ありがとう……さよなら。
背中に受けた衝撃、失われていくHP。他にも気にしなければならないことがある筈なのに、私の心に浮かんだのはキリトへの言葉だった。
山のように多くのモンスターを切り伏せて、それでもキリトのHPは全然減っていない。見たことないソードスキルを次々と繰り出してこちらへと手を伸ばしてくれていた。
目を見開いて、その顔を歪ませて私の名前を叫ぶキリト。お陰で私の小さな声は彼に届いていないことだろう。
(あぁ……でも)
ふと何日か前に残したメッセージを思い出す。アレがあれば彼に想いは届けられる。
だったら私が死んでもキリトは立ち直れる。誰よりも強いキリトなら生きてこの世界の最後を見届けて、見つけてくれる筈。
この世界が生まれた意味。
私みたいな弱虫がここに来ちゃった意味。
そして彼と私が出会った意味を。
だから死ぬのは怖くない。
――怖くない、筈、なのに。
ブツリと落ちた暗闇の中、目の前に現れた小さな紫色のメッセージ、【You are dead】を突きつけられた体が震えだす。
(……こ、わい)
死ぬことが。
(こわ、い)
自分の死に何の意味もないことが。
(怖い……)
自分の生に何の意味もなかったかもしれないことが。
(怖い……っ)
皆に――キリトに忘れられて、私の全てが消えてしまうことが。
(怖いよ……っ)
すぐにも脳を焼ききられて死んでしまうのに、どうしたって助からないのに生きていたい。
「死にたく、ない……っ」
バチンッ
ポタリ、と降ってきた水滴。その感触で揺らぎが生じ、意識が動いた。
堪えようとする嗚咽。その音で自分以外の存在を知覚した/自分が生まれた。
「サチ……」
その声を覚えている。その名前を呼んでくれた、彼の声を覚えている。
「サチ……」
忘れる筈がない。だって私はついさっきまで一緒にいたんだから。
「サチ……ッ」
この世界に来て出会った、誰よりも強くて優しい男の子。そんな彼が泣いている。
もどかしい、そう思った。
ぐしゃぐしゃに歪んだ顔に触れてあげることも、流れる涙を拭ってあげることも出来ない。黙って見ていることしか出来ないことがもどかしくて、だけどそう思う気持ちは/私はここにいて。
(泣かないで)
だから願った。彼に涙は似合わないから。
ビクッと跳ねる体。続いていた嗚咽は突如として止まり、硬直したようにキリトは動かない。
(……どうしたんだろう)
またしてもビクッと跳ねる。その驚きようが可笑しくて、つい少しだけ笑ってしまう。
ゆるゆると、キリトが顔をあげる。表情はこわばり目は見開かれ、まるで幽霊でも見たかのような顔をしている。
「……サチ、なのか?」
おそるおそる伸ばされる手、その上に乗せられて視線が高くなる。
(キリト……?)
「っ!? サチッ!」
(……っ!?)
視界が暗くなって圧力が強くなって、いきなりの変化についていけずうろたえる私。でも。
「う……くっ」
震える体が、声が、彼の腕の中にいることを教えてくれた。匂いも温かさも感じない筈なのに安心できる。
(……暖かい)
それは何だか、キミは死なないと毎晩語りかけてくれた彼の言葉のようで、何の根拠もないのに私を繋ぎとめてくれた。
しばらくそのままでいたのだけれど、ふっと腕から解放されてしまう。離れていく温もりが物足りなくて、つい恨み言を零してしまう。
(キリトの馬鹿)
「あ、え、あぁ……ゴメン……ってそうじゃなくって!」
慌てて右手の人差し指と中指を振り下ろしてウィンドウ操作を始めるキリト。そしてオブジェクト化した手鏡をこちらに向けながら言った。
「なんで……クリスタルになってるんだ?」
宙に浮かぶ正八面体。それは私がメッセージを録音したクリスタルで、手鏡にはそれ以外何も映っていない。
思わず首を傾げると、そのクリスタルも斜めに傾いだ。
(……え?)
「どういう……ことだ?」
どうやら私、サチは。
正八面体クリスタルとして生きることになったようです。
「せあっ!」
一閃、二閃、三閃と刻まれる《ホリゾンタル・スクエア》。深々と身体を捉える剣閃に、リザードマンは怒ったように腕を振り上げる。
だがそれが振り下ろされるよりも早く、右へと振りぬかれた剣が左上へと跳ね上がって心臓を、クリティカルポイントを直撃した。
見る見る減っていくHPバー、しかし僅かに数ドット残して生きながらえたリザードマンは改めて凶腕を振り下ろす。
技後硬直に捕らわれて動けない彼にそれを避ける術はない。安全マージンを確保しているとはいえ決して少なくないダメージを与える筈。
彼が一人で戦っているのであれば、だが。
一本の光条が奔り、そしてジュッと肉を焼ききるような音と共にリザードマンはその命を散らした。
四散するポリゴンの中、いつものように血を払ってから剣を収めるキリト。先ほどの攻撃をしたクリスタルはすぐ傍にふよふよと浮かんでいる。
「助かったよ、サチ」
ふるふると揺れるクリスタル。どうやら否定か、謙遜を表しているらしい。
「そんなことないよ。ありがとう」
半透明なクリスタル、その中でキラキラと光の粒が舞い踊る。
「じゃあ今日はこれ位にして帰るか」
迷宮区の外に向けて歩き出すキリト。その隣をふわふわと付いて進むクリスタル。
ゲームが始まって二年、残るフロアは二十六、生存者は六千人。SAO――ソードアート・オンラインの攻略組と呼ばれる集団においても一際異彩を放つ二人組である。