―― 桐ヶ谷直葉にとって、兄、桐ヶ谷和人という存在は、まさしくヒーローであった。
ものごころつく以前より常に傍らにあり、いつでも自分を守ってくれていた特別な存在。
多忙な両親に構ってもらえず寂しい思いをしていた時、彼はすぐそばにいてくれた。
厳格な祖父に叱られ泣いていた時、彼は頭をなでて慰めてくれた。
同年代の男の子に意地悪をされた時、彼は一緒になって憤ってくれた。
たとえ、どのような状況に陥ろうとも、彼さえいれば大丈夫。
たとえ、どのような事が起ころうとも、彼さえいれば大丈夫。
あたしのお兄ちゃんが、きっと何とかしてくれる。
だって、あたしのお兄ちゃんは、あたしが困っていれば、いつだって、どこからともなくフラリと現れて助けてくれる、完全無欠な“あたし”の味方なんだから。
だから、彼がボスモンスターの連続攻撃をその身に受け、二十メートル近くも弾き飛ばされ、自身のすぐ目の前に落下するその姿を見ても、彼女にはその光景が現実のモノであると認識する事ができなかった。
理性が、感情が、およそ彼女を構成する全てのものが、理解する事を拒絶していた。
そんな事、起こるハズがない。そんな事、起こっていいハズがない。
―― だって、あたしのお兄ちゃんは、絶対無敵のヒーローなんだ。
それは、十余年という彼女がこれまで生きてきた歳月で構築された、決して侵される事のない絶対的な信頼からくる確信。
―― だから、あたしのお兄ちゃんが、負けるハズない。
それなのに、今自分のすぐ目の前で仰向けに倒れている彼は、ピクリとも動かない。
―― ねぇ、起きてよ… タチの悪い冗談はやめてよ… こんなのどってことないって、いつもみたいに笑ってよ…
そして、深紅に染まり上がったHPゲージが減少していく。
―― 嘘、だ… 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ! こんなの嘘だっ! 絶対に、嘘だっ!!
そしてついに、彼のHPゲージが ――
信頼が、盲信でしかなかった事を知った。
確信が、過信でしかなかった事を知った。
理想と現実を混同していた。
完璧な人間なんて、現実にいるハズがなかった。
疲れない人間なんて、現実にいるハズがなかった。
傷つかない人間なんて、現実にいるハズがなかった。
そこにいたのは、完全無欠でも絶対無敵でもなんでもない、ただのちっぽけな人間。
そこにいたのは、妹の過大な信頼にもなんとか応えようと必死にがんばる一人の兄。
絶対無敵なヒーローなんて、本当はどこにもいなかったんだ。
だけど、気づいた時には、全てが遅くて。
―― カッシャァァンッ!
どこかで何かが砕ける音が聞こえた。
「―――――― っ!!!!」
< < < < < < < < < < < < < < < < < < < <
第5話 第一層フロアボス攻略戦 ~ 狗頭王との死闘・前編 ~
< < < < < < < < < < < < < < < < < < < <
《ソードアート・オンライン》と言う名のデスゲームが正式サービスを開始してから、早二週間が経過していた。
結局、我が不肖の妹が発案した“山籠もり”ならぬ“フィールド籠もり”は、俺の必死の説得も虚しく断行される運びとなった。
しかも、あの日一晩だけじゃなく、その後も延々と…
……おかげ様で、俺はこの二週間、安心して眠りにつけた記憶がない。
というか、圏外のフィールドで野宿するなんて、アホのする事だ。
システム的な保障のない《アンチクリミナルコード有効圏内》の外で寝るとか、正気の沙汰とは思えないだろ。
いつ、ModやPKに襲われるとも知れないような場所でなんて、安眠どころか仮眠する事すらできるハズがないじゃないか。
それなのに、どうして俺はこんな事をしてるんだろう…?
……いやまあ、どうしても何も、我が妹様の暴走を止められなかったからなんだけどさ。
あの時、無駄に躍起になっている妹様を説得するのは無理と悟った俺は、仕方がないので、実際に圏外で寝起きする事の難しさを体感させ、現実を見せる事にしたんだ。
モンスターが、いつどこから襲い掛かってくるか分からないような状況に一晩放り込まれれば、さしもの妹様も考えを改めるに違いない、と。
一晩くらいだったら、寝ずの番をするのもそんなに苦じゃないし。特に問題はないだろう。
―― と、そんなふうに考えていたんだ。……この時点では。
ところがどっこいっ… この妹様っ…
モンスターの襲撃なんぞ関係ないとばかりにっ… 即行で熟睡しやがったっ…!!
もうね…
マジかよっ、と…
ウチの妹は一体何者なんだよっ、と…
豪胆というか、図太いというか…
まあ、それだけ俺の事を信頼してくれているのだと思えば、……………………いや、ねぇよ。
たとえ、どれだけ俺の事を信頼していたって、普通、あの状況で熟睡できるヤツなんていねぇよ。
ウチの妹様は、どんだけ大物なんだよ。
現代日本でのキャンプとこっちの世界での野宿を同列に考えないでください、いや本気で。
と、そんな訳で、リーファを更正させる事に失敗した俺は、その後もズルズルと“フィールド籠もり”を続けさせられる事になった訳です。
いやはや、人間、死ぬ気になれば意外と何だってできるもんなんですね。
―― HAHAHAHAっ! …………はぁ
とりあえず、今回の一件で実感した事が一つ。《索敵》の恩恵というのは、本気で凄まじい。
たしか、原作ではキリトさんが、《索敵》はパーティプレイでは重視されないなんて言っていたのだが…
とんでもないっ! そんな事、全然全くありえないっ! 《索敵》重要っ! マジ重要っ!!
なにせ、この俺がここまで生きつないでこれたのは、ひとえにこのスキルのおかげだと言っても過言じゃないくらいなのだからなっ!
その感度は、あたかもマンガ世界の武道の達人やら、宇宙世紀の新人類もかくやと言ったレベル。
おかげで、俺が深夜、接近するモンスターに気づいて飛び起きたのは、それこそ一度や二度じゃきかないのだ。
本当、《索敵》がなかったら、俺は一体何度死んでいた事だろう…
ていうか、今のスキルレベルでもこれだけすごいとなると、MAXレベルまで上がったら一体どうなるんだ?
フィールドやダンジョンにいる全てのモンスターの位置を把握できる、とかか?
とはいうものの、いくら《索敵》が優秀だとはいえ、それだけで安眠できるほど俺は豪胆じゃない。
いや、別に自分の事を小心者だという気はないけれど、自分と妹の命がかかっているのだから、慎重に過ぎるなんて事はないだろう。
必然、睡眠時間もお察しレベルである。
だからなのか、俺には迷宮区にある安全地帯が、まるで天国であるかのように思えたものだ。……いや、マジで。
さすがに熟睡とまではいかなかったものの、三時間以上連続で寝ていられたのは、野宿生活が始まって以来の快挙だった。
……モンスターの足音? 唸り声?
それがどうしたっ! あんなもの、慣れてしまえば、森の葉擦れとさして変わらんのよっ!
どうあがこうとも、ヤツらはこの場所に侵入する事などできんのだからなっ!
そんな有象無象の輩を気にする必要がどこにあるというのだろうか? ―― いやないっ!
そして、そんな俺とは対照的に、いつでもどこでも快眠していらっしゃった我が妹様。……マジパネェっす。
多分、リーファはまだ、他の大多数のプレイヤーと同様に、この世界で死ぬという事の意味を理解できていないのだろう。
だから、本当に踏みとどまらなければならないラインというものがまるで見えていないのだ。
現実世界への帰還を目指し、レベルアップ ―― 自身を強化する事にのみ全神経を集中させ、他の事柄には一切意識を払わない。
ただひたすらに上だけを目指し、一心不乱に突き進んでいくその様は、見ていて、……酷く危うかった。
今はまだいいが、もしこのままの状態がいつまでも続くようならば、リーファは早晩、躓く事になるだろう。
それが軽傷で済むのならば問題ないのだが、致命傷となってしまう可能性も捨てきれない。
というか、現状を見ている限り、俺には後者になってしまう確率の方が遥かに高いように思える。
……なにせ、ブレーキのきかない車の末路など、決まり切っているのだから。
だからこそ、俺は可及的速やかに彼女の意識改革を行わなければならない。
ならないのだが… 正直なところ、具体的な対策案が思いつかなくて困っている。
そもそもが、個々人の意識の話なので、俺が口で言ってどうこうなるような問題でもないだろう。
一番手っ取り早いのは、一度実際に危険な目に遭ってもらう事なのだが…
危険な目に遭わせない為に危険な目に遭わせようとするとか、もう意味がわからない。
そりゃ、意識改革を促すのだから、多少の荒療治が必要だという事は理解しているけれど。
だからと言って自らリスクを冒すような真似をしてまで実行する気にはなれない。
“万が一”という言葉は、実際に起こりえるから存在するのだ。
だからこそ、常に石橋を叩いて渡るくらいの慎重さは在ってしかるべきだろう。
なにせ、この世界でのアクシデントというものは、常に自分と妹の命の問題へと直結しているのだから。
ここ最近、俺の頭を悩ませ続けているこの問題は、結局、いまだ解決策を見つける事ができず、いつまでも俺の頭を悩ませ続けているのだった。
まあ、なにはともあれ、そんなこんなでこの二週間、俺たちは来る日も来る日もモンスターと戦い続けていた。
“フィールド籠もり”の効果はすさまじく、第一層の攻略も俺たちのレベリングも、俺の想定以上のハイペースで進んでいる。
具体的にいえば、ゲーム開始からわずか二週間で、第一層迷宮区タワーを完全踏破してしまったくらいだ。
原作では、迷宮区の最寄りの町《トルバーナ》に最初のプレイヤーが到達したのがゲーム開始から三週間後だったと言えば、この攻略速度がどれほど異常なものであるか分かってもらえるだろう。
この世界での攻略速度は知らないが、こっちでもまだ、俺たち以外にトルバーナに到達したプレイヤーはいないと思われる。
なにせ、俺たちがこの迷宮区で他のプレイヤーを見かけた事なんて、今のところ一度もないのだから。
この世界は、原作と比べて、犠牲者の数はだいぶ減っていると思う。
自ら命を絶った者、この世界での戦闘に馴染めなった者、自らを過信し引き際を見誤った者、見知らぬ罠に嵌まった者など、様々な事由で今もなお増加の一途をたどっている脱落者たち。
けれど、それでも、はじまりの街でがんばっているだろうクラインのおかげで、無茶をして命を落とすビギナーの数は原作に比べ確実に減少しているに違いない。
また、かなりのハイペースで攻略を進める事ができたおかげで、俺が実体験したいくつかの茅場トラップの詳細を、アルゴを通じてベータテスターへと広める事もできたので、ベータテスターの犠牲者も具体的な人数こそ分からないものの、減少していると思われる。
故にこそ、俺はここでもう一つテコ入れをしようと思う。
「―― 決闘モード?」
その言葉を受けて首をかしげるリーファに、俺はうなずき返した。
「あぁ、そうだ。この階層のボスモンスターには取り巻きモンスターを召喚して闘う集団戦モードの他にもう一つ、一対一で闘う決闘モードがあるんだ」
三ヶ月前のベータテストの際に、第一層迷宮区タワーの周囲を囲む森の中で偶然発見した一軒家。
その中にいる狩人のような格好をしたNPCから受ける事のできる、とあるクエスト。
それが、限定クエスト《狗頭王への挑戦》である。
『迷宮の最上階にいるコボルト王《イルファング》は、誇り高き王者。
彼の者は、常に勇気ある挑戦者を待っている。挑戦する気あらば、ただ一人で王のもとへと赴き、決闘を申し出よ』
ベータテストのときは、レベル的な問題もあって結局クリアする事ができなかったクエストだが、今の俺のレベルと装備ならやってやれない事はないと思う。
レイドボスを相手に一人で立ち向かうというのはかなりの無茶のように聞こえるが、けれど、実際はそうでもない。
このボスの場合、厄介な取り巻き連中がいない状態で戦闘ができるのならば、一人でも十分に勝機はあるだろう。
それに、一人じゃ勝てなそうだったなら、その時は無理せず尻尾を巻いて逃げればいいだけの話なので問題はない。
このタイミングで第一層をクリアできれば、ゲーム内の沈み込んだ雰囲気も多少は改善され、犠牲者の増加にもストップがかかるに違いない。
犠牲者が減れば、戦力が増えるのは自明の理。そうなれば、ゲームの攻略も少しは楽になるハズ。
とは言え、それはそれ、これはこれ。全ては、命あってこその物種である。
ここで変に無理をして、自分が犠牲者の仲間入りになるだなんて事になったら、それこそ笑い話にもならないだろう。
だから単独撃破が無理そうだった場合は、素直に諦めて後に組まれるフロアボス攻略パーティと合流しよう。
どこぞのサボテン頭が、元ベータテスターがなんだとうるさいかもしれないが、そこら辺は黙殺すれば問題なし。
多少煩わしい思いをする事になったとしても、集団に混ざって安全に攻略するのが上策だ。
というような事をリーファに説明すると、彼女はやや不満そうな顔になるのだった。
……えっと、それはつまり、あれですか?
自分もフロアボスと闘ってみたかったとか、そういう事ですか? 相変わらずのバトルジャンキーっぷりですね、リーファさん。
もしくは、赤の他人とパーティを組むのが嫌とか、そう言う事ですか? 相変わらずの人見知りっぷりですね、リーファさん。
ウチの妹は、稀にこういう反応を見せるから、本当に困る。
戦闘に忌避感がないのは良い事なんだが、なさ過ぎるのも問題だ。
ある意味、俺たちコンビの相性が良すぎたのも、問題だったのかもしれない。
これは、早い内になんとかしないと、本気でいつか火傷じゃすまない事になりそうだ。
まあ、なにはともあれ、話はまとまった。
フロアボスとの決戦は、明日。
今日はふもとの町へ向かい、ストレージの中身を売り払ったり、POTを買い込んだり、装備の強化をしたりして、明日の準備を整えるとよう。
* * *
という訳で、俺たちは数日ぶりに迷宮区から離れ、巨大な風車の立ち並ぶのどかな雰囲気を持つ町《トルバーナ》へとやってきた。
「そう言えば、お兄ちゃん」
「うん?」
道具屋で買い物をしていると、隣でそれを見ていたリーファが、ふと何かを思い出したかのように口を開いた。
「ものすごく今更なんだけど… お兄ちゃん、どうして両手剣じゃなくて片手剣を使ってるの?」
「と言うと?」
「だって、片手剣よりも両手剣の方が攻撃力が高いでしょ? それに、あたしもそうだけど、剣道やってるお兄ちゃんなら、こっちの方が使い慣れてるんじゃないの?」
そう言って、リーファが自身の愛剣《バムグレイター+6》を差し出してきた。
「まあ、確かに。じいさんに言われて道場通いしてたから、慣れてるっちゃ慣れてるけど」
彼女が差し出してきたそれを受け取り、鞘から抜いて正眼に構える。
《両手用大剣》スキルを習得していない俺には、システム上、両手剣であるバムグレイターを装備する事はできない。
装備しようとしても、装備フィギュアの右手と左手のセルに、装備不能と表示されてしまうのだ。
もっとも、装備できないと言うのは、武器のプロパティをステータスに反映させる事ができないと言うだけであって、素振りをするだけなら装備できなくても特に支障はない。
なので俺は、店内の棚や天井に気をつけながら、適当に剣を振り回す。
唐竹からの逆風。袈裟に逆袈裟。右薙ぎ、左薙ぎ、斬上、逆斬上、刺突。
振り下ろし、切り返し、薙ぎ払い、突き穿つ。
なんとなく、しっくりくる感覚。
一言で言い表わすなら、ほどよく手に馴染むと言ったところか。
三つ子の魂なんとやら、ガキの頃からじいさんに仕込まれていたのはダテじゃないという事だろう。
そんな風に考えながら、ひとしきり剣を振り回して満足した俺は、剣を鞘に納める。
隣りで見ていたリーファが、「おぉ~」と感嘆の声を上げながらパチパチと手を叩いていた。
そんな彼女の反応に苦笑で返しながら、元の持ち主に剣を返す。
「お兄ちゃん、やっぱ両手剣使った方がいいって。ていうか、県大会優勝者の名が泣くよ?」
「名が泣くって… たかが県優勝程度で大げさな」
「いやいやいや、全然、大げさなんかじゃないからっ!? お兄ちゃんがウチの県で一番強いって事だからっ!?」
いや、県で一番って言っても、所詮中学生の中でだからなぁ ……つか、俺の正体は中坊の皮を被った三十路男だぜ?
身体の出来上がってる高校生相手ならともかく、心身ともに未熟な中学生を相手に負けるハズがないだろ。
ていうか、自分の半分も生きていないような子供相手に負けるとか、あり得ないだろ、常考。
「ていうか、コンビで同じ武器使ったって仕方ないだろ。そんなの戦術の幅を狭めるだけじゃないか」
「そんな事ないよっ! おそろいの武器を使うからこそのコンビネーションが生まれるかもしれないじゃんっ!」
……ふむ、その発想はなかった。
なるほど確かに、言われてみれば、そういう考え方もあるかもしれない。
「とは言え、俺だって伊達や酔狂でコイツを使ってる訳じゃないんだぞ」
そう言って、俺は腰に挿した愛剣をポンと叩いた。
「そうなの?」
「当たり前だ。というか、自分の命がかかってるこの状況で趣味に走れるほど、俺は人生を捨てちゃいない。ちゃんと、片手剣にしかない利点があるからこそ、俺はこっちを使ってるんだ」
原作でキリトさんが片手剣だったから自分もそうしようだなんてミーハーな理由で武器を選ぶ余裕は、俺にはない。
「……むぅ~」
俺がそう説明すると、なぜだかリーファがうなりだした。
「じゃあ、片手剣の利点って何?」
「とりあえず、片手剣の方が両手剣よりもリーチが長いとか、小回りが利くから使い易いとか細かい利点がいくつかあるけど、一番の利点はもう片方の手を自由に使えるって事だな」
「自由にって… あ、そういえばお兄ちゃんは、片手剣なのに盾装備してないよね。ダンジョンに出てきたコボルトとかはみんな装備してたのに」
「ん? あんなデッドウェイトにしかならないような物、装備する訳ないだろ」
「……へ?」
「いや、だってそうだろ? モンスターの攻撃なんて、避けるか往なすかすればいいだけの話なんだから、盾なんて必要ないじゃん」
そんな俺の答えに、なぜか絶句した顔を見せるリーファ。
「え、えっと… だったら、お兄ちゃんはその空いた左手で何するっていうの?」
「ふむ、そうだな…」
思い出すのは、ベータテストの時にソロをしていた頃の経験。
「一概にこれって言える訳じゃないけど、ベータの時に一番やってたのは回復だな。こう、相手の攻撃を剣で受け流しながら、逆の手でポーチの中の回復ポーションを取り出す訳だ。でもって、隙を見て一気にあおる、と。パーティメンバーがいなくてソロやってた時なんかは、結構重宝したなぁ。なにせ、一人じゃどう足掻いたって、POTローテなんてできないからな」
当時を思い出し、苦笑いを浮かべながら俺がそう答えると、なぜかリーファがなんとも言えないアンニュイな表情を浮かべていた。
「うん、お兄ちゃん」
「ん? なんだ?」
「―― そ の 理 屈 は お か し い」
そして、キッパリと断言した。
「それ、無理だから。戦ってる最中にポーチからアイテムを取り出すとか、無理だから。あまつさえ、モンスターと戦いならがらそれを使うとか、絶対に無理だから」
「いや、無理て… このくらい、慣れれば誰だって普通にできるぞ。だってこれ、ソロプレイヤーには必須技能だし。じゃなきゃ、ソロはどうやって回復するんだよ」
「……誰だって、普通に、できる?」
その俺の発言を受けて、何故だかリーファが頭を抱え出した。
「前々から思ってたけど、お兄ちゃんの普通は時々おかしいと思うの」
そして、神妙な顔になって告げる。
「普通に考えて、他の事に意識を取られながら戦闘するなんてできるハズないよ。そんな事ができるのは、頭がおかしい人だけです。そのくらい、実際にモンスターと戦った事のあるあたしにもわかる」
「……頭おかしいって、またずいぶんな言い草だな、妹よ。お兄ちゃん、びっくりだ」
「あたしも、お兄ちゃんにびっくりだよっ!」
そう言って、ガックリと肩を落とすリーファ。
「とりあえず、お兄ちゃんが片手剣を使う理由はわかったよ。……あと、あたしには絶対にできそうにないって事も。
お兄ちゃんはおかしい。なんかもう、それでいい気がする」
なにやら、妹の兄に対する評価がヒドい件。
てか、このくらいソロプレイヤーなら普通にやってると思うんだけどなぁ…
そんな風に首をかしげながらも買い物を済ませた俺は、リーファを引き連れ道具屋を後にするのだった。
* * *
そして、翌日。
準備万端整えた俺たちは、迷宮区最上階のボス部屋へとつながる巨大な二枚扉の前にいた。
「ね、ねぇ、お兄ちゃん… 本当に一人で大丈夫なの?」
ボス部屋への突入を前に、リーファがやや不安そうな顔で訊ねてきた。
「いくらゲームの事はあんまり知らないあたしでも、ボスモンスターを一人で相手にするのが普通じゃないって事くらい分かるよ。普通なら、もっと大勢の人とパーティを組んで戦うんだよね?」
ここへきて怖気づいたのか、そんな事を言い出したリーファを見て、俺は苦笑を浮かべた。
彼女の気持ちはよくわかる。
恐ろしげな獣頭人身の怪物が刻印された灰色の大扉は、ただ見ているだけでもこちらが萎縮してしまいそうな威圧感を醸し出しているのだ。
つか、ベータテストで何度か目にする機会のあった俺ですら、若干気後れしているくらいだ。
初見では、さしものリーファでも、この威容を前に二の足を踏まざるを得なかったらしい。
とは言え、いつまでもビビっている訳にもいかない。
「おいおい、そんな心配そうな顔すんなよ、リーファ。今回のボスは、数値的なステータスで言えばそこまでヤバいヤツじゃない。厄介なスキルを持ってる訳でもない。ウザい取り巻きどもさえいなければ、今のレベルと装備があれば一人でも十二分に撃破可能な相手さ」
そう言って俺は、リーファの頭をやや強めになでつける。
「だからお前は、安心して俺の勇姿をその目に焼きつけてろよ」
頭をなでながら俺がニッと笑いかけると、ようやく納得したのか、彼女はコクリとうなずき返してくれた。
「……うん」
「よろしい。……そんじゃ、ちょっくら行ってくるよ」
リーファがうなずいたのを見届けた俺は、大扉のもとへ向かうと、その中央に手を当てて一気に押し開いた。
俺が、暗闇に沈んだボス部屋に足を踏み入れると、ぼっと音を立てて部屋の左右に設置されていた粗雑な松明に火が灯る。
一つ目の松明が灯ってからは、ぼっ、ぼっ、と奥へ向かい次々に火の灯った松明がその数を増やしていった。
光源が増えるに従って、部屋内の明度も上がっていき、数秒後には部屋の最奥部まで見渡せるようになっていた。
そして、部屋の最奥部に設えられている粗雑かつ巨大な玉座と、そこに座する何者かのシルエット ――
獣人の王《イルファング・ザ・コボルトロード》。
青灰色の毛皮をまとった二メートルを軽く超える逞しい体躯と、血に飢えたかのように赤銅色に爛々と輝く隻眼。
玉座の左右に立てかけられているのは、骨を削り出して作られた手斧と、革を張り合わせたバックラー。
そして、以前決闘をした際には、結局一度も抜かせる事のできなかった湾刀の代わりに腰の後ろに差された、刃渡り一メートル超の野太刀。
―― ベータテスト時代、この俺に何度も辛酸を味あわせてくれた宿敵が、そこにいた。
カツン、カツンと靴音を立てながら、幅二十メートル、奥行百メートルの広大な長方形の部屋を一人、奥へ向かって歩いていく。
これから、ベータテストの時に戦った際には歯牙にもかけられる事のなかった強敵と、文字通り命のやり取りをするというのに、不思議と心は落ち着いていた。
あの時の俺とはまるで違うという自負がある。
幾度もの死線をくぐりぬけてきた経験がある。
決して負けられない理由がある。
守らなければならない人がいる。
帰らなければならない場所がある。
ならば、今の俺の一体どこに、心を乱す必要があるだろうか。
今、俺のするべき事はただ一つ… ―― あいつに勝つ事だけだ。
玉座との距離が二十メートルほどになり、俺は一度足を止める。
そして、愛剣を抜き放ち、その切っ先をこちらを睥睨しているイルファングへ突きつけた。
以前の分まで、まとめてのしつけて返してやるから覚悟しやがれ、犬っころ!
「―― 《決闘》だっ!!」
* * *
カズヤが叫んだその瞬間、イルファングが立ち上がり、狼を思わせるそのアギトを目いっぱいに開いて吼えた。
「グルルゥラアアアァァァァッッ!!!」
その咆哮にこめられたのは、挑戦を受ける事に対する歓喜か、はたまた身の程知らずな愚者への嘲りか。
判断する間もなく、イルファングは玉座に立てかけられていた武具を手に取ると、その巨体に見合わぬ俊敏さで猛然と跳び上がった。
そして、空中でクルリと一回転すると、手にしていた骨斧を振り上げ、着地点にいたカズヤへ向けて振り下ろす。
巨岩すらも粉砕しかねないその苛烈な一撃前に、けれどカズヤは臆する事なく迎え撃った。
「おおおぉぉぉぉーーーーーっっ!!!!」
裂帛の気合と共にかち合った両者の武器。
倍以上ある体格差に、重力加速が加わった上空からの振り下ろしの一撃。
常識的に考えれば、イルファングのその攻撃を、カズヤの細腕一本で繰り出された下からの斬り上げなんかで受け止めれられるハズなどない。
けれど、この仮想世界では、現実世界の常識など通用しない。
火花を散らす攻防を制したのは… ―― カズヤのアニールブレードだった。
カズヤが剣を振り切った勢いに押され、イルファングは後方へ大きくノックバックした。
現実世界の常識では、絶対に起こりえないだろう現象。
けれど、この世界では、カズヤがイルファング撃破適正レベルの倍以上のレベルを持っているという事を加味して考えれば、当然の帰結ともいえる結果でしかない。
体格差や物理法則も、確かに重要なファクターではあるものの、この世界でもっとも重点の置かれている要素はステータス値である。
圧倒的なレベル差やステータス差の前には、そんなもの、風前の塵ほどの価値もないのだ。
相手にとっても、それは予想外の結果だったのだろう。
グルルと唸りながらも、体勢を低くしてこちらを警戒しているイルファング。
その姿を前にして、カズヤはニヤリと口元を釣り上げた。
「いけるっ… 今の俺なら、やれるっ…!」
度胸試しと、ある種の試金石的な意味で受け止める事にした先程の一撃。
あの一撃は、ベータ時代の自分だったなら、ただそれだけで戦闘不能にされかねない威力を持ったものだったハズだ。
だからこそ、それを受け止められるかどうかで、撤退するか否かを決める事にしたのだ。
その結果は、見ての通りの圧勝。
武器の耐久度こそ多少削れはしたものの、こちらのHPは一ドットだって削られてはいない。
今の自分ならば、このボスが相手でも十分に通用する。
その事を理解したカズヤは、剣を構え直すと ――
「ハッ! そっちが来ないんなら、こっちから行かせてもらうぜぇっ!!」
イルファングへ向けて、昂然と駆け出した。
………………
…………
……
コボルト王の苛烈な攻撃を、時に回避し、時に受け流し、時に打ち払う。
掠りはしても、決して直撃だけは受けないように、全ての攻撃に神経をとがらせながら対処する。
そしてお返しに、斬り返し、突き穿ち、薙ぎ払う。
大振り攻撃の後や、ソードスキルの技後硬直などの大きな隙を見せる際には、こちらもソードスキルを叩きこむ。
ベータ時代に、何度も苦汁をなめさせられた経験はダテじゃない。ヤツの攻撃パターンは、その全てが頭の中に入っている。
だからこそ俺は今、ボスモンスターを相手にここまで危なげなく闘う事ができているのだ。
けれど、だからと言って、深追いだけは絶対にしないよう、自分に言い聞かせる。
ボスモンスターの瞬間火力のデカさは、ベータ時代に身を以て思い知らされているので、一瞬だって気を抜く事はできない。
たとえ、どれだけ優勢に事を運べていたとしても、たった一度の、一瞬の油断から全てをひっくり返されるなんて事が起こりうるのがボス攻略戦の常である。
気を抜いていいのは、決着がついてから。でないと、手痛いしっぺ返しをその身に受けるハメになるのだ。
時間の感覚がない。戦闘が始まってから、一体どれだけの時間が経過しただろうか。
まだ1時間は経っていないとは思うが、それでも5分、10分という事もないだろう。
たった一人で、これほどの長時間、戦闘をし続けた経験はベータ時代にもなかったと思う。
なぜなら、あのときはいつだって、俺の隣には頼もしい仲間たちがいたのだから。
けれど、今の俺は、一人。
あの日、あの時、あのはじまりの街で、彼らの誘いに応じていれば、こんな風に、たった一人でフロアボスと戦おうだなんて無茶な真似をする事はなかっただろう。
アイツらがいれば、こんな博打染みた真似なんてせず、最初からみんなと協力して事に当たっていたかもしれない。
だがそんなのは、所詮IFの話だ。
あの日俺は、合流して共に闘おうという彼らの誘いを、拒絶した。
一度は見捨てる事を決めた彼らと、再び顔を合わせる事にどうしようもない後ろめたさを感じて、逃げ出した。
全てが全て、自業自得以外のなにものでもない。
けれど、だからと言って、それで全てを諦める事などできはしなかった。
彼らと再びパーティを組み、共に冒険する事を夢見なかった日はなかった。
リーファと共に戦いながらも、ここにアイツがいたらなんて考えるのは日常茶飯事だった。
そんなくだらない妄想は、けれど、いつか実現してほしい願望でもあった。
今は無理でも、彼らが生きてさえいてくれれば、いつか再会できた時に叶うかもしれない希望なのだ。
だからこそ、俺は知りえた情報の全てをアルゴへ流した。思わぬ罠にかかって彼らが死んでしまわないように。
だからこそ、俺は今、戦っている。己が犯した罪を贖う為に。胸を張って彼らの前に立てる自分になる為に。
ふと気がつけば、いつの間にかコボルト王のHPゲージは、二本目まで削り切られ、三本目のそれももう間もなく尽きようとしているところだった。
さて… ここからが、本番だ。
本当の戦いは、ここから始まる。
ここまでは、攻撃パターンも何もかもが、ベータ時代のそれと変わらない戦闘だった。
だからここまでこれる事は、俺がコボルト王の初撃を受け止められた時点で既に確定していた事だった。
それこそ、予定調和といってもいいくらいに。
けれど、ここから先は違う。
コボルト王は、三本目のHPゲージを削り切られたその瞬間、それまで手にしていた武具を投げ捨て、腰に差していた得物を引き抜くのだ。もちろん、攻撃パターンもそれまでとは様変わりする。
ベータ版の時はただ湾刀を縦に振り回すだけだったので対処が容易だったが、正式版では得物が湾刀から野太刀に変わり、その攻撃パターンも複雑で厄介にな物に変更されているのだ。
俺がそれに対応できるかどうかで、この戦闘の趨勢が決まると言っても過言ではない。
などと考えている内に、俺が叩きこんだソードスキルが三本目のHPゲージを削り切った。
その瞬間、コボルト王が両手に持っていた武具を投げ捨てる。
ベータの時に何度か見た、攻撃パターン変更モーションだ。
モーション中は、いくら攻撃してもダメージを与える事のできない無敵状態なので、俺はその隙に腰のポーチに入っていた回復ポーションを取り出して、一息に呷った。
HPの残量は、まだ7割をきった程度で十分に安全域と言えたが、ここから先は何が起こるか分からないのだから、備えておくにこした事はない。
そんな風に考えながら、視線をコボルト王に戻せば、なぜがヤツはいまだに野太刀に手を添えていなかった。
見ればコボルト王は、上体を大きく反らせ、胸を大きく膨らませているところだった。
バカ、なっ…!? このモーションは ――
―― その光景を目にした瞬間、ここではないどこかで誰かが口元を釣り上げてニヤリと笑った気がした。
あまりに想定外すぎるコボルト王の行動を目の当たりにした俺は、回避する事すら忘れて絶句してしまった。
必然、俺はヤツから放たれた“それ”の直撃を受ける事となる。
「グルラアアァァァァーーーーーーー!!!!」
激しい咆哮を目の前で浴びせられた俺は、おどろきすくみあがって動けなくなる。
―― 《雄叫び》。
それは、モンスターの使用する最もポピュラーな状態異常付与スキルの一つだ。与える状態異常は、一時行動不能。
彼我のレベル差を考慮すれば、成功率はそこまで高いものではないハズなのだが、完全に虚を突かれた状態で受けた為に、俺はあえなくスタン状態に陥ってしまうのだった。
状態異常の所為で身体を動かす事のできなくなった俺は、己の馬鹿さ加減に内心で歯噛みする。
いくらモーション中だからと言って、すぐ目の前に敵がいるっていうのに何を安心しきっていたんだ、俺はっ!
ベータの時は、原作では、モーション中にこんなスキルを使う事なんてなかった。 ―― そんなのは言い訳にすらならない。
ベータでも、原作でも、全ての攻撃パターンを網羅していた訳じゃないのだから、気を抜いた俺がバカだったのだ。
スタンとは、数秒間対象者を行動不能にしてしまうという状態異常だ。
だが、たかだか数秒と侮るなかれ。戦闘時における数秒間の隙とは、生死を分かつ致命傷に直結しかねない恐ろしいものなのだ。
そして、ボス戦でのそれは…
―― すなわち、死を意味する。
状態異常で動けなくなった俺を前に、コボルト王は、悠々と腰に差していた野太刀を抜き放った。
獰猛な笑みを浮かべたコボルト王の手に持つ野太刀の刀身が、薄赤色のライトエフェクトに包み込まれる。
直後、床すれすれの軌道から高く斬り上げるソードスキル《浮舟》が、無防備な俺へ向けて放たれた ――
………………
イルファングの《浮舟》がカズヤを捉え、薄赤いの円弧にひっかけられたかのように彼の身体が高く宙に浮き上がる。
直後、錐揉みしながら宙を舞うカズヤを追いかけるように、イルファングが跳び上がった。
そして、続けざま彼に放たれるソードスキル《緋扇》。
目にもとまらぬ上下の連撃と、そこから一拍溜めて放たれる強烈な刺突。その全てが浮かび上がったカズヤの無防備な身体を捉える。
彼の身体を包み込んだ三連続のダメージエフェクトは、その強烈な色彩と衝撃音で、その全てがクリティカルヒットであった事を示していた。
痛烈なスキルのラッシュをその身に受ける事となったカズヤは、二十メートル以上も弾き飛ばされた。
そこから、地面に突き刺ささるかのような勢いで落下し、その勢いのままに二転三転と転がっていく。
そして、入口のほど近くに立っていた石柱に衝突する事でようやく止まったのだった。
仰向けに倒れている彼の頭上に表示されているHPバーは、急速に減少していき、その色を緑から赤へと変えていく。
その一部始終をボス部屋の入口のすぐそばから見ていた少女は、忘我の様相でその場にガクリと膝をついた。
―― そして、声にならない悲鳴が響き渡る…
> > > > > > > > > > > > > > > > > > > >
あらためて第5話を読み返してみて…
やっぱりコレ、長すぎじゃね? と言う訳で、二つに分けてみた
― 後半へ続く ―
――― おまけ
< 設定のノート ~ チラシの裏 ~ >
○ 装備について
武器を持つ ≠ 装備する
装備フィギュアにセットする = 装備する
装備は、装備フィギュアにセットして初めてステータスに反映される ※ RPGの基本中の基本
たとえ伝説の武器だろうとひのきの棒だろうと、装備しなければ与えるダメージはどちらも変わらない ※ どんなにリアルでも実態はゲーム
他にも、アクセサリーを大量にジャラジャラと身につけていたとしても、効果が反映されるのは装備フィギュアにセットしているもののみ
どんな武器でも、ストレージから出して実体化すれば手に持って振り回す事は可能
ただし、該当の武器スキルを取得していなければ、その武器を装備フィギュアにセットする事はできない
武器に関しては、装備しているもので攻撃しなければステータス通りの攻撃力が発揮される事はない
だから、二刀流ごっこをした場合、装備フィギュアにセットしている方の武器で攻撃すればダメージを与えられるが、
セットしていない方の武器で攻撃してもほとんどダメージを与えられないという事になる
また、片手用武器の場合、セットしている方の手にセットした武器を持っていなければダメージは与えられない