03 / 水蜘蛛の巣
夜の闇を走る。
彼女の生きた時代から、この街にはひしめく様に家が建っていた。
もし新しい家を建てたいならば、今あるものを壊して建てるしかない。
またどうせ建てるなら、少しでも広くしたいのが人の性。
よって多少の位置のずれこそあれ、家々の配置は彼女の脳内の地図と一致した。
帝国への逆撃のために、夢でも路地を彷徨うほどに覚えこんだそれを彼女が忘れるはずも無く、誰の目にも触れないように薄暗い路地を選んで走ったにも関わらず、彼女はただの一度も速度を緩めることなく目的の場所へ
「あれは……」
ふと、見上げた先にかつて月の神を祭っていた神殿が見えた。
空に輝く二つの月―――合い争う蒼月と黄月を共に祭る神殿は、このサブトレイの自慢でもある。 たしかあの神殿は帝国との戦争が始まったばかりのころに、完成したはず。
完成したばかりだったそれらは、彼女が死んでいる間にも時間を積み上げ、特に周辺の付属施設には老朽化が目立つ。
ざっとだが、50年程度の年月が経っているように彼女は感じた。
「ふふっ、やっぱり幸運だ。この程度の時間しか経ってないなら、あの男はきっと生きている」
男の屍を抱え、脚を止めないままアシュレイはまた嗤う。
あの男は、私を貫いたときまだ20代前半だったはず。
平民と違い貴族は長生きだから、大病を患っていない限り生きているだろう。
奴の子孫でも憂さ晴らしくらいにはなるだろうが、やはり復讐の刃はあの男に突き刺さねば。
「けどあの神殿、やけに明るかったわね。まぁいいけど」
夜の神を祭る神殿に相応しく、彼女の記憶にある限りでは年に数度の祭事以外では、あの神殿はそう喧騒に包まれることは無かったはずだ。
だが彼女の眼には、夜の闇の中に赤々と浮かび上がる神殿の姿が見えた。
やはり文化を蹂躙する帝国らしく、あの神殿もかつての役割を奪われたのだろう。
そんなことを考えながら、彼女は目的の場所に着いたことを確認して、跳んだ。
「ふっ――――」
一秒に満たない時間の浮遊と、着地。
足首、脹脛、膝、腿、腰、背中、肩。
全身のバネを柔らかく連動させて人間2人分の衝撃を殺しきり、アシュレイはふうと息を吐き、死体を下ろす。
そこは、上にある路地から大きく落ち込んだ下水道の一角だった。
このサブトレイでくみ上げられた地下水は、人々の生活に使用されたあと、この下水道を通って外へと流れ出す仕組みになっている。
下水道の下流域は町中から水が集まるために広大な空間が設けられており、スラムにすら住めない貧民たちが暮らす最下層の貧民窟となっていた。
一方、いまアシュレイがいるのは下水道の上流に当る場所だった。
この当りは地面の傾斜がきつく、落ち込みも深いために、住んでいる者はいない。
ましてこの上に広がるのは裕福な市民である。
わざわざ臭い匂いが漂う下水を覗き込む者すら少ないに違いない。
そんな街の死角に飛び込み、彼女が振り向くと、そこには屈めば十分に入ることができる地下への入り口が口を開けている。
上流域にいくつもある、下水道同士を繋ぐ横溝だった。
一段高い場所にあるこの横溝は家々の下を貫くように奔っており、地下水脈が増水した際にその水を逃がす役割を果たしていた。
彼女の父から数えて5代前の領主が莫大な予算を投じて整備したこの横溝は、それまで大水のたびに水に襲われていた街を救った偉大なる設備であり、同時に地下に在る巨大な迷宮だった。
街の主が変わり数十年が経過した今、この地下の蜘蛛の巣の全容を知る人間はひとりもいない。
「ふふっ、変わってないね」
この、アシュレイというアンデット以外には。
摘み食いと男のもっていた大ぶりなナイフで腕を切り落として、腕の中の血を啜り、肉を齧りながら指先に感じる目印の感触を頼りに暗闇を進む。
死体の腕を持ち、表面をぬらす様に流れる水の上をずるずると引きずってばらく進むと、少し広い空間に出た。
足元の水もなく、壁に燭台まで付けられたここは、地下道を作る際に資材を置くために作られた中継点だった。
戦争の際には市街戦を展開する部隊の隠れ家としても活用されたこの中継点の位置を、部隊長だった彼女も当然知っている。
「『影を照らす灯し火を此処に……』」
言い忘れていたが、先ほど止血するために男の首にシャツを巻いたため、彼女は上半身に何も来ていなかった。
しかし彼女はそれに頓着することなく、今度はズボンを破いて木屑の代わりにすると、魔術を使って火を灯す。
ごく初歩の、種火を灯すための魔術。今の彼女でも、市民が生活で使うような魔術であれば行使できる。
しばらく服を燃やしていると、おなじく据え置きされた蝋が役割を思いだしたのか、やんわりとした光で地下の空間を照らし始めた。
「さてと、」
明かりが確保された事でひと心地ついたアシュレイは、本格的に男の解体にかかった。
まずは既に切り落としていた腕を食べきり、軟骨を噛み砕く。
切り落とした腕を縛り付けていた紐を解き、血が溢れる傷口に口をつけて溢れる血液で喉を鳴らす。
アシュレイにとって、この『血を啜る』という行為が最も大切だった。
この魔物が存在する世界で、肉体的に脆弱な人間が繁栄できた理由のひとつに『魔法』がある。
自身の魔力を使って自然界に干渉し、さまざまな現象を誘発する技術である。
その魔力は人間の体内に存在する特別な筋肉、心筋の拍動によって作り出され、血液を介して全身に送られる。
血液は魔力の運び手であり、同時に貯蔵庫でもある。
なぜなら魔力は純粋な『動』のエネルギーの結晶なので、その場に留まるということが出来ない。常に動いていないと他の動いているものに向かって霧散してしまうからだ。
だから常に動いている血液にのって全身を巡り、必要な場所で必要なだけ使われ、残りはまた戻ってくるというわけだ。
「……ん、次」
そうしている間にもアシュレイの食事は続き、死体の血を飲めるだけ飲んだ彼女は、いよいよといった表情で彼女は男の身体を正中線に沿って縦に切り裂く。
この世界でも『口から入ったものは身体の中を通って糞になって出る』ということは解っている。
よって彼女はその管を傷つけないよう身長に肋骨を切り、中身が漏れない様に胃の上あたりを服の切れ端で縛ると、邪魔だとばかりに細長い腸と一緒に外に放り出した。
後にはそれなり以上に空間の出来た腹の中と、血で汚れた肺。そして生物の魔力源たる心臓がある。
もちろんアシュレイは迷わず心臓を手に取り、指ほどもある太い血管を手早く切って取り出すと、待ち切れないとばかりに齧り付いた。
心臓独特の弾力の強い歯応えと、弾ける様な新鮮な魔力が口内を満たした。
だが彼女はそれを堪能することなく、手早く心臓を咀嚼すると、ゴクリと喉を鳴らして嚥下する。
己にかけた魔術を一旦解除した彼女は、自分の左胸に手を置いてその時を待った。
しばらくの静寂。 精神を集中し、どんな変化も見逃さないように神経を研ぎ澄ます。
10、50、100、、、
500を数えた時、アシュレイは実験が失敗したことを知った。
「ん~、ダメか。しょうがない、しばらくは魔術なしだね。血流を維持するだけで手一杯だ」
ドン、と胸を叩き、魔術を使って血流を戻すと、アシュレイは男の身体を貪り始める。
便の詰まった管は避けて、まずは濃密な血の味がする肝臓。次いで奇妙な食感の肺。胸骨の間についた肉を剥ぎ取り、うっかり傷つけた膀胱の匂いに顔を顰めながら、 試しに眼球を口に放り込んでみるが、さして旨くも無かったので部屋の隅に吐き出す。
頭頂部を割り砕いて開き、腐肉のように柔らかい脳髄にナイフを入れて食べやすく切り、リズムよく口に運ぶ。
最後に空っぽになった頭蓋骨に血液を溜めて飲み干すと、彼女はそのまま後ろに倒れこんだ。
いくらヒトではないものと成り、人外の消化吸収を身に着けた彼女でも男ひとりを一気に食べきるのは無理だった。
右腕と胴体、頭を食べ終わったところで、今日はここまでにしようと手を休め、硬い石の床に身を横たえると、身体に入った肉と血が猛烈な勢いで消費され、再生される肉体が皮膚の下で蠢く。
熱病に魘されたときのような熱を全身に感じながら、彼女は瞼を閉じ黙考する。
この身体には柔らかいベッドも調理をするための火も必要ない。
地下に蔓延する煙による呼吸困難も、水没による窒息の心配も無かった。
現在身を横たえている、このサブトレイの地下に張り巡らされた下水道網を上手く使えば、人間を襲うのは容易い。
この地下道に篭り、定期的にヒトを襲えば、恐らくかなり長い期間存在を保っていられるだろう。
「けど、それじゃああの男には届かない」
呟き、瞼を開ける。
城門に翻る、己の憎悪全てを叩きつけても足りない男の紋章。
やはりたった数十年で目覚めることが出来たのは幸運だ。
今ならばまだ、手が届く。
あの男だけは、ただ殺すだけでは駄目だ。私を辱め、嬲り、誇りはおろか人の尊厳すらも砕いたあの男には、必ずこの手でこの世で最も惨たらしい『人の創る地獄』を味合わせてやる。
その為には、地位が必要だ。
今のままではかつてと同じように、物量によって圧殺されるだけ。
雑兵5人なら何の問題も無く、10人でも余裕を持って対処できる。
しかし20人を超えると少々苦しく、100人を超えればひとりで全てを殺しつくすのは難しい。
だからあの男をこの手で地獄を与えるには、あの男に近づけるだけの、あの男が近づいてくるだけの、地位と金が必要だ。
「うん、方針は決まったわね。私は再び、ヒトとして生きる。
その為にはまず、手っ取り早く金を稼ぐ方法を考えないと」
ヒトの社会で、ヒトとして生きるならば、まず必要なのは金である。
これはカタコンベの地下にいたネズミを食べた時に知ったのだが、質を無視すれば、この身体を維持するために必要な肉は別に人間のものでなくとも良いらしい。
とはいえ、最も効率がいいのは身体それなりに大きく、魔力密度が高い人間を喰らうことなのは間違いない。
それを補うには、人一倍食べなければいけない訳で、それだけの食料を調達するには、それなりの金が必要なのだった。
「まぁ、街に出てみれば何かあるかな?」
彼女の中に、帝国に兵士として志願するという選択肢は無い。
それ以外で、彼女が身に着けている特殊技能―――武力によって地位を得る方法を明日は探すことになる。
「無難なのは傭兵だけど、ねぇ」
戦うこと自体は問題ない。
だがそれ以外の時間、自分の身体を散々に嬲った男たちと同種の男に囲まれて平常でいられるか? たぶん無理だろう。
ままならないな、と思いながら、今度は眠るために瞼を閉じた。
数十年の時間を経て、こちら側に戻ってきて初めての、眠りの闇へと堕ちていく中で、確認するように左胸に置かれた右手。
心臓の真上に置かれたはずのその掌には、何の振動も感じることは無かった。
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翌朝。
昨夜の男の残りの部分を食べつくした彼女は、消化管や毛髪など食べる気にならない部分を血塗れになったシャツに包んで横溝の奥のほうに捨ててきた。
あとはネズミなどが何とかするだろう。
たとえ見つかったとしても、いぶかしむ程度でいちいち調べたりはすまい。
なにせ在るのは何のものか解らない内臓と毛だけで、あるべき腕や足は既に食べつくしてしまったのだから。
ちなみに骨は細かく砕いて半分くらいは食べ、残りは内臓と混ぜて投げ捨てた。
「ん~~、やっぱり外は気持ちがいいね」
元来た横道を戻り、下水道を伝ってそれほど裕福ではない者たちがすむ地区まで辿り着いた彼女は、下水からあがって大きく伸びをした。
現在彼女は、昨日の兵士から奪った服をそのまま着用している。
インナーのシャツと、何かの植物を使って染められた丈夫な上着は、どちらも彼の私物だったらしく帝国兵を示す紋章はない。茶色く染められた丈夫なズボンや靴も同様である。
どれもアシュレイの体格にはまるで合っていないが、ある程度は工夫次第で何とかなるし、この当りようのうに貧しい場所では、多少サイズが合っていないことを気にするものもいないだろう。
一方で鎧や剣は紋章入りだったので置いてきた。
現段階で憲兵に目をつけられるのは面倒だし、彼が失踪しているのはもう伝わっているだろうという判断からだ。
ただ、彼が持っていた切れ味のよさそうなナイフだけは拝借して腰のベルトに刺してある。
これには帝国の紋章も無く、また他の装備に比べてやけに上等なものだったので、捨てるのは惜しかったのだ。
もちろん元の持ち主が解るような特徴的な装飾はすでに削り落としている。
「さて、どうしようかな」
アンデットらしくもなく日差しと空気を堪能したアシュレイは、気の向くままに歩き出す。
月日を経て変わったもの、変わらないものを脳内に上げながら、懐かしい街の風景を眺めていると、少々広めに作られた十字路に出た。
そこには何やら人だかりが出来ている。
時刻は既に昼前だが、飛び交う怒号や歓声は、どうやら飲食店などに群がっている風ではない。
興味をそそられて人混みの隙間から覗いてみると、ロープで正方形に区切られた場所の中で2人の若者が模擬剣と盾をもって殴り合っていた。
模擬剣は通常の歯引きの剣ではなく、鉄の板を柔らかい木で挟み込んだ訓練用のものらしい。
「なにこれ?」
「うん? なんだお嬢ちゃん。“剣闘”を見るのは初めてかい?」
思わず出た呟きを拾われたアシュレイが、驚いた表情で顔を上げると、そこには黒髪を短く刈り込んだ男がこちらを見下ろしていた。
女性としては背の高いアシュレイよりも、頭ひとつ分以上背の高いその男は、黒に近い茶色の瞳で興味深そうに彼女を見ている。
年齢は20代後半くらいに見え、よく日焼けした肌の下には無駄なく鍛えられた筋肉が見て取れた。相当に出来る男だなとアシュレイは警戒を強める。
「おいおい、ぶっそうだな。別に君をどうこうする気はないさ。
ただ、この街で“剣闘”を知らないのを不思議に思っただけだよ。服装から見るに、どっかの街から流れてきたクチかい?」
「……まぁ、そんなのとこね」
警戒を強めた、と言っても具体的に何らかの動きを見せたわけではない。
ただ何が起こっても即応できるように集中力を高めただけなのだが、それによって僅かにもれた緊迫感を男は正確に読み取ったらしい。
「ところで貴方は誰?」
「ああ、俺はガンドルフ。剣闘士の指導官をやっている。お嬢ちゃんは?」
「私はアシュレイ。今は手っ取り早くお金を稼ぐ方法を探しているところよ。
ところで、指導官? 戦士ではないの?」
アシュレイの見た限りでは、この男の肉体には僅かな緩みも無い。
明日戦えといわれれば、明日戦えるだけの身体を持つくせに、この男は自分を戦士ではなく指導官と名乗った。それが解せない。
そのことを彼女が問うと、ガンドルフは肩を竦めた。
「いや、どうやら干されたみたいでね、ちっとも死合のハナシが来ないんだよ。
まぁもう剣奴でもないし、まあいいかと思ってね――――おっ、終わったな。
どうだい嬢ちゃん。
アンタも腕に覚えがあるなら、次の次くらいに中に入ってみるかい? 」
「中? ああ、この“剣闘”ってのに参加しろってこと?」
アシュレイがロープの正方形を見ると、先ほどまで行われていた試合が終わり、次の若者が中に入るところだった。
やはり2人とも、鉄の板に木材を取り付けた模擬剣と盾を装備している。
「おう、ちょっと前に俺の弟子が闘ったんだが相手が弱すぎてな、全く実戦練習にならなかった。それでもう一戦と思ったんだが、相手がいないんだよ」
ガンドルフの提案にふぅん、と生返事を返して、アシュレイはロープの中を見た。年齢は生前の自分たちよりもさらに低い、13~15歳くらいだろう。
盾で必死に相手の剣を裁きながら反撃しあっているようだが、彼女から見れはひどく雑だ。
「ねぇ、ところで“剣闘”ってこんなにレベルが低いの?」
まず足腰の鍛え方がなってない。
筋力はついていてもその使い方が未熟だから剣筋も鈍いし、動きの工夫も見られない。
なにより2人とも、剣を使うことに固執しすぎている。
「まさか。これは言うなれば予行演習さ。
いきなり客の前に出してガチガチに緊張されちゃあ興醒めだからな。こういうトコで何回か経験をつませてからタバナクル(闘技場)に連れて行くんだ」
「なるほど、“剣闘”ってのは、純粋に強さを競う競技会ではなくて、見世物なのね。
で、ここに入るのはまだ戦場を知らない新兵ってわけか」
ふむ、と腕を組んで納得するアシュレイを見て、ガンドルフは自分の勘が間違っていないことを確信する。
隙のない身のこなしと、自由奔放そうに見えて真意を悟らせない底なしの瞳。
16~18歳の、まだ発展途上の身体とは到底つりあわない鬼の気配を纏う彼女を、ガンドルフは戦場でいくつもの修羅場を潜ったいわいる『少年兵』であると推測した。
北の蛮族の中には、騎士の油断を誘うためにあえて子供を戦場に出す。
それは大抵、他所の国の捕虜の子供で、物心ついたころから戦うことだけを教え込まれた彼らは、
無邪気であるが故に残忍で、死を恐れず、かつ高い技量を有する。
しかもたとえ退けたとしても、子供の死に顔は殺したものの精神に棘となって突き刺さり、残り続ける。まさに戦場の悪夢そのものだ。
ガンドルフはアシュレイをそこから抜け出してきた人間だろうとあたりをつけて、自分の弟子に経験を摘ませるつもりでこういう誘いを出したのだった。
「だからさ、みんなこんな街の隅っこで必要以上の試合をして、怪我なんかしたく無いわけだ。
そこでアンタの出番だ。
俺の弟子に勝ったら食い物を好きなだけ奢ってやるが、どうだ?」
「乗った。もちろん剣は貸してくれるんでしょう?」
「オウ、そうこなくっちゃな」
アシュレイは昼ごはんのあてが出来たと、ガンドルフは弟子にいい経験をさせてやれそうだと互いに笑顔でそれぞれの準備に取り掛かった。