ガリアの森の奥深く。
鬱蒼と木々が茂り、普段は静寂に包まれるその森の中に、蹄の音がひびいています。
「ギタップ!ギタップ!」
エンチラーダはそう言って馬にムチを振ります。
そのすぐ後ろでは、テオとエルザが少しつかれた表情で座っておりました。
三人が乗っているのは馬車でした。
小さくて、飾り気のない馬車でしたが、平民たちが使う馬車と違ってしっかりと懸架装置が付いている、驚くほどに乗り心地が良いものでした。
「エルザ…大丈夫か?ちゃんとクッションの上に乗っているな?」
テオはそう言いながらエルザの下に敷いてあるクッションを確認します。
良い馬車で走っているとはいえ、舗装されていない道を走るものですから、テオはエルザが揺れに酔わないか心配だったのです。
「大丈夫」
何度か乗合馬車に乗ったこともあるエルザはそう答えます。
平民の乗合馬車に比べれば、今乗っている馬車はまるで魔法の絨毯のように揺れがありませんでした。
「しかし馬車は揺れ…から…ウプ」
「テオ?」
突然顔をしかめたテオに、エルザは心配そうな声を掛けます。
「ちょっと待っ…ウゴ…オロロロロロォ…」
「ちょ!ちょっと!テオ!?」
テオは窓から頭を出したかと思うと、おもむろに吐瀉しました。
「オロロロ!ルロルロロ!」
「うわあ…」
それはエルザが引くほどの吐きっぷりでした。
馬車に乗る前に食べた朝食が馬車の後方にキラキラと飛び散ります。
朝食を吐いたテオは、そのまま顔を従者席に向けて言いました。
「グエ…だから馬車は嫌いなのだ…エンチラーダ!この馬ワザとゆらしてないか!?」
「普通の揺れでございます、クッペですから。やはり普通のランドーを用意したほうがよろしかったのではありませんか?」
視線は馬から外さずに心配そうな声でエンチラーダは答えます。
エンチラーダの言うとおり、小型のクッペ馬車よりも、大型のランドー馬車のほうが、もう少し揺れも少ないのですが、テオ自身がクッペ馬車が良いと言ったのでココまでこの小さな馬車で来たのです。
「ランドーはなんか嫌いなのだ!あの無駄に豪華なのと、独特の臭いが!というか、この前に乗ったのはランドーだったが、普通に酔った。馬車の種類は関係ない!あれか?馬が悪いんじゃないのか?」
「普通の馬ですよ、どうか我慢ください。もうすぐ付きますのでもう少しの辛抱です」
「テ…テオ…クッションいる?」
エルザが心配そうに自分の下に敷いていたクッションをテオに薦めます。
「いや、いらん。クッションを使おうがレビテーションで浮こうが、結局景色が揺れるので酔うのは変わらん」
青い顔をしながらテオは答えます。
「そ…そう」
「くそう…ただの乗馬であれば、こんなに酔わないのに」
そう言ってテオは、辛そうに目を瞑るのでした。
さて。
なぜテオが苦手な馬車にのっているかというと。
それはエルザの故郷に行くためでした。
召喚前にエルザが住んでいた村、ザビエラ村。
そこにテオ達一行は向かっているのです。
トリステインからガリアまではフネでの移動でした。
フネと言っても海や池に浮かぶ船舶とは違います、風石を動力に浮かぶ、空飛ぶフネです。
そしてテオたちはガリアの船街の郊外にある上等の宿で一夜を過ごしました。
そこまではエルザに取って夢のような旅行でした。
まるで戦艦のように大きなフネ。とても綺麗で広い客室に、甲板では客のためにショウが開かれていて、エルザは目を輝かせながらそれを見ました。
それにその後泊まったのは貴族用の豪華な宿。そこはエルザが入ったどんな部屋よりも豪華で、エルザはその部屋のベットの柔らかさを生涯忘れないでしょう。
ただそこからが問題でした。
エルザの居たザビエラ村は、とても小さな村です。
定期便など有るはずもなく、結局、テオ達は馬車を買取って、それで村に向かうのですが…
「ああ、また…出ルヲボボラオラオヲォ!!」
涙を流しながら窓の外に吐瀉をするテオ。
馬車を中心に広がるスエタ臭い。
その匂いを嗅いでなぜか恍惚の表情のエンチラーダ。
その音と匂いにザワメク森の動物達。
小さな馬車を中心に広げられる地獄絵図に、エルザはむしろ徒歩で移動したほうがよっぽどマシだったのではないかと思うのでした。
◇◆◇◆
ザビエラ村はどの街からも離れた、森の奥にある村でした。
宿を早朝に出たエルザ達でしたが、結局ザビエラ村についたのは、日もすっかり傾いて、テオの胃酸が吐きつくされた頃でした。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「テオ、大丈夫?」
「お…う」
力なくテオは答えます。
「もう少し休まれますか?」
「いや、行こう。正直少しでも馬車から離れたい」
「はあ…では参りましょうか」
そう言ってエンチラーダは旅行鞄を馬車の後方から取り出して、その手に持ちました。
その行為に。
エルザは違和感を覚えました。
エンチラーダが両手でその鞄を持っている姿を、エルザは今始めてみたのです。
別に其れは変なしぐさではありません。旅行かばんを持つのはごく一般的な行動です。
なのに、なぜ、今に至るまでその光景を見ることができなかったのか。
その時。
エルザは初めて馬車に車椅子が乗せられていないことに気が付きました。
エンチラーダの両手は何時もテオの車椅子を押して、荷物はその車椅子の下部分に置いていたのです。
しかし今、エンチラーダの両手にはバックの取手があるばかりで車椅子は何処にも見当たりませんでした。
エンチラーダらしからぬミスです。
何時も完璧でソツがないエンチラーダが、テオの車椅子を忘れるなんて。あまりにも異常なことです。
一体どうして?
とエルザが思っていると。
テオが杖を片手に呪文を唱え始めます。
すると、テオの足元が光り始めました。
そして。
テオの両足には足ができていました。
それはグリーブとサヴァトンを履いた鎧騎士のような立派な足でした。
「では行こうか?」
そう言ってテオは立ち上がります。
「足が生えた!?」
「そりゃ生やしたからな」
驚くエルザに対して、テオはさも当然と言った様子に答えます。
それもそのはず、それはテオに取って当然のことでした。
此処は魔法学院でも貴族用の高級宿でもありません。
道には段差や穴があります。狭く、小石やゴミも落ちています車椅子の移動はとても不便なのです。
ですからテオはゴーレムの技術を応用した足を生やしたのです。
テオとしてはそれは当然のことで、彼は外出するときには屡々今のように、魔法で作った義足をつけるのです。
エンチラーダも其れを心得ていたからこそ、嵩張る車椅子をあえて宿場に置いてきたのでした。
「じゃあ何で普段は車椅子なの?」
それは当然の疑問でした。
魔法で義足が作れるのならば、別に普段から義足をつけていれば良いようにエルザは思ったのです。
「車椅子の方が楽だからだ。レビテーションで少し前に押すだけでコロコロ動けるし。それに、足を生やすとなんだか自分を偽っているようで気分が悪いのだ。足が無いのも含め吾は吾であるからな」
そう言いながら彼はバシバシと自分の膝をたたきました。
そこに自虐的な雰囲気は含まれていませんでした。
テオは本当に、心の底から、自分を足のない存在として受け入れているのです。
周りに馬鹿にされつつも、彼自身は足のない自分を何ら恥じては居なかったのです。
「とは言え、それはあくまで吾の問題だ。吾は気にせんでも、お前の村の者は違うだろう。此処では足のある立派なメイジで通しておいたほうが、周りの心象もよかろうて。ココでは吾の足が無いのは秘密だぞ?」
そう言いながらテオは歩き出します。
それは普段車椅子で生活しているとは思えない、堂々とした足取りで、エンチラーダを傍らに歩くその姿は、本当に立派な貴族そのものでした。
「ふむ、ココがザビエ・ラムラか」
村の入り口から、村を見ながらテオはそう言いました。
「ザビエラ村です、ご主人様」
「そのムラか…見事に何も無いな」
ザビエラ村。
人口も400人にも満たない寒村。
エルザはその村に対して、さしたる感情は持ち合わせていませんでした。
その村は、あくまでエルザが人間を襲う為に都合のいい村と言うだけで、そこに故郷という概念は全くもって存在していなかったのです。
ですから、今。数日ぶりに村に戻って来たのにもかかわらず、エルザは懐かしさも喜びも一切感じてはいませんでした。
ではなぜそこに戻ってきたのか。
一番の理由はエルザの擬態の為です。
召喚された子供が、何処から来たのかもわからない住所不定と言うのはさすがに怪しすぎます。
かといってそこで嘘をついて後で調べられればさらに怪しくなります。
だからエルザは召喚直後、テオに故郷を尋ねられた時、正直に前に住んでいた村。つまり、このザビエラ村の名前を上げたのです。
エンチラーダに自分の正体がバレた後も故郷への帰還を拒否しなかったのは、眼の前を意気揚々と歩いているテオが理由でした。
鼻歌交じりに旅行の準備をして、『さあ故郷へ戻れるぞ!』と言うテオの笑顔をみると、『別に帰りたくない』とは最早言えなくなっていたのです。
「林業を主とした寒村ですので、観光向けのものは無いかと」
「ふむう。まあ良い、エルザの保護者宅は何処なのだ?」
「あの一番奥の家」
そう行ってエルザは村の一番奥の家を指さしました。
「確か、村長だと聞き及んでいるが?」
「うん、そうだよ」
「事前に手紙での連絡はしております。今日我々が到着することもあちらは知っていますので、普通に行ってよろしいかと」
「そうか」
そう言って一同は村長の家に向かいます。
ザビエラ村にエルザと一緒に現れた貴族。
本来ならば騒ぎになってもおかしくはない状況でしたが、村人たちはその姿をみて、遠巻きに囁き合うだけでした。
「今度の騎士様は大丈夫かな」
「若い男のようだな」
「若すぎやせんか?」
「メイドみたいな従者を連れてなさるわ」
「あら、最近見ないと思ったら、エルザはあの騎士様を迎えに行ってらしたんかねえ」
「前の騎士様のほうが強そうだったねえ」
「今度の騎士様もそう長くは続かないだろうなあ」
ヒソヒソと語られるその言葉は、不敬にも当たるような囁きでしたが、テオは気にしませんでした。
陰口を叩かれるのも、馬鹿にされることも。テオには慣れたことだったのです。
しかし、その囁きを聞いて。
エルザは思いました。
コイツラ何も理解していない。
なぜ、テオフラストゥスが弱いと言えるのだ?
その力を見たこともないのに。
なぜ、テオフラストゥスが死ぬと言えるのだ?
その強さを知りもしないのに。
テオを知りもしないニンゲン共が、どうしてテオを語れるのだ。
テオフラストゥスの凄さを理解してイナイクセニ。
そこまで考えて。
エルザは怒りを覚えている自分に驚きます。
エルザは戸惑いました。
なぜ自分が怒りを感じるのだろう。
テオが馬鹿にされたから?
確かにテオは自分の主人だ。
しかし、ただそれだけ。形式的に主人であるというだけ。
自分を守るだけのただのメイジだ。
その強さは自分だけが理解していれば良い。
むしろ、周りの油断は良いことだ。
テオを見下すほどに、周りは油断して、テオは有利になる。
だから、むしろテオが弱そうという判断は、喜ぶべきことなのだ。
しかし。
なぜか無性に腹が立つ。
エルザは自分の中に生まれた怒りに戸惑いながら、表向きはいつも通りの調子で、テオとエンチラーダを村長の家へと案内していくのでした。
「おお、おお、エルザ。無事で何よりじゃわい」
出迎えた村長はそう言ってエルザを抱きしめました。
しばらくそのままエルザを抱きしめると、テオとエンチラーダの方を向いて挨拶を始めます。
「ええ、これはとんだご無礼を、私はこの村の村長でございます、エルザの保護者のようなことをさせてもらっとりました」
村長。
その男は、1年間エルザの保護者だった男です。
親のない自分を拾い、まるで我が子のように育ててくれた人間でした。
しかしただ、それだけです。
エルザにとって、村長は、ただそれだけの人間でした。
自分が擬態するのに都合の良い存在。
そこにそれ以上の感情は無く。こうして数日ぶりにあっても、抱きしめられても、別にエルザの心には何の変化もありません。
それはふつうのコトです。
吸血鬼が捕食対象に一々感情なんて持っていては生きて行くことが出来ません。
「うむ、吾はテオフラストゥスだ」
それなのに、なぜ自分は、出会って間もないテオに対しては感情を持ってしまっているのだろうか。
エルザはそれが不思議でなりませんでした。
テオが今までのどんな人間よりも強いから?
テオが自分の主人だから?
テオが自分を守ってくれたから?
そもそもこの感情は何なのだ?
今まで感じたことのない、これは。
ひょっとして、これが。
これが。愛?
その考察に行き当たった時。得も言われぬ恐怖がエルザを支配します。
「細かい話は手紙にかいてあったので分っとります…なんとも、突然いなくなったと思ったら、召喚されとるとは、世の中は不思議で溢れとりますわい」
そう言いながら村長は体を横に向け、一同を部屋の中に迎え入れました。
その後は和やかに時間が過ぎました。
エルザは村長に、今日まで自分に起きたことを話し、テオは村長に自分がどういう立場に有るかを話しました。
勿論全てを語ったわけではありません。
エルザは吸血鬼ではなくまるで自分が一人の人間の女の子で有るかのように、思ったことや感じた事を語りましたし。
テオは自分が足のないメイジであるとは一言も言わず、ただ普通の魔法学院の生徒であるかのように、その立場を語ります。
どちらも、嘘は言っていませんが、都合の悪いことをわざと語らすに話を続けます。
そして和やかな話が一段落したところで、村長が言いました。
「さあ、エルザや、部屋に行っておいで、私はちょいと貴族様と大事な話があるからね」
「ああ、そうだな自分の部屋の様子を見てくると良い」
まるで示し合わせたかのような村長とテオのその言葉。
どうやらこれからテオと村長で、エルザの扱いについて話し合うようだというのが、なんとなく雰囲気でわかりました。
エルザは当事者である自分が話に参加できないことにほんの少し不満を感じましたが、それを口に出してもただのワガママとして処理されるでしょうから、ただ一言。
「うん」
とだけ言って、自分の部屋へと一人で行くのでした。
エルザの姿が見えなくなり、テオは口を開きました。
「回りくどい話は嫌いだ。単刀直入に言おう。エルザを引き取りたい」
それを言うテオに、先ほどの和やかな雰囲気はありません。
それは、言い方は希望でしたが、命令に等しいものでした。
そもそもテオにはエルザを引き取る事に許可を取る必要はありません。
貴族としての権力で持って無理矢理にエルザをつれていくことは出来ますし。最初から村長に連絡をしないでいることだって出来たのです。
テオがこうして、村長の下に訪れ、エルザを引き取りたいと言うのは、単に気分的な物でした。
あくまで自分はエルザを攫ったのではなく。
正当な手続きのもとで、エルザを扶養するのであると。
自分自身の心を納得させるためでした。
しかし、やっていることは攫っているのとさして変わりません。
突然エルザを保護者のもとから引き離し、そしてそれを引き取りたいと言いに村にやって来る。
しかも、有無を言わせない様子で、相手は貴族。
ふつうの家族であれば。その悲劇に嘆き悲しみつつ泣き寝入るのでしょう。
どんなに嫌でも相手は貴族。逆らえば何をされるか分ったものではありません。
そういう意味で、テオの行動は残酷なものでした。
しかし、村長は、そのテオの提案にたいして、むしろ肯定的でした。
そもそも村長にしても別にエルザの実の親ではないのです。
であれば、この貴族のもとで暮らしたほうがエルザが幸せになれるのは明白です。
貴族のもとで暮らしたほうが、こんな寒村で貧乏な生活をするよりもよっぽどいい暮らしが出来るでしょう。
しかし、村長には一つだけ、懸念がありました。
それは、
「しかしその…貴族様。言いにくいのですが、エルザは…その…」
「メイジが嫌いだろ?」
村長が言おうとするのを遮るように、テオが言いました。
「…ご存知でしたか」
「アイツ自身は隠してるつもりなんだろう。なにせ吾もまたメイジだからな。吾に気を使ってその素振りを見せないが。それでもアイツの視線や動きを見ればなんとなくわかる…何か理由があるのか?」
「その、両親をメイジに殺されたそうでして…」
言いにくそうに村長は答えました。
エルザの両親がメイジに殺されたのは事実でした。
しかしそれを理由にメイジを恐れ、他人に心を開かない仕草を見せたのはエルザの擬態です。
他人と深く知りあえば、自分が吸血鬼であることがバレるリスクが増えるので、エルザは両親をメイジに殺されたことを理由に、他人を避けるための演技をしてきたのです。
ただ、メイジが嫌いなのはあながち演技ともいえません。
メイジによって目の前で両親を殺されたことで、エルザの中にはメイジに対する嫌悪感がシッカリと根付いていました。
もちろんメイジの巣とも言えるような魔法学院で、ましてやメイジの庇護下で、その気持を表に出せばあまり宜しい状況にはならないと判断し学院内でその気持ちは一切出していませんでしたが、テオにはなんとなくバレていたようです。
「有りがちな話だな」
吐き捨てるようにテオは答えます。
別に珍しいことではありません。
不敬であるから、邪魔であるから、覚えた魔法を試したいから。そんな理不尽な理由で貴族が戯れに平民を殺す。
金がほしい、人を殺したい、邪魔臭い。そんな理不尽な理由で盗賊が戯れに通行人を殺す。
メイジは兎角簡単に人を殺します。
殺す方は軽い気持ちかもしれませんが、殺された方はたまったものではありません。
実際はエルザの正体は吸血鬼で、当然その両親も吸血鬼ですから。エルザの両親を殺したそのメイジは吸血鬼退治をしたわけであり、人間としては立派な行いなのでしょうが、親を殺されれば悲しいのは人間も吸血鬼も同じです。
「しかし、貴方様には良う懐いております。あの子があんなに人に懐くのは初めて見ますわい」
「そうか?」
懐いていると言われても、自分と出会う前のエルザを知らないテオにはわかりません。
テオの知るエルザは、確かに笑顔こそ少ないながら、歳相応のあどけない少女です。
「あの子は誰とも打ち解けん娘でした、親代わりのワシにすら、何処か怯える様子がありました。しかしあの子は貴方には怯えておりません。それどころか貴族様に嫌われまいと自分がメイジを恐れる事を隠しすらしております」
「単に吾を恐れてそれを隠しているとは思わんのか?」
テオの言葉はもっともでした。
メイジ、特に貴族の機嫌を損ねることは、平民にとって死活問題です。
まだ幼いと言ってもエルザはそれを理解しているでしょう。
貴族を恐れ機嫌を損ねさせないためにメイジ嫌いを隠すことは十分に考えられることでした。
事実、エルザが学院でメイジ嫌いを隠している本当の理由はそれに近いものです。
しかし、村長はそれを否定します。
「いえ、それはありえんですじゃ。なにせ…
なにせあの子はあなた様の隣で、
笑っておりました」
「笑う?」
それが一体どうした?といった様子でテオが聞き返します。
「実はワシも、この村の誰も、あの子の笑顔を見たことがありませんでした。そのエルザが貴方様にだけは笑顔を見せとります。もし、あの子があなた様を恐れて貴族嫌いを隠していたのならば、決してあんなふうに笑うことはありませんわい。あの子はこの村の誰よりも貴族様に懐いております。確かにあの子はメイジを恐れとります。あなた様は例外にしても、今後貴方様の周りの貴族様に怯えた様子を見せて気分を害されるようなことがあるやもしれません。しかし、それを含めてあの娘を受け入れてはくれんでしょうか?」
その村長の言葉にテオは真剣な表情で答えます。
「吾はな、エルザを引き取ると言ったのだ。それはエルザの身柄だけではない。
考えも、思想も、欠点も、義務も、責任も、柵も、問題も、未来も、その全てを含めて引き取るという意味で言っておる。吾の実の子供と同等に扱うつもりである。なあエンチラーダ」
「ええ。勿論ですとも。あの子は私達の子供も同然でございます」
その言葉はエルザを引き取るための取り繕った言葉ではありませんでした。
テオとエンチラーダの本心に他ならなかったのです。
その、テオとエンチラーダの真剣な目を見て、村長は安堵の溜息をつきました。
「そう言っていただけるならば、私も安心で御座います。貴族様、エルザのことをよろしくお願いします」
そう行って村長は深々とテオに頭を下げました。
「任された」
「勿論です」
二人がそう答えると、村長は笑いました。
「いやあ、よかった。…或いは之はよい機会だったんかもしれませんな、なにせ貴族様の下であれば此処よりはよっぽど安全にございましょう」
「ん?安全?」
突然村長の口から出てきたその言葉にテオは違和感を感じます。
確かにこの村は寒村ですが、治安が悪い印象はありませんでした。
「はい実は………この村には吸血鬼が、エルザがいなくなった時も、てっきり吸血鬼にさらわれたんだと思っとりました」
「何?吸血鬼が出るのか?」
テオは驚いた声を出します。
吸血鬼。
それは自然災害と同等に恐れられる。とても恐ろしい妖魔です。
それが出ると聞けば、テオも驚かずには居られません。
「そうなのです、数ヶ月前から何度か…貴族様もどうか帰りの道中はご注意ください」
先程の朗らかな表情とは一転して、心配そうな表情で村長はそう言いました。
「フム…まあ、吾は吸血鬼ごときで遅れはとらんが…しかし、エルザの故郷の危機とあっては黙っているのもあれだな。エルザの餞別だ、その吸血鬼退治、何なら吾がしてやろう」
テオがそう提案しますが、村長は首を横に振ります。
「いえいえ、さすがに騎士でもない他国の貴族様にそれを頼むのは…それに、もうすぐ吸血鬼退治の騎士様が村にいらっしゃることになっておりまして…」
村長がそう言いかけたとき。
家のドアがノックされました。
「…おや、ちょいと失礼致します。…はい、どちら様ですかいのう?」
村長はドアへと向かい、扉越しにそう尋ねました。
「きゅいきゅい!吸血鬼退治に来たのね!」
扉の向こうから。
明るい声が聞こえました。
◆◆◆用語解説
・ギタップ
getupと言っている。
赤毛のアンを見た人にはおなじみ、マシュウが馬車を動かすときの掛け声。
人間相手には「起きろ!」という意味だが、馬に対して言う場合は「進まんかい!ボゲエ!」という意味になる。
・ルロルロロ!
お腹の中身がルロルロロ
テオフラストゥスとエンチラーダが手をクロスさせることによって、二人の300バロムを超える信頼のエネルギーが二人の肉体を融合、二人の身体を超人として変異させる。
…だからネタが分かる人が皆無だって。いつ世代向けなんだよ。
・クッペ
英語読みではクーペ。
名前は現代の車にも引き継がれている。小型馬車の名称で大抵二人乗り。
・ランドー
大きく豪華な馬車。VIP用。実は18世紀以降に頻繁に使われたもので時代的にはちょっぴり合わないが、まあ、物自体は17世紀にもあったし、地球の歴史とは違うファンタジー世界なのでスルー希望。
・酔う
サスペンションとか、レビテーションとかで酔わないんじゃね?って思う人もいるだろうが。
現代社会のエアサスペンション搭載バスですら酔う人は多い。さらに、船とかは大丈夫なのにバスだけ酔う人とか、なぜか一部の乗り物にだけ酔う人というのはいるのである。
テオは馬車に酔いやすい体質。なんか、あの馬車独特の臭いとか、雰囲気がダメらしい。
車種が原因なのかと、今回小型のクッペにしたのだが効果はなかったようである。
・嗅いでなぜか恍惚
変態ですが、なにか問題でも?
・グリーブとサヴァトン
プレートアーマーに代表される鎧の下半身の名称。
時代や地域によっても違うが、脛部分をグリーブ、足部分の鉄靴をソールレットもしくはサヴァトンという。ちなみに膝部はポレイン、腿部分はキュイッス。
日本式の鎧では下から毛沓か草鞋、鐙摺、臑当、佩盾、立拳となる。
・私達の子供も同然
サラリと言っているが、物凄く気持ちが込められている。特に『私達』の部分。