ここはもう、まともな世界ではない。
そんなことは分かりきっていました。
けれども、この村に迷い込む前の日常で、まともでないモノとの接点が全く無かったわけでは無いと、そう思うのです。
幼い頃、夜中にトイレに行くのが怖かった。
何気ない模様がいびつな人の顔に見えた。
けれど、そんな子供の頃は怖かったハズのものを、今では友達と笑いながら会話のネタにしていたりします。
あたしたちは、知らず知らずのうちに、ありえないものとの付き合い方とでも言うべきものを、身につけているのかもしれません。
それはこの村でも同じです。
この村の異様さに怯えながらも、あたしはいつの間にか、どこか冷めた頭で、それはそういうものだと受け止めてしまっていたようです。
射影機があるから、かもしれません。
射影機を使うということは、すなわち異界と関わる事であり、使えば使うほど、その関係性は深いものになっていく。そんなことが、射影機について書かれていた古書にありました。
日本語が通じない外国であっても、その国の言葉を覚えれば、コミュニケーションを取る事ができるようになります。
さらに文化や風俗、日常の習慣を理解すれば、その国の人との関係をもっと深める事ができるようになるでしょう。
世界が広がるという事は、自分と他を区別する境界線が薄くなる事。 …というよりも、変質するといった方が近いでしょうか。
射影機を使う事により、あたしと、この村に在る『何か』とを隔てている境界線。
それが、変質する。
今まで無かった関係が作られていく。
それが、この村から脱出するにあたって良い方へ進むのか、それとも…
今はまだ分かりません。
だから今はただ、お姉ちゃんの元へ急ぐのみです。
…とまあ、いきなりこんな、自分でも良く分からない事を言っちゃってすみません。
天倉 澪です。
お姉ちゃんを助けると意気込んだまではいいものの、この屋敷はやっぱり普通じゃありません。
この夜が明けない村においても、ひときわ異質な場所です。
ちょっと足を踏み外せば、底の無い、深い、暗い谷底へと落ちていくような不安感が、常につきまとっています。
そして浮遊霊や地縛霊の数も、まるで村中のそういったモノが全て集まっているのではないかと思うくらい、様々なところで哭き、悲しみ、怒り、
何かに怯えているようなんです。
『もうベタ塗りはいやじゃ』
『もうトーンばかりを貼るのはいやじゃ』
『疲れてインクをぶちまけてしもうた』
『風呂に入るとトーンのカスが浮くのじゃ』
『いやじゃ』
『いやじゃあ』
そう言って頭を抱え、身体を丸めるようにして震えているのがいました。
『ひえええええ』
『もう家に帰らせてくれ』
『座りっぱなしで腰が痛いのじゃ』
『手が腱鞘炎なのじゃ』
『助けてくれ』
『助けてくれえ』
そう叫びながら、雷で明滅している暗い廊下を走ってくるのがいました。さらに、
『許してくれ、許してくれえ』
廊下を、奥の部屋へと引きずられていく男がいます。引きずる方の男は、白い髪を逆立て、何のつもりなのか、体に縄を巻きつけています。
『許してくれ。後生じゃ、許してくれ』
『いいや許さぬ』
『わしはもう三日も寝ておらぬのじゃ』
『締め切りはすでに十日も過ぎておる』
『もうネタが浮かばぬのじゃ』
『印刷所は輪転機を止めて待ってくれておる』
『アシはみんな逃げてしもうたのじゃ』
『お前一人でも完成させるのだ』
『できるわけがない。許してくれえ』
『許さぬ』
縄の男は、引きずっている男が泣き叫ぶのを気にも留めない様子で、そのまま廊下の奥へと消えてしまいました。そしてさらに、
『あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは』
狂ったような声で高笑いする女の人。
死屍累々と周りに転がっている人達、
所々に散らばっているユ〇ケルの小瓶、コンビニ弁当の箱、真っ白な原稿用紙…
徹夜が続いてハイになってしまっているのでしょうか。こんなお姉ちゃんを見た事があります。「澪… コンビニでアリ〇ミン買ってきて…」と死にそうな声で。
そう、あれは確か…
「お姉ちゃん、大丈夫?」
もう日付が変わろうかという時刻。お姉ちゃんの部屋のドアからのぞき込むようにして、声をかけます。
「んー? 大丈夫大丈夫。それよりもア〇ナミン、よろしくね」
お姉ちゃんは机に向かったまま、何か描き続けています。
「少し寝た方がいいんじゃない?」
「寝たら間に合わなくなっちゃうもん」
「体に悪いよ?」
「平気だってば… あ、でも」
そう言って、お姉ちゃんは椅子ごと体を回転させ、こちらを向きます。大丈夫とか平気とか言える顔色じゃありません。そのくせ、徹夜続きで赤く充血した目だけは、何か力がみなぎっています。
「澪がパンツ見せてくれたら頑張れるかな?」
「オヤスミ」
「ああっ、冗談だってば! 毎日の日課みたいなものじゃない!」
「日課で妹のパンツのぞいたりしないでよ」
スカートはもちろん、ジーパンとかホットパンツにしたら、ずり下ろされたし。ブルマとかスパッツを履いたら、「これはこれでアリ」とか言われたし。
「じゃあ、コンビニ行ってくるけど、他に何か欲しいものある?」
「澪の愛」
「………」
「じょーだんだってば! あ、アリナミ〇は3本ね」
「お姉ちゃん… 死ぬよ?」
…お姉ちゃん、脚以外はけっこう頑丈にできてます。姉妹の微笑ましい会話ですませるにはちょっと抵抗がありますが、その時のお姉ちゃんはとても楽しそうで、あたしは嫌いじゃありません。
『あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは』
…ご愁傷様でーす。頑張って、間に合わせてくださいね。と、邪魔しないよう、声には出さずに心の中でエールを送りました。さあ、気を取り直してお姉ちゃんを探すとしましょう。
そんなワケで、修羅場っている大広間を通り抜け、さらに屋敷の奥へと進みます。と、
「ううっ… ひぐっ…」
…なんでしょう、誰かが泣いているようです。
射影機に反応はありません。それを差し引いても、今までのオバケとは違う感じの声が、進んだ先にあった部屋の、タンスの影から聞こえてきます。
「ぐすっ… うええええええん…」
あたしは遠目から、その声が聞こえる所を覗き込むようにして様子をうかがいます。
女の人です。歳はあたしと同じくらいでしょうか。顔を膝にうずめて、身体を震わせています。そのすぐそばに置いてあるのは…
え? 射影機!?
「お姉ちゃん… お姉ちゃん… どこ行っちゃったの…」
この声には聞き覚えがあります。その姿にも見覚えがあります。だって、
「っ! 誰!?」
あたしの気配に気付いたのでしょうか。その人は顔を上げると、座った姿勢のまま、そばに置いてあった射影機を手に取り、あたしにレンズを向けてファインダーを覗き込みます。
そして、
シャッターを切る事無く、ゆっくりと射影機を下ろしました。
そこにあった、戸惑いを隠せていない顔は、
「え、お姉ちゃん? …じゃない、ええ??」
変質していく境界線。
あたしも同じ顔で戸惑っていたのでしょう。だってそこにあったのは、双子であるお姉ちゃん以上に、あたしにそっくりな顔。
いえ、そっくりと言うより、そこにいた少女は、
あたしでした。
(あとがき)
黒澤家は腐海に飲み込まれてしまっているようです。