表情は、その女性には見えなかった。
その答えに、彼女は食い下がるように言う。
「スペルカードルールは、女子供の遊びだぞ。みっともないとは思わないのか」
それは、言葉だけを見れば辛辣なものだ。しかし滲み出る優しさを、彼は理解しながらも。
「異界の理、おぞましい。そうして、何もしないまま見ていれば、何かが変わるわけでもない。この霧は只人には毒だ。私はそれを許容できない」
だから行く。顔だけを女性に向けた彼は、笑みに真剣味だけを添えて言った。
「――ああ。わかったよ。だが、これを持っていけ」
「これは?」
そう言って差し出したのは、彼女が腕に巻いているリボンだった。
受け取り、男は尋ねる。
「私の力を篭めておいた。全部、というわけにも行かないが、少しくらいならお前を襲う弾の歴史を食らう事ができる。――カッパが持っていた通信機の真似事も出来るように、知り合いに改造してもらった」
「そんな……事が?」
驚きに目を見開き、手のなかにあるリボンを注視する男。
瞼を閉じ、感謝の念を告げるように頭を下げた。
どこか面映い気持ちになった女性は、顔を背けて言う。
「帰って来い……絶対にだ。人里は任せろ」
「……任せた。では――行ってくる」
そうして、彼は人里を飛び出した。この異変を解決するために。
残された女性は、ただぽつりと呟いた。
「死ぬなよ、春明。子どもたちが悲しむぞ」
そこにはやはり、心配と優しさがあった。そして里から動けぬ自身を責める、小さな憤りも。
御門春明は、最近外の世界からやってきた人間だった。
博麗神社に迷いでた彼は、巫女によって人里まで連れて来られ、そうして今までを過ごしてきていた。
仲良くなった人たちは大勢居る。慕ってくれる子どもたちも居る。
だから、彼はいま異変解決のために幻想郷を駆けている。
きっかけは、里の老齢な医師の言葉によってだ。
――このまま行けば、この子は保たないかもしれない。
運が悪かった。それはその通りだったのだが、そんな一言で納得など出来るわけがない。 春明を慕ってくれている子供達の中の一人が、ひどい風邪を引いた晩。この異変は起きたのだ。
紅霧は、瘴気を孕んでいる。それは健常な人間であれば、数日は耐えられる程度のものだ。だが風邪で体力も、抵抗力も落ちた子供は、それに耐えることが出来ないかもしれない。
それを聞いて、春明は飛び出したのだ。誰の静止も一顧だにせず、ただ自分を慕ってくれる子供の中の一人であるというだけで。それを救おうと。
「どけ――ッ!」
襲い来る凶暴化した妖精たちを、投げはなった幾つもの符で撃ち落としながらも疾走は少しも速度を落とさない。
これも異変の影響だった。いつもは大人しい妖精たちも、この霧の魔力によって自分を見失っている。
くそ、どこまで迷惑をかければ気が済む。
思い浮かべるのは、この異変の主犯格だ。
彼はそれに心当たりがあった。
人里より離れた大きな湖の、その中央。そこに聳え立つ、赤い朱い紅い館。吸血鬼の根城。
「待っていろ吸血鬼。貴様の思惑がどうであれ、人の子を危険にさらすその重罪――」
音が鳴るほど歯を食いしばる。呻くように、言葉をつなげた。
「私が裁く。陰陽師――御門春明が」
四方から襲う妖精たちを叩き落とし、彼は闘志を胸に地を疾走った。
…
……
………
私は子供が嫌いだ。だというのに、奴らは常日頃から人の家に押し入り、どんちゃん騒ぎを繰り広げて帰っていく。
そんなとある日のことだ。相手をするのも面倒になり、放ったらかしにして寝こけていた私は、寝ぼけ眼を擦って最初に見た家の中に愕然とした。
あまりにひどい、部屋の惨状。ゴミはそのまま、棚はぐちゃぐちゃ、隠しておいた茶菓子は食い荒らされ、食べかすは畳の上に放置されている。
ああ――コレは許せんな。
流石に頭に血が登った。
張り倒す。今からでも。
既に家に帰ったようだが、そんなものは関係ない。
私は外に踊りでて、どいつもこいつも鉄拳制裁を加えてやろうとかけ出した。
それが――なんでこんな事になっているのだ。
目の前では布団に寝かされた太った子供と、それに聴診器を当てる老人医師がいる。
「このまま行けば、この子は保たないかも知れん」
「そんな、先生っ……どうにかならないのですか!?」
言った医師に、食いかかる親。聞けば、この子供は風邪を引いていたらしい。
それが今になって悪化した。それも不自然なほどの勢いで。
医師は手が付けられないと首を横に振り、それに親は膝を屈して嗚咽を漏らす。
痛ましい光景だった。
風邪を引いたくせに我が家に来るとか舐めとるのか糞ガキ、と思った自分が嫌になる。 撤回する気はサラサラ無いが。
しかし、なぜここに慧音が居るのだ。寺小屋で歴史を教えている彼女がここに居る理由がわからない。宿題でも取り立てに来たか。それともまさか、
「慧音、お前も(部屋を荒らされた)か」
「春明――。ああ、そうだ」
やはりか。くっ、なんという糞ガキか。
腹を立て、しかしすぐに収まった。この子は既に応報を受けている。であれば、責めることなど誰が出来よう。
ここでやるべきことはない。
私はそう思い、外へ出た。去り際に、慧音が意味深な視線を向けてきたような気がした。
家に帰ってきた。そして気分が落ちてきた。
なんという惨状……。ありえん。これを私一人で片づけよというのか。不条理だろう。
ぶちぶちと文句を言いつつ、私は部屋を元通りにするために奮闘する。
「……む」
棚を戻し、ゴミを片付けているとある物を見つけた。
茶菓子の箱だ。ご丁寧に包装紙もそのまま散らばっている。いかん、落ち着いた怒りがふつふつと湧いてきた。
落ち着け私。自分をなだめながら、それを拾っていく。
「ぬ……?」
そして、気付く。と同時に冷や汗が吹き出てきた。
おい。まさか。なんだと。
手にとった茶菓子の箱。その側面。筆で書かれた賞味期限。その期日。
二年前じゃねえか――!
「おかしいだろ!」
思いっきり床にたたきつけた。そもそも私が幻想郷に来たのはつい最近だぞ。なんで二年前の菓子があるのだ戯けが。
霧雨の糞オヤジ、なんてものを押し付けやがった。商品管理の出来ぬ店など潰れてしまえ。いやいやそれよりも――。
あらゆる思いが頭を駆け巡り、そして一つに収束して嫌な考えに行き着いた。
もしかして。
「急激な悪化って、まさかこれのせいでは――」
そこに気付くと最早それが揺らぐ事のない答えに思えてきた。な、何たることか。
というか糞ガキお前も気づけ。どれだけ食い意地はっとるのだ。賞味期限はきちんと見ないと死ぬぞ。いや死にかけてるし。
滴るように冷たい汗が頬から顎へと流れていった。
こ、こんなことをしている場合ではない。
「――逃げねば」
一番最初に出る台詞がこれか私は!
他にも在るだろう、何か。例えば、私が自作した符で自己治癒能力を活性化させるとか……。いやしかし食中毒に効くのだろうか。
そうだお守り。これも私が作ったものだ。結構効き目があるから里の人間に売っているのだが、残ったもののなかに息災祈願的な何かが在ったはずだ。気休めだが、無いよりましだろう。
散らかった部屋を見回して、見慣れたお守りを見つける。
一応中を確認すると――安産祈願と書かれた札が出てきた。
「気休めにもならん!」
壁に叩きつけた。
祈願しか合ってないではないか。
くっ、万策尽きた。いや、しかしこのまま無駄に時間を浪費して多大な後悔と自責の念に見舞われるのだけは嫌だ。
しかも人のものを勝手に食い漁ったボケが死んだことで、一生苛まれるとか真っ平御免だ。
「……よし」
私は力を込めてお守りを握りしめた。
「やらない善よりやる偽善。一応渡しておこう」
安産祈願のお守りで、糞ガキには奇跡を産んでもらうとしよう。
私は飛び出すように家を出た。
「春明!」
「――!?」
びくりと肩が揺れた。聞き慣れた声、慧音だ。まさか、バレ――
「お前も気付いていたんだろう。この異変に」
――た、か? うん、なんだとこの女。異変。
異変など何も――。
「ああ」
ああっ、空が紅い。今気づいた。なんだこれは。
闇が染まっているわけではない。何かが夜を上書きするように漂っているのを見て取った。
「これは、霧だな」
「ああそうだ。恐らく、城に住む吸血鬼の仕業だろう」
吸血鬼。確かにそんな奴があそこに居ると聞いたことが在る。噂好きの天狗に。
しかしあの化物、また大層なことをしたものだ。
見るに、これは夜を上書きするのではない。おそらくは――昼を。光の時間を上書きしようとしている。
呆れを通り越して笑えてきた。陽の光が苦手とはいえ、よくもまあこれほど大胆に事を起こそうと思ったものだ。
――ん、待てよ。
「臭うな。瘴気だ」
「うむ。あの子の風邪の悪化も、おそらくはこれが原因だ」
「……」
そういう解釈があったか――!
我、天啓を得たり。そうだそうだよそうだとも。あの化物に全部ひっ被ってもらえば良い。
慧音の言葉を皮切りに、音が立つような勢いで頭脳が高速回転を始める。
あらゆる情報がパズルのように合わさり――合わなかったので邪魔なものは千切り取って接着剤で無理やりくっつけ、私は一つの解法を叩きだす。
「……ふ」
見えないようにほくそ笑む。これだ――。
計画はこうだ。まず私は里を出る。ここに居て、もし原因が私の茶菓子だと分かればどのような目に合うかわからない。まずは保身だ。
その際、慧音には私が吸血鬼を討伐すると嘘をつく。そのままトンズラして、ほとぼりが覚めれば戻れば良い。
うむ、うむ。賢しいぞ私。
希望が見えた。
ああ、紅い夜でも光が見える気がする。
私は空を見上げ、里の外へと歩き出した。
「行くのか」
背後から、声。
それに、私はニヤけないように堪える。
「ああ、行ってくる」
どうにか、声は震えずにすんだ。
「死ぬぞ。そうでなくても怪我をする」
「ああ」
死なん。逃げる。全力で。
「何故だ。お前は人里の人間じゃない。そもそも幻想郷の人間ですら無い」
「だが陰陽師だ。戦う力はある。――大丈夫。(戦うことになっても、奴らもスペルカード)ルールに従うさ」
華麗さを競うゲームだ。人妖問わず、なるべく死なないように力を調整して。戦うと表現するにはあまりにもそぐわない、たかがごっこ遊び。
見たこともやったことも無いが、そんなもので死ぬことなどありえん。
そもそも私は――この世最後の陰陽師だぞ。一切合切叩き潰して、全力で逃げてくれるわ。
というか強い敵とは戦わない。
「スペルカードルールは、女子供の遊びだぞ。みっともないとは思わないのか」
思う。だからやらん。なるべく。
「異界の理、おぞましい」
命のやり取りを、人と妖がやらないなど訳が分からなさすぎて怖気がはしる。
「そうして、何もしないまま見ていれば、何かが変わるわけでもない」
しかしそこで歩みを止めれば、人は希望を断たれてしまう。
私も同じだ。ここで動かなければ、未来が閉ざされてしまう。糞ガキのせいで。我慢出来るか。
「この霧は只人には毒だ。私はそれを許容できない」
言い包めるようにそう言って、早く駆け出したい衝動を何とか堪えた。
ばれないかどうか心配でたまらない。引き攣った頬をそのままに背後を振り返ると、彼女は何かを決心するようにして、自分の腕に巻いていたリボンを手に取った。
「――ああ。わかったよ。だが、これを持っていけ」
「これは?」
そして手渡される。どういうつもりなのだろう。まさか付けろと。
確かに私の髪は長いほうだが、流石にこれはないぞ。
しかし表情は真剣だ。茶化す目的でこれを渡してきたとは思えん。
説明を求めると、彼女はその意味を語り出した。
――それは、私を絶望に叩き落とすには充分なものだった。
「私の力を篭めておいた。全部、というわけにも行かないが、少しくらいならお前を襲う弾の歴史を食らう事ができる。――カッパが持っていた通信機の真似事も出来るように、知り合いに改造してもらった」
「そんな……事が?」
通信機だと――!?
ば、馬鹿な……。愕然とする。全てが崩れ落ちる音が幻聴として脳内に響き、思わず膝を屈しかけた。
計画失敗。まさか、こんなどんでん返し。途中までうまくいっていたはずなのに。
予期していなかった結果に、目蓋を閉じて考える。
どうする、どうするんだ私。いかん、涙が出そうだ。逃避行がぱあになった。
慌てて顔を隠すため、頭を下げた。
「帰って来い……絶対にだ。人里は任せろ」
「……任せた。では――行ってくる」
返そうと思った。だが、それを言い出す機会が失われた。
もはや、もはや私に道はない。そう思い、里を一気に飛び出した。
馬鹿が馬鹿な事をしたせいで、どっちに転んでも人生プランに致命的なダメージを受けている。
そも、私が幻想郷に来た理由は、ありていに言えば隠居なのだ。
愚かでアホな人間どもが、自分と違う力を持っているという理由だけで人を魔女裁判にかけよって。全員張り倒して逃げてやったが、付き合う気力は激減した。
そのため、人と関わらないようにこちらへやってきた。
――私はここに宣言する。人里など、住まう気はさらさらなかったのだ。
博麗神社はいい所だった。高台で木々に囲まれて、静かで、縁側でお茶を飲むのが最高だった。
クソ、ドケチ巫女め。私を追い出しおって。ちょっと神社乗っ取ろうとしただけではないか。
――もう、いい。
なーんか色々面倒になった。考えるのも、先のことに一喜一憂するのも。
見たことも聞いたこともないが、どうせさほどでも無いのだろう、その吸血鬼とやらは。
いいぞ、正々堂々やってやろう。斬って捌いて叩き伏せて、城を乗っ取って私のものにしてやろう。
住民は全て追い出す。孤独ダイスキ。
「どけ――ッ!」
幾重にも重なり、連隊となって突撃してくる木っ端妖精を次々と撃ち落とし、駆ける。
ええい鬱陶しいぞ消えてなくなれ。これも異変の仕業か。
いつもは無害の馬鹿共も、今日この時は凶暴化して襲い掛かってくる。
どこまでも迷惑な事をしてくれるな吸血鬼。
「待っていろ吸血鬼。貴様の思惑がどうであれ、人の子(私)を危険にさらすその重罪――」
湖に近づくに連れて、どんどん冷や汗が溢れてきた。あれ、なんだこの魔力。
結構強いかもしかして。いやいや馬鹿な。
人間に追いやられて、現世に留まることも出来ぬ妖怪風情が強いわけが――ええい鳴るな歯の根。ガチガチうざったい。
ぐっと歯を食いしばり、反骨精神に全てを任せて体を動かす。
「私が裁く。陰陽師――御門春明が」
四方より来たる妖精風情を墜とし、私は一直線に紅い館を目指した。