05 / タバナクル
四角い石造りの神殿跡地。
かつて祭壇が置かれた場所には貴賓室が設けられ、その直下に戦いの始まりを知らせる巨大な鐘が設置された。
鐘の向かいには賭けのオッズが張り出された掲示板があり、かつて神官たちがあつまり神事を執り行った四方の雛段には、興奮と欲望に瞳をギラつかせる俗人たちが歓声と罵声を上げながら中央の四角く区切られた落ち込み舞台に視線を集中させていた。
「オォッ!!」
「フッ!」
男の剣が地面を叩く。
両手で持ってはじめて真価を発揮する大剣をアシュレイは紙一重で避け、擦れ違い様に剣先で相手の顔を狙うが、刹那早く顔の前に出された男の篭手によって阻まれた。
鎧ではなく補助武装として扱われる分厚いガンドレットは、彼女の握る細身の剣程度では到底切り裂けるはずが無い。
アシュレイは今、剣闘士としての緒戦を迎えていた。
相手は、この間叩きのめし、出場不可能となったエイキースが相手をするはずだった戦士。
剣士としての才の他に魔術の才を有するこの男は、自身に身体強化の魔術を施すことで、子供の背丈ほどもある大剣を片手剣ように自在に振り舞わす猛者だった。
「この、ちょこまかと!」
位置を入れ替え、再度の衝突。
アシュレイは相手の突きを躱し、剣の横腹を肘で突いていなすと同時に右手の細剣を男の眼球めがけて奔らせるが、彼はそれをヘッドスリップで回避する。
その一挙一投足に観客たちは沸きあがった。
当初、男とエイキースという強力自慢同士の対戦を期待していただけに、軽鎧とサーコートを着て現れたアシュレイに観客たちは盛大に罵声を浴びせた。
薄い金属の兜と篭手、丈夫な皮製の鎧を纏う彼女はお世辞にも強者の体格ではなく、また遠目からでもハッキリと女であるという容姿をしていたからだ。
しかしその声は、第一合目に観客の誰の目にも止まらない速度で放たれた一閃によって相手の兜が吹き飛んだときに歓声に変わった。
以来、アシュレイは荒れ狂う男の剣を掻い潜りながら的確に剣を奔らせ、男はそれを篭手で受けつつもひたすらに攻め続けた。
男の剣の腕そのものは少々拙いが、それを補ってあまりある筋肉のバネと、それをさらに高める補助魔術が生み出すスイングスピードはまさに一撃必殺だった。
恐らく一発でも避け損ねれば、彼女の身体は簡単に切り裂かれるだろう。
彼の剣の放つプレッシャーに当てられたのか、アシュレイの顔にも余裕がない。
と、
「あっ!」
不意に、何度目かの攻防の際に大剣が穿った地面のくぼみにアシュレイの爪先が引っかかった。
今まさに真横に飛び退こうとしていたアシュレイは突然の重心移動に対応しきれず姿勢を崩す。
そこに大剣の横薙ぎが襲い掛かり、剣と前腕まで覆う鉄板入りの皮手袋を駆使して何とか受け止めるが、彼女は盛大に吹き飛ばされる。
落ち込み舞台の角から中央まで飛ばされた彼女に少し遅れて、叩き折られた剣が地面に刺さった。
だがなおも油断無く、男は地面に片膝を付き、半分以下の長さになった細剣を構えるアシュレイを睨みつける。
「女でありながら、いまだ足掻こうとする様は見事だが、惜しかったな。
あの飛び方ならばどこかを痛めたはず。
お前は剣奴ではないのだから、素直に負けを認めるならば、命までは無くさずにすむぞ」
男の最後通牒に、アシュレイは視線で答えた。
彼女は今の衝撃でフェイスガードの壊れた兜を外して眼前に放り投げ、顕になった強烈な殺意を浮かべた瞳で男を睨んでいる。
時間を与えられたにも関わらず、彼女は立ち上がらずにじっと期を伺っている。
彼女の眼を見て、ならば仕方が無いと首を振った男は、大剣を地面と平行に構えて距離を測る。
十中八九、相手は足を痛めている。
ならば最適なのは、自分の最も得意とする逆胴からの連携であると判断し、裂帛の気合いとともに大きく踏み込み剣を振った。
膝を突くアシュレイの肩の辺りを狙って横に振るわれる剣。
仰け反っても届く大剣による薙ぎ払い避ける手立てはひとつしかない。
とにかく低くと地面に両手を付いて一閃を回避した彼女に襲い掛かるのは、円を描いて返された必殺の切り落とし。
逆胴を振り切った勢いを殺さずに両肩を軸にして円を描き、打ち落としへと繋ぐこの十字斬りは、速度、威力ともに申し分のない彼の必殺の連携であった。
「はっ!」
だがそれを、アシュレイは読みきった。
彼女は足を痛めてもいないのに膝を突くことで薙ぎ払いを誘う。
ここまでの攻防で男の力量を完全に掴んでいた彼女は、このように動けない姿を演出すれば相手は必ず、最も得意とするであろう薙ぎ払いを選択すると判断したのだ。
「残念、あと一歩足りない」
あとはそれを地面に伏せることで回避し、同時に最後まで隠し通した、ひとつだけ赦される補助武器である短剣を引き抜いて両手両足のバネを全て使って飛び掛る。
停止から最高への爆発的な加速。
右手で地面を叩き、両脚を躍動させた段階で、右手の剣は既に捨てた。
かわりに左腕が最短距離で腰に挿した短剣を掴み、引き絞った弓が跳ねるように縮んでいた彼女の身体が伸び、腕が鋭い弧を描いた。
「「おおおおおおおぉぉぉーーーーー!!!」」
どっ、と、観衆が沸いた。
男が剣を切り返し、上段から袈裟に斬り下ろした瞬間に、血飛沫が待ったためだ。
誰の目にも致命傷と分かる赤が飛び散り、地面に倒れ付すアシュレイの身体を濡らしていく。
彼女の巧みな回避を賞賛しつつも、どこかで物足りなさを感じていた観客たちは、遂に訪れた狂気に酔いしれ、興奮して上気した顔と目をギラつかせて男を湛える。
だが男はそれに応えない。いや、応えられない。
「な!? 嘘だろう……」
それは誰の声だったのか。
剣を振り下ろした姿勢のまま固まっていた男の身体がゆっくりと崩れ落ち、変わりに地面にうつ伏せで倒れていたアシュレイの身体が起き上がる。
彼女は全身を真っ赤に染めながらも、一切の淀みの無い動きでその右腕を天へと突き上げた。
アシュレイはあの瞬間、持ち前の加速力で横薙ぎと袈裟斬りの間に割り込むと、逆手で抜いた勢いをそのまま斬撃へと繋げた。
しなやかに伸びる彼女の左腕は男の首筋をすべり、よく研ぎ上げられた短剣の刃がそこに鮮やかな傷跡を刻む。
僅かに遅れて飛び込んだ彼女の身体を男の腕が打ち、バランスを崩した彼女は、バックリと開いた傷口から噴出する血液を浴びながら、地面へと倒れこんだというわけである。
「し、勝者、アシュレイ!!」
しばし唖然としていた審判員がようやく事態を把握し、引きつった声でアシュレイの勝利を告げる。
その声で腕を下ろした彼女は滴るほどに血を浴びたサーコートを脱ぎ、男の下から兜を拾い上げてそこに被せる。
顎紐に手をかけてぶら下げられるそれは、サーコートに染みこんだ血のせいかやけに重そうに見えた。
「お疲れさん」
「ガンドルフ、貴方の言ったとおりね」
タバナクルの端まで戻ったアシュレイは、最後にもう一度拳を突き上げ、歓声に応えた。
小柄な女戦士の、思いがけぬ逆転劇に観客は熱狂し、口々に彼女の名を叫ぶ。
初試合に際し、彼女はガンドルフにある策を授けられていた。
それはこのタバナクルで100戦以上の殺し合いを経験したガンドルフが『最も手っ取り早く稼げる』と言い切る戦い方。
劣勢を演じ、その後に逆転。かつ一撃で出来るだけ派手に殺せ、というもの。
彼女の力量であれば、今日の相手を圧倒できるのは彼にも変わっていたが、それでは意味が無い。
なぜなら観客が見たいのは結局のところ剣技ではなく暴力であり、味わいたいのは感嘆ではなく興奮なのだ。
誰かの命が奪われる瞬間を、誰かの命が地面を染め上げるのを、全く関係の無い安全な場所から見物したいのである。
「お疲れさん。今日の勝ちでお前は自分の価値を証明した。
客受けも上々だからな、次はもっとデカイ賞金の付く死合が組まれるだろうぜ。
まぁその分、相手も強くなるんだけどな」
「望むところよ、誰が相手でも負けないから。なんなら貴方でもいいのよ?」
「テメェ、いま遠まわしに俺を殺すって言わなかったか?」
「気のせいでしょう?」
死合の余韻に浸りながら、アシュレイとガンドルフは冗談とも本気とも取れない会話を交し合う。
まだ逢ってそう時間が経っていない2人だが、その様子からは長年の親友のような雰囲気が感じ取れた。
「そういえば、死合はこの後も続くんでしょう?」
「ああ、こっからまた3試合『拳闘』を挟んで、それからまた2死合。
今日のメインは確か、あの猫娘だったか」
「『拳闘』って、アレかしら? 拳だけで闘うヤツ。それなら私の国にもあったわ」
両方の拳で殴りあう、という闘い方は、それこそ人類発祥からあっただろう。
それを兵士の訓練カリキュラムとして採用している国は多く、木剣による訓練とともに兵士の錬度を測る指標として彼女のいた王国でも行われていた。
最もそれは、技術云々よりも、どっちのほうがタフか、という体力測定的な意味が強かったが。
「いや、ここでいう『拳闘』はちょっと違うな。
拳だけじゃなくて、蹴りや投げ、関節……要は何も持たずに立って闘うなら何でも有りさ。
例えば――――」
そう言ってガンドルフは、アシュレイに向けて左、右と拳を突き出した。
もちろん寸止めされたワン・ツーの右拳を彼女の空いている左手でとめた瞬間、彼女の側頭部のすぐ横で何かが止まる。
それは右拳を突き出した直後にハネ上げられた、ガンドルフの脚先だった。
「昔、こういう妙な技を使うヤツが『拳闘』の舞台に上がって頂点まで上り詰めた。
その男は今では武神とまで呼ばるようになっているよ。
そいつの影響で、ウチの『拳闘』は他の国とはちょっと違うものになったらしい」
そう言って、ガンドルフは振り上げた脚を下ろした。
脚で弧を描くように頭の高さを薙ぎ払う上段蹴り、俗にいうハイキックは、アシュレイが生きた時代には存在しない武技だ。
アシュレイも腕よりもはるかに力強く、またブーツやサバトンで固めた脚で頭部を蹴ることの有用性に感心している。
「ふぅん、何だか面白そうね。
貴方はこの帝国式の『拳闘』に出たことはあるの?」
「ああ、何度か出場したことがある。
『剣闘』は命の取り合いだから、生き残るためには何でも学んだよ」
「ん、そっか。
ならちょっと観戦してみることにしようかしら。とりあえず着替えてくるわ」
言って、アシュレイは血塗れの服を取り代えるために闘技場の奥にある洗い場へと向かった。
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壁にかけられた松明に照らされた石造りの地下室。
元は神殿の神官が身体を清めるための施設だった洗い場の壁には、朽ちかけてはいるが見事な細工が施されている。
「『汝は堅牢なる鎖と成りて、鍵となる文言を除く全てを拒絶せよ……』」
控え室に寄って着替えを回収したアシュレイは、その脇にある階段を下って洗い場に入った。
そして彼女はまず、扉に閂をかけさらに他者の侵入を拒む魔術をかけた。
元々は水浴びという最も無防備になる時間を安全に過ごすため、洗い場はひとりで使ってよい決まりになっているが、彼女はさらに念には念を入れる。
それは相手の仲間からの仇討ちを警戒する為ではなく、これから行う行為を誰にも見られないようにする為だ。
「ふふっ、」
魔術をかけ終わると、アシュレイは待ちきれないといった表情でそばに置いた荷物を見る。
血塗れのサーコートと、その下の兜。
彼女はゆっくりとした動きで兜を手繰り寄せ、洗い場に備え付けられた桶にサーコートを移すと、その下には兜に並々と溜められた血液が姿を現す。
先ほどの死合で彼女が、あえて大出血を起こす首の血管を切り裂いた理由がコレだ。
アシュレイは血塗れの姿となって観客の興奮を煽る目的以上に、相手の血液を手に入れるための殺し方を選択していた。
彼女は男の喉を切り裂くと、素早く魔術を行使して血を集め、兜の中に注いでいたのだ。
「いただきます」
剣と魔術を併用する剣闘士の身体から溢れたまだ暖かい血潮は、処女の血にこそ劣るものの極上の逸品である。
アシュレイは兜をまるで盃のように両手で捧げ持つと、ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らしてそれを飲み下す。
胃を満たす量の血を飲みきると、血に満ちた精気と魔力が彼女の身体の隅々まで行き渡り、彼女の血液を魔力で満たした。
心臓という魔力炉が動かず、魔力を留めるために血流すら魔術で維持する彼女にとって、他者から奪う魔力は生命線だ。
身体の劣化は食事で補えても、死体の身体に魂を留めるための魔力はどこかから調達しなければいけない。
「ん、次は、」
続いてアシュレイは服を統べて脱ぎ、特に血液を吸った服を選んで先ほどサーコートを入れた桶に放り込む。
そのままくしゃくしゃと左手でかき混ぜ、左手で絞るように強く握ると、桶のそこに薄い血液の膜が出来た。
「こんなもんかな?
『無形を律し流れを司る小さき者よ、今ひと時の間を我が右手と共にあれ……』」
そこに手を翳し、魔術の詠唱を行うと、右手の掌が淡く発行する。
唱えたのは、流体制御の術。
ヒト種であるならば例外なく扱うことの出来る『魔術』の中で、先の種火の術とともに生活に密着した術式のひとつ。
飲み水の確保や炊事、洗濯には欠かせない魔術である。
特にアシュレイは、この水の街で生まれ、その身に宿す水属性との相性から、この流体制御の魔術を最も得意としていた。
死体を生きているかのように偽装するために、心臓に変わって血流を生み出しているのもこの魔術の応用である。
「『我は制御対象を【血】と定める――――来い』」
彼女は淡く光る掌で桶の中に納まっている服に付いた血に触ると、まるでその血を 引 き 抜 く ように腕を上げた。
するとどうだろう。
血液の粘度は一切変わっていないのに、まるで掌の傷から血が流れ落ちる様子を逆回しにしたように、血液が垂直に引っ張り上げられる。
アシュレイはそのま縄を手繰るように右手を数回上下させると、たちまちのうちに服にからずべての血液が引き抜かれ、彼女の頭と同じくらいのボール上になって右手に乗った。
それをそのままにして今度は左手で服を桶から放り出すと、そこに血のボールを放り込み、魔術が解けて全うな液体に戻ったそれを一気に飲み下した。
「ごちそうさま。あとはフツーに洗濯をして戻ろうか」
呟き、アシュレイは部屋の角にある水で満たされた石枡を見た。
地下水の豊富なサブトレイらしく、地下に作られた洗い場には簡単な水道が設けられていた。
給水口から人一人が十分に入れるような石枡に注がれ、溢れた水は石枡の四方に掘られた排水溝からそとへと流れ出す仕組みになっている。
彼女は先ほどの桶で水を汲み、地下水の冷たさに身を震わせながら頭から数度かぶり、全身の汗と血を洗い落とすと、服と鎧をその石枡に全て放り込んだ。
洗濯には灰汁を利用してもいいが、準備するのも面倒だし、先ほど魔力を補給したばかりなので負担の少ない魔術を使って手早く洗っていく。
最後に汚れを落とした短剣と鎧の手入れを行い、錆びないように処置をほどこして袋に詰めると、彼女自身も服を着て扉の魔術を解除した。
「ん~……」
ふと、アシュレイ視線が室内の一点で止まる。
この洗い場は、彼女がまだ人間だったころは、神事の際に俗世と神前を隔てる最初の部屋だった。
現在は石を積んで封鎖しているようだが、この部屋から清めた身体で俗世の何事とも関わらない為に特別な地下通路を通って祭壇――――現在の貴賓室まで向かう道が存在する。
アシュレイも成人の儀式の際に、一度通っているので間違いない。
その道を使えば、誰にも知られること無くあの男の背後を突くことが出来るのだが……
「ふん、殺すだけじゃあね。そんなのつまらないわ」
その考えを振り払い、彼女は洗い場を出た。
そうだ、ただ殺すだけでは到底足りない。
地獄を、己が考える最大の絶望を与えなければ駄目だ。
胸に灯る煉獄を宥めながら、今はとにかく、牙を研ぐことにしよう。。。