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No.36388の一覧
[0] 鬼人幻燈抄 江戸~明治編[モトオ](2016/05/26 21:40)
[1]    『みなわのひび』[モトオ](2013/01/05 14:17)
[2] 葛野編『鬼と人と』・1[モトオ](2015/04/12 02:55)
[3]      『鬼と人と』・2[モトオ](2015/03/31 19:38)
[4]      『鬼と人と』・3[モトオ](2015/04/03 00:56)
[5]      『鬼と人と』・4[モトオ](2015/06/07 02:48)
[6]      『鬼と人と』・5[モトオ](2015/10/28 20:27)
[7]      『鬼と人と』・6[モトオ](2015/06/10 16:10)
[8]      『鬼と人と』・7[モトオ](2015/06/10 16:10)
[9]      『鬼と人と』・8[モトオ](2015/06/08 15:53)
[10]      『鬼と人と』・9(了)[モトオ](2015/06/08 16:28)
[11]  余談『あふひはるけし』(了)[モトオ](2013/02/24 23:07)
[12] 江戸編『鬼の娘』・1[モトオ](2013/02/21 00:45)
[13]      『鬼の娘』・2[モトオ](2013/02/21 00:51)
[14]      『鬼の娘』・3(了)[モトオ](2013/02/18 00:39)
[15]      『貪り喰うもの』・1[モトオ](2013/03/16 23:06)
[16]      『貪り喰うもの』・2[モトオ](2013/03/16 16:07)
[17]      『貪り喰うもの』・3[モトオ](2013/02/20 00:17)
[18]      『貪り喰うもの』・4[モトオ](2013/02/20 00:25)
[19]      『貪り喰うもの』・5(了)[モトオ](2013/02/22 00:24)
[20]      『幸福の庭』・1[モトオ](2013/02/25 20:20)
[21]      『幸福の庭』・2[モトオ](2013/02/25 20:30)
[22]      『幸福の庭』・3[モトオ](2013/02/25 23:01)
[23]      『幸福の庭』・4[モトオ](2013/02/25 22:27)
[24]      『幸福の庭』・5(了)[モトオ](2013/04/01 01:34)
[25]      『花宵簪』・1[モトオ](2013/03/18 18:34)
[26]      『花宵簪』・2[モトオ](2013/03/16 16:09)
[27]      『花宵簪』・3[モトオ](2014/04/05 19:52)
[28]      『花宵簪』・4(了)[モトオ](2014/03/12 21:05)
[29]   余談『雨夜鷹』・1[モトオ](2014/04/05 19:52)
[30]      『雨夜鷹』・2[モトオ](2014/03/12 21:08)
[31]      『雨夜鷹』・3(了)[モトオ](2015/10/19 14:05)
[32]   終章『残雪酔夢』・1[モトオ](2013/04/09 18:14)
[33]      『残雪酔夢」・2[モトオ](2013/04/15 18:55)
[34]      『残雪酔夢』・3[モトオ](2013/05/21 17:48)
[35]      『残雪酔夢』・4[モトオ](2013/07/10 21:29)
[36]      『残雪酔夢』・5[モトオ](2013/07/10 21:38)
[37]      『残雪酔夢』・6[モトオ](2013/05/21 17:49)
[38]      『残雪酔夢』・7(了)[モトオ](2013/07/10 21:38)
[39] 幕末編『妖刀夜話~飛刃~』・1[モトオ](2013/05/21 21:41)
[40]      『妖刀夜話~飛刃~』・2[モトオ](2014/03/04 19:39)
[41]      『妖刀夜話~飛刃~』・3[モトオ](2013/05/29 22:25)
[42]      『妖刀夜話~飛刃~』・4[モトオ](2014/03/04 19:37)
[43]      『妖刀夜話~飛刃~』・5(了)[モトオ](2013/06/25 01:50)
[44]      『天邪鬼の理』・1[モトオ](2013/06/04 13:37)
[45]      『天邪鬼の理』・2[モトオ](2013/06/07 10:35)
[46]      『天邪鬼の理』・3(了)[モトオ](2013/06/25 01:50)
[47]   余談『剣に至る』・1[モトオ](2013/06/13 19:12)
[48]      『剣に至る』・2[モトオ](2013/06/14 23:01)
[49]      『剣に至る』・3(了)[モトオ](2015/10/19 14:06)
[50]      『流転』・1[モトオ](2014/03/12 21:14)
[51]      『流転』・2[モトオ](2013/06/22 15:32)
[52]      『流転』・3[モトオ](2013/06/23 18:30)
[53]      『流転』・4(了)[モトオ](2013/06/25 01:51)
[54]      『願い』・1[モトオ](2014/05/14 19:55)
[55]      『願い』・2[モトオ](2013/06/26 02:23)
[56]      『願い』・3[モトオ](2013/06/24 22:34)
[57]      『願い』・4[モトオ](2013/06/24 23:10)
[58]      『願い』・5(了)[モトオ](2013/06/29 21:18)
[59]   終章『いつかどこかの街角で/雀一羽』・(了)[モトオ](2013/06/26 01:55)
[60] 明治編『二人静』・1[モトオ](2013/06/29 20:47)
[61]      『二人静』・2[モトオ](2013/06/29 22:10)
[62]      『二人静』・3[モトオ](2014/04/05 19:56)
[63]      『二人静』・4(了)[モトオ](2013/06/29 21:16)
[64]  余談『林檎飴天女抄』・1[モトオ](2013/09/07 19:40)
[65]      『林檎飴天女抄』・2[モトオ](2013/07/02 00:11)
[66]      『林檎飴天女抄』・3[モトオ](2013/07/06 02:11)
[67]      『林檎飴天女抄』・4[モトオ](2013/07/13 20:00)
[68]      『林檎飴天女抄』・5[モトオ](2013/07/06 02:24)
[69]      『林檎飴天女抄』・6(了)[モトオ](2015/10/19 14:08)
[70]      『徒花』・1[モトオ](2013/07/20 21:06)
[71]      『徒花』・2[モトオ](2013/07/14 00:54)
[72]      『徒花』・3[モトオ](2013/07/18 00:26)
[73]      『徒花』・4(了)[モトオ](2013/07/23 23:41)
[74]      『妖刀夜話~御影~』・1[モトオ](2013/07/26 23:43)
[75]      『妖刀夜話~御影~』・2[モトオ](2013/07/31 01:21)
[76]      『妖刀夜話~御影~』・3[モトオ](2014/04/05 19:54)
[77]      『妖刀夜話~御影~』・4[モトオ](2013/09/07 19:41)
[78]      『妖刀夜話~御影~』・5 [モトオ](2013/08/13 02:36)
[79]      『妖刀夜話~御影~』・6(了)[モトオ](2013/08/13 02:36)
[80]      『夏宵蜃気楼』・1[モトオ](2013/08/17 03:20)
[81]      『夏宵蜃気楼』・2[モトオ](2013/08/25 01:31)
[82]      『夏宵蜃気楼』・3(了)[モトオ](2013/09/06 04:33)
[83]   余談『鬼人の暇』・1[モトオ](2015/10/19 14:09)
[84]      『鬼人の暇』・2(了)[モトオ](2013/09/10 20:20)
[85]      『あなたとあるく』・1[モトオ](2013/10/04 16:53)
[86]      『あなたとあるく』・2[モトオ](2013/10/04 16:53)
[87]      『鬼と人と』・4(再)[モトオ](2013/10/04 16:54)
[88]      『鬼と人と』・5(再)[モトオ](2013/10/10 22:50)
[89]      『あなたとあるく』・3(了)[モトオ](2013/10/19 23:03)
[90]      『面影/夕間暮れ』・1[モトオ](2013/10/27 00:27)
[91]      『面影/夕間暮れ』・2[モトオ](2013/11/08 11:45)
[92]      『面影/夕間暮れ』・3[モトオ](2013/12/11 14:53)
[93]      『面影/夕間暮れ』・4[モトオ](2014/04/05 19:57)
[94]      『面影/夕間暮れ』・5(了)[モトオ](2014/08/10 22:50)
[95]      『あなたを想う』・1[モトオ](2014/02/04 01:56)
[96]      『あなたを想う』・2[モトオ](2014/03/02 14:28)
[97]      『あなたを想う』・3[モトオ](2014/12/19 23:14)
[98]      『あなたを想う』・4[モトオ](2014/04/21 13:57)
[99]      『あなたを想う』・5(了)[モトオ](2014/03/11 10:57)
[100]   終章『一人静』(了)[モトオ](2014/03/14 02:19)
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[36388]      『あなたを想う』・3
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:49249770 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/12/19 23:14
 いつか、夢を見ていた。





 私は、叶わなかったあなたとの夢を見る。
 朝のひと時。布団の中で微睡みながら、穏やかな時間を二人で笑う。
 目を開ければふと差し込む陽射しが、まるで子供の悪戯のように私を擽る。

「おはよ、甚太」
「白雪。おはよう」

 私は社から出ることを許されない。それが、いつきひめになるということ。
 だからずっと夢を見ていた。
 夢の中の私は、彼の妻。夫婦となり、契りを結び、いつでも触れ合える距離にいる。
 想い合う人の隣にいる。ただそれだけのことが出来なかったから、そんな夢に浸れることが嬉しくて、私は笑った。

「しかし慣れないな。起きてすぐお前の顔があるというのは」
「なんで? 夫婦なんだから当たり前のことでしょ」
「そうだな。……当たり前のことなのにな」

 空々しい声で二人は呟く。どこまでいっても、これは夢でしかなくて。暖かな夢想にたわむれた後は、戻ってきた現実の寂しさに沈む。
 でも夢の中の貴方は笑う。

「なにかあった?」
「いや。ただ……夢を見ていた」
「夢?」
「ああ、怖い夢だ」

 これは、いつかの景色だ。まだ幼かった頃、まどろみに浸かるような幸福の日々を思い出す。
 お父さんがいて、甚太がいて、すずちゃんがいて。特別なことはないけれど、暖かい毎日を過ごす。
 そんな日が続いてくなんて初めから信じてはいなかったけれど。
 もし何かの間違いがあったなら、例えばこんな風に彼と夫婦になって暮らす未来もあったんじゃないだろうか。
 そう思ってみても、胸を過る空虚は消えない。
 私は私を曲げられず、彼もまた彼を曲げられない。
 なら結局、私達が結ばれることは、在り得なかったんだろう。

「お前が何処かにいってしまう夢だった」
「それが怖い夢なの?」
「私にはそれが一番怖い」

 だから私は夢を見る。
 彼が私の手を握る。握り返せば、その温もりに涙が零れる。
 夢の中ではこうやって触れ合えるのに。

「本当にどうしたの、甚太? 今日は甘えんぼだね」
「そうだな……いや違う。本当は、いつだってお前に触れていたかった」

 本当は私こそがそれを願っていた。
 でも叶わなかった。こんなに好きなのに、私は巫女である自分を捨てられない。
 なんて、無様な女。視界が滲み、目の前が朧に揺らめく。
 気付けば私は涙を零していた。暖かな夢が急速に冷めていく。
 それでも終わりが怖くて、この夢へ縋りつくように、ぎこちない笑みを浮かべる。

「うわぁ、恥ずかしい台詞」
「茶化すな。……だが私は幸せだ。お前が傍にいてくれる」

 頬が染まる。顔が熱い。
 胸は暖かくて、なのに何処か冷え切っていて。

「私も甚太と一緒にいられて幸せだよ」
「そうか。ずっと、こんな日が続けばいいな」

 私は夢に微睡む。
 陽だまりの心地良さ。触れ合える距離。
 ゆっくりと彼の方に手を伸ばして。
 だけど、




「それでも、貴方は止まらないんだよね?」

 いつも私が、夢を終わらせる。





 ずっと夢を見ていた。
 私はいつきひめじゃなくて、彼は巫女守じゃなくて。
 二人は夫婦になって、子供緒を産んで、ゆっくり年老いて。
 そんな在り来たりな幸福を、私は夢見ていた。
 結局、選べはしなかったけれど。


 そして選ばなかったくせに、私は何も為せなかった。
 彼は愚かな誓いを掲げた私を美しいと言った。
 ならばたとえ結ばれることはないとしても、せめて最後まで彼が好きになってくれた私で在りたい
 そうやって意地を張って、巫女で在ろうと決めたのに。 


 ───おかあさんが守った葛野が私は好きだから。
     私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ


 彼の想いを捨てて、巫女であることに拘って。
 だけど巫女として在ることさえ出来なかった。


 ───ああ。なら、やっぱり俺は巫女守としてお前を守るよ。


 本当に好きで、大切だった。彼がいればそれでよかった。
 なのに私に出来たことは、彼を傷付けるだけで。


 ───貴女なら、まだ我慢できると、思って、なのに……っ!


 私なら彼を幸せにできると、自分の恋心を押し殺しくれた娘がいた。 
 そんな無垢な信頼も、下らない意地で切り捨てた。



 故郷も、家族も、愛した人も、妹みたいな女の子も、巫女としての自分も。
 みんなみんな、大切だった筈なのに。
 何一つ守れなかった。


 それが白雪の後悔。
 何一つ為せず死んでいった巫女の無念は、東菊の胸にもまた刻まれている。
 故に、彼女は語る。

「私は、ただこの時の為だけに生まれてきた」

 マガツメの思惑とは別に、東菊……白雪の想いもまた。
 ただ、この瞬間の為に在った。




 ◆




 
 ────望む望まざるにかかわらず、生涯には選択の時というものがある。




 今も思い出す。
 幼い頃、俺は元治さんに剣の稽古をつけて貰っていた。あの人は強くて、最後まで一太刀も浴びせることは出来なかった。
 それを眺め、頑張れと応援する白雪。結局いつも俺が負けて、その度に慰めてくれた。
 稽古が終われば遊びに出かける。その頃には寝坊助な妹も起きて来て、今日は何して遊ぼうかなんて言いながら無邪気に駆け回る。
 俺達は、確かに本当の家族だった。

 けれど目まぐるしく歳月は往き、幸福な日々は瞬きの間に消え去る。
 かつて当たり前に在った筈の日常は記憶へと変わり、思い返さなければいけない程に遠く離れた。
 背は高くなり、声は低くなり、背負ったものが増えた分無邪気に駆け回ることも出来なくなって。いつまでも子供のままではいられないと、いつしか『俺』は『私』になった。
 しかし今も私は幼かった頃を、ぬるま湯に浸かるような幸福を時折、本当に時折だが思い出す。

 そしてほんの少しだけ考えるのだ。

 差し出された二つの手、木刀を持ったままでは片方の手しか握れない。だから何も考えずに彼女の手を取った。選べる手は一つしかなかった。

 だが、もしもあの時逆の手を取っていたのなら、私達はどうなっていたのだろうか。

 或いは、もう少し違った今が在ったのではないか。不意に夢想は過り、しかし意味がないと気付き切って捨てる。
 選んだ道に後悔はあれど、今更生き方を曲げるなぞ認められぬ。
 ならばこそ夢想の答えに意味はなく、仮定は此処で棄却される。
 そうしてこの手には、散々しがみ付いてきた生き方と、捨て去ることの出来なかった刀だけが残った。



 思えば、幼かった頃。
 白雪と鈴音、どちらの手を取るかという些細な選択こそが、甚夜にとっての転機だったのかもしれない。
 選んだ末路は語るべくもない。
 全てを失った無様な男が、間違った生き方に身を窶しただけの話だ。






「貴方の大切なものって、なに?」






 あれから気が遠くなるくらいの歳月が流れた。
 そして今再び、甚夜は岐路に立たされている。
 望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
 本当に大切で、心から守りたいと願うものの中から、たった一つを選ばなければならない。
 例え選ぶこと自体が間違いだったとしても。
 それでも、選ばなければならない場面は必ず訪れるのだ。

「すずちゃんへの復讐? それとも、今の暮らし? ……少しくらいは、私と過ごした日々も想ってくれてるのかな」

 甚夜は何も言えなかった。
 既に白雪は死んでいる。目の前にいるのは白雪の記憶を持っているだけの鬼女に過ぎない。
 そんなこと、分かっている。
 しかし理解と納得は違う。
 同じ姿、同じ声。彼女を別人と断じるほどにはまだ割り切れてはいなかった。

「向日葵ちゃんから聞いたんだ。<同化>、高位の鬼を自分の中に取り込んで、<力>を奪う<力>。でも、それには条件がある、だよね」

 降りしきる雨の音が本堂に響いている。
 湿気た空気の中で、だというのに口内が渇く。
 甚夜は動けない。突き付けられた選択肢に軽い眩暈さえ覚える。
 
「“強く意思の残る鬼を取り込むことはできない”。……だから、<力>を奪うためには、まず相手を瀕死の状態まで追い込まないといけない」

 彼女の言っていることは正しい。
<同化>は他の生物を取り込み我が物とする<力>。
 鬼の<力>を喰らうことも出来るが、それを為すには条件がある。

<同化>によって<力>を己が身に取り込む時、肉体だけではなく記憶や意識も同時に取り込んでしまう。
 しかし一つの体に異なる二つの意識は混在できない。
 そんなことをすれば肉体の方が耐えきれず自壊する。
 故に“意識が強く残る者を<同化>で喰らうことは出来ない”。
 それが<同化>の条件。<力>を喰らう為には、まず意識を弱める為に斬り伏せる必要がある。

「つまり私を殺さないと、野茉莉ちゃんは助けられない……これで、貴方が本当に大切だと思うものが分かるね」

 東菊を生かすなら野茉莉を見捨てねばならず。
 野茉莉を助けるには東菊を己が手で、己が意思で斬らねばならない。




 此処に、選択の時は来た。




「貴方は、何を選ぶの?」

 それが、彼女の───彼女達の望み。
 過去を想うのであれば、今なぞ不必要と断じろ。
 今を生かすのであれば、過去の全てを切り捨てて見せろ。
 マガツメは、鬼と人の間で揺れる甚夜に選択を強いている。
 そして東菊はその二択を甚夜に強いる為の駒に過ぎない。
 其処に思い至り、甚夜は苦々しく表情を歪めた。
 鈴音は、そんなことの為に白雪の頭蓋を使った。最後まで巫女として在ろうとした彼女の死を汚した。憎い。何処まで私達を馬鹿にすれば気が済むのかと、湧き上がる憎悪に奥歯を噛み締める
 
「……貴方の声で聞かせてほしいな」

 揺さ振りをかけるような白雪の声。
 甚夜にとっては、それは東菊ではなく、白雪のもの。
 懐かしい、遠い日に心底愛した女の声だ。
 ならば切り捨てるのもまた東菊ではない。
 此処で切り捨てねばならないのは、かつて全てと信じた想いだ。

「白、雪……」

 誰にも聞こえないよう舌の上で言葉を転がす。
 彼女を、斬る? 
 突き付けられた、考えたこともない選択肢に全身が強張る。
 本当に好きだった。
 当たり前のように誰かの幸せを祈れる、そういう彼女に恋をした。
 何十年と経った今でも思い出す、思い出せる。
 彼女と過ごした“みなわのひび”こそが甚夜の原風景だ。
 明治の世となり、刀も復讐も新しい時代に否定された。
 それでも刀を捨てられなかったのは、きっと幼かった白雪の声が耳に残っているから。
 元治との稽古、「甚太、がんばれ」といつも彼女が応援してくれた。
 この身を鬼と変えた憎しみも、彼女を失ったが故に。
 道行きの途中、沢山のものを手放し、沢山のものを拾ってきたけれど。
 失った彼女への想いだけは、落さずちゃんと抱えてきた。 

「お前は、そんなことの為に野茉莉を」
「そう。これが私の生まれた意味だから。なにより、私自身の望みだから」

 なのに何故こうなってしまったのだろう。
 憎しみに身を窶した男が、分不相応にも家族を持ってしまったからか。
 或いは、“逆さの小路”で彼女に手を伸ばさなかったからか。
 それを知ることは叶わない。知った所で意味もない。
 どのみち、やることは変わらない。
 自然、甚夜の左手は夜刀守兼臣に掛けられていた。夜来でなかったのは単なる感傷だ。
 夜来はいつきひめが受け継ぎ守ってきた宝刀、彼女に向けるのは忍びない。
 甚夜の所作を静かに眺めていた東菊は小さく、緩やかに息を吐く。それは何処か、安堵の溜息に似ていた。

「うん、知ってた。本当は、答えなんて聞かなくても」

 そうして彼女は、諦めたように薄く笑った。
 彼女の表情の意味を間違えることはない。
 本当は、迷いなどなかったのかもしれない。迫られた選択は、しかし既に答えが出ている。
 納得はできないとしても、所詮東菊は白雪の記憶を持つだけの偽物に過ぎないのだ。
 であれば自然、甚夜の選ぶ道も限られてくる。それはマガツメも承知の上だろう。
 後は、覚悟のみ。
 より大切なものの為に、大切なものを斬り捨てる覚悟を決めるだけだ。

「だろうな……迷うことでもない」

 踏み出す一歩が、何よりも雄弁な答えだった。
 その力強い足取りに嫌な予感を覚え、蚊帳の外になっていた平吉は甚夜の前に立ちふさがった。

「ま、待ってくれ!」

 決断を感じ取ってしまった。
 平吉のしゃれこうべはあくまで脅し。しかし甚夜は間違いなく東菊を殺す。
 野茉莉を救うという目的は同じであっても、あの男には東菊との交流が無い。だから自分と違いどこまでも無慈悲に冷酷になれてしまう。
 斬り殺し、貪り食う。
 其処に躊躇いなどなく、だとしても認めることなど出来る筈がなかった。 

「あいつは」
「分かっている。マガツメの娘だ」
「そうやけどっ! そうやけど……悪い奴やない! きっと、話せば」

 何とか思い留まらせようと必死に懇願する。
 何を言っても無意味だと知っている。けれど言わずにはいられなかった。
 ここで歩みを止められなければ東菊は死ぬ。東菊が死ななければ野茉莉は救われない。
 それは十二分に理解しているが、東菊もまた大切な友人だ。相反する感情を吐き出すように平吉は呼びかける。
 しかし甚夜は一歩ずつゆっくりと距離を詰めていく。

「心変わりを待つ時間などない。そして、心変わりなど在り得ない。あれが、白雪の頭蓋を取り込んだならば尚更だ」

 何を言っているのか分からない。白雪が誰なのか、平吉は知らないからだ。
 歩みは止まらないと分かっている。甚夜という男を、平吉はよく知っているからだ。
 例え誰が何を言おうと、葛野甚夜は自分を曲げない。野茉莉を救う為ならば如何な手段で在ろうと、例え虐殺を強いられたとしても、この男は間違いなくやる。

「分かってる! そやけど、頼む。あんたや、俺に鬼と人でも仲良うやってけるって教えてくれたんはあんたやろ!?」

 息がかかる距離まで近づき、声を絞り出して叫んでも、平吉には彼を止められない。
 野茉莉と東菊。双方を大切に想い、未だ全てが救われる道を願う彼に止められる訳がない。
 既に甚夜は“選んでいる”のだ。
 だからもう、言葉は無意味だ。

「宇津木。お前が彼女と友誼を結んでいたのは知っている。親友の弟子の言葉に頷いてやりたいとも思う」

 甚夜は、落とすように笑って見せた。
 普段の彼からは考えられないくらい、頼りない笑みだった。

「だが。私は、親なんだ」

 僅かに腰を落し、言葉と同時に平吉の腹へ拳を叩き込む。
 加減はしたが、それでも鬼の一撃。平吉の体はくの字に折れ、短い呻きを上げる。

「なん、でっ」
「悪いな。少し眠っていろ」

 そうすれば、嫌なものを見なくて済む。
 次いで顎を裏拳で打ち抜き、意識を一瞬で刈り取る。倒れ込む前に平吉を抱き留め、本堂の隅へ運び寝かせておく。あんまりな扱いだとは思うが、それでも友人が食われる様を見せつけられるよりはましだろう。

「ひどいことするね」
「そうだな。出来るようになってしまった」

 僅かな苛立ちを含んだ東菊の声。その態度から彼女にとっても平吉は大切なのだと感じ取れる。少しだけ痛んだ胸には気付かないふりをした。

「だが、それはお前もだろう」
「そう、だね。この体はすずちゃんの想いで出来ているから……それに私、すずちゃんに嫌われてるしね」

 だから逆らうことは出来ない。
 いや、そもそも逆らうという表現自体がおかしい。
 嫌でも分かる。東菊は、マガツメの切り捨てた一部分。そして白雪の頭蓋を取り込ませた理由は甚夜を傷つける為、なにより白雪を苦しめる為だ。
 白雪が、野茉莉の記憶を奪う。
 そういう状況を演出したかったのだろう。それによって白雪の記憶を持つ女が苦しむことこそ望み。兄を裏切った売女への、八つ当たりにも似た復讐の念が東菊を産んだ。
 つまり彼女は、生来の性質として甚夜の敵である。
 それを彼女がどう感じているのかは分からないけれど。

「さて」

 平吉の安静を確認し、もう一度東菊に向き直る・
 これでもう邪魔する者はいない。ゆっくりと一歩ずつ甚夜は歩く。板張りの床がぎしりぎしりと音を立て、その度に心がざらついていく。
 二人は次第に近付き、手を伸ばせば触れられる距離となった。
 甘やかな空気はなく、しかしどこか穏やかでもあった。
 目を伏せ、過去と現在に想いを馳せる。
みなわのひびから幾星霜、甚太は甚夜となり、白雪は東菊となった。選択の理由はそれが全て。
 変わらないものなんてないと、遠い昔に誰かが言った。
 だから甚夜は選んだのだ。

「白雪、敢えてそう呼ばせて貰う」

 そうして告解するように言葉を紡ぐ。
 
「あの頃と同じようにとは言えない。だが私は今もお前を想っている。遠い夜空の下、伝えた言葉に嘘はなかった」

 結局、守れはしなかったけれど。
 例え結ばれることはなくとも、貴女の尊い在り方を守りたかった。
 美しいと信じた生き方を、出来れば近くで眺めていたかった。
 
「そっか」

 小さく、しかし満足げに東菊は頷いてくれる。
 ああ、目の前に彼女が居る。本当に好きだった。ずっと一緒にいたかった。
 偽者と分かっている。白雪とは別人なのだと、言われなくても十分に理解している。
 なのに、手を伸ばせば届いてしまいそうな幸福に、心が締め付けられる。
 甚夜は不意に夢想する。
 もしも、彼女の手を取って逃げられれば。 
 誰も知らないところで、夫婦ととなり。穏やかに年老いていければどれだけ幸せだろうか。

「だが、私はあの娘に救われた。見捨てることは出来ない」

 けれど叶わぬ夢だ。
“みなわのひび”から長い長い歳月が流れた。
 貴女を失って、憎しみに身を任せて生きてきた。それはきっと間違った生き方で、けれどその途中、沢山のものを拾ってきた。
 だから彼女の手は取れない。

「やっぱり、私よりも大切?」
「順位など付けられる訳がない。あの雨の夜、お前が私を救ってくれたのだから」

 本当に、好きで。誰よりも、大切で。
 叶うならばいつまでも傍にいたかった。
 それでも───

「それでも、野茉莉ちゃんを選ぶんだ?」

 責めるでもない、ただ事実を確認するような軽い問いかけ。

「ああ」

 言い淀むような真似はしない。
 力強く、はっきりと甚夜は言い切って見せた。

「お前を失ってから、憎悪に塗れて生きてきた。その道行きは、間違いだったと理解している。けれど、手に入れたものだってあった」

 自分を殺す男の前で、東菊は無防備に微笑む。
 それは先程の諦観に似たものではなく、安らかなのに強い、遠い過去を思い起こさせる笑みだった。

「己が在り方を濁らせる余分だが、無駄ではないと思っている。だから、お前の手は取れない。私には、今まで積み重ねてきた己を曲げられない」
「うん、知ってた。甚太は、最後の最後には、自分の想いよりも自分の生き方をとる。そう人じゃなきゃ私は……白雪は、好きにならなかったよ」

 そして、それ以上に。
 甚夜は白雪を傷付けることになると理解しながらも、最後の言葉を口にする。

「なにより、私は親だ。何を選ぶかというのなら、あの娘の親になると決めた時点で、とうに選んでいた」

 夜刀守兼臣を抜刀し、上段に構える。
 万の言葉で飾り立てても、結局はそういうこと。
 愛娘を見捨てる選択肢など在り得ない。
 だから、この結末は最初から決まっていた。 

「……そっか。もう貴方は、甚太じゃないんだね」

 何気なく零れた声は寂寥に満ちていて、思わず切っ先が揺れる。
 迷いはある。それだけ白雪のことを愛していた。
 しかしここで終わりだ。
 
 白刃が軌跡を描く。

 視認さえ許さぬ速度で振り下された一刀は、少女の細い体躯を袈裟掛けに切り裂く。
『もう、仕方無いなぁ甚太は』やめろ。
『お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから』思い出すな。
『私達、これから家族になるんだから』既に資格はない。
『貴方を好きな私が、最後まで貴方を好きでいられるように』もう、想うことさえ許されない。
 鮮やかに舞う鮮血。鉄臭い香り。手に残る骨を斬る感触。殺しなど慣れた筈なのに、吐き気を覚える。

「あぁ……」

 東菊の瞳は何も映していない。四肢は力を失い、そのまま崩れ落ちようとしている。
それを阻止するように、甚夜は左腕で東菊の首をへし折らんとばかりに掴んだ。

「終わりだ。お前の<力>……私が喰らおう」

 望む望まざるに関わらず、生涯には選択の時というものがある。
 ならばせめて後悔はしないように、責任の所在を他に預けることだけはしない。
 野茉莉を救う為ではない。
 全ては己の意思であり、彼女を斬ったのはこの手だ。
 そしてこれから起こることも全ては自らの選択。
 甚夜が左腕に力を込めた瞬間、弾けるように筋肉が膨張し、人のものとはかけ離れた赤黒い異形の腕へと変化する。
 どくんと心臓のように脈をうち、それに反応し東菊の顔が苦悶に歪んだ。
<同化>。鬼を喰らい、その<力>を我がものとする<力>。
 本来ならば喰らう相手の記憶を垣間見るのだが、地縛の時は何も見えなかった。
 しかし東菊は違った。同じマガツメの娘であっても、僅かながらに流れ込んでくるものを感じる。

「あ、ぅ」

 それは次第に量を増し、水滴が流水に、川のように流れ、氾濫し、決壊する。
 初めて経験する圧倒的な“なにか”。それに巻き込まれ、甚夜は意識を失った。

「よかった……これで、“私の願い”が叶う」

 けれど、恐怖はない。
 暖かく柔らかな、懐かしい肌触りがした。










 ◆ 







 夢を、見ている。

 頬を撫ぜる風が、流れゆく川に細波を作る。
 星の天蓋、木々のざわめき。小高い丘から見下ろす戻川は、記憶と違わぬ清澄な音色を奏でている。

「ここは……」

 意識を取り戻した時、甚夜は廃寺の本堂ではなく懐かしい丘の上だった。
 幼い頃に白雪と約束を交わし、大きくなって約束を破った思い出の場所だ。
 何故、とは思わなかった。辺りの空気は、逆さの小路で黒い影に取り込まれた時とよく似ている。つまり此処は現実ではなく、想いによって形作られた幻影にすぎない。
 そして甚夜が既に未練を振り払ってしまった以上。
 この景色を造り上げたのは、


「懐かしいなぁ」


 彼女しか、いないのだ。

「東菊……」

 気付けば隣にいた彼女は、星が敷き詰められた夜空を眺めている。
 その横顔が懐かしく見えて、甚夜は目を細めた。
 穏やかな表情に、直感的に理解する。
 以前の土浦を喰らった時も、彼が最後に臨んだ景色を垣間見たことがあった。
 つまりこれは東菊が見た末期の夢。喰らわれ、完全に同化する直前、彼女のむき出しの想いが作った世界だ。

「違うよ、東菊じゃない」

 彼女は静かに首を振った。その所作は記憶にある白雪そのものでほんの少しだけ戸惑う。
 表情に出さなかったが、それでも東菊……白雪には分かったらしく、まるで出来の悪い弟を嗜めるように苦笑した。

「だって、もう鬼としての私の体はないから。それにいつきひめでもない。体も役目もなくなって、残ってるのは私の想いだけ。東菊でも白夜でもない。……今の私が、本当の白雪」

 とん、と軽やかに一歩を進み、くるり舞うように振り返る。向かい合う形になった二人。星降る夜を背景にした白雪の笑みは透明で、澄みきった湖面を思わせるくらい美しく、同時にひどく儚く見える。
 当然だろう。これは末期の夢。こうして笑う彼女は、彼女自身の最後の未練に過ぎない。
 それでも甚夜の前に姿を現したのは、きっと伝えたいことがあったから。
 だから甚夜は何も言わず耳を傾けた。彼女が遺そうとしているものだ、受けてやらなければならない。

「私は……私達は知りたかった」

 彼女が白雪だというのなら、甚夜の内心を推し量れない訳がない。心遣いを正確に読み取り、感謝を示すように頷く。

「過去と今を並べた時、貴方がどちらを選ぶのか。それを知ることがすずちゃんの願いで、東菊の役割。東菊はその為に生まれ、目的を果たした」

 結果として甚夜は今を、野茉莉を選んだ。
 選択に後悔はない、とは言い切れない。しかし納得はしている。
 自ら選んだ道だ、ならば謝ることもすまい。ただ静かに言葉を待つ。

「願いも役割も消え去って、最後に残ったのは私の未練。ここにいるのは貴方に会いたいと願う、白雪の心」

 マガツメの願いは知ることで、東菊の役割はそれを助けること。
 しかし“白雪”は違うと。彼女は、ただ甚夜に会いたかったのだと、昔と変わらぬ柔らかさで語り掛ける。
 不意に、風が強く吹き抜けた。
 いつかのように、空へ溶けゆく少女。
 だけど心は近くにあると感じられる。彼女は儚くて、胸には寂しさがあって、なのにこんなにも暖かい。

「神様って、ちゃんといるんだね。きっとマヒルさまが私達に少しだけ時間をくれたんだよ。二人とも葛野のために頑張ったから、その御褒美に」
「違う」

 会いたいと言ってくれた白雪に心を解きほぐされ、ようやっと甚夜は声を出した。
口にしたのは静かではあるが、頑とした否定だった。

「葛野の為ではない。お前だ。お前がいつきひめに為ろうと決めたから、剣を取ったんだ」
「ふふ、そっか」

 頬を緩める白雪はまるで子供みたいに無邪気で、だから甚夜は俯いた。
 この笑顔を消してしまったのは自分なのだと思い知らされる。それが辛くて、もはや意味がないと知りながらも問うてしまう。

「なあ、聞かせてくれ白雪」

 情けないとは思うが止められない。ずっと白雪に。違う、誰かに聞きたかった。
 祈るように、縋るように声を絞り出す。

「私は何を間違えたのだろうか」

 涙は流れなかった。ただ自嘲するように笑った。
 笑おうとした。実際には引き攣ったように口の端が動いただけだった。 

「……“俺”は。どんな答えを選んだなら、お前の傍にいれた?」

 生涯において必ず訪れる選択の時。
 思えば、間違いばかりを選んできた気がする。
 例えば幼い頃。白雪と鈴音、どちらの手を握ればよかったのか。
 例えばいつきひめになると彼女が言った時。 
 例えば清正との婚約を聞かされた時。
 ……例えば、野茉莉と白雪。本当は、どちらを選ぶのが正しかったのか。
 人は自分の見える範囲しか見えない。選ばなかった選択肢の先が何処に繋がっているのかなど知りようもないが、自分が間違えたのだということだけは分かる。
 もし正しい道を選んでいたのなら、今も彼女の傍にいられた筈だ。

「分からない」

 白雪は首を横に振り、困ったように小首を傾げた。

「だって、私の方こそずっと間違えてきたから。もし正しい答えを選べてたら、きっと今頃、縁側で甚太と一緒にお茶を飲んでたと思う。ほんとなら私達、おじいちゃんおばあちゃんだもんね」

 けれど、いつか語った未来は叶うことなく消えていった。 
 違う、消えたのではない。自ら手放したのだ。もっと上手くやれていれば、そういう未来だってあった筈なのに。

「ああ……お前と、ゆっくりと年老いていけたなら、どれだけ幸せだったろう。俺だってそれを望んでいた」

 しかし想う資格は白雪と共に斬り捨ててしまった。
 何を間違えたのかは、どれだけ考えても分からない。
 或いは、遠い雨の夜。元治に手を引かれ、彼女の前に立ったその時こそが────
 
「でもね、幸せだった」

 ───けれど、白雪は柔らかく微笑む。

 甚夜は呆けたように白雪を見ることしか出来ない。
 淑やかな、けれど満ち足りた表情に澄み切った水面のような心が滲んでいる。嘘や誤魔化しではない。口にした言葉は紛れもない真実だと、彼女の静かな笑みが語っていた。

「そんな顔しないで。二人とも、大事なところで間違えちゃったかもしれないけど。私は貴方に会えてよかったって思う」
「だが、私はお前に何もしてやれなかった……」

 お前のことも、交わした約束も、己の在り方さえ。
 何一つ守れなかった。そんな無様な男が一体何を為せたというのか。
   
「もう仕方ないなぁ甚太は。お姉ちゃんがいなきゃ何にも出来ないんだから」

 苦悩に沈む心に届く、驚くほどに甘い、穏やかな彼女の声。
 ふわりと、言葉よりなお甘い彼女の香りが鼻腔を擽る。白雪はそっと手を伸ばし、しなやかな白い指で甚夜の頬に触れた。その仕種はまるで赤子をあやすように優しかった。
 ああ、懐かしい。彼女はいつもそうやって、お姉さんぶっていた。
 今も思い出す、しかしもう届かない、遠い過去の日常が此処に在る。

「お父さんが貴方を連れて来て、家族になってくれて。毎日毎日楽しかった」

 そんなの、こっちだって同じだ。
 あの雨の夜、白雪と鈴音、二人の笑顔に救われた。
 
「いつきひめになるって、私の馬鹿な意地を貴方だけが認めてくれた」

 それをこそ美しいと思った。
 その在り方を尊いと信じ、だから守りたいと願った。

「約束を破ったのに、それでも守るって言ってくれた」

 でも守れなかった。
 なによりも、大切だったのに。

「私は沢山の物を貰ったよ。今感じている暖かさも、愛しさに速まる鼓動の心地良さも、傍にいられない寂しさも。全部貴方が教えてくれたの」

 だけど白雪はあの頃のように笑ってくれる。

「だから、何もできなかったなんて言わないで。貴方の傍で生きて、貴方の腕の中で死ねた。それで充分。私は、これ以上ないくらいに幸せだった。それは、貴方にだって否定させない」

 それでも甚夜は思う。
 私には、そんなことを言って貰う資格はない。
 誰が何を言おうと、結局私は白雪を選べなかったのだ。
 かつては自分の生き方と白雪を天秤にかけて、生き方を選んだ。
 今は野茉莉と白雪を天秤にかけて、野茉莉を選んだ。
 愛していると言いながら、ずっと蔑ろにしてきた。
 なのに、彼女は何故そうやって笑えるのだろう。

「貴方はどうだった? 一緒にいて、私と同じ気持ちを少しは感じてくれてたのかな」
「そんなもの……俺も、同じだ。幸せだった。お前の傍にいられれば、それだけでよかったんだ」
「そっか。でも、それならちゃんと言ってくれればよかったのに」
「言えるわけがないだろう」

 そういう道を選んでしまったのだ。
 彼女はいつきひめ、甚夜は巫女守で在ろうとした。
 互いが互いの在り方を尊いと感じ、不器用でもそれを最後まで守ろうと誓った。
 口にしてしまえば、二人が美しいと信じたものを汚してしまいそうで、何も言えなかった。

「……うん。お互い、そういう生き方しか出来なかった」

 それは彼女も同じで。
 そんな二人だから想い合えて、そんな二人だから共にはいられなかった。

「私達、ずっと一緒にいたのに、素直に話せなかったね。いつきひめとか巫女守とかいろんなものに振り回されて。きっとそんなだから、最後の最後も何一つ言えないままだった」

 嬉しさと寂しさを同時に瞳へ浮かべ、白雪はいつかのように空を見上げる。
 そしてもう一度、甚夜と視線を合わせ、肩を竦めて見せた。

「ちゃんと、お別れできなかったでしょ? きっと私の一番の間違いはそれ。もしもしっかりとお別れを伝えられたら、甚太がこんなに傷付くことはなかったと思う」

 もしかしたら彼女はこの為に在ったのかもしれない。
 マガツメに従い、東菊として役割を果たしたのも全てはこの瞬間の為。
 今と過去、甚夜がどちらを選ぶか図るのがマガツメの望み。
 その為の場を作り出すのが東菊の役割。
 
「それが幸せだった私の、最後の未練」

 そして、それに甘んじてでも。
 例え甚夜に殺され喰われてでも白雪は“白雪として”在りたかった。
 伝えられなかった言葉を、此処で言うために。
 彼女はもう一度生まれてきたのだ。

「随分遠回りだったけど、これでようやく甚太に向き合える。今なら、伝えられなかった私の心も伝えられる」

 水のような、空のような、青く透明な声音。
 愁いのない、混じり気のない、真っ直ぐな心が真っ直ぐに届く。

「甚太、受け取ってくれる? いつきひめでも鬼でもなく。白夜でも東菊でもなくなった、何者でもない“ただの白雪”の想い」

 そうして、白雪は笑う。
 いつかのように、ではなく。彼女が歩いてきた長い長い歳月、その全ては今この瞬間の為に在ったのだと語るように。

「いつか、言えなかったお別れを」

 その言葉に心が震え、ほんの少しだけ寂しくもなる 
 別れを告げようとする白雪。戸惑いながらも動揺を露わにしなかったのは、自身の未練を自覚していたからだろう。
 白雪に未練があったように、甚夜にも未練があった。“逆さの小路”でそれを思い知らされた。
 生き方を曲げられぬが故に選べなかった幸福な未来は、今も胸に突き刺さったままで、時折ちくりと痛む。

「……ああ、そうか」

 だけどそれでよかった。
 痛みを感じていられる間は、彼女が傍にいてくれると錯覚できたから。
 安易な悲劇の主人公を気取って、憎しみだの悲しみだのを持ち出して、彼女の死を引きずり傷付くことで自分を保っていた。
 結局のところ甚夜は、彼女を失ったことから立ち直れていなかったのだ。
 失われたものは失われたもの。過去に手を伸ばしたとて成せることなど何もない。そう嘯きながら、未練を捨てられなかった。
 それはきっと明確な別れが無かったら。彼女の死が中途半端なままだったから。
 消えた筈の“みなわのひび”に、甚夜の心はずっと揺蕩っていた。

「ようやく分かったよ。別れを言えなかったのがお前の間違いだと言うのなら、私の間違いはお前に拘り続けたこと。私はまず初めに、お前の死を認めねばならなかった」
「……うん、そうだね。だから、ここではっきりと別れよ? 私達の日々をちゃんと終わらせなきゃ。貴方は、これからを生きていくんだから」

 だけど本当は、何処かでけじめをつけなければならない。
 過ぎ去った日々はいつも眩しくて、時々その光に目を焼かれて明日が見えなくなるけれど。
 そこで足を止めてしまったら大切だと思う心もいつかは輝きを失くし、醜い執着へとなり果ててしまう。
 甚夜は心の何処かで気付いていながら、終わらせようとしなかった。いつまでも彼女を想っていたかったからだ。
 それは間違いだった。
 もう、白雪はいない。
 彼女の死を悼み、寂しいと感じ、時折後ろを振り返り思い出を眺めるのも悪くない。
 だとしても、固執し続けてはいけなかった。
 みなわのひびは既に弾けて消えた。ならば彼女のことも、過去は過去として、思い出は思い出として終わらせなければならなかったのだ。

「まったく、これではお前のいう通りだ」
「え?」
「“お姉ちゃんがいないと何もできない”。まさか、こんな歳になってまでお前の世話になるとは思っていなかった」
「ふふ、なにそれ」

 心の陰りが晴れるのが分かる。
 名残を惜しむようにくだらない遣り取りを交わし、いつまでもこのままではいられないと甚夜は真っ直ぐに前を見た。
 其処にいるのは白雪だ。
 白夜でも東菊でもない、ただの白雪だった。
 
「……ごめんね、結局あなたを傷付けちゃって。でも、会えてよかった」
「私もだ」
「そう言ってくれてよかった。じゃあ、そろそろ」
 
 彼女が切り出した言葉に理解する。
 これで、かつて胸を焦がした恋が終わると。
 遠い日に、心から愛した彼女はいつかの思い出に変わる。
 歳月が流れれば彼女の声も、触れた温もりも、胸を震わせた熱情すらも薄れて。
 積み重ねる日常の中、大切な人も守るべきものも増えて、思い出を取り出すことは少なくなり、全てと信じた想いもいつかは忘れ去ってしまうのだろう。

「ああ、此処でしっかりと別れよう」

 しかしそれでいいのだと今なら思える。
 人は夢の中では生きられないし記憶はどうしようもなく薄れるものだ。
 それでも目を瞑れば今も瞼に映る“みなわのひび”。
 あの頃の想いを忘れてしまっても、残るものだってきっとある。
 君は此処にいないけど、貴女から貰った沢山のものは息づいている。
 触れた肌の温もりは遠くても、暖かな想いが胸に満ちている。
 結局、傍にはいられなかったけれど。


 ────彼女は、彼女の心は確かに私を支えて来てくれた。


 そう信じることが出来たなら、胸を抉った悲しみさえ、いつかは笑い話に変わる。
 言わなければならなかった別れを、間違いではなかったと誇れる日だって来るだろう。
 だから別れを受け入れよう。
 彼女は、その為にこんな奇跡を起こしてくれたのだから。

「それじゃね、甚太。私はここで終わり。そろそろ顔も見飽きたし、こっちにはしばらく来なくていいからね」

 すっと片手を挙げて、ふるふると手を振って、あまりにも軽すぎる別れの挨拶。

「おい、散々引っ張っておいてそれか」
「えー、だって。あんまり重くても嫌でしょ?」
「相応の重さは欲しかったが」
「我儘だなぁ」

 二人して笑う。じゃれ合う様な別れ。まるで何かに耐えるようで。

「あ、それと、いつまでも私に拘ってちゃ駄目だよ。こっちに来るのは、お嫁さんでも貰って、子共も作ってからね。奥さんといちゃいちゃして幸せに緩みきった甚太の顔、笑ってあげる」
「そうだな。すこぶる付きの美女を嫁にして、お前を悔しがらせるのも悪くない。ただ、子共は野茉莉がいるからな」
「うわー、既に意外と親馬鹿だった。まぁ、甚太じゃそんな美人捕まえられないと思うけど」
「なにを。これでも、嫁を名乗る女の一人くらいは」
「はいはい」

 言葉はなるたけ軽く。
 この先も道は続いて行くから、重荷にはならないように。

「ちゃんとご飯は食べなきゃだめだよ? 昔みたいに若くないんだから、無茶もしないように。お姉ちゃんは心配です」
「これでも料理の腕はそこそこだ。お前より上だと思うぞ。無茶は、まあ、善処しよう」
「貴方の善処はまったく信用できないんだけど」
「それを言われるとつらいな」

 二人の距離は僅かな未練さえ感じさせず自然に離れる。
 ぬくもりは遠くなって、けれど胸には暖かいものが灯る。

「しかし、なんともしまらない別れだな」
「ふふ、ほんと。でも、そんなものだよ、きっと」

 彼女はくるりと舞うように背を向けて首だけで振り返った。

「あとは、最後に一つ」

 そうして懐かしむように、慈しむように。
 白雪は真っ直ぐに目を見て微笑んでくれた。

「どうした」

 此処に白雪の、最後の未練が形になる。
 巫女として生き、巫女として死ねなかった少女。
 死して尚骸を弄ばれ、
 鬼女として望まぬ復活を果たし。
 愛しい人を傷つける為だけに在った。
 彼女は生前も死後も、何一つ為せなかった。
 
 それでも彼女は選んだ。
 望む望まざるにかかわらず訪れる選択の時。
 苦しくても、愛した人を傷つけても、この場所に至る道を選び。
 何一つ為せず、何もかもを失い。
 けれど最後には本当に大切な想いが、ほんの小さな奇跡だけが残った。
 犯した過ちは全てはこの瞬間のため。
 そう、全てはこの一言のために在ったのだ。





「さようなら甚太。本当に、大好きだった─────」





 そこで終わり。
 意識が白に溶け込む。零れ落ちそうな光の中で、目の前が霞んでいく。

 或いは選んだ道が違ったのなら。
 この夢のように、夫婦となって二人幸せに過ごす未来もあったのかもしれない。
 でもそんな幸福は選べなくて。小さな願いが叶うことはなく。
 ぱちんと、水泡(みなわ)の日々は弾けて消えた。

 けれど想いは巡り、いつか私の心はあなたへと還る。
 だから寂しいとは思わない。
 
 そうしてまた眠りにつく。
 木漏れ日に揺れながら。 
 私は、あなたの、夢を見る。


 気か遠くなるくらいの歳月を巡り。
 ようやく白雪の想いは、帰りたいと願う場所に還った。


 最後に────

「ああ、さよなら白雪。俺も、お前が好きだった」

 伝わらなかった筈の想いを、遠い夜空へと響かせて。








 こうして夢は、ようやく終わりを告げた。












 ◆












 不意に訪れた目覚め。
 夢の名残を纏いながら、ゆっくりと意識が覚醒していく。
 東菊を食らい、白雪の想いに触れた。
 マガツメの娘となりながら、想いを伝えるために最後まで足掻いた少女。
 本当に好きだった。彼女を忘れることは、これから先もおそらくない。
 それでもけじめはつけられたと思う。彼女の想いを知り、あの時言えなかった別れを告げることが出来た。
 それで十分に心は満たされた。
 しかし甚夜の表情に安らかさはなく、ひどく険しかった。

「<東菊>」

 ぽつりと、重く固い声で呟く。
 甚夜を、白雪を苦しめる為に生まれた鬼。
 その意味を、もう少し考えるべきだった。

「記憶の消去。消去する事柄、人物を指定することで接触した対象一人の記憶を消去する」

 マガツメの目的は、甚夜が“過去と今のどちらを選ぶか”を知ること。
 ただ、知りたかっただけ。知ることが出来ればそれでいい。
 だから、選んだあとはどうでもよかったのだ。

「記憶の改変、時間経過に寄る記憶崩壊は劣化により使用不可」

 望む望まざるにかかわらず、生涯には選択の時というものがある。
 本当に大切で、心から守りたいと願うものの中から、たった一つを選ばなければならない。
 誰しもに、そういう場面は必ず訪れる。

「そして一度消えた記憶を復活させる、或いは記憶崩壊を止める手段は……」

 しかし勘違いしてはいけない。
 選択肢が提示されるとして、その中に正解があるとは限らない。
 だから、この結末はある意味で当然だった。



「………………存在しない」




 希望は、此処に潰えた。






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