「せっかくの夏休み前に悪霊にとりつかれるとか、マジでついてねぇ……」
私との会話で完全に目が覚めた千雨は食堂での食事を終え、制服に着替え、初等部の校舎へと向かっていた。
中等部や高等部は学園校舎の集まった中央地区から離れた住宅街に寮があるが、本校初等部の寮は校舎のすぐ隣。初等部は全寮制じゃないため寮を小さく作れるからだ。よって寮の児童達は全員徒歩通学だ。
1997年7月1日。曜日は火曜。引きこもりで月も曜日も無関係状態だった私と違い、宿主の千雨は小学生として登校しなければならん。
ちなみに今日この日、前の世界の香港では中国への領土返還が行われ、魔法世界へのゲートを巡る一大事件が起きているはずだった。
この世界での香港がどうなったのかは知らん。児童寮の食堂にはテレビがないし、部屋でも朝から情報番組を見るという習慣が千雨にはないようなので確認しようがねーんだ。テレビの電波を受信できるほどの力が、今の私にはないようだし。
千雨に取り憑いているこの私は、あくまで意識のある分霊のようなもの。
私の一千八百万詞階(オクターブ)を誇る本体は、意識が抜けた状態で精霊の住処である霊的(アストラル)世界にて眠りについている。
『悪霊じゃなくて善良な類の精霊だっつーの』
人間に害をもたらす精霊なんてのもいるが、私はそういうことをするつもりはない。
『守護霊みたいなもんだ。宿してると良いことあるぞ』
例えば電化製品を性能以上に扱えるだとか。
人の身の回りにある電化製品は、雷の精霊ではなく電子の精霊が己の存在を確立されるなわばりにしているのだ。なお変電所や電気ケーブルあたりは雷の精霊のなわばりだったりする。
「勝手に話しかけてくる時点でうざい騒霊だっつーの」
う、騒霊(ポルターガイスト)って言われたら否定できねーな、私の家電精霊としての力……。
などとやりとりをしながら、千雨は校門をくぐり、校舎に入って上靴に履き替える。
初等部の全生徒の一割以上が入寮しているはずの児童寮から出たのに、隣を歩く友達はいない。
まあこんなもんだ。幼い頃の長谷川千雨というヤツは。この世界でも相違はなさそうだ。
ゆっくりとした足取りで廊下を歩く千雨。その横を、はしゃいだ児童達の集団が駆け抜けていく。
廊下は走るなと教師に叱られそうな光景だが、まー小学生ならこんなもんか。
ちなみに女の子の制服は、夏用の白のセーラーワンピース。背中には勿論赤のランドセル。
男の子は白のセーラ襟の上着にショートパンツ。ランドセルの色は黒。
本校初等部の制服はやっぱり可愛いな。
ただ、男子は六年生くらいになると成長が早い奴がたまにいて、少し奇妙な装いになることもあるが。本校の初等部は中等部と違って女子校と男子校に分かれていないので、私が初等部だった頃はそういう姿をよく目にした。
千雨は階段を登り二階にある教室の引き戸に手をかける。三年一組。
私が初等部三年のときの組はどうだったかな。さすがに覚えていない。
精霊化して脳という物質的な記憶装置から解放されたため記憶力は抜群になったはずだが、人間だったときの記憶のインデックスはろくに整理がされていねーようだ。本体に戻ったら要デフラグ。
と、私がそんなことを考えているところに、千雨開けた戸の向こうから大声が響いてきた。
「なまいきですわ! なまいきですわ!」
子供の甲高い声。教室の児童のもんだろう。
「そうやって……すぐ怒るところがエセレディ……」
「ムキーッ! ぶったおしますわ!」
喧嘩か言い争いか。
千雨が教室内で騒いでいる子達に視線を向ける。
おや、こいつらは――。
「私に喧嘩でかなうはずない。ガキ」
「何よぉー! このチビ!!」
おそらくだが神楽坂明日菜と雪広あやかだ。
私の知る彼女達の姿や声よりもはるかに幼いが、とても似ている。
私が前の世界で彼女達を最後に見たのは神楽坂が中学生三年の夏、雪広が三十台の頃の姿だった。
一応、記憶の中に初等部時代の姿もおぼろげながら残っている。どうしても目立つ奴らなので、初等部の頃にも何度か同じクラスになったことを覚えている。
(今日もアスナひめのまわりはうっせーなぁ)
千雨が頭の中でぼやく。登校中に、思考を強くすれば喋らなくても私に言葉が伝わる、と説明したのでこうやって千雨は頭の中で話しかけてくる。
いや、今のは強く思ったただの愚痴か。
『明日菜姫?』
そして私は、千雨の愚痴らしき言葉に思わず反応した。
私が同じ初等部だったころは、神楽坂にそんなあだ名はなかった。『姫』という呼び方が非常に気になる。
『あの子は明日菜姫って言うのか』
(ああ、いや。あいつはアスナ・ウェスペリーナ・なんちゃら。わく星アクアのおひめさまだな)
アスナ・ウェスペリーナ。
神楽坂のヤツの本名だったはずだ。
前の世界で神楽坂の奴が偽名を使って生活していたのは、人に追われているという事情から記憶を封じて別人になりすましたからだ。
それがこの世界では本名のままで、姫ということも隠していないようだった。なんとも平和なことだ。
ただ、一つ気になることが。
『……惑星アクアって何だ』
またよう知らん単語が出てきやがった。
(え、しらねーのアクア)
『聞いたこともねぇ』
惑星アクア、お姫様。
この二つの単語の組み合わせで、おおよそどういうことか予想できることはできるが……。
(すいきんちかもくどってんかいめいってしってるか?)
『太陽から近い順に惑星を並べた一覧だな。ただし冥王星は惑星じゃねー』
(え、セーラープルートってわく星じゃなかったん?)
セーラープルートて……。
いやまあものの覚え方が私らしいっちゃ私らしいんだけど。
『私の来た未来だと、実はかなり小さい星だって判明してて惑星扱いされなくなった』
(なるほどなー。未来人っぽいこと始めて言ったなお前)
うるせーよ。
『で、アクアはどうした』
(おーそうだ。わく星アクアは地球からいちばん近いわく星のことだ。ちかもくだから火星だな)
……やっぱりか。
(火星、知ってるか?)
『ああ知ってる』
嫌と言うほどな。
私のいた世界の火星には魔法で作られた幻想世界がある。だが、火星は魔力を生み出す生命が存在しない、荒野の地。魔力は万物に宿るが、生み出すことができるのは生命だけなのだ。そのせいで魔法世界は火星の自然から魔力を供給されずに魔力不足に陥り、滅亡の危機に瀕していた。
神楽坂明日菜は、そんな魔法世界にあった小国ウェスペルタティアの王族で、百歳を越えるという姫君だった。
(火星の外国でのよびかたが水のわく星アクアだ。お父さんとお母さんもそこではたらいてる)
その言葉と同時に、千雨の脳内で短い歌が流れた。
テレビCMで流れている惑星アクアの観光テーマソングらしい。
……えーと。私の知ってる火星と違う。
そもそもうちの両親は、火星でなんて働いていない。魔法関係者じゃなかったから魔法世界にすらいねぇ。
そういえば今朝こいつから読み取った表層記憶だと、両親は海外で働いているとかあったな。
ネオ・ヴェネツィアだとかいうからイタリアにでもいるのかと思ったんだが。ちなみに魔法世界にネオ・ヴェネツィアなどという地域や都市はないはずだ。
それとだ、一つ気になる単語が。
『水の惑星か……』
(そうだなー。わく星のほとんどが海だから水のわく星)
マジで意味わかんねえ。
関東一帯が大都市ネオサイタマだと知ったとき並の意味不明さだ。
『こっちの魔法世界は海だらけなのか』
(あ? いや、アクアが海だらけだから、りくの多いまほう世界に人がすんでんだろ?)
あー、マジでどうなってんだこの世界。
――その後、千雨と情報のやりとりをして判明したことがいくつか。
まず、この世界の火星はすでに人が住める状態になっている。
いつからかは知らないらしいが、少なくともここ数年ということではないらしい。
私の知る火星というのは、一面の岩石に覆われた海の存在しない惑星というものだった。少なくとも2025年時点では大気が地球と同じ成分になったまでであり、気温はまだ地球の動植物の大半が入植できる状態になく、水も少ない。
ただし膨大な量の氷が極冠部の地中に存在していて、テラフォーミングを進めることで氷が溶け出し火星に小規模ながら海ができあがることがISSDAの調査で判明していた。
そしてこの世界での魔法世界。私がいた前の世界と同じようにこの世界でも、魔法世界は火星上を基点とする魔法で作られた幻想世界として存在している。
地球から現実世界の火星――惑星アクアに行くには、宇宙を飛んでいくのではなくゲートを使って魔法世界を経由する必要があるとのことだ。
ちなみにこの世界の地球の上空には透明なフタのようなものが存在し、今の地球人類は火星はおろか月にすらいけねーんだとか。千雨が言うには「世界大戦でドイツがげんしばくだんを使ったせい」らしい。
うーん。こりゃすげー。
魔法の存在が公になっているどころではなかった。この世界は、あまりにも前の世界と違いが多すぎる。
いったい歴史のどこで分岐した世界なんだ、ここは。
なんていうか、とても素晴らしい世界じゃねぇか。
『うん、永住してみっかな』
(出ていかねーつもりか!?)
あ、千雨の身体に永住する気はさすがにねーよ?
◆
(高校の校舎ってすげーでかいのな)
『つーか小学校が子供向けに特別小さく作られてんだ。階段とか小さくしねーと低学年のガキじゃまともに使えねぇだろ?』
(そんなもんか)
日の高いうちに授業が終わった放課後。千雨は高等部の校舎の中にいた。
私の今後のため、教師に相談して学園長と会わせて貰うよう頼んでくれと千雨に頼んだのが始まり。しかし千雨は教師から学園長の居場所だけ聞き出し、一人で学園長室まで向かいだしたのだ。
何故一人で、と聞いたら、先生を間にはさむと学園長なんてお偉いさん、いつ会えるかわかりゃしねぇから、だそうな。
なんてアグレッシブな。
だが非常に理に適っている。
ここは単なる学校の連なる場所じゃない。学園都市そして関東魔法協会という巨大な一大組織の内部なのだ。
初等部の教師という末端に相談したところで、迅速に対応がなされるとは限らない。下手すればたらい回し。そんなことに時間を取られるくらいなら直接乗り込んだ方が良いと判断したんだろう。自分のことながら聡いガキだ。
この時期の学園長室は麻帆良学園本校女子高等部にあるらしい。
……女子校かぁ。
私が中等部にいた頃の学園長室は本校女子中等部にあった。行動部にいたころは本校女子高等部にあった。理由は孫の近衛木乃香がいるからだと思っていたのだが、この分だと学園長室の場所は女子校優先で決めているかもしれねぇ。
来客用の大きなスリッパでぺたぺたと廊下を進む千雨。
どうやら授業中のようで、初等部の制服姿の千雨が見咎められることはなかった。小学生と高校生では全授業終了までの時間の差はかなり大きい。
ちなみに千雨は学園長室の場所を知らない。
校舎に入ったときにエントランスに校舎の見取り図がなく呆然としていた。仕方ないので私が進む方向を指示してやっている。
私が高等部にいた頃の学園長室の場所ならわかる。ただし未来の話で別の世界の話でもあるが。
だが幸いなことに、私の記憶と同じ場所に学園長室はあったようだ。
アポなしの来訪なので実際に学園長がいるかはわからんが。
「フォッ!?」
ノックもせずに学園長室に乗り込んだ千雨に、部屋の中から驚きの声があがった。
良かった。いたようだ。
突然やってきた小さなお客さんを白髪の老人、学園長はじっと見つめる。だが千雨のヤツはその視線に臆さず、学園長が座るデスクまでずんずんと歩み寄っていった。なんだこのクソ度胸。
仕事中であっただろう学園長は、ゆっくりと立ち上がると、黒く塗られた高級そうな木製デスクを迂回して千雨の前に立つ。
千雨が足を止めると、学園長は膝を折り千雨に視線の高さを合わせた。
「儂になにかご用かな?」
そう優しく告げる学園長。
すげえ。突然他校の生徒がノックもせずにやってきたというのに、頭ごなしに叱ろうとせずまずは話を聞こうとする。なんつーかこう、子供を扱い慣れている。
「がくえんちょうせんせー、相談があります」
「ほうほう、なにかな」
「悪霊にとりつかれたので、はらってください」
ちょっ、何いってんだこのガキ。
千雨の突然の言葉に目を鋭くする学園長。その瞳には魔法的な光が宿っている。
「ふうむ、たしかに何かが憑いているようじゃが、悪霊のようなものには見えないのう。むしろ精霊のような良きものに見える」
そう言葉を返すと、折っていた膝を持ち上げ、すっと背を伸ばす学園長。
「ただ実際に見てみんことにはのう。軽く追い出してみせよう」
『おい千雨、身体ちょっと借りるぞ』
「ちょっ」
私は千雨の身体を掌握すると、ポケットに入れて貰っていた練習用の魔法の杖を取り出す。
「その必要はありません。今実体化させますので」
口を借りて学園長に伝えると、魔法の杖を振り上げて本日二度目の擬似魔法行使をする。
力はデスクの上にある電話機から借りる。電話は良い。電話線に繋がっているから、他の電子精霊の力を借りられやすいんだ。
「『精霊召喚』」
学園の結界にひっかからないぎりぎりの量だけ、霊的世界から私の一部を降臨させる。
姿は前と同じく、人間の頃の私を模している。
『どーも。悪霊もとい、電子の精霊だ』
突然の魔法に一瞬で距離を取った学園長に挨拶をする。挨拶は大事だ。
「うむ。どうも。麻帆良学園の学園長をしている近衛と申す」
学園長が挨拶を返してくる。
ネオサイタマの麻帆良学園学園長は、前の世界と同じく近衛の性を持つようだ。
見た目も、前の世界の学園長近衛近右衛門と全く同じ。白髪白眉白髭の老人で、後頭部は妖怪ぬらりひょんのように出っ張っている。
学園長はさっと私の姿を確認すると――
「……本当に精霊のようだの。それも高位の」
そう判断を下した。
西洋魔法の使い手は、精霊と密接な関わりを持つ。西洋魔法は精霊や妖精の力を借りるものが大半であるからだ。そして彼は前世界で西洋魔法使いの集団、関東魔法協会の長だった。
なので、見ただけで精霊と他の超自然的存在との区別が付くのだ。
「ただ何の精霊かいまいちわからんのう。電気を使う機械に宿る精霊に似ているようじゃが、違う」
『まあそうだろうな。とりあえず私の話を聞いてくれねーか』
私は精霊体の姿をちかちかと点滅させながらそう話を切り出した。
◆
『私はつい最近生まれたばかりの精霊だ。電子の精霊って知ってるか?』
「ふむ。雷の精霊から分化した弱い電気に宿る精霊じゃな。電気を使う機械や電話線に多くいるんじゃったか」
『そうそうそんな感じだ。ただ、いまどきの電子の精霊ってのはコンピュータと通信ネットワークに宿る精霊だ』
家電製品に使われる一昔前の電子回路よりも、電子演算器に使われる電子回路の方が多くの電子精霊が宿りやすい。
霊的世界から物質世界に精霊が出てくるには、0と1の情報の複雑なやりとりが大きいほど都合が良い。活火山を火の精霊王が住処にしていたり、大河に水の龍が宿っていたりするのと同じだ。“消費電力”は電子の精霊には関わってこない。雷の精霊の領分だからだ。
『今のコンピュータやネットワークは電子を使って計算だとか通信だとかをしてるんだけどな。でも、近い未来、電子ではなく量子っつー概念を使うようになるんだ。私はそんな電子と光量子を司る精霊として、時代を先駆けて生まれた情報精霊だ』
私の解説にふむふむと返す学園長。説明ちゃんとわかってんのかな。
『そんな最先端の精霊だからな。日本みたいに発達した文明圏が活動場所として必要だ。あと当然だけど精霊だから魔力が満ちあふれている場所が居心地いいんだ』
「じゃから、その両方を満たす麻帆良の地までやってきて――」
『そうそう麻帆良ってばあのでっかい木があんだろ? 霊場として最適でなー』
「――その子に取り憑いたと?」
一瞬剣呑とした表情を見せた学園長に、私は慌てて言葉を返す。
『あ、あー、わざと取り憑いたわけじゃねーよ!? 私、生まれは香港なんだが、最初は外からちゃんと訪ねようと思ってたんだ』
そう、時間を遡ったらまずは麻帆良を活動の拠点にする予定だったんだ。
私は麻帆良と香港しかろくに住んだことがなくて、超みたいに歴史を改変するためには麻帆良にいる必要がありそうだったからだ。
『だけど、この子との相性が余りにも良くてここに顕現しちまったんだよ。他に住処が出来たらちゃんと出て行くぞ』
「ふむ……」
私の言葉に頷きだけ返す学園長。そして、私の精霊体から視線をはずし、千雨へと視線を向け腰を折って彼女へと話しかけた。
「君、名前と学校のクラス名を教えてくれるかな?」
「長谷川千雨だ、です。本校女子初等部。三年一組」
「なるほど。ありがとう」
そう言葉を返すと、学園長は部屋の中をゆっくりと歩き、壁に備え付けられた書籍棚の前に立つ。
そして、棚から分厚いファイルバインダーを一つ取り出すと、ぺらぺらとバインダーをめくる。
ファイルをふむふむと読みこむこと一分ほど。学園長はバインダーを棚に戻し、こちらへと戻ってきた。
「なるほどなるほど」
そう言いながら長いあごひげをさする学園長。
「確かに長谷川君はチャネラーの素質があるようじゃの」
「え、はつみみ……」
学園長の言葉を聞き、ぼそりと千雨が呟いた。
待て、私も初耳だぞ。
「夢の中で知らないはずの遠くの景色を見たり、突然未来の出来事を知ったり、ここではない世界の様子を幻視したり……そんな経験をしたそうじゃの」
「あ、はい」
「それは、人には聞こえないはずの神様や妖精達の会話を聞く、チャネリングという力なんじゃよ。チャネリングができる者をチャネラーと呼ぶんじゃ」
あごひげを右手で弄びながら、学園長が説明する。
チャネラーかー……。少なくとも前の世界の私にはそんな力はなかった。
千雨がそうなのは、生まれつきなのか、はたまた外的要因が存在するのか。
「とりあえず精霊殿、今言ったとおりその子のチャネリングで引き寄せられた可能性が高い。じゃが人間というものは精霊を宿し続けるにはどうしてもストレスっちゅうもんがあっての。できれば他の物に宿り直して欲しい。うちには工学科や工学大があるから場所には困らんはずだ」
『あー、それがなー。私の力の強さだと結界がきつくて――』
私と学園長の会話は続く。
学園長に、高位の妖魔を封じる学園結界が邪魔だとせつせつと訴えると、では麻帆良から出て行くわけにはいかないのかと言われる。実際、世界樹――神木・蟠桃を住処にしたがっている他の高位精霊達も、あくまで根のある地下部に留まって地上に出ないようにしてもらっていると。
だが私も言い負けるわけにはいかねぇ。私は麻帆良大工学部と麻帆良工大の名を上げて、いかに地上が電子精霊にとって素晴らしい場所かを語る。そして電子精霊がいかに人間の役に立つかアピールする。
電子精霊は他の精霊達と違い人間の文明から生まれた精霊だ。人間の生活と共にいるのが自然であり、さらなる文明の発展には電子精霊を使役するのが必要不可欠だ。人間と密接な関係にあるというのは、精霊を使う西洋魔法使いにとっていかに有用であるかも忘れずにプッシュしておく。
そんなやりとりが十数分続いた。
「おぬし、まるで人間みたいに話すのう……。精霊じゃのに」
『電子精霊は人間の生活から生まれた精霊つってんだろ。会話が成り立って当然だ』
私の手下である電子精霊七部衆も始めて会ったときからめちゃくちゃ語学堪能だった。
しかもあいつら、人間の飯を普通に食うグルメだ。今の私も飯を食おうとすれば食える。全て魔力に変換できるのだ。
そう。人間くさい電子精霊が麻帆良の地に定住すると、一部の人間の娯楽を彼らも嗜むのだ。そこまでできるのはある程度力のあるやつに限るが、娯楽を楽しむ住民が増える。そこに経済活動が発生して都市が潤うというものだ。しかも電子精霊は人間に害をなさない善良な精霊。開国は益しか生み出しませーん。開国してくださーい。
「ふむむ、わかったわかった。人が言うことならあしらっておったが、仮にも高位精霊からの提案じゃからな……」
お。さすが西洋魔法の達人。
精霊の天恵というものがいかなるものかよくわかっていらっしゃる。
まー私は元人間だから、嘘をついたり人間の害になることをしたりもできるんだけどな。
「では、精霊殿本人に働いて貰うとしよう。電子精霊が住む霊域をこの麻帆良の地に作って欲しい」
◆
「なあ、なんでお前が未来のわたしだってこと話さなかったんだ」
学園長室からの帰り、ミニマムサイズに身体を縮小させて頭の上に乗る私に、千雨が声で話しかけてきた。
『別に話す必要はねーだろ? それで何か得をするわけでもあるまいし』
人間とは違う精霊の知覚を楽しみながら、私は答えを返す。
ずっと精霊体を出していたことで慣れてきた私は、千雨の身体から五感を精霊体の方に飛ばせるようになっていた。
あー自由に身体を動かせるって便利。意識があるのに別の人が身体を動かしているって、かなり奇妙な感覚だからなー。
「でもわたしには話した」
『だってお前は私だからな』
「そんなもんか」
『そんなもんだ』
別に学園長にも私の正体を明かしてしまっても構わなかったんだけどな。明かしても隠しても、私はたいして困らない。
なにせ、今の私にはこれといった目的や目標がないのだから。
本来ならば。私は魔法世界を救うために全力で動くはずだった。
ネギ先生の手で神楽坂明日菜を生け贄に捧げるというクソったれな現実を全否定してやるつもりだった。
それがなんだ。この世界じゃすでに火星は人の住める星になっているというじゃねーか。
魔法世界の崩壊はおそらく起きない。
まだ千雨に話を聞いただけで確証を得ているわけじゃねぇが、「火星に直接人が乗り込める」という状況は「人類が火星を開闢できるまでの時間を神楽坂を生け贄にして稼ぐ」という仲間を犠牲にする必要性を見事に撃ち壊してくれている。
火星一面が海なせいで生命が足りんとかいうなら、十年くらいかけて魚と海草を大移植してやればいいだけだ。
ちょっと世界が違いすぎるが、ここは私が過去に飛んでまで欲しかった素晴らしい現実というやつに違いない。
目的は達成された。私の目的は「あの世界の過去を変えること」じゃねぇからな。パラレルワールドという概念がある以上、気にくわん過去を時間改変で完全に消し去ることはできない。これでいいんだ、これで。
さて、これからどうするかな。
一応、予定はある。学園長に取り付けてきたものだ。
学園結界を調整して、私のような電子精霊が麻帆良内の電子機器に顕現できるようにする作業。
そして、麻帆良を電子精霊の住処とする対価として、学園長から世界で流行りつつあるコンピュータネットワークを麻帆良内で整備するために助言と協力をして欲しいと言われている。
「はあ、あと数ヶ月は取り憑かれたままか……」
落胆する千雨。まあこれは仕方ない。
麻帆良学園の結界は、この都市の防衛の要だ。この結界の中では、力の強い妖魔が封じられてしまう。
精霊の中にも悪しきものはいるから、私のような現実に強い影響を与えられる高位精霊は降臨できないんだ。
今の私はチャネラー千雨のおかげで入り込めているが、他の電子機器に乗り移ったりすることが今の環境下ではできねーんだ。
エヴァンジェリンのヤツみたいに肉の身体があるなら力が抑えられるだけで普通に活動できるんだが、あいにく精霊には実体というものが存在しない。
その結界の調整を行うのは今日明日中にというわけにはいかないと、学園長は話していた。
電子精霊という魔法界隈ではまだ情報が少ない存在の定義を結界に組み込まなければならんし、なにより結界を一度停止させる必要がある。
結界を張り続けるために必要な魔力は、都市内の電力を変換することでまかなわれている。結界の調整を行うには都市を一時的に停電させなければならん。
結界の停電メンテナンスは年二回で、次回は十月だそうだ。前の世界の麻帆良と同じだ。
追加メンテナンスの予定を入れるにも、都市全体の停電というのがネックとなり一週間や二週間での臨時追加はほぼ不可能。なにしろ停電は四時間にも及ぶのだ。
そんなわけでしばらくは千雨の身体を借宿とすることにした。
学園長からは心身に与えるストレスの影響を口が酸っぱくなるほど言われ、脳内に住むのではなくできるだけ精霊体の姿でいるよう言われている。千雨本人の前だからかはっきり言わなかったが、おそらく身体の外に出ているように見せかけることで、精神負担を抑える狙いがあるんだろう。
ま、本気で嫌がれば身体から出て行って麻帆良の外で過ごすけどな。
生け贄阻止という目標がなくなった以上、そもそも私は麻帆良に留まる理由がないんだ。自由な光子の情報精霊として世界のネットワークを漂っていてもいい。
ただ、それでも私は学園長の前で麻帆良に留まることをこだわった。
気になるんだ。チャネラーだというこの世界の私が。千雨がこの世界でちゃんとやっていけてるか心配なんだ。
『まー、そう嘆くなよ』
「うるせー! だれのせいだと思ってやがる! わたしどう考えてもまきこまれただけだぞ!」
『アルバイトだと思えばいいんだよ』
「バイトォ?」
私の言葉に千雨はいぶかしんだ。
『結界の調整と並行して、私は都市内のネットの環境を整備することになる。聞いてただろ』
「ああ。こむずしくて何いってんだかわかんなかったけどな」
『都市規模のネットワーク環境整備の責任者になるんだ。当然、機器の発注もある程度私に任されることになるだろうな』
頭にクエスチョンマークを浮かべながら千雨は私の話を聞く。
小三には少し小難しい話だろう。私と学園長の会話もほとんど聞き流していたようだし。
『そこでだ。軒先を借りている迷惑料として、お前に最新式のパソコンとネット回線を用意してやるよ』
「は?」
私が告げた提案に、ぽかんとした顔をする千雨。精霊の視覚は、頭上からでも相手の顔を見ることができる。不思議だ。
『パソコンをプレゼントしてやるって言ってんの』
「えっと……それわたしでもつかえんの? パソコンってむずかしいんだろ」
『最近のは難しくねぇぞ』
今は1997年。この世界が前の世界と違うとは言っても、GUIのすぐれたOSはさすがに登場しているはずだ。
魔法がある分、ハードウェアはより使いやすく進化しているかもな。2035年のパソコンパーツは世界の新技術である魔法がふんだんに採用されていた。
しかしなんだなぁ。私が千雨の歳の頃は、パソコンが欲しくて欲しくてたまらなかったもんだけどな。
チャネリング能力があるっていうし、どれだけ私と違うんだろうか。魔法がない世界が正常、なんてこいつが思っているのも、チャネリングで平行世界の情報を受信してしまっているかもなー。
よし、せっかくだ。過去の私がパソコンを手に入れてどれだけ素晴らしい生活を送ったか、こいつに教えてやるとしよう。
華々しいネットアイドルとしての人生を教え込んでやる。
くくく、知っているぞ。私は今朝はっきりと目撃した。お前の寮の自室の本棚が、漫画とSF小説とラノベでびっしりだったのを。
『なあ千雨、コスプレって興味あるか?』
この世界でも、ちうのホームページが生まれるかもしれねーな。
そんな悪魔の囁きを私は開始した。してやった。