シリカはキリトから受け取った装備品を、宿屋の奥の部屋で装備しなおしていた。
相棒たるピナを失った悲しみは大きい。でも助けることができると聞かされ、彼女は沈んでいた己の心を奮い立たせた。
これから向かう先は最前線に近い四十七層。今の彼女からすれば想像を遥かに超える場所であろう。
最前線の噂は彼女もよく耳にする。軍に所属していることもあり、攻略を目指すプレイヤーと言うのを彼女自身も目にすることがある。
誰もが強そうな装備を身に着けた、シリカよりも五つ以上は年上の男達。どこか身近なプレイヤー達とは違う雰囲気を纏っている。
すぅっと息を吸い、心を落ち着かせるように吐く。
自分もそんな人達と同じような場所へと向かう。怖くないと言えば嘘になる。しかしピナを助けるためならば、その恐怖にも打ち勝つしかない。
それに……
(アスナさんも一緒だし、あの人もいる)
一緒に軍に入り、友人となった年上の女性プレイヤーであるアスナ。彼女の強さをシリカはよく知っている。細剣から放たれる攻撃は、男のプレイヤー達でさえかわすことや防御することができないほどの速さと鋭さを有している。
シリカが知る限りでは、女性の中では最も強いプレイヤーであろう。いや、知り合いの中ではダントツに強いと言える。
二月ほど前、急に会わなければいけない人がいると言って、一人で上層を目指した。シリカやリズは止めたが、それでも彼女の決意は変わらなかった。
それからちょくちょく、メールのやり取りはしていたので、無事であるとは知っていたが。
その彼女がこの世界で一番頼りになると言った男性プレイヤー。
正直、見た限りの印象では強いと思えない。アスナはもとより、知り合いの中層プレイヤーにさえ勝てないのではないかと思える装備と雰囲気だった。
しかしそんなプレイヤーとアスナがコンビを組むはずはないだろうし、頼りになるなどとは決して言わないだろう。
(でも頼ってばかりじゃダメ。私もがんばらなくちゃ!)
決意を新たにシリカは装備を確認し、部屋を出える。
「お待たせしました……って、どうしたんですか?」
シリカが部屋から出ていくと、ずーんと沈んで壁に手を付けているキリトの姿があった。
「えっと、キリト君、リズにいろいろ言われて落ち込んじゃったみたいなの」
疑問に答えたのはアスナだった。
「なによ。私は別に変なことは言ってないわよ」
アスナの言葉にどこか不機嫌そうに呟くリズ。いったい何を言ったのだろうか。
「リズ、キリト君が全然強そうに見えないから、ズバズバといろいろ言ったの。キリト君もあんまり口がうまい方じゃないし、女の子相手に言い返せなくて結局あんな風になっちゃったの」
あんた強いのかとか、本当に二人を守れるのかとか、もし二人にあったらただじゃ置かないからとか。
それだけならキリトもここまで落ち込むことはなかった。
最初の方は絶対に二人は守るとしっかりと答えていたのだが、だんだんと熱くなってきたリズの言葉攻めにキリトの方が先に音を上げた。
元々コミュ障の上、最近はアスナ以外の女性と話しをしていなかったことと、リズの押しの強さと、前の知り合い、それなりに仲の良かった相手にここまで一方的に言われてしまったため、だんだんとメンタルをやられ、結局ずーんと落ち込んでしまった。
「いいよ、いいよ、どうせ俺はビーターだし。どうせ嫌われ者だし。いろいろ言われるのは慣れてるし。見た目もそんなに強そうじゃないし。どうせ女の子みたいな顔だし。背もそんなに高くないし……」
ぶつぶつと小声で何かつぶやいている。聞き耳スキルが高くないと聞き取れないくらいに小声で。
幸いにもこの場にいる人間に彼の呟くが聞こえることはなかった。
以前なら陰口や中傷を受けても、こんな風に落ち込んだりはしなかったのだが、やはりアスナと一緒にいた影響だろうか。それとも以前の知り合いからこんなことを言われたからだろうか。ダメージが思いのほか大きかった。
二ヶ月前の俺はどこに行ったんだ、とキリトは今の自分にため息をつく。
「だ、大丈夫なんですか、キリトさん」
心配そうに言うシリカにアスナは苦笑する。
「あんまり大丈夫じゃないけど、まだ大丈夫かな」
アスナとしてはキリトのこれは落ち込んでいるが、まだ立ち直れる範囲であると判断したから、リズとの会話を見守っていた。
もしキリトが本気で傷つき、トラウマを刺激されたならこんな風にはならず、無言で顔をうつむかせる等の動作をしただろう。
それなりに長い付き合いであるため、アスナはキリトの事をかなり理解していた。まだぶつぶつ小声で言っているレベルは、アスナとしても安心して見ていられる。
と言うより、単純に拗ねている状態である。だからアスナが気合を入れなおせばすぐに立ち直れる。
それにリズも本気でキリトを傷つけるつもりで言ったのではない。ただシリカやアスナを心配しての物で、キリトに対しても大切な友人二人を任せられるか試すような意味もあったのだ。
「はいはい、キリト君もいつまでも落ち込んでないで。シリカちゃんも準備できたから」
「……了解」
アスナに声をかけられ、キリトは何とか立ち直る。
「あ、あのキリトさん。よろしくお願いします」
「あっ、うん。任せておいて。じゃあ行こうか」
頭を下げるシリカに、キリトは気持ちを立ち直らせる。いつまでもへこんでいられない。
そんな状況でもないのだ。
キリトはアスナとシリカを伴い宿を出る。
「本当に二人に何かあったら、承知しないわよ、キリト」
「わかってる。二人は絶対に守るから」
「あんたの命に代えても?」
リズは若干、意地の悪い質問をした。このデスゲームにおいて、皆が平等に命の危険性を持っている。その中でたとえ口約束であろうとも、命に代えてもと言うセリフが出るかどうか。
出た場合は、それが軽口で言っているのかいないのかを推し量るため。出ない場合は、彼が本気で二人を守る気があるのかと問い詰めるため。
「悪いけど命に代えてもって言葉は言えない」
「……そう」
リズはキリトの言葉にどこか落胆した。当然と言えば当然ではあるが、それでもどこかで命を懸けると約束してもらいたいと思っていたのかもしれない。
しかしキリトの言葉には続きがあった。
「約束したから。一緒にこのゲームをクリアしようって。それに俺の命を誰かに背負わせたくないから。代わりに死んで、それで済むならいい。でもそれで生き残ったら、たぶんずっと後悔し続けさせることになると思うから……」
月夜の黒猫団、そしてアスナ。この世界での死を、キリトは何度も見てきた。
守りたかった。守ろうとした。でも守れなかった。
ビーターであっても、二刀流のユニークスキルを持っていても、何一つ、キリトは守り通せなかった。
失って、得て、また失うと言う繰り返し。
もしかしたらまたこの世界でも、アスナを失うのではないか。そんな恐怖にかられる時がある。
決してアスナには言わず、悟られないようにしているが、それでもその恐怖はぬぐい切れない。
その言葉にはどれだけの感情が含まれていたのか。リズはその時のキリトの顔が酷く印象に残った。
自分とそう年の変わらない少年が浮かべる表情。
何かを失い、背負っているかのような表情。その言葉の意味と重さ。
リズはおぼろげながらに気が付く。たぶん、彼はこれまでにこの世界で誰かを失っている。それも彼を庇って死んだのだろう。でなければ、あんな言葉は出てこない。
リズ自身、酷いことを口にしてしまったと後悔した。しかし一度出した言葉をなかったことにはできない。
どう言葉をかけていいのか悩むリズだったが、それを見かねて声をかけたのはアスナだった。
「はい。この話はここまで。リズも心配してくれてありがとう。でも大丈夫。絶対ピナを生き返らせてみんな無事で帰ってくるから」
「アスナ、あんた……」
「キリト君もそんなに思いつめないで」
「………わかってる。ありがとう」
短く言うと、キリトはリズに背を向け、そのまま一人転移門の方へと向かう。
「アスナ、あいつって」
「リズもキリト君を信じてあげて。キリト君はずっと一人でみんなのために戦ってきた。今も、そしてこれからも。そんな彼だから、私は一緒にいるの」
「それってあいつが攻略組ってこと?」
「うん。今度ゆっくり話すから。じゃあシリカちゃん、行こうか。時間もないし、キリト君を待たせても悪いから」
シリカを若干せかしながら、アスナは彼女の背中を押す。
「あっ、はい」
「じゃあ行ってくるから」
未だに何か言いたげなリズだったが、これ以上話をしている時間もないようだ。聞きたいこともまだまだある。二人を心配する気持ちもある。
でも今の自分には信じる事しかできない。リズのレベルでは四十七層に行くことは不可能だ。無理についていけば、それだけでみんなを危険にさらす。
「本当に気を付けてね、アスナ、シリカ。それとあいつに言い過ぎた、ごめんって伝えといて」
リズには見送ることしかできない。祈ることしかできない。そんな彼女にアスナは安心させるように笑顔を送る。
「うん。伝えておくから」
リズに見送られ、アスナとシリカもキリトに遅れないように転移門の方へと向かった。
「あれ? あの人……」
アスナは転移門に向かう際中、転移門付近にキリトとは別のプレイヤーがいるのに気が付いた。
アスナはかつて、一度だけその人物を見たことがあった。いや、あれは見たと言うべきなのだろうか。
あの十九層のフィールドの墓標で、アスナとキリトは本来なら決して見るはずのない、見ることができないはずのプレイヤーの姿見た。すなわち、すでに死んでいる、このゲームから退場したプレイヤーの姿を。
「グリセルダさん!」
シリカがその人物の名前を呼んだ。
ギルド・黄金林檎のリーダーであり、かつての世界において指輪事件と呼ばれる事件で殺された女性プレイヤー・グリセルダ。
「シリカちゃん!」
グリセルダもシリカに気が付いたようで、彼女の名前を呼び、手を振る。
「あっ、アスナさんは初めてですよね? 先日から一緒にフィールドに出ていたギルド・黄金林檎のリーダーのグリセルダさんです」
「初めまして。ギルド・黄金林檎のリーダーをやっているグリセルダです。よろしく」
お互いに近くまでよると、グリセルダは挨拶をする。
「私はアスナって言います。以前は軍にいたんですが、今は抜けて別の人とコンビを組んでいます」
と、アスナも挨拶を返す。アスナは不思議な感じがするなと思った。前の世界ではすでに亡くなっており、言葉を交わすことは決してなかった。
「グリセルダさん、どうしたんですか、こんなところで?」
「ああ、うん。昨日のことでシリカちゃんにもう一度謝りたかったの。私のせいであなたの友達を死なせてしまったから」
「そ、そんな! グリセルダさんは悪くありません!」
聞けば、昨日も何度もうなだれるシリカにグリセルダは謝罪し続けたと言う。自分がもっとしっかりしていれば、ピナを死なせずに済んだと。
昨日はギルドの仲間や軍に対する報告で一時的に、シリカ達と別れていた。本当なら、シリカを慰め、力になってあげたかったが、ギルドのリーダーとしての責任も果たさなければならないのと、昨日のMPKの調査、報告も行わなければならなかったため、今の今まで時間を取られていたのだ。
「いいえ。あの場合は、リーダーである私の責任よ。ごめんなさい」
頭を下げるグリセルダにシリカはおろおろとするばかりだ。
「あの、グリセルダさん。昨日のことはもういいんです。それに私たちはこれからピナを生き返らせに行くんです!」
「え? 生き返らせに?」
「はい!」
シリカの言葉にグリセルダは驚いた顔をする。そこからはアスナは説明を引き継いだ。
「実はですね」
四十七層の思い出の丘の話をする。この話はまだほとんどのプレイヤーは知らない話であった。
当然であろう。まだ四十七層が攻略されてあまり時間は経っていない。攻略組は攻略の終わった階層は、基本的に必要最低限以外は放置する。その後を軍の中層組やその他のギルドが攻略すると言う流れなのだ。
以前の世界でも攻略されてから思い出の丘の情報が出回ったのはずいぶんと後である。
話を聞いていたグリセルダは何かを考える表情を浮かべる。
「アスナさん、だったわね。その情報、どこから仕入れたの? 鼠のアルゴさんから?」
その顔はどこか疑っているかのようだった。MPKを受けた後だからだろうか。またはシリカを最前線近くに連れて行こうとするからなのだろうか。
「違います。でも信頼できる情報です」
グリセルダの目を見ながら、アスナははっきりと言う。
「そう。でも場所は最前線に近いのよね? シリカちゃんを守りながら、そのアイテムを手に入れられるの?」
「はい。それに私だけじゃなくてコンビを組んでいる人もいますから」
「コンビを組んでる人って、……彼?」
視線の先にはキリトがいた。だが彼は何かを警戒しているかのような顔をしている。
何かスキルでも発動させているのだろうか。おそらくは索敵スキル。今のキリトの索敵スキルはコンプリート一歩手前だ。もうすぐコンプリートすると本人は言っていたが。
「はい。あっ、見た目は強そうに見えないかもしれませんが、頼りにはなりますよ!」
先にアスナはキリトのフォローを行う。見た目はそんなに強そうには見えないから、グリセルダも心配するかもしれないからだ。
「………彼、強いわね」
「え?」
グリセルダの言葉に、逆にアスナの方が驚いた。
「うーん、なんとなくだけど。見た目も装備もそんなに強そうにはみえない……」
けど、とグリセルダは続ける。
「だからなのかな。あんな装備でこの階層にいる。そしてこれから最前線近くまで行こうとしている。なのに焦ってもいない。すごく落ち着いてる。それってよっぽど自信があるってことよね」
でなければただの愚か者である。しかしHPがゼロになれば死んでしまうこデスゲームで、そんなことをするプレイヤーなど要るはずがない。
だから逆にそれこそが彼が強いと言うことの証明になると、彼女は言う。
(すごいな、この人。ヨルコさん達が言ってた通りだ)
以前に聞いたグリセルダと言う女性プレイヤーの評価。仲間内の身内贔屓な言葉もあっただろうが、こうして話をしてみると、それが事実であったのだと思い知る。
彼女がもし生きていれば、いつの日にか攻略組として一緒に戦った可能性が高い。
ディアベルといい、グリセルダといい、なぜ前の世界では惜しい人ばかりが死んでいくのか。
「・・・・・・・・・ねぇ、私も一緒に行ってもいいかしら?」
不意にグリセルダはアスナにそう切り出した。
「グリセルダさん?」
「私の今のレベルは四十七。安全マージンは足りないけど、邪魔にはならないつもりよ」
アスナはグリセルダの言葉を聞き、考え込む。リズよりもレベルが上だ。
安全マージンが足りないとは言え、レベル四十七ならば転移結晶さえ持っていてもらえれば、大事には至らないはずだ。
四十七層にはトラップエリアは無い。結晶無効化空間も存在しない。
それにキリトに聞いた話では極端にレベルの高いモンスターは存在しないらしい。
だがそれでも万が一と言うこともある。
ゆえにアスナは断ろうとした。
「じゃあ一緒に行きますか」
横合いから、アスナの近くにまで移動していたキリトが先に返事を述べた。
「キリト君?」
「レベルが四十七なら転移結晶があれば何とかなる。戦闘も俺が担当するから。アスナは二人の護衛を頼む。それにもしMPKに遭遇しても俺とアスナなら十分に対処できるし、二人には隙を見て離脱してもらおう。シリカもグリセルダさんが一緒なら離脱しやすいだろうし」
もしソロの場合、あるいは結晶が無い場合、迷いの森や結晶無効化エリアの場合は、さすがにキリトもこんな事は言えなかったが、このメンバーでトラップエリアも無いのであれば問題ないと判断した。
(それに、少し確認したい事もあるから)
小声で、アスナに話しかける。何か考えがあるのだろうと思い、アスナもわかったと返す。
「ありがとう。でもあなたばかりに任せるのは悪いわ」
「俺は別に気にしない、って言うよりも俺一人に任せてもらったほうが気が楽なんで」
「ずいぶんな自信ね。・・・・・・・わかったわ。こちらも無理を言って同行させてもらうのだから、あなたに従うわ」
「どうも」
「あっ、その前にギルドのみんなにメールを送ってもいいかしら?」
「もちろん。詳細も伝えた方がいいな」
「さすがに四十七層に行くって言ったら、みんなに止められるわ」
「それもそうか。じゃあままシリカの使い魔を生き返らせるアイテムがあるから、それを取りに行く程度でいいか」
キリトの言葉にアスナは違和感を覚えた。
(何か、考えがあるのかな?)
アスナが考え事をしている間にも、キリトとグリセルダは会話を続け、メッセージの内容について話をしている。
そしてメッセージを送り終えたのを確認すると、キリトは転移門を起動させる。
「じゃあ行こう。目的の場所は第四十七層フローリア!」
キリトは転移門を起動させるため、行き先の場所を告げた。
こうして奇妙な四人組のパーティーが組まれる事になった。
「うわぁっ!」
フローリアに転移した直後、シリカは歓声を上げた。アスナも同じように歓声を上げ、その光景に見入っている。
一面に広がる色とりどりの花々。煉瓦で囲まれた巨大な花壇。名も知れぬ草花が咲き乱れ、この場所に訪れたプレイヤー達を歓待しているかのようだった。
「この層は通称フラワーガーデンって呼ばれてて、街だけじゃなくこのフロア全体が花だらけなんだ」
キリトは花々に見入っているシリカやアスナにここの説明をする。アスナはここの事を知ってはいたが、実際に来るのは初めてだった。
(綺麗。二十二層とは違う意味で凄いな・・・・・・・)
チラリとアスナはキリトの方に視線を向ける。その先ではシリカに質問をされ、それに答えているキリトがいた。傍から見れば仲のいい兄妹に見えなくも無い。
(ううっ、なんだか羨ましいな。はぁ、どうせなら二人で来たかったな)
と、心の中で愚痴る。以前聞いた話ではここはカップルに人気のスポットで、この世界では中々成立しない恋人同士の憩いの場として活用されていたらしい。
アスナもキリトと一緒に来たいと以前から思っていたが、中々来る機会が無かった。
今回はシリカの件もあり、緊急事態であったためこの層に来たのだが、これが終わり落ち着いたら今度は二人きりで来ようとアスナは心に決めた。
「いいわね、こう言うところ……」
アスナの近くで花々を鑑賞していたグリセルダが不意に言葉を漏らした。
「そうですね。なんだか心が落ち着くと言うか、なごむと言うか」
「本当ね。うちのギルドのみんなにも見せてあげたいな」
「もう少し攻略が進んでレベルが上がってくれば、すぐにでも来れますよ」
「ええ、早くそうなって欲しいわ」
アスナとグリセルダはお互いにたわいのない会話を続ける。
「あの、グリセルダさんって、結婚されてるんですか?」
不意にアスナは彼女へとこう切り出した。
「え、ええ。あっ、この指輪ね? うん、うちのギルドのサブリーダーが私の旦那様」
にこにこと嬉しそうにグリセルダは語る。しかし圏内事件を知るアスナは、どうしても彼女の夫であるグリムロックに対して不信感と不快感しか出てこない。
「その、結婚までされるにはよっぽど好きなんですね、その人のこと」
「それはもちろん。だって私の旦那様だもの」
自慢げに語るグリセルダに、アスナはどうすればいいのか悩んだ。
もしかすれば彼女の言うとおり、グリムロックはこのSAOに囚われるまでは良き旦那だったのかもしれない。
それがこのデスゲームに囚われ、死への恐怖で心を病み、変わっていく妻と変わることができない自分とを比較し、さらに心を壊していったのだろう。
そして彼女に捨てられるかもしれないと言う脅迫概念にかられ、あんな凶行に彼を突き動かしたのかもしれない。
彼がしたことは確かに許されないことだ。いかなる理由があっても、愛した人を裏切り殺すことはあってはならない。
それでもこのデスゲームに囚われさえしなければ、彼らは円満な夫婦でいられたのかもしれない。
かつてアスナはグリムロックに愛ではなく所有欲と言った。人を愛することを知った今だからこそ、余計に許せない。
でも少しだけ、彼の気持ちがわかる自分もいる。自らの我欲のために人を殺すなんてことにはもちろん共感などしない。むしろ怒りしか出てこない。
しかしあの時、グリムロックが言った言葉。
『愛情を手に入れ、それが失われようとした時……』
もし、もしもだ。キリトに別れを告げられたら……。
愛していると言う気持ちが、彼と別れたくない、ずっと一緒にいたいと言う気持ちが、グリムロックのように所有欲になってしまうのではないか。
怖くなる。恐ろしくなる。決して、絶対にない、なんてアスナには言い切れない。
もちろん、自分はこれからもずっと彼を愛し続ける。ずっと彼の隣にいる。
でも彼は、本当にずっと自分を想ってくれるのだろうか。ずっと自分の隣にいてくれるのだろうか……。
グリムロックもそう考えたのだろう。変われない、弱い己とグリセルダを比べてしまった。
誰にも相談できず、己のうちに抱えることしかできず、デスゲームと言う異常な非日常が彼の理性を壊し、彼の感情を狂わせ、最悪の行動を起こさせたのだろう。
グリムロックも最初からグリセルダ―――ユウコに対して愛ではなく所有欲で接していたのではないだろう。
聡明と感じられる彼女が、それを見抜けないはずがない。それとも恋は盲目と言う言葉のとおり、お互いがお互いに見えていなかったのだろうか。
あの墓地で見たグリセルダの姿をもう一度思い出す。彼女は自分を死に追いやったグリムロックを恨んでいたのだろうか。
信じられないことだが、あの時見たグリセルダはどこまでも穏やかだった。グリムロックのしたことに憤りは感じていたかもしれない。
でも決して恨んではいなかったのではないか。あのヨルコへの助言もすべてを白日の下へさらす為。仇を取ってほしいからなどではなかったのではないか。
もしかすれば、彼女はあんなことがあっても、グリムロックを愛していたのではないのか。そう思えてしまう。
アスナには殺されたグリセルダが、その後のグリムロックをどう思っていたのかを知ることはできない。
また今、どうすることが一番いいのかもわからない。
一度グリムロックに会い、問い詰めるか。
いや、自分の知るグリムロックなら問い詰めたところで口を割らないだろう。そもそもこの世界では殺人の依頼など出していないはずだ。
この世界にラフィン・コフィンはすでになく、彼らのような殺人を請け負うような危険なレッドギルドは存在しない。
犯罪者の集まりであるオレンジギルドはこの世界でも多数あるし、中にはMPKを行う連中もいるそうだが、ラフィン・コフィンのように直接手を下すほどの過激なギルドは、今のところ確認されていない。
(えっ、でも昨日はMPKに会ったのよね……。それってまさか)
アスナの脳裏に嫌な予想が浮かぶ。直接殺人を請け負うギルドはいないが、MPKを行う者は存在する。
ならば昨日の一件は、グリムロックがグリセルダを殺そうとして起こしたことなのではないか。
圏内事件を知っているだけに、疑惑は深まるばかりだ。圏内事件では口封じにシュミット、カインズ、ヨルコの三人をラフィン・コフィンに殺させようとした。
ならば今回も彼が仕組んだことではないのか?
(……証拠は何一つないし、これは私の憶測でしかない。指輪事件と圏内事件を知っているから浮かぶ妄想って言う事もできる。でももし、これがこの世界での指輪事件と圏内事件なら……)
グリセルダは殺される可能性がある。ピナを助けることができても、もしグリセルダを狙った事件だったのならば、これはまだ終わらない。
(どうしよう……。私、この事件を甘く考えてた)
何かいい方法はないか、アスナは心の中で考えを巡らせる。
「おーい、そろそろ行こうか、アスナ! グリセルダさん!」
「ええ! わかったわ! じゃあ行きましょうか」
キリトに呼ばれ、返事をするグリセルダ。
アスナは考えを中断せざるを得なかった。胸中には彼女を助けたいと言う思いが広がる。
何とかして彼女を助けなければ……。
(絶対に、この世界ではあなたを死なせたりしません)
アスナは決意を胸に、グリセルダの後ろを歩く。
彼らは向かう。ピナを甦らせるアイテムが存在する場所へ。
それからしばらくのち、四人が広場から離れた後、一人の男が転移門から姿を現す。
男は周囲を見渡し、誰もいないことを確認するとメッセージを飛ばした。
さらに数分後、転移門からぞろぞろと大勢のプレイヤーが姿を現した。
「ふぅん。ここがそうなの。思ったよりも綺麗な場所ね」
その中の一人、真っ赤な髪と赤い口紅を塗った、黒いレザーコートを着た女性プレイヤーが感想を口にする。
「本当にこんなところにレアアイテムがあるんですかね、ロザリアさん?」
「さあね~。でもあるならそれを頂けばいいだけ。まだ攻略されてそんなに経ってない階層のアイテムなら、それだけで高値になるし」
「でも大丈夫なんですか? こんな階層にくるなんて、よっぽどレベルが高いプレイヤーですよ。それにいくら俺らでもこの階層のフィールドに出るのはちょっと……」
仲間の一人がロザリアと呼ばれた女性に尋ねた。
「馬鹿。心配するんじゃないの。何もフィールドの奥にまで行くつもりはないわよ。あくまで圏内と圏外の境目で仕掛けるの。それなら今のアタシらのレベルでも十分よ」
彼らのレベルはあくまで中層レベルであり、この階層のフィールドに出るのは自殺行為だが、境目ならば問題なかった。
「それに相手は四人組でもうち二人は中層プレイヤー。そのうちの片方はまだガキじゃない。そいつを人質にとればほかの三人も動けないし、麻痺毒のナイフだって用意してきたのよ。あたしが話しかけて油断させる」
ロザリアとて無策で挑むつもりはない。上層プレイヤーかもしれないのだ。甘く見ていればこちらが痛い目を見る。
まあその黒髪の男の方はあまり強くなさそうだが。
「で、あとは囲って全員でかかればすぐに済むわよ。そいつらをフィールドに放置してモンスターを引き寄せて終わり。死亡原因からもアタシ達が殺人者って言われる心配もない。これで依頼も終了。で、アタシ達はお金をもらって、連中からレアアイテムをたんまり奪って大儲けよ」
「さすがロザリアさん!」
「ははは、頭を使うのよ、頭を!」
オレンジギルド・タイタンズハンド。
中層を拠点に活動している犯罪者ギルドである。
「けど転移門からどこへ行こうとしてるのかと思ったら、四十七層だったとわね」
「本当ですよ、ロザリアさん。あの女の後をつけてたら、まさかこんなところに来るとは。あの弱そうな剣士が場所を言ってくれたから、どこに行くかはわかったんですけどね。まあ俺の聞き耳スキルがあればこそ、聞こえたんですけどね! ここ重要ですよ、ロザリアさん!」
「ああ、はいはい。あんたは役に立ってるから」
「じゃあ今回の報酬は多い目で!」
「考えておくよ。じゃあお前たち、準備しな! もう一つの依頼の方もきっちりこなすよ!」
「「「「「「おおっ!!!!!」」」」」
タイタンズハンドのメンバーはそれぞれに武器を持ち、広場からフィールドへと向かうのだった。