ある朝、歯を磨こうとコップを手に取ると、『ホビット』らしきものが入っていた。
頭部からの触覚或いは角が二本程生えており、焦げ茶色の髪を赤いリボンで束ねている胸元にもリボンが巻かれワイシャツらしき服装、しかし手首には手枷というアンバランスな格好の小人らしき何か。
それが歯を磨こうと手にしたコップの中に入っていた。霊夢の人形か何かだろうかと思ってよく見てみると所々白いシャツが血痕らしきもので汚れており、痣らしきものが見える。人形にしては精巧すぎるので、一応生き物らしい。この体格から察するに、鴉か何かに餌と間違われて襲われたのだろう。
意識が無いのかグッタリしている。いつもの誘拐犯の腕でもないようだし、どうしたものかと逡巡していると窓のガラスをポンポンと黒猫が叩いていた。普段なら窓を開けて中に入れるのだが、この小人的な何かを食べられても困る。
「入っても良いけど、食べないでね」
素直に黒猫が頷いたので窓を開けた。食べはしないものの、スンスンとコップからはみ出た小人的な何かの匂いを嗅いでいた。
「橙?」
最近の小人的な何かは猫と話せるらしい。猫はにゃーとしか鳴いていないのに通じ合っているようだ。
「いやー、負けた。負けた。パンチ一発でこの様だよ」
パンチ一発で負けた小人的な何かが何故私のコップの中に入っていたのだろうか。そもそも喧嘩をしていたと言うならばその相手は一体どこに行ったのだろうか。まさかうちの洗面所にこの小人的な何かが複数住んでいるのだろうか。
「お兄さん悪いね。今、出るよ」
よいしょっとコップの淵に手を掛け小人的な何かは黒猫の背中に飛び移った。見かけ通り俊敏なようだ。
「んん、一回戻って仕切り直しかな」
何か小人的な何かが言いかけていたような気がするが黒猫が全身の毛を逆立てて凄い勢いで逃げ出した。小人的な何かが辛うじて背中にしがみ付いていたから、落ちて怪我をすることはなかったようだ。
「おはよう。兄さん」
「ああ、おはよ……ゥ。いやいやどうしたのその手?」
何か手の甲に赤いモノが張り付いている。少量では無く、染みのように広がっている。切り傷などは見当たらない。
「ちょっと変な物触っちゃって」
「見せて」
霊夢の手を無理矢理掴んで水で赤いモノを洗い流す。怪我や腫れは無い綺麗な肌色だ。特に霊夢は抵抗せず大人しくされるがままになっている。一応肘まで確認したが何もない。気持ちよさそうに目を細めている霊夢がいるだけだ。
「何触ったの?虫?」
「さあ?針がちょうど手元に無かったから手でつぶした」
「あの腕じゃないんだから新聞紙とか使いなよ」
「次からそうするわ」
以前に霊夢が針でハエを打ち抜くのを見たことがあるが、そのまま床に突き刺さって畳に穴を開けてしまったので、最近ようやく針の使用回数が少なくなってきた。
「そういえば」
「何?」
「前に霊夢が針でハエ刺したことあったよね?」
「そんなこともあったわね」
「針ってどこまで飛ばせるの?」
霊夢の手を拭きながらそんなことを訊ねると驚くべき答えが返ってきた。
「半径5km以内なら100円玉くらいの大きさなら当てられるわね」
「ゴルゴ超えてる」
いくらなんでも某スナイパーを超えていることはないとは思うが、何故か納得しそうになっている私がいた。ただ、霊夢の腕力でもそんなに投げることはできないはずなのでもちろん誇張表現だろうが。
「針があったら串刺しにしてたのに、あの角付き」
「角付き?」
「別に大したことじゃないわ」
「そういわれると気になる」
一瞬躊躇した後霊夢はこう答えた。
「別に大きくなろうが、小さくなろうが同じってこと」
余計に意味が分からなくなってしまった。
「あと兄さん。そのコップ捨てた方がいいわ」
「え、何で?」
確かに先程小人的な何かが入っていたが洗えば使用するのに問題は無いはずだ。しかし、私が反論する前に霊夢が私のコップを取上げゴミ箱に投げ捨ててしまった。
「こらっ!」
頬をハムスターのように膨らませて何か言いたげな霊夢だったが、さすがに悪かったと思ったのか、小さな声でごめんなさいと呟いた。問い詰めるべきか迷ったが霊夢がしょんぼりしているのでこれ以上言及することは止めた。
「物は大切にしないと」
「……分かってる」
霊夢の悲しげな表情を見ているとこちらが悪いことをしている気分になってしまった。
「兄さん」
「ん?」
「………やっぱりいいわ」
何か言いたげな様子だったが霊夢は何も言わなかった。ただ、櫛を私に差し出してきたので久しぶりに霊夢の髪を解くのを手伝った。長い髪の手入れは大変だと言っているのに本人は切ろうとしないので案外この髪型を気に入っているのかもしれない。
「勘なんだけど」
霊夢が直感に基づいて何かを言う時大体直観であることを口にする。
「兄さんは娘の髪を梳くのが好きなタイプね」
「そう?」
そう言われてみるとそんな気がする。確かに慣れているがそれは霊夢の髪を時折弄っているからだと思っていた。
「慣れ過ぎ」
「まあ、狐とか猫もブラッシングしてるしね」
「……次半径5km以内に入ったら」
特に狐の尻尾に関しては自身がある。ブラッシングする前と後では手触りが全然違う。綿あめのようにモコモコにできる。動物園の飼育員とかペットショップとか向いているかもしれない。
「ペット欲しいな」
「犬がいいわ。シェパードとか」
「霊夢は犬派?」
「別にどっちも嫌いじゃないわ」
イヌも好きだが散歩が大変そうだ。室内で飼えるモルモットやウサギもいいかもしれない。霊夢は意外とぬいぐるみが好きでベッドの周りに結構な数が置いてある。いつの間にか霊夢に毎年新しいぬいぐるみを誕生日に渡すのが決まりになっていた。
「兄さん。コップごめん」
そう言って先に歯を磨き終わった霊夢が洗面所を出て行った。そして、ふと前を見て
「これで梳けと?」
空間から垂れている綺麗な金髪な髪の毛と誘拐犯の腕が差し出したブラシに気が付いた。
「別にいいですけど」
少し髪を梳いたところでライターを持った霊夢が乱入してきたので中断された。美容師もいいかもしれないと思う今日この頃。