どうも落ち着かない。夏休み初日の朝、本来なら喜ばしい記念日である筈なのに、おれは居心地の悪さに胸に充溢する不信感を抑えきれなくなっていた。
今日もいい天気、と思わず唸ってしまう快晴の空。空調の行き届いた寮内は快適で、これから始まる一ヶ月以上の休みの始まりに相応しい一日の筈なのに……
同居人の会長が、プレーリードッグみたいに警戒しながらおれをチラチラ見ている。
「……なんですか?」
寝間着から制服に着替えている間、ずっと視線を感じていた。
昨日、散々にやらかしたからだと思うが、つかず離れずの距離を保ちながら緊張状態を保っているのは、護衛としてどうなのか。
なんでおれを警戒対象に認定してるの? 護ってよ。
そりゃ昨日はやり過ぎたけど、あれは臨死体験して気分が高揚していたからだ。
犯罪者が久々のシャバに出たときと同じで、抑制がきかなくなってしまうんだ。
決して、日頃の恨みが爆発したとかじゃない。すっきりしたのは否定しないが。
「……うん。どうやらいつもの榛名くんみたいね」
ベッドの影からひょっこりと顔を覗かせていた会長が、全身をあらわにした。
上半身はいつもの着崩したYシャツ姿だが、下には膝上のフレアスカートを履いている。
一応、露出は控えるようにしてくれたらしい。よかった。正直、あの三十路の婚活してるオバサンが身につけるような下着を見せられても反応に困ってたんだよ。
「まーた失礼なこと考えてない?」
「ひゃはは(まさか)」
頬を抓られ、ジト目で睨まれた。よかった、いつもの傍若無人で鬱陶しい会長だと安心していたら、右手が労わるような仕草で頬を滑り、子をあやすように頭を撫でられた。
「……なんですか」
「んー? いやー、私も考えたのよ。キミも色々溜まってるんだなぁ、って。それで、これからは優しくしてあげようかなと思ったの」
――変だ。おかしい。妙だ。気持ち悪い。おれの知ってる会長は、他人にあたたかい声をかける人間じゃない。
絶対なにか企んでいる。昨日の仕返しか? おれは後ずさった。
「? どうしたの?」
「何が目的ですか?」
「はぁ?」
憮然となる会長からさらに距離を取る。ドアの近くまでにじり寄った。
会長は扇子を手のひらに叩きつける。
「あのね、榛名くん。今までの私に原因があるかもしれないけど、人の好意を素直に受け取れないって問題だとおねーさんは思うの」
「好意?」
いよいよらしくない言葉が飛び出したことに狼狽した。
ドアノブに手をかける。
「待ちなさい!」
追いかけてくる会長を、ドアを叩きつけてシャットアウトし、間髪入れず全力で逃げ出した。
ついこないだも似たような出来事があったような気がしないでもない。
とりあえず、朝食を食べに食堂に行こう。あそこなら会長も堂々と手出しできないだろう。
「あら、榛名さん。おはようございます」
「ここ空いてるわよー」
「どうした。せっかくの快晴なのに、顔が曇っているが」
朝っぱらから素うどんを注文し、遅めの朝食を摂ろうと席を探していたら、例の三人組に挨拶された。
皆、夏休みだからと気が緩んでいるのか、既に八時を回っているのに混雑しているので助かった。
一夏やシャルロット、ラウラはいない。あっちは朝が早いのか。
「ささ、紅茶をどうぞ」
セシリアさんに紅茶を瀟洒なティーカップに注がれた。おれ、緑茶も用意してるのに。
「榛名っていつもうどんばかり食べてるわよね。男なのにそんなに少食で大丈夫なの?」
朝からラーメンを食べている鈴さんに心配された。どうも呼び捨てされると違和感が拭えない。
それ以外にも違和感が拭えない。というか、違和感しかない。
「そうだな。朝こそ肉などの栄養価の高いものを摂るべきだ。一夏の受け入りだがな。
それに飲み込む速度が少々速いな。うどんとは言え、しっかり噛んで食べなければ胃に悪いぞ、榛名」
この三人に身体の心配をされるって、得体の知れない恐怖がある。
懸念していた一夏包囲網をとうとう実行する気になったのか。或いはドッキリか。
おれが入院していた間にドッキリを考えていて、今日決行して嵌める腹積もりか。
おれはドッキリのプラカードを探したが、持ってそうな人は見当たらなかった。
まだ早い、ということか?
「あ、こんこんだ~。退院おめでとー」
「心配したんだからね、金剛くん。もう体は平気なの?」
のほほんさんと谷本さんがいたわってくれた。のほほんさんは、相変わらず着ぐるみみたいな服を着ている。
癒される。露出してないコはそれだけで天使に見える。のほほんさん自身はかなりグラマーだが。
「おりむーを助けるために捨て身したんだってー? ダメだよ、もうそんな危ないことしないでねこんこん~」
「そうだよ! 金剛くんだってひとりの人間なんだからさ、簡単に命を投げ捨てるようなことしちゃいけないよ?」
なんで知ってるんだよ。ていうか、それってそんなに大層な理由があったわけではなくて、追い詰められてキレたおれが特攻して自爆しただけなんだが。
「そうですわね。状況が状況だったとはいえ、命を投げ捨てるような真似はいただけません」
「自分が死んで残された人がどう思うか考えたことある? シャルロットとかひどかったわよ、取り乱して」
「迷惑をかけた私が言えた義理ではないが、その通りだ。みんな、榛名が心配だったのだぞ」
「それは……すいません」
「あたしたちじゃなくて、シャルロットに謝ってきなさい。あたしたちはむしろ、お礼言うか、謝らなきゃいけない側だし」
責められているのか、勞られているのか判断がつかない。けれど、優しい声だ。
だが、それがおかしい。この人たちが優しいのが、おかしい。
「アンタさぁ、ちゃんと眠れてる? あの生徒会長と同室じゃ落ち着けないでしょうけど、寝ないとカラダ壊すわよ?」
「この紅茶は王室御用達の一級品ですのよ。冷めないうちにどうぞ」
「榛名、これも食え。男がそんなに少食では、いざという時に力が出せないぞ」
おれは気後れした。優しいみんなに不信感しか募らない。
おれってこんなに汚れていたのか。
もしかして、これはおれが『もしも、金剛榛名に優しい世界だったら』と時代遅れの電話ボックスにお願いして生まれた世界じゃないのか。
え? 本当にこれ現実なの? 夢じゃないの?
「はーるーなーくーん」
地獄の底から轟くような声がして、おれは反射的に振り返った。
お盆を持った会長が仁王立ちしていた。
「ごちそうさまでした!」
「あっ」
おれは再び逃げ出した。誰か……誰かいつも通りにおれと接してくれる人はいないのか。
藁に縋り付く思いで、おれはシャルロットとラウラの部屋を訪れた。ノックする。
「誰だ」
「おれだ、金剛榛名だ」
「なんだ母か」
「え? 榛名が来たの?」
おれは強い既視感を感じて、咄嗟に振り返った。会長はいない。よかった。
「朝からどうしたの?」
「なんだ、その不抜けた顔は」
よかった……いつもの二人だ……! なぜか視界が滲んだ。
「わっ、な、なんで泣いてるの!?」
「ゴミでも入ったのか、母よ。どれ、私が取ってやろう」
「違うんだ……おれって汚れちまってるんだ……」
「え? 会長に何かされたの?」
「なに!?」
その後、二人が仇討ちとか言い出して会長を強襲しようとしたので、誤解を解いた。
もう、何が何だかわからない……
●
「ラウラ、どこに行くの?」
「小便だ」
「もう、日本語ではオブラートに包むようにって言ってるでしょ」
女子高ってこんなんなのかと、幻滅するやり取りが目の前で繰り広げられている。
母国語じゃないからしょうがないよね。
おれは二人の部屋で、寛いでいた。もう此処しか落ち着ける場所が思いつかなかった。
意図せずシャルロットとふたりきりになる。
一夏に人工呼吸されて以来、面と向かって会ってなかったので、ふたりきりになると少し居心地が悪い。
シャルロットのベッドに腰掛けるおれの横に、軽い音をたてて座った。軽く緊張する。
以前はふたりきりなんて日常的なものだったのに。
「榛名」
「なに」
「おかえり」
言葉に詰まった。不意打ちに涙が出そうになった。何だか、ここにいてもいい気分になったよ。
「ただいま」
やっとのことで返すと、無言で微笑んでくれた。いや、帰る場所があるって、いいものですね。
「心配したんだからね。榛名が海の藻屑となって消えちゃったのかと思って」
「うん」
「探している間、ずっと生きている心地がしなくて、ラウラがやっと見つけてくれたと思ったら息してないし……
あれだけの爆発の中でよく無傷だったね」
「ああ、それなんだけどさ。聞いた話によると、爆発の瞬間にISが妙な動きをしたらしい」
「妙な?」
「うん」
おれも山田先生に聞いた話なので詳しくは知らないが、ISが操縦者を守るような動きを見せたらしい。
爆発の際におれは全エネルギーを変換したのに、実際には微量が残っていておれを保護したとか。
現在は自己修復中だから出せないが。シャルロットも思慮しているようだが、結論は出ないだろう。
「……でも、それで榛名は無事だったんだもん。感謝しなきゃいけないね」
待機状態で指輪となっている紫雲をシャルロットが撫でた。宝石部分の紫がシャルロットの瞳みたいだった。
「もう、あんな真似はしないで。……また誰かが僕の前からいなくなるの、嫌だから」
「うん」
シャルロットの境遇を思い、確かに愚昧な行動をしたと反省する。
鈴さんにも言われたっけ。鈴さんにも似たような出来事があったのかもしれないな。
「ところでさ」
「ん?」
語調が変わる。憂いを帯びたものから、抑揚が薄いものへ。おれはシャルロットに目を遣った。
目が据わっていた。
「榛名、口の消毒はした?」
……消毒?
「歯磨きはしたけど」
「ダメだよ! そんなんじゃ全然足りないよ!」
両肩を固定される。おれの肩を掴む細く優美な指が、骨が軋むほどに力強い。
シャルロットの顔が近づいてくる。
「ちょっ、なに? なになになに!?」
「十一回されてたから、十二回して上書きしなきゃ……動かないで。僕も経験ないから要領がわからないんだ」
「いやいや! いやいやいやいやいやいや! おかしいよ! シャルロット精神状態おかしいよ! シャルロットって、そんなコじゃなかったでしょ!」
徐々に肉薄してくるシャルロットの顔を、腕で制して距離をとる。
それでもシャルロットが離そうとしないので、綱引きみたいに均衡した。女の子なのに何て力だ。
「い、痛くしないから! 先っちょだけ! 先っちょだけでいいから!」
「何の先っちょ!?」
アカン――思わず関西弁が出てしまうほどに焦った。遮二無二、細腕を振り払って部屋を飛び出す。
「あ――」
「ごめん!」
もう何に謝っているのかもわからなかった。おれは最後の希望を求めて、我が子の姿を探した。
ラウラだ。もうラウラしかいない。
「む。どうした母よ。またやつに追われているのか?」
「ラウラ……! ラウラだけだよ! もうラウラしかいないんだ……!」
おれは恥も外聞もなく、トイレから戻ってきたラウラに縋り付いた。このコしか、もう変わってないコがいない。
ラウラまでダメだったら、おれはもう……
「? 事情は掴めないが、母が困っているのなら手を貸すぞ。私は娘だからな」
「――!」
女神だ……女神がいる。イシュタルとかアフロディーテとか、嫉妬深くて人様に迷惑かけたり、不倫して夫以外の子を生んだ某女神とも違う本物の女神だ……!
おれは嬉しさのあまり、ラウラの小さな手を包んで言った。
「ラウラ! おれ今ならラウラの言うこと何でも聞いてあげる! 欲しいものがあれば買ってあげるし、望むなら靴だって舐めるよ!
そうだ、手始めに一夏のバカを落としに行こう! 一発でラウラと婚約まで持ち込んであげるよ!」
「なに? そ、それは本当か!?」
「うん! おれにかかれば、あんな唐変木一発だよ! バージンロードの彼方へ、さぁ行こう!」
「わぁ……!」
ラウラが喜ぶ姿が嬉しくて、二人で一夏の部屋に向かう。
おれには秘策がある。鈍すぎて気づかないなら、正攻法で落とせばいい。
告白でもラブレターでもキスでも朝チュンでも、とにかく異性って認識すれば一夏だって意識せずにはいられないだろう。
おれは一夏の部屋をノックした。
「おう、どうしたんだ」
「おはよう一夏。実はだな」
顔を出した一夏と挨拶を交わし、改めてラウラを紹介しようとしたら、一夏を押しのけて織斑先生が出てきた。
ぎょっとした次の瞬間、肩を掴まれ、険しい眼光に睨まれた。
「金剛! お前は、私と束、どっちを選ぶんだ!?」
「え?」
そのお堅い口から出た言葉が慮外にも程があって、おれの思考は完全に停止した。
なんかまだ叫んでる。
「いや、この際選ばなくてもいい! 私の味方になれ。記憶にない変な女と、親友の姉で教師の私。どっちを選ぶのがいいかは明白だろう?
そうだろう!? お前だけが頼りなんだ……!」
「ま、待てよ千冬姉! なに言ってんだよ!」
「これはお前にとっても大切なことなんだ。口を出すな」
「出すに決まってるだろ。千冬姉の気持ちは、俺もよくわかってる。でも、無理矢理はよくねえよ。榛名を脅すような真似して結ばれたって、そんなやり方に愛なんかないだろ!
千冬姉らしくねえよ! おれも榛名が家族になったら嬉しいけど、本人たちが幸せじゃない結婚なんて間違ってる!」
「お前は何を言っているんだ!」
「母が……母が白目を……! 母……母ァーーー!」
夏休み早々、おれは寝込んだ。人間不信が加速している。
あれだよね。インフルエンザとかで長い間休むと、クラスが異界のように感じて登校するのに気後れするし、そんな感じだよね。
……そうだといいなぁ。
あとがき
一夏って麦茶飲んでましたよね。