まえがき
「お前クビや」
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> / ! !!! ! !!! く ドンドン
て / (_) C (_) て
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ハヽ/::::ヽ.ヘ===ァ
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∧::::ト U::::::::::::::::::U ノ:::/!
/:::人ト ,_ ー'_ U::/::|
「やっぱりハル×イチにしない?」
「なんでよ。イチ×ハルで行こうって最初から決めてたじゃーん!」
「だーかーらー! 金剛くんはヘタレ受け以外ありえないって何回言わせるのよ!」
「織斑くんの誘い受けが至高って結論が出たでしょ」
「そういう王道を敢えて外れるチョイス、わたし大嫌い」
「そうそう、一夏くんの無自覚攻めが最高よ」
「金剛くんの鬼畜攻めが一番そそられるのよねえ」
「いやいや、金剛くんは誤解受けが」
「金剛くんの健気受けがみたいな~」
学園祭当日にクラスの腐女子が内部分裂を起こし、宗教戦争が勃発した。
クラスはBLの炎に包まれた。おれは爆弾そのものなのだが、彼女たちの言う『金剛くん』は架空の存在であり、完全に別人なので逃げ延びることに成功した。
きっかけは些細なことだった。クラスの女子が学年唯一の男子二人を有するアドバンテージを最大限に活用し、『他のクラスに差をつける! ドキッ! 執事二人の禁断の愛憎パライソ劇』をやろうとか言い出した。
バーの歌姫みたいなもので、簡易的な劇をやって客に満足してもらおうとか何とか。
劇名は、執事二人のはずなのに『ハルナ姫』。一夏が王子様で、おれがお姫様らしい。
その時点ですでに意味不明だったが、役を決める途中で誰かが言った。
『金剛くんは、ヘタレ攻めが一番映えると思う――』
そのひとことで、学園祭に向けて一致団結していたクラスがバラバラになった。
議論は荒れに荒れ、眠り姫のおれが逆に一夏にキスして目覚めればいいとか、むしろ眠っている王子様にお姫様がキスすればいいとか、いっそのことお姫様いらないずっとキスしていようとか、どうしてもキスさせたい層がいるようだ。
以前にクラスの女子が、おれをホモ扱いしていたことを悔いて泣いていたが、あれは賢者タイムみたいなものだから仕方ないんだ。
性欲は尽きないから、一回後悔しても時間が経つと復活してしまうんだ。男ならわかるはずだ。女も同じなんだ。
「あのねぇ……もう当日で、セリフを憶えさせる時間もないからやらなくていいんじゃない?」
鷹月さんが頭を抱えて仲裁すると、みんな渋々と「それならしょうがないね」と持ち場に戻っていく。
カップリング論争をしたかっただけなんじゃないかな、この人たち。宗教もそうだが、見解の相違って恐ろしいよね。
あと、金と権力と薬ね。人を変えてしまうからね。怖いよね~。
「そろそろ開催するから用意しておいて、ピエール」
「かしこまりました、お嬢様」
反射的に一礼してしまう。ピエール――おれの源氏名だ。指導という名の調教の結果、おれはピエールになっていた。
燕尾服を華麗に着こなし、洗練された振る舞いを見せる世界で二人だけのIS男性操縦者……何をどう間違ってしまったんだろう。
妥協を許さない方々の手によって……おれは変えられてしまった。一夏はいつもどおりだったけど。
どうしてだろうね。
「あら、意外と似合ってますわね、榛名さん」
「私には勿体無いお言葉……恐悦至極にございます」
「ど、どうなさいましたの、その口調……?」
本物のお嬢様なのにメイド服を着たセシリアさんが瀟洒に語りかけてくださったので、またお辞儀して返した。
こんな豪華なメイドさんいるんだ、と思ったが、勝手に口が動いてしまうんだ。
久しぶりに会話したのに引かないでくださいまし。
「むう……胸元がキツいな」
「今日一日の貸し切りですもの。割り切るしかありませんわね」
「ミス・シノノノ。使用人の分際で雇い主に口答えなど、関心しませんね」
「……コイツはなぜ私には同列扱いするんだ?」
「ツッコむのはそこなのでしょうか……」
パッツンパッツンのメイド服を不満げに着こなすけしからん箒さんに苦言を呈すると、白けた視線と哀れなものを見る瞳がかえってきた。
あれか? 人を見せかけで判断してるな? 甘いな。おれの中身はもっとポンコツなんだぜ?
「すごいな、榛名は。本物の執事みたいだ」
「一夏。嫁に厳しいことは言いたくないが、お前の目は節穴だと思うぞ」
おれの擬態に関心する一夏とジト目のラウラがいる。どちらも燕尾服とメイド服だ。
ああ……ラウラのメイド服を死ぬ前に見られた……もう人生に悔いはないな。
「……」
どこかから不穏な視線をひしひしと感じるが、今のおれは優秀な執事ピエールなので持ち場を離れなかった。
金髪メイドって王道なの? たぶんシャルロットは執事服が似合うからおれのと交換しない?
そしたらおれが名実ともに灰かぶり姫になって、ガラスの靴を自重で踏み潰してしまって傷だらけの裸足の女神に変身するからさ。
●
「……」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……俺はお嬢様じゃねえ」
接客した赤髪長髪の、一目にはガラの悪い若者にしか見えない男性は、不満そうにおれを睨んだ。
忙しくてチラリとしか見てなかったから、一見して女性と判断してしまったよ。
おれは澄ました態度で頭を下げた。
「失礼しました、旦那様」
「旦那様と呼ばれる年齢でもねえよ」
「では、何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「……もう何でもいいわ」
疲れ果てた顔で男性は肩を落とした。たいへんお疲れの様子でしたので、おれは丁重に空いている席に案内した。
男性は戸惑いながらもゴテゴテに飾りつけた椅子に座った。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
「お、おう」
メニューを渡す。男性はやはり狼狽しながらも目を通した。
時折、目を離して横の席を盗み見ている。おれも一瞥すると、一夏とエロいチャイナ服を着た鈴さんがイチャついていた。
おれは妬ましくなって少し声を荒らげた。
「弾、後がつかえてるんだからさっさと決めろよ」
「!? き、急に素面に戻んじゃねーよ! びっくりするだろうがっ」
やべ、つい素が出てしまった。叩きこまれた執事の精神を思い出し、かぶりを振って理想の執事に成り切る。
よし、もう大丈夫だ。弾は、視線を彷徨わせ、おずおずとメニューを指さした。
「えーと、この……『美人メイドによるご奉仕フルコース』っていうのください」
「申し訳ございません、お客様。そちらのメニューは女性限定メニューでして、男性のご注文はご遠慮させて頂いております」
「ええっ……!?」
弾は絶望し、信じられないと目を見開いた。たしかにどう見ても男性向けのメニューだが、よく考えてみて欲しい。
ここは学校だ。おれたちがみんな高校生だ。未成年だ。そんないかがわしいサービスを提供できるわけがない。
何より、許可を取っていない。弾や少年期を過ぎてしまった男性が考える額面通りの行為などありえないのだ。
付け足すと、この学園祭は完全招待制なので、身内が配ったチケットを受け取れる人物以外に外部客……つまり、男性は殆ど考慮されていなかった。
これは、普段は専用機持ちで嫉妬を買っている代表候補生を、一般生徒がこき使って溜飲を下げてもらおうという狙いがあったからだ。
悲しいことに……せっかく来てもらった弾には申し訳ないが、選べるメニューは、これくらいしかない。
「お客様には、こちらをお薦め致しますが、いかがでしょうか?」
「いかがでしょうか、って……『ピエールの贅を尽くしたお・も・て・な・し』と『並』の二つしかねえんだけど」
「はい、どちらかをお選びください」
弾の顔がますます曇り、その目が「マジなの? ねえマジなの?」と問いかけてきていた。おれは黙殺した。
心なしか、クラスの女子の期待が集中している気配もする。無言の凄まじい圧力が弾に『ピエールを選べ』と訴えかけていた。客なのに。
弾は身震いし、クラスを見渡してから、再びおれを見た。
「いちおう訊いとくけど、ピエールって……誰?」
「私でございますが」
「……『並』で」
クラスのそこら中から舌打ちが響き渡った。
「わかってるわね、ピエール」
「あんな上玉、めったに来ないわ。男性客は年老いた父兄だけかと半ば諦めてたけど、良い仕事してくれたじゃないの」
裏では、このクラスを取り仕切る貴腐人たちが、このような会話を繰り広げていた。
メイド服を着た美少女女子高生なのに、今はサングラスをかけ葉巻を吸って札束を数えるマフィアに思えた。
彼女たちには、弾がネギと鍋を背負ってやってきたカモに見えているらしい。
おそらく弾は一夏が呼んだのだが、どうやらおれが召喚したことになっているらしく、おれの功績になっていた。
言い辛いけど、おれが呼び寄せる予定になっているのは怪盗ラビットなんだよね。内緒だけどさ。
「はい、ピエール。お客様の注文の品よ」
「くれぐれも、私たちの期待を裏切らないでね」
料理を手渡され、念を押される。言い方が完全にヤクザだった。
抗議したかったが、おれはしがない使用人ピエールだったので口答えできるはずもなく。
数少ない味方のノンケたちは接客やら調理で忙しく、おれは孤立無援の敵地で奮闘を余儀なくされたのだった。
おれはせめて外面だけは取り繕うと、柔和な顔をつくった。
「お待たせしました。こちら当店自慢の『グレートデリシャスハイパーデラックスジャンボウルトラミラクルスーパーパフェ』でございます」
「おい、もう一回言ってみろ」
弾が何か言っていたが、形式上はただのパフェだったのでおれは無視してテーブルに置いた。
名前が大層――というか適当――なだけで普通のパフェなのだが、弾は怪訝に見つめ、指差す。
「なあ。なんでバナナがそのまま刺さってるんだ?」
「仕様です」
おれはマニュアル通りに喋った。余計なことは話すな、と言い包められている。おれはできる執事なんだ。
おれは必死で自分にそう言い聞かせた。弾は不審な眼差しをおれに向け、バナナを抜こうとしたので、おれは続けた。
「お客様が自身で皮をお剥きになり、口に頬張ってお食べください」
これもマニュアル通りだった。弾は半ギレだった。
「え、俺が剥くの!? いや、普通だけど、わざわざ言う必要あんの!?」
「まったく……お客様は私がついてないとダメですね……」
おれは大仰に嘆息し、バナナを手に取ると、弾の背後にまわった。
「は? なになにっ?」
狼狽える弾を尻目に、おれは弾の背中に密着し、腕を回してバナナを弾の顔の前に出すと、手慣れた手つきで皮を剥いた。
露出した身の先端を弾の唇に押し付ける。
「はい、ア~ン」
「食うかボケェ!」
クラス中から黄色い大歓声が飛び交う中、弾はついにキレた。おれを押しのけ、立ち上がるとおれのバナナを奪い、床に叩きつけた。
「いい加減にしろコラ! なんでメイド喫茶に来て男に接客されなきゃいけねえんだよ!」
「お客様、店名を確認なさってください。ここは『一夏と榛名のご奉仕喫茶』です」
「なおのこと悪いだろ! 気色悪いわ!」
完全に正論だったが、おれは執事だったので譲れなかった。客が騒ぎ立てているにも関わらず、クラスメートほか、客の学校の女子連中も頭が湧いていた。
カップリングは喧嘩しているくらいが丁度いいとか意味不明なことを呟いている。基準がよくわからない。
弾はまだ怒りが収まらないようで、まだ愚痴っていた。
「金髪お嬢様メイドとか巨乳ポニーテールツンデレメイドとか綺麗どころいるのに、何で俺だけ執事なんだよ」
「インビジブル・ハンド・オブ・ゴッドが……」
「カッコつけた言い方すんな」
弾は舌打ちして、口を尖らせた。
「ったく、榛名のせいで気分台無しだぜ。せっかく美人な人と知り合いになれて浮かれてたってのによー」
「あん?」
それを聞いたとき、おれは自分が執事であることを忘れた。眉根を寄せて詰め寄る。
「弾、お前まさか、ウチの生徒と仲良くなったんじゃないだろうな?」
「え? あ、いや……仲良くなったってわけじゃねえんだ。ただちょっと話しかけられたから、連絡先を交換しただけで」
「逆ナンされてんじゃねえか! これだからチャラいイケメンはよぉ!」
怒りに我を忘れたおれは、机をバンと叩いた。弾は一瞬ひるんだものの、これまでの経緯を思い出したのか、負けじと怒鳴り返してきた。
「な、なんだよ! ちょっとくらい良いじゃねえかよ! お前ら普段からこの桃源郷でハーレムを味わってるだろうが!
俺だってほんの少しくらい青春を謳歌してもいいだろ!?」
「良いわけねえだろ! ここのどこがハーレムだ、よく見ろよ! 人面獣心のケダモノの集まりじゃねえか!
おれと一夏はな、ここの人たちの私欲を満たす肥やしでしかねえんだよ!」
外野から非難の声が聞こえたが、おれは無視した。弾はぐるりと見渡してから、
「ふざけんな! 美少女しかいないこんな環境で生活してる奴の嘆きなんてな、金持ちが『金持ってもいいことない』って呟いてるのと同じなんだよ!
この学校、嗅いだことないめちゃくちゃ良い匂いするじゃねえか! ウチなんかホコリ臭いんだぞ!
持ってる奴の悩みなんぞ知るか! 俺たちは持ってすらいねえんだぞ!」
そうだそうだ、と追従する声が聞こえたが、女性の声だったので無視した。
おれは憤慨し、腕を払って喉を震わせて全身で怒りを表現した。
「馬鹿野郎! 女の子がたくさんいるとな、すっげえ陰湿ないじめや嫌がらせが多発するんだぞ!
お前が考えてるみたいな頭ん中桃色な女の子なんているわけねえだろうがッ! 腹の中真っ黒だぞ! 内臓にギャランドゥ生えてんだよ!」
ひどい! 私達はそんなことしてない! と、抗議の声が唱和していたが、面倒だったので耳を塞いだ。面の皮が厚かった。
弾は我慢ならんと机に右手を叩きつけた。
「なんか女の子嫌い発言してるけど、お前ちゃっかりモテてんだろ! 俺知ってんだぞ!
複数の女の子と相部屋になってその年で娘もいて婚約者もいて年上のお姉さんにも言い寄られてるらしいじゃねえか!
おれと替われよぉ! 頼むから替わってくれよぉぉぉぉ!」
どれだけ羨ましいのか。弾は血涙を流して懇願しだした。弾には婚約者くらいしか相談してないから、あとは一夏が教えたのかな。
ハーレム主人公の親友特有の慟哭を受け止めたおれは――それでも湧き上がる怒りを抑えきれず、傍観していた一夏を指さした。
「本当に羨ましい環境にいる奴が、男に奉仕すると思うか!? できるならおれだって、一夏みたいに半ケツのチャイナ美少女にア~ンしたかったわボケ!」
「!?」
巻き込まれた鈴さんは、幸せそうな顔から一転して、羞恥で顔を真っ赤にし、お尻を両手で隠した。あとで一等賞をあげよう。
弾は激しく同意したが、それでも言いたいことがあるようだった。拳を握りしめ、力説する。
「それは分かるけども! 鈴は昔からの知り合いで、こう……グッとくるものがないんだよ!
ギャップも大事だけど、友情が先立つと性欲も陰るんだ。な、分かるだろ!?」
「確かに、幼馴染は仲が深すぎると異性として見るのはキツいかもしれない。でもさ、そんな普段は意識してない女の子が、急に女を全面に押し出す服装で現れたら……キュンとしちゃうんだろ」
「確かに……確かにな。まぁ、鈴は貧乳って時点で論外なんだが」
「うっさいのよアンタたちは!」
鈴さんの投擲したパフェの生クリームが、おれと弾の顔面に命中し、視界がブラックアウトした。
張り付いた生クリームがゆっくりと顔から剥がれ落ち、目を開けると、眼前には笑顔の鷹月さんが立っていた。わぁ、かわいい。
「金剛くん、休もう?」
●
実は、IS学園でもっとも恐ろしいのは鷹月さんなのではないか。あの天使の笑顔には、言外に、「もう邪魔だから出てってくれるかな?」という意味が込められていた。
おれと弾はカクカクと頷いて退出した。その後、弾と和解し、彼の恋だか欲情だか区別のつかない想いを応援してから別れたおれは、屋上を目指していた。
もう学園祭はずっと一人かくれんぼをしていよう。そう決意する。怪盗に見つからなければおれの勝ちだし。
「あ、見つけた」
ネガティブなおれの目の前に、メイド姿の会長が見えて、おれはついに幻覚の症状が出たのかと目頭を抑えた。
「早く早く!」
「急かさないでよ~。話題のカップルだからねー。お、執事とメイドでいいじゃない」
会長が走ってきて、おれの左腕にしがみついた。すると、カメラを構えたメガネっ子が速写した。
パパラッチだ。
「マスコミは散れやオラァ!!!!!」
「わっ」
「な、なに!? なになになにィ!?」
突然現れた二人は、豹変したおれに驚いているようだ。だが、知らん。
おれは積年の恨みを爆発させた。
「お前らが騒いだせいでおれの個人情報駄々漏れなんだよ! 住所までバラ撒くな! ストーキングまでしやがって、何様のつもりだ!」
「わ、私はそこまでしてないよ!」
「知る権利だの報道の自由だの表現の自由だの、自分たちの権利を主張するだけしやがって! テメエらは人様の人権侵害してるくせに我が物顔で権利訴えんな!
情報社会の人間としての義務を果たしてから権利を主張しろ! ペンは剣より強いとかぬかして調子こいてんじゃねえぞオラァ!」
「はい、落ち着こうねー」
「ケぺ」
喉を絞められたおれは、喉からカエルが潰れたような音を出して堕ちた。
会長の胸で意識を失う最中、「写真撮れた?」とか確認する会話が聞こえた。
写真……そういや、写真はひとつも持ってこなかったなぁ。
会長がおれの代理として『一夏と榛名のご奉仕喫茶』で働いてくれるらしいので、おれは屋上で涼んでいた。
風が妙に澄んでいる。空は抜けるように青く、雲ひとつない。晴れ晴れとし過ぎていて、逆に幸先が良くない予感がする。
物語的には、こういうのはそう遠くない未来を暗示したりするものだが、なんでこんなに綺麗な空なのか。
つーか、今シャルロットと会長が鉢合ったら一触即発の事態にならないか。上手いこと調整してくれることを祈るしかないのかな。
「あー……」
これからどうしようか。柵にしがみついて思索に耽る。しかし、良い案など浮かばない。
これから束さんが来る。天才の彼女が何をしでかす気か、凡人のおれには計り知れないが、まぁ色んな意味で攫われるんだろう。
そうなると、どうなるか。人間関係も壊れるだろうし、今の生活も送れなくなるのは間違いない。
将来について、どれほど悩んだか。立ち返れば、苦悩しっぱなしの学校生活だった。
行く先を案じて、見えないものを恐れて、見えたものを疑って、そうすると何も手につかなくなって逃げてばかりだった。
不安を抱えるほどに安全策を選んで、視野狭窄になり、言い訳を続けた結果が今のおれだ。
ケジメをつけるにせよ、責任を取るにせよ、攫われるにせよ。今回ばかりは逃げずに立ち向かわなければなるまい。
中天を越して、あとは落ちるを待つだけの陽を見上げた。けれど、眩しくてすぐに目を逸らした。
逸らした先で、人集りと喧騒が聞こえてきた。何やら捕物が始まっているらしい。
遠目に凝らしてみると――ひらひらのドレスを着た女性と黒いスーツの女性が対峙している様子がうかがえた。
おれはしゃがんで身を隠し、ISを部分展開して音声と映像を拾ってみた。
『何をしに来た』
織斑先生の酷表な声が耳に届いた。後ろには教師の皆さんがスーツの下に全身ピッチリの――名前なんだっけ――強化骨格を着こみ、仰々しくて学園祭の和んだ空気に似つかわしくない。
場所は校門で、怪盗ラビットこと束さんは、堂々と正門から入ろうとしていたようだ。
その束さんは、したり顔でおれから盗んだチケットを取り出した。ピラピラと靡かせる。
『フフン、決まってるよー。かわいいはるちゃんと妹の学園祭に父兄としてやってきたのさ』
『お前に父兄を名乗る資格はない』
辛辣に切り捨てる織斑先生にも束さんは全く動じてなかった。
『や~だな~。戸籍上は完全な他人でも、血縁があれば、それは肉親に変わりないんだよ? たとえ殺したいほど憎くても、私は箒ちゃんの姉だし、どれほど愛していても私とはるちゃんは他人。
ちーちゃんたちも同じ。だから血を交じらせるんでしょう?』
『お前がやろうとしていることは犯罪だ』
頑として譲らない織斑先生に束さんは指を立て、チッチッ、と挑発した。
『違うんだなぁ、愛の告白だよ』
『金剛はお前を好きではない』
『今のはるちゃんはそうかもね。でも……本当のはるちゃんは?』
え、おれ偽物なの?
衝撃の事実に泡を食うおれをよそに、ふたりは盛り上がっていた。
『お前が何を考えているか見当もつかないが、私たちは絶対にお前を通さん』
『そりゃぁないぜえ~とっつぁ~ん』
『誰がとっつぁんだ』
コントしてんじゃねえよ。おれが脳内で唱えていたクローン説が真実だったりするのか。
切羽詰まっていたおれは、屋上から叫ぼうとするのを懸命に堪えた。
そうこうしている間に教師陣が束さんを包囲する。
『大人しく捕まれ。抵抗しなければ手荒にはせん』
『おっと、そういうわけにはいけねえなぁ』
芝居がかった口調で束さんは胸元からパイナップルを取り出した。……何あれ、手榴弾?
『ッ、しまった!』
『ぽーい』
地面に叩きつけると、大発光して周囲を白色に塗り替えた。レーダーもイカれて、束さんをロストする。
『あばよーとっつぁん!』
逃走する束さんの高笑いが轟いて、光が収まったときには、束さんの姿はすでになかった。
『束ぇ……! 遠くには逃げていないはずだ! 奴の狙いは金剛だ! 金剛を探せ!』
慌てふためいて散会する教師陣。……まあ、予想はできていたけどね。こうもあっさりと、出し抜かれるとは。
――あー……
「やばくね?」
顔から表情が消えたのを自覚する。心の葛藤がひとつに収束し、脳が今やるべきことを指し示す。
「逃げよう」
直前に立てた決意を放り出し、おれは一目散に屋上をあとにした。
●
これは勇気の逃走だ。戦略的撤退だ。メロスがセリヌンティウスを助けるために走っているのと同じで、処刑が怖いから逃げているわけではないのだ。
そこのところは理解して欲しい。おれの良心とかには特に。
クラスの出し物で華々しい廊下を駆け、仮装大会みたいになっている女生徒の波を掻き分け走る。
木を隠すには森の中、人を隠すには人の中と思ったが、燕尾服を着た男子は女子ばかりのIS学園では目立ちすぎる。
どうしよう――どうすればいいんだ。おれは冴えない頭をフル回転させたが、束さんから逃げ切る方法などさっぱり浮かばなかった。
「そもそも織斑先生が取り逃がした時点で詰んでないか、これ……!?」
すなわち、IS学園どころか世界最強の人ですら捕らえられないわけで。
武力では完全に勝ち目がないことは明白だった。なんか根本的な技術力からして違う。
何で胸の谷間から頭大のパイナップルが出てきて、それがレーダーを撹乱する作用のある発光弾になるんだ。
あのおっぱいは四次元ポケットなのか? 人間は二十二世紀のたぬきに勝てるのか?
ギガゾンビなら……いや、日本創世まで遡らなければいない。詰んだ。
「宇宙にフライ・ハイすれば逃げきれるかな……」
「あれ、榛名」
元々のISの用途を思い出し、宇宙空間にISは適応できるのか思慮していたが、名前を呼ばれたので振り向いた。
一夏が女の子に囲まれていた。どこかのアイドルの出待ちの如き様相を呈していたので、おれは無視した。
「ま、待ってくれ! 榛名! 頼むよ、助けてくれ!」
「そんな余裕ないよ!」
我が身可愛さに親友を見捨てる。見捨てるというか……普通に幸せそうにしか見えないし。
あまり見ていると嫉妬で飛び蹴りをかましてしまいそうなので、全速力で一夏の横を駆け抜けた。
――が、
「何で逃げるんだよ! 置いて行かないでくれ榛名!」
「あ、一夏くんが逃げた!」
「逃すな!」
一夏は渾身の力で女子を振り払い、おれを追ってきた。目当ての一夏が逃げたので、女子もついてきた。
いや、なにこれ。
「榛名ぁぁあああ! 置いていかないでくれええええ!」
「知るかぁ! こっちはこっちで一杯一杯なんだよ!」
「どうしてそんなことを言うんだ! 以前の榛名はそんなこと言わなかった!
親友のピンチには必ず手を貸してくれた。榛名は女の子に囲まれて変わってしまったんだ!」
「むしろ変わらない一夏がおかしいんだよ!」
並走して、なぜか争い合う男ふたり。そりゃ変わるだろ。一回死んでるんだぞ、おれ。
「分かった! 話し合いはあとにしよう。今はおれは、」
「やっほー、は~るちゃん! ご無沙汰だね~」
「ぎゃあああああっ! きたああああああああっ!」
廊下の窓ガラスをぶち破って、怪盗ラビットこと束さんがド派手に登場した。
おれは錯乱して踵を返した。が、後方のウンタラカンタラ、迫り来る女子の壁が邪魔をする。
「榛名! ――って、何で束さんが!?」
「いや~。理由を話せば長いんだけど、とりあえずいっくんには特に用はないかな」
「じゃあ、なぜここにいるんですか?」
「相変わらず察しが悪いねー。ちーちゃんがかまってやらなかったからかな?」
「……榛名ですね?」
おれが女子を相手にモーセの海割を再現しようと悪戦苦闘している最中、背後では一夏と束さんが険悪なムードになっていた。
おれはどうすればいいんだ? 逃げるべきか、一夏と共に戦うべきか?
「榛名! ここは俺に任せて先に行け!」
「え!?」
物騒なセリフを一夏が背中で語り、逃走を促す。いや、お前それは……
「いっくん……それはね、死亡フラグって言って、主人公は決して吐いちゃいけないセリフだよ?」
「行け!」
「お、おう」
気迫に負けて、おれは女子の肉壁をかき分けて駈け出した。
一夏の迫力にあてられてか知らないが、一夏好きな女子も臨戦態勢になっている。
「フッフッフ……甘い。甘すぎるぜ、いっくんよぉ」
「昔の俺と同じだと思わないでください」
かくして、一夏連合と束さんの戦闘が勃発した。……いや、たぶん勝てないと思うけど。
今は逃げた者が勝ちってことで。おれは親友を囮にして逃げた。
束さんと遭遇してから一分が経過した。おれはまだ廊下を走っていた。
どこまで逃げればいいんだろう。織斑先生のもとに行くのが一番良策なのだろうか。
だが、織斑先生が赤子同然に出し抜かれた現実がある。一夏は心配だが、束さんも必要以上に痛めつけたりはしない筈だから、やはりおれがどう動くかが――
「あ、榛名」
前方に、メイド服のシャルロットを見つけた。顔が引きつる。なんだってこんな時に――!
「あの……」
「急いでるから、じゃ!」
何か言いかけたシャルロットの横を駆け抜けた。
「待って!」
が、腕を掴まれ、引き止められた。その握りしめる細指の力が、予想以上に強かったものだから、その表情を見て後悔した。
「何で逃げるの!? 僕のことも嫌いになったの!? ……もう、話してもくれないの?」
「違う! 違うけど……」
言葉が足らず、今のおれには、彼女に伝える術がない。言い倦ねるおれの言葉をシャルロットはじっと待っていたが、そこに割り込んでくる影がひとつ。
「奴らは逝ったぞ。次は貴様だ……はるちゃん」
「早すぎんだろぉぉあああああああああああ!!!!!」
また芝居がかった口調で現れた束さんをみとめた瞬間、おれは再び脱兎の如く逃げ出した。
もう一夏やられたのかよ。あっけなさすぎだろ。
余裕なく振り返ると、束さんが高笑いしてついてきていた。怖い。
「あれは……そういうことか。榛名!」
シャルロットもついてきた。いや、敵わないからやめておいた方が。
「榛名! 待って!」
「無理!」
「はるちゃんのお尻を追っかけるのも楽しいけど、そろそろはるちゃんも疲れたでしょ?
ちょ~っと怪盗ラビット三世の胸で休んでもいいと思うよ?」
「初代と二世は誰だよ!」
「榛名! 絶対止まっちゃダメだよ!」
「どっちだよ!」
息せき切ってくだらないやりとりをしながら、廊下を巡る。
おれが篠ノ之束博士に追いかけられていることは忽ち学園祭で沸き立つ全校に知れ渡り、事態は妙ちきりんなことになっていた。
「え!? 金剛くんが女性に詰め寄られて必死で逃げてる!?」
「つまり、金剛くんの貞操がピンチ!?」
「金剛の尻が追われてる!?」
「そういえば一夏くんも追ってた!」
「そういうことなのね!」
どういうことなんだよ! すれ違う女生徒のウワサ話が段々と耳を疑う内容に変わっていったことに口伝の恐ろしさを知る。
背後には、まだ束さんと、その後ろにシャルロットがいた。いや、心なしか……というか、追ってきている人の数が如実に増えている。
中には鬼気迫る形相の生徒もいて、おれに何か恨みでもあるのかという必死さだ。
おれ何かしたか!?
『全校生徒に緊急速報! 逃げる金剛榛名くんを捕まえた人には、織斑一夏くんを一日好き放題できる権利をプレゼントします!
繰り返します! 榛名くんを捕まえた人には一夏くんをあげるから、捕まえて私、更識楯無に引き渡すこと! 生徒会長権限で保証します!』
無常に響き渡る全校放送の声――会長か。この騒ぎが収集つかなくなったのは、これが原因か。
でも、景品が一夏ってことは、ひとことで言うと、やばいんでないの?
走り通しで酸素が回っていないおれの頭でも、起こりうる事態が容易に想像できた。
前に、三人の女生徒の姿が見える。遠目にも判別に困らないポニーテールに金髪縦ロールとツインテール。
「榛名! お前に恨みはないが――」
「一夏さんを手に入れるために――」
「お縄についてもらうわよ!」
専用機持ち三馬鹿トリオは、ISを展開しておれを捕縛しにかかった。完全に殺す気だった。
おれは進路を変更し、衝突を避けた。もう学園祭どころではなかった。
「束ェェェエエ!」
「とっつぁ~ん! しつこい女は嫌われるぜ~」
「お前が言うな!」
「榛名! 何で俺が景品になってるんだ!?」
「一夏! 生きてたのかよ!」
今度は教師陣と一夏も加わり、もう目的が何なのかすらわからなくなってきた。
『金剛くーん! 大人しく捕まってー!』
『うおおおおおおおお! 榛名! うおおおおおおおおお!』
『いいから止まれぇぇぇぇぇぇ!!!!』
「な、なんだってんだよこれは!? アラク――ぐあっ」
濁流と化した人の波に呑まれ、錐揉みされ、見ず知らずのOLのお姉さんが潰されてしまった。
ごめんなさい! でもおれが悪いんじゃないんです! 人の性が悪いんです!
「も、もう無理……」
かれこれ十数分は全力疾走している。全力は盛ったが、階段の昇り降りに加えて追われている重圧に奇襲での驚愕する疲れで足が重い。
『紫雲』を展開して逃げようか画策しているおれが曲がり角を曲がった瞬間だった。僅かに開いた扉から腕が伸びて、おれを絡めとった。
「むぐっ」
いつぞや全く同じ目にあったな。教室の扉に何らかの細工が仕込まれているのか、常時の何倍も速く閉じた。
大勢が廊下をどよもす地響きが教室内に響く。おれの口を塞ぐ手は小さく、背中に触れる面積も小さかった。
相手はすぐにわかった。
「はぁ……! ラウラ……」
「無事だったか、母。しかし凄い汗だな」
口を包む小さな手が離れ、振り向くといつもの仏頂面のラウラがいた。不覚にも涙が出そうになった。
「ラウラぁ……! おれの味方はラウラだけだよ……」
「あら、ひどいわね。私は?」
会長が胸の下で腕を組んで仁王立ちしていた。おれは疑惑の眼差しを向けた。
「騒ぎをここまで大きくしたのは誰でしたっけ?」
「最善の方法だったってだけよ。榛名くんは周りに迷惑をかけまいと一人になろうとするでしょう?
だから孤立させないようにしたの。一人になったらすーぐ篠ノ之博士に捕まっちゃうし」
行動を完全に読まれていたのでおれは口を閉ざした。束さんは誰にも対抗できない可能性が高いが、それでも誰かが居れば助けてもらえるかもしれない。
他力本願で情けないことこの上ないが、事実は事実だ。おれが束さんに身を捧げれば、とも思うが、それは勘弁願いたいし。
「あ、ラウラちゃんが榛名くんをゲットしたから一夏くん好き放題券プレゼントするわ」
「う、うむ」
「え……ラウラ……まさか」
「ご、誤解だ! コイツが母を捕まえられるのは私しかいないと言い出して……!」
「どうせラウラちゃん以外に捕まったら逃げるでしょ、榛名くんは」
ラウラがおれを売ったのかと、動揺するおれを会長が的確にビシビシ言葉で殴ってくる。
人の行動パターン分析するのやめてくれませんかね。
「さ、逃げましょうか。あのごった煮状態でも、そろそろ榛名くんがいないことに気づくでしょうし」
『そう、誰でも気づく。少し一緒に居ただけの人間でも行動パターンが把握できる。何より、目の前のはるちゃんを安々と見失う私だと思ったか』
ドアの向こうから可愛らしい声がする。もう一発で声の主が分かってしまった。
「マズ――! 逃げるわよ!」
『もう遅いんだな~これが。クラッキング完了~』
会長が細工を仕掛けた施錠がいともたやすく解錠され、ドアが開く。案の定、束さんである。
「ジャーじゃじゃーん! 怪盗とお姫様の感動のご対面だー」
「ぎゃーッ! 助けてええ! 犯されるぅー!」
「やだなぁ~。それはアフターサービスだよ」
「やっぱり犯すんじゃないですか!」
「どう見ても嫌がってますけど……」
追われ続けた恐怖がよみがえり、年甲斐もなく泣きわめくおれは、情けないことこの上なかった。
恐怖を助長させるようにゆっくりと歩いてくる束さんを見て、会長とラウラがISを完全展開する。取り残されて困惑したおれも集団心理から便乗して展開した。
「おやおや、物騒だなー。今日は学園祭だよ? 平和に楽しくハッピーにいこうよ」
「母が攫われると困るのでな。兎は我が黒ウサギ隊だけで十分だ」
「ラー、ラウ……ラウラちゃん。私とはるちゃんが結婚すれば君に姉ができるよ」
「えっ?」
「おれにもう一人娘が!?」
「出来らぁ!」
「はい、佞言に誑かされない」
ISで突っ込まれるとシールドエネルギー減るんだけど。
「篠ノ之博士、投降した方がいいですよ。生身でISを相手にできないことは、製作者のあなたが一番理解しているはずです」
「んー?」
水の槍を向け、勧告する会長に束さんは首を傾げるばかり。発言が理解しかねると、心の底から不思議がっていた。
そこに雪崩れ込んでくる専用機持ちの一年生が五人。
「榛名! もう逃げないでよ!」
「そうか! 俺が榛名を捕まえればいいんだ!」
「させません、させません、させませんわ! どのような形であれ、勝った者がウィナー!」
「一夏! アンタは何も得しないんだから退いてなさい! 我が天道を阻む者は、どいつもこいつもぶっ飛ばす!」
「そうだ! 邪魔者は力で捩じ伏せる! 体中に流れ出すエナジーがそう言っている!」
欲に目が暗んだ人の末路だった。発言がヒロインに相応しくない物騒な言葉のオンパレード。
ぶら下がった人参を追い続ける馬の心理がわかった気がした。猪突猛進の乙女ほど怖いものはない。
しかし、ISを展開したおれたちと対峙する束さんを視界に入れたことで頭が冷えたようだ。
全員が険しい顔で束さんを睨むと、ISで武装した八機が狭い教室内の中心の束さんを包囲する。
如何に強力な武器を持っていても使う隙すら与えない、完璧なチェックメイトの状況を作り出した。
「姉さん……やはり、こうなりましたね」
「箒ちゃん。箒ちゃんは恋の意味を履き違えてるかな。姉からの助言だよ。想いを一方的にぶつけるだけが恋愛じゃないよ」
「それは束さんが言っていいセリフじゃない」
一夏が口を挟んで批難した。束さんは両手を広げて一夏に笑顔で言う。
「なんで? 私くらい一人の異性を想って行動した人は、この星の歴史を探しても比類する者はいないよ。
だって、その結果で世界が形を変えたからね。君たちの乗るIS、人との出会い、生きる社会構造、これまでの人生の道程に至るまで。ぜ~んぶ、私がいなければ成り立たなかったんだよ?
そして如何様にも望むままに姿を変えられる。これが想いの力じゃなくてなんなのさ」
……しばし、一様に黙りこむ。皆、忘我と自分の中で思慮に没しているようだった。
一夏と箒さん、鈴さんを除けば、全員がISという存在なくして出会う縁のない人々だ。
誰も彼も、ISを介して出会い、知り合い、関係を深めていった間柄でしかない。この人がいなければ、そもそも今が成り立たないのだ。
だから私を否定するなら、現在の全てを否定することになると暗に告げている。
それが理解できない人ばかりじゃない。皆が口を閉ざす中で、真っ先に反論したのは、シャルロットだった。
「そうやって何でも自分の望み通りに事が運ぶと思っている傲岸さが、人の心を介せない原因なんじゃないですか。篠ノ之束博士」
「そう。だから一番大切なひとを不幸にして、今もそれに気付けていない。それこそただの自己満足の思いあがりです」
会長が続く。……もう止めにしない? 一夏も鬼女めいてきた女性陣を見て、顔真っ青にして脂汗流しているしさ。ね?
「へーえ? 知ったふうな口を叩くね。じゃあ、お前らは好きな人を幸せにできるのか?
幼さと恋で耳鳴りのする耳かっぽじってよく聞け。自分の置かれた環境と想い人の心情をすべて加味して、結ばれて幸せと言えるのか?
女の臭い妄想と倫理を男性に当てはめないで、相手の立場に立って考えろ。取り巻くしがらみを含めて、その人は共にいる未来で幸せに見えるか?」
だから、本当にやめようよ。
「私と付き合うと男は変わるとか、ただ愛してくれればそれでいいとか、彼にとって一番は自分だとか、自分本位に思考してるだろ?
箒ちゃんたちもさ、さっきのいっくん独占権争奪戦のときも真っ先に目先の利益に飛びついたよね? 少しでもいっくんの気持ちを考えた? チャンスがあれば自分を見てくれると思ってたの?
お前らは恋を履き違えてるよ。顔が良い、何かが優れてる、お金を持ってる。ちょっとしたきっかけで移ろう程度の精神で誰かを護ろうなんて、約束もできない大層な言葉を吐くな」
「……詭弁です。あなたもできないことを私たちに押し付けないでください」
そう会長が返すのがやっとだった。喜劇から一転して急に真面目なことやられると頭がついていかないんだよ。わかるだろ。
「アンタがどんだけ偉かろうが、あたしたちを否定する正当性も人を言い様にして許される権利もないでしょうが」
「尊敬しておりましたが、わたくしのクラスメートに仇なそうとする輩に成り下がった人の戯れ言など耳を貸しません。わたくしは自分の想いが正しいと自信を持って断言できますから」
「鏡は女の心までは映してくれないからね~。これが、私が世界を変えたのが原因なら反省しなきゃいけないね。
恋をしている人間というのは、傍から見ればとても恥ずかしいものなんだけど、女性が増長して余計に周りが見えない女が増えた」
それで、今まで我慢していたのを堪えられなくなったのか、顔を伏せて震えていた箒さんが憤った。
「もういい! 人を傷つけてばかりの姉さんなど、もう姉さんじゃない! 私が捕まえて何もできないよう黙らせる!」
「ほ、箒!?」
飛びかかる箒さん、追随する一夏。そしておれは――
「あとで弁償します!」
「母ッ!?」
「逃げた!?」
紫雲で窓を破って空に飛翔した。元を辿れば、おれが原因なんだし、おれがいなくなれば問題は解決するはずだ。
何より、おれが原因で人が争うのを見るのが耐えられない。だったら、いっそ殴られた方がマシだけど、誰もそれはしないから。
良かれと思ったんだが、
『――ISコアのクラッキング完了。学園内のISは機能停止だよん』
ISの内線から束さんの声がした。時を待たずして、突如ISが推進力を失い、上昇から墜落へ軌道が変わる。
なにそのデタラメ!?
『製作者に被造物が敵うものかな? 神の力を借りでもしない限り、兵器っていうのは構造も設計も把握済みで管理も万全で制御可能なものでなくてはならないものだよね。
私が作ったもので私に立ち向かうなんて、ちょっと考えれば誰でも無意味だって悟れるはずなんだけどなー』
銃の作成者が銃では死なない並みの無茶苦茶な理屈だが、この人だと道理も通じる。理屈上は納得できるんだが、一個人が完全に自由にできるものに世界は征服された絶望感に物哀しい気分になった。
だって今のおれ、蝋の翼を溶かされたイカロスだもの。墜ちるしかないんだもの。
「嘘でしょーーーっ!?」
叫びながら、吐き気がするGに苛まれたのも一瞬。おれは屋上に墜落し、クレーターができた。
たいした高さではなかったことと、衝撃をISの装甲が和らげてくれたおかげで怪我はないが、落下後の紫雲は待機形態に戻ったまま、何の反応もない。
これで逃げる手段と対抗策を失った。一夏たちは無事だろうか。連絡を取ろうにも、ISは使用不可、電波の類もパイナップルで狂っている。
戻ったら束さんがいる。そうなったら対抗手段が何もない。
「……詰んだ」
もう打つ手が無いじゃん……騒ぎにしたくないから織斑先生にだけ相談したけど、結局大騒動になって、どうにもならなかった。
直に束さんがやってくる。おれは――
●
「はるちゃん、み~つけた!」
学生寮の自分の部屋に身を隠していたところを束さんに見つかってしまった。
自分なりに思索を巡らしてみた結果、学園祭をほっぽり出して無断で帰る奴はいないだろうと思いつき、こそこそと帰宅したのだが、甘かった。
以前に箒さん探知機なるものの存在を匂わせていたから、おれの探知機も作ってたりするのかな。
鍵を掛けなかったのは、見つかったら終わりだと観念していたから。ここまで来たら暴れても無駄だろう。
「はるちゃんの行動なんて、手に取るようにわかっちゃうんだからね。困ったら自分に馴染みのある場所に逃げるのは、昔から変わらないね」
そう、昔から逃げてばかりだった。嫌なことから逃げて、立ち向かうことをしなかった。
一度だけ、勇気や誇りのためといった尊い事柄ではなく、自棄っぱちになって逃げることを放棄して、そして死んだ。
それも友人を守るためなどではなく、思い通りにならない現実に嫌気がさしたからで、人に誇れる名誉ある死ではなかった。
三途の川が渡れずに戻ってきて、沸点が低くなり、感情を発露する機会も増えたが、根っこは変わらない。
辛いことから逃げて、現実には背を向け、ひたむきな想いにそっぽを向いた。
もう逃げ場もない、背水の陣がしいてある。精々あがいてみよう。
「前に侵入したときも思ったけど、はるちゃんの匂いがするね。ま、他の女の匂いがするのは不快だけど、しょーがないか」
「あの、みんなは……」
「心配しなくてもピンピンしてるよ。傷ひとつつけてないから安心していいよん。優しいはるちゃん」
心配はしていなかったが、本当に約束は守ってくれたようだ。
最初の接触で衝突した一夏も無事だったし、束さんはおれの嫌がることを決して行わなかった。
……いや、おれを追いかけ回すのは、説明ができないんだけどね。
「積もる話は山ほどあるし、はるちゃんと夜通し語り合いたいな。今日はゆっくり話そうね。ぜーんぶ終わったあとで」
相変わらず、子供のように底抜けな愛らしい笑顔を向けて、言葉尻に表現できない情愛を乗せてくれる。
おれはたくさんの人に申し訳ない気持ちを懐いてきたが、彼女に対するそれは重さが違っていた。
にわかに外が騒がしくなり、束さんは入り口を見る。
「来たかな」
「は?」
覚悟を決めているおれの出鼻が挫かれ、眉をひそめると、扉が壊れかねない勢いで開かれた。
入ってきたのは、シャルロットと会長のふたり。まだメイド服を着て、息も絶え絶えで膝に手をついて。
疑問がおれの口をつく。
「なんで……」
「何でも、何も――」
「後悔したくないからだよ!」
ふたりが気炎を瞳に宿して、束さんを睨んだ。どれだけ無謀なんだ。勝てないのは、これまでのやりとりで分かりきっているだろうに。
「ま、来ると思ってたよ。お前らは私に真っ先に反論した。そして、はるちゃんとそれなりに一緒にいたからね。
はるちゃんの取る行動は読めると踏んでた。最後がお前らがはるちゃんと過ごした部屋になるのは、皮肉が効きすぎているかな?」
部屋の隅で体育座りだったおれが立ち上がり、ふたりとの間に束さんが阻むように仁王立ちする。
同時に、女性の声じゃない低い大声も聞こえてきた。
「あ、それはいっくんもだったか。でも、今は邪魔だから入れてあげない」
小さい人参を模したスイッチを押すと、部屋の出入口にアリーナの障壁に似た結界が展開された。
これで外界から遮断されたわけか。……しかし、用意が良すぎるし、用いる兵器や技術も桁違いすぎて、為す術もない。
彼女が物理的な手段を強行しなかったのは、幸いだった。束さんは、親しい人に向けるものとは大きく異なる冷酷な態度でふたりを睨み返した。
「本音を言うと、別にはるちゃんを攫ってからでも良かったんだ。ただ、それをすると遺恨を残すことになる。
はるちゃんの心に未練を残して一生引きずることになる。それにはるちゃんの願いもあったから、はるちゃんを最も好いているお前らとの決着はつけなくてはならなかった。
想いの強さも、身体的強さも、心の強さも、繋がりの強さも、何ひとつ私に優っているものはないんだと見せつけてやりたくなった」
傲岸不遜な物言いに会長が反駁した。
「よくも抜け抜けと……榛名くんの人生を掻き回して、不幸にしておきながら、榛名くんに好きと言える厚顔無恥に反吐が出ます」
「不幸になってる? どこが? 幸せに決まってるよ。ねえ、はるちゃん?」
振り返り、無邪気な笑顔をおれに向ける。おれは何も言えなかった。
シャルロットが言う。
「お金や地位で人の幸福が決まると思っているのなら、それはあなたが浅はかなだけですよ」
「お前らは、人を責める前に自分の無知を嘆いた方がいいよ。そもそも、IS学園に通う前のはるちゃんが幸せだった根拠はなに?」
その言葉に、ふたりがハッと目の色を変え、おれを見た。根拠なんてない。
彼女たちは、現在のおれの気苦労を見て、おれの悲嘆に暮れる様を見て、同情してくれていたに過ぎない。
過去を話したことなんてない。だが、現状を嘆く以上、昔の方が良かったのは紛れもない本音だった。
だから言った。
「束さん、おれは」
「以前の、普通の暮らしをおくっている方が良かったって? それも、はるちゃんが何も知らないから言えるんだよ」
おれの言葉を遮って話す束さんの声は、遣り場のない怒りやおれへの哀れみ、愛しさが入り混じった切実な響きで。
皆、自然と閉口して耳を傾けていた。
「もちろん、幸せなんて人によって違うことなんて天才の束さんはとっくに知ってるさ。
金があれば幸せって人もいれば愛があれば幸せと言うやつもいる。
幸不幸の受け取り方は人それぞれだけど、普遍的な幸福のイメージは、誰しもが漠然と共通してあるだろ?
他人が見たはるちゃんの家庭は、どうみても不幸だった」
悲しげに目を細め、束さんはおれを見つめた。
「はるちゃん、憶えてる? IS学園に入学が決まった日のこと。慌ただしくて、はるちゃんは混乱してたかもしれないね。でも、私はよく憶えてるよ。
はるちゃんの母親は、世間で子供が騒ぎを起こしたと知って、まずはるちゃんを責めたね。子供が何か悪いことをしたと決めつけて、庇うこともせずに自分の世間体だけを気にして泣いてたね。
はるちゃんの父親は、子供の人生が厳しいものになると知っても、他人事みたいに話すばかりで、はるちゃんを心配する素振りすら見せなかったね。二度と会えなくなると分かっていても、別れを惜しみすらしなかったね」
記憶が脳裏でよみがえる。嫌なことが一度にたくさん起きて、思い返したくない頃の出来事。
「ねえ、幸せな家庭の両親ってこんな反応するの?」
問われたのはシャルロットと会長で、返答に窮して目を伏せた。
答えられないのを見て、束さんは憎々しげに語りだす。
「お前らは知らないだろうが、私は、はるちゃんが私の腰に届かない幼い頃から、はるちゃんのことをよく知ってる。
はるちゃんですら知らないことも、何でも、知り尽くしている。そんなお前らに批難されるのは業腹きわまりないし、今すぐにでも八つ裂きにしたい。
でもお前らにも知る権利と必要がある。はるちゃんにも知ってほしい。私のことも理解してもらいたいから全部話してやる」
――知りたくないことも、知らなければよかったこともある。
「私は、はるちゃんと知り合ってから、他人に少し、ほんの少しだけど興味が湧いた。はるちゃんが好きになって、でも何ではるちゃんが泣いているのか分からなかったから、その二人を調べた。
――私は愕然としたよ。私の親はさ、厳しかったけどそれなりに出来た人で、まぁ箒ちゃんが尊敬してるくらいの人物だったんだけど、それが人の親の基準だと思い込んでた。
はるちゃんの家庭環境を知ったとき、私は世界の広さと自分の未熟さを呪ったよ。
はるちゃんの母親は、好奇の目で見られる自分の子供が憎くてたまらなかった。自分の評判を貶める血を分けた子供を心の底から嫌ってた。
はるちゃんの父親は、そもそも家族に興味がなかった。子供ができたから結婚しただけで、仕事に夢中で家庭を顧みない人間で、はるちゃんがどうなろうと関心すら見せなかった」
反射的に否定しようと思っても、いま思えば、そうだと思い当たる節が多すぎて、口を噤むほかない。
束さんは慈しむようにおれに語りかけてくる。
「はるちゃん。はるちゃんは中学生になってから、サッカーをとても頑張って練習したね。
公立の強豪校で厳しい練習を積んで、全国大会にまで進んだ。予算がなくて自家用車で遠征に行くとき、はるちゃんは一人だから友達の車に乗せてもらってたね。
スパイクが壊れたときは学校で禁止されているバイトをこっそりこなして買ってたね。
他の子の母親は部活に励む子供を応援してるのに、はるちゃんの親は何もしてくれなかった。
そのくせ、いざ全国大会に出場が決まって保護者主催の祝勝会にはのこのこやってきて、主力だったはるちゃんの頑張りを自分だけの手柄のように語った。
いくら殴っても足りないやつだったけど、それでもはるちゃんは、親が来てくれたことを喜んでたね。
……親に褒められたくて必死で努力して、それが叶ったことを、心から喜んでた。
それで家庭環境は改善するかと思ったけれど、結局なにも変わらなかった。でもね、はるちゃん。私はずっと見てたよ。努力家なはるちゃんが夢に向かって頑張っている姿をずっと見てた」
知らなければよかった。だっておれは、それが変だってことも知らなかった。
「そんな親でも、親は親だ。無理矢理に引き裂けば、はるちゃんは悲しむ。だから合法的な措置で他人に離れさせてもらった。
本当はもっと早いうちから別れさせたかったけど、世界の圧力で創設されたIS学園は高等教育の機関でね。この国では義務教育がよほど大事らしい。
せめて学区がいっくんと同じなら――ここもちーちゃんは思い通りに動いてくれなかったなぁ。
いっくんとはるちゃんがこれほど仲良くなるのなら、初めから引きあわせておくべきだった。お互いにマイナスにしかならないと読んでいたけれど、私が手を出せないあいだも、いっくんなら或いは……
いや、これはただの言い訳だね。見苦しくなるから止そう」
かぶりを振り、悔恨をにじませる。だから嫌いになれなかったんだ。
この人の行いには、おれへの思いやりが見え隠れする。猪突猛進で自己以外には見向きしないように見えて、おれのために後悔して自分の間違いを認めてもいる。
忘れている記憶の中には、深甚な出来事が眠っているかもしれない。そう確信させる事実が目の前にある。
「薄々感づいているかもしれないが、私はこの世界が嫌いだ。だからISを創り、力が物を言う世界を変えた。
だが、その変わった世界でまた嫌いなものが生まれる。これから私が何かを成し得ても、きっと、そのイタチごっこなんだろうね。
いっそのこと全て滅ぼしてゼロからやり直してしまうのが理想だけど、それはナンセンスだし、何より面倒。貴重な時間を他人のために使うなんて真っ平ごめんだよ。
だから、嫌いなもののない私の世界で生きようと思ってる。はるちゃんを連れてね」
昔語りが終わり、束さんが未来の話を切り出した。黙って聞いていたふたりが身構える。
「なにやる気になってんだよ。敵わないのは十分わかったろ。私もはるちゃんの部屋で暴れる気なんてない。
今ここで、はるちゃんを連れ去るつもりもない。失くしたものを取り返しに来ただけだ」
予想を裏切る言葉に、緊張はそのままだが、臨戦態勢が解けた。束さん以外の面々が疑問を顔に貼り付けて固まる。
「はるちゃんはIS学園に卒業までいてもいいよ。友情を育むも良し、学力を伸ばすも良し、進学するのも就職するのも、好きにすればいい。
私はそれまでに、はるちゃんが住みやすい世界を作る。私が生まれるまでに世界は不純物を溜め込みすぎた。たとえば、金髪。お前の信仰している宗教」
指をさされ、シャルロットがまばたきを繰り返した。
「宗教は社会通念の礎を築いたが、差別を助長させた。お前はいっくんのはるちゃんへの感情を邪推して差別したな。それは宗教で禁じているからだ。自然宗教社会では男性の同性愛は栄えるのにな。こうして偏見が生まれ、生きづらくなる。
創唱宗教は個人の思想が色濃く出る。個人の教えゆえ綻びやすく反感を買う。事実、何度も分裂して現在に至るだろ。生まれた瞬間から洗脳されて刷り込まれ数を増やす。形のないものから生まれた教えの不備だ」
「ひ、人が何を信じようと勝手じゃないですか!」
「そうだ。人が何を想おうと人の勝手だ。だから、私も変えられない。いくら私が万能であろうと、人の心は変えられない。
宗教は、単純で脆い人を救う素晴らしい仕組みのひとつだ。その影響力は、私であろうと敵わない。
一個人が死ぬまでひとつのことを信じ続ける。それを塗り替えることは私にもできなかった。
天才の私が、この年になって、やっと気づけたことだよ。はるちゃん」
今度は肯定されて、シャルロットは目を白黒させた。イマイチ言わんとすることが掴めない。
事情を飲み込めたのか、会長が言う。
「……あなたが榛名くんを連れ去るつもりがないのは分かりました。ですが、それでは今日、ここに来た理由が見つからない。
これまでに何度かちょっかいを出してきたこともそう。あなたの目的が真実なら、あなたは卒業後に榛名くんを迎えに来ればよかった。
なのに、こんなにも予定を早めて強引になったのは」
「お前の考えている通りだよ。私は人の心が分からなかった。お前らみたいに、はるちゃんを好きになる奴がいるなんて考えもしなかった。
素敵な男の子に育って嬉しいけれど、正直困ったよ。このままだと、はるちゃんの心が、私以外の誰かで固まってしまう。
そうなると、私はどうなる? 大好きなはるちゃんを、洗脳してでも無理矢理に私のものにするしかなくなる。そんなことは絶対にしたくない。
目的のために手段は選ばないが、はるちゃんに無理強いだけはしたくない。そんなのはもうはるちゃんじゃない!」
虚飾ない本心だったのが、声の大きさにあらわれていた。額を抑え、瞑目して、思い出すように訥々と語りだす。
「……この子は、真に追い詰められると自分を真っ先に捨てる子だ。そういうふうに育ってしまった。
銀の福音で自爆したのは、私でも想定外だった。よりにもよって、逃げるためにつけてあげた武器で……!
昔から守ってあげられるのは私だけだった。今もそれは変わらない。お前らでは力不足だ」
そして、ふたりを凄惨な目つきで睨んだ。普段は柔和な光をたたえた瞳が殺意を漲らせている。
おれでも怖いくらいの眼光に、だがふたりは引かなかった。逆に睨み返す。
「何と言われようと、僕は榛名が好きです」
「榛名くんを支えられるのはあなただけではないですよ」
それを不敵に笑って受け止め、束さんは両手を広げた。
「そうだろうな。お前らは引かないのは分かってた。だから、はるちゃんに決めてもらおう」
え、ここでおれ!?
本気で驚愕したおれを三人の視線が集まる。緊張で動けなくなったおれの腰を抱き、束さんが引き寄せた。
ふたりが引き剥がそうと駆け寄るのを制止し、束さんは言った。
「でもさ、それはフェアじゃないだろ? お前らには、ここで共に過ごした記憶がある。
けれど、私の記憶は、はるちゃんにはない。だから、いま思い出してもらう」
片膝をついた束さん。その膝におれの背中が乗せられ、肩を抱き胸に収める。まるでおとぎ話の王子様がお姫様にキスするワンシーンのような格好だ。
そう思っていると、おれの肩を抱いていた束さんの右手が、おれの顎を上向かせた。え、マジでキスしようとしてるの!?
動揺するが、おれの体に回った束さんの左手が、身動きを封じてされるがままになる。
誰に向けての言葉か。束さんは耳元で、甘い声音で囁いた。
「眠り姫が覚醒めるのは、いつだって、愛しい人のキスだと相場が決まってるものだよ」
シャルロットと会長が止めようと詰め寄るが、それも叶わず。
溶けるような甘い感触が唇を包む。驚きに目を見開く。束さんの長い睫毛が、あたたかな額が触れる。
それを懐かしいと思ったのも束の間――貧血を起こしたような、幽かな光が視界を満たして――
見知らぬ記憶が、奔流となってまざまざとよみがえる。
忘れていたものを、欠けていたものを――昔の自分を取り戻して、決意を固めた。