空にあれば雲。地にあれば霧。
その正体は空気に溶け切れなかった微細な水の粒である。
小さなミズオの視界の中に細かな水の粒が無数に浮かんでいた。木々の隙間から湧き立つ様に、霧が忍び出てきて、見る見るうちにすっぽりと辺りが霧に包まれてしまったのだ。
草木は濡れて、重くしだれた葉の先から、ぽつりと水が滴り落ちる。
その横をミズオはえっちらおっちら、腹を土にこすりつけながら進んでいく。
無数にある小さな水の珠が彼の体の表面でパチパチ弾け、ともすればその飛沫がぼやけた太陽の光によってキラキラと七色に輝いた。
やがて足を止めたミズオは、不甲斐なさに悲嘆の息を吐いた。
早く先に進みたかったのだが、湿った草の下を這い進むうちにミズオのつるつるとした体もすっかり濡れて、どうにも足が動かなくなったのだ。
元来トカゲなどは外気の温度によって動くか動かないかを決める動物で、寒い日には岩の表面に張り付いて、太陽の光で背を暖めてから活動し始めるものもある。
ミズオはトカゲの姿に酷似するだけで特別外気に左右されやすい性質ではないのだが、彼の身は冷たい露に濡れると途端にかじかんで動きを悪くし、ついには動くことが出来なくなった。
己の、たかが霧に翻弄される小さな身が恨めしかった。
もはや霧が晴れるまで動きだすことはできないだろう。
太陽は既に高く昇っており、日の光で霧が晴れることには期待できない。風が霧を吹き散らすのを待つしかない。
腹は満たされており、今すぐ死ぬことはない、とミズオは思う。
見上げればぼやけた太陽が霧の中にその輪郭を浮かばせており、夜が来るまでだいぶ時間があることも分かった。
(焦る必要はない)
同属の巣は目と鼻の先にあり、決して歩いて逃げたりはしないのだ。
そう、己に言い聞かせるようにミズオは呟く。
やりきれない気持ちは残っていたが、何の気なしにを視線を上げると、それは霧散した。
霧に包まれた森の様子が、存外に美しかったのだ。
濡れた植物たちが、その命を弾けさせるようにピンと葉先を張って、もしくは露の重さでしだれながらも果敢に立ちあがっている。
その葉の裏では、クモのような小さな生き物がせかせかと足を動かして、何やら糸を丸めている。
地面からは、ふやけた土を押しのけてミズオよりもだいぶ小さな芋虫みたいな生き物がちょっと顔を出してはミズオに驚いて頭を引っ込め、またそろそろと覗いてきたりして、ミズオの笑みを誘ったりする。
とりわけ、向かいにある大樹がミズオの目を奪った。
ぼんやりと霞んだ太陽の光が伸び放題に広がった枝葉を照らし、枝になったキンカンのような果実がテカテカと輝き、罅割れた木の幹は艶やかに露で濡れ、またはその途中にぽっかりと空いたうろから小さな芽を吹いており、根は地表辺りで濃くなった霧によって見えなくなっている。
その威容、空に浮かんでいるようにさえ見えた。
「………ん?」
枝に実っている一つの果実に、何やら黒い点のような物が張り付いていた。
目を凝らすとそれには細い四肢があるのが見え、どうやら生き物のようなのだ。首のくびれや長い胴体など、見方によっては小さな人影のようにも見えた。
その生き物はしきりに首を動かして実の付け根を齧っており、やがて実はぷつりと枝から離れ、すぐ下の枝で跳ね返って、その生き物ごと遠くへ落ちていく。そして根元付近で濃くなった霧に紛れて、見えなくなった。
何だったんだろう、と思っていると、ミズオの体を撫でるような、嫌に冷たい風が吹く。
直後、ズシン、と近くで音がして、ミズオは跳びあがるほど驚いた。
ミズオのすぐそばに大きな何かが出現していた。肌色の何か。前後の長さはミズオの体の三倍はあり、片方は丸く、片方は四つに分かれている。硬そうだ。
人の脚の出来損ないに見えた。爪のような物があるのだ。
(なんだこれ……!?)
びっくりして硬直しながら、目だけ動かしてその何か(足?)の上の方を見ると、どうやらそれは上に続いているようだった。本当に足かもしれない。
天へと続く柱のようになっている先には、霧にかすむ影が見える。太陽の光で浮き彫りになっているその影から、すい、と何かが伸びていく。
霧をかき分けて進むその先端が、細く四つに分かれていた。
(もしかして、手か!?)
子どもが描いたような、親指とそのほかの指の比率がおかしい、気味の悪い手であった。事ここになって、ミズオはこの横にいる何かは、とてつもなく巨大だということに気がつく。
一気に分泌腺から液体が噴き出した。凍える様な悪寒を感じ、体が震えだす。
延ばされた手は、ぐぐぐと下の方へと降りてきて、それは大樹の根元の辺りの霧溜まりへと突っ込まれる。
そして霧を散らしながら、中から何かを拾い上げた。
それはさっき落ちたキンカンもどきであり、ひっついていた黒い生物も一緒に摑まれていた。
拾い上げるために少しかがんでいたのだろう、見上げたミズオは己の傍らに足を置くその巨大な何かの頭部を、影のシルエットとして見ることができた。
その巨大な生物は、この森に立ち並ぶ木よりも小さく、そしてミズオの何十倍もあった。
それはゆっくりと手を引き戻し、顔の近くに持っていく。ここまで来るとミズオも理解した。
あの、絶望的に大きい手の中で暴れている黒い生き物は、キンカンもどきごと、これから食われてしまうのだ。
その瞬間はすぐに来た。
視線の先で巨大な生物が咀嚼する音が聞こえる。ぐちゅぐちゅと。ミズオは一歩も動かけず、ただ震えながらその音を聞いているだけである。
やがて、ブッ、と何かを吐きだしたその巨大な生物は、風を巻き起こしながら足を上げて去って行く。ミズオには気がつかなかったらしい。
巨大生物の行く先々から、葉の擦れる音と枝の折れる音が響いた。
――――――ォオオオオオ……ン
地鳴りのような声を残して、すぐに見えなくなる。
霧が巻き上がり、草木が揺れて、ミズオの体にピシピシと細かい水滴が当たった。
己の皮膚を滴り落ちる分泌液が気持ち悪い。小さい心臓が張り裂けそうなほど、動悸が早い。
(この辺りは危険だ。巣の移動を考えた方がいい)
また一つ、巣に行く理由が増えた。
幸い、巨大な生物の移動に伴って霧がやや薄くなっており、これならもう少しで動けそうである。
ミズオは逸る気持ちを押さえながら、体が温まるのをじっと待った。
◆◇◆◇◆
同属の巣の位置はすぐに分かった。
音に誘われて進んでいくと、重なった石の下の隙間に、積まれた石の壁が拵えてあったからだ。
壁は低く、一応の仕切りの役割しか果たしていないようだったが、それで十分なのだろう。中には数匹の同属が居て、暗がりの中でもぞもぞしている。
見たところ、同属はどれもミズオと同じような体をしていた。実を蓄えている場所と死体が集まっている場所があり、エイリアンもどきの巣ととても似ていた。
同属の一匹が顔をあげてこちらを見る。
ミズオが少々緊張しながら近づいていくと、幸い威嚇されるようなことも無く、のっそりと立ち上がったその同属が首を伸ばしてきて、ミズオの鼻先をペロリと舐めた。
驚くミズオを見つめる同属の額が、発光した。水中に居た時テレパシーの送信機があった位置である。
そして予想通り、テレパシーが送られてきた。
“なかま うれしい”
だが送られてきた言葉はひどく間延びしていて、断片的である。
疑問に思いつつ、ミズオは相手の鼻先を舐め返す。エイリアンもどきとの交流によって、基本的に相手がしてきたことは返すべきだと思ったのだ。
“ッ!”
相手も嬉しそうにしているので、間違いではないだろう。舌から伝わってくる情報でこの個体が健康であることも分かった。交配するなら申し分ない相手だ――――という思考を自然としていて、相当染まってきているなぁと自覚する。
とりあえず、こちらからもテレパシーを発する。
“俺も同属に会えて嬉しいよ。これからよろしく頼む。俺はミズオって言うんだけど、あなたは?”
“…? わからない おおい”
“多い? 仲間がってことか?”
“わからない はやい”
(あれ?)
話が出来ない。
送信器官の能力が違うのかもしれない。だが、次にゆっくりと言葉を送ってみてもどうも要領を得ない。
はい・いいえの質問になら答えは返ってくるのだが、何故?という質問の答えが返ってこないのだ。
思考能力に差がある可能性があった。
他の同属にも言葉を伝えて見たが、どの個体も似たり寄ったりで、詳しい話ができそうにない。
今までに出会った同属が、どれも話が通じそうな相手だっただけにミズオは少々混乱した。
(どうすればいい。あのでかい奴のことを伝えて、場所を移動することを提案しても、理解できるかどうか)
これからどうすべきか迷っていると、巣の片隅でじっとしていた二匹がのそのそと動きだし、離れていく。
その後には、卵が二個置いてあった。縞縞模様の、鶏卵のような卵だ。ミズオの体の半分くらいある。
そういえば交配することも目的のひとつであった。
しかし卵を産むということは次世代を生むということであり、ミズオはこれ以上進化できないということを意味する。
(いや、それでもいいか)
ナッツから貰った物を無駄にしないためにも一度交配しておきたい、とミズオは考え直した。
皮膚を震わせて交配相手を募集する際に、気を引くためのダンスも踊ってみることにした。自然界において交配相手を獲得するのは実にシビアな問題で、あの手この手を使わなければならないのだ。
というようなことを考えて、いずれ困るかもしれないので試しにアピールしながら交配相手を求めてみることにしたのであった。
トカゲっぽいミズオの短い足でステップを踏んでいると、近くに居た同属がとても興奮して尻尾を情熱的に振りつつギャアギャアと鳴きながら近寄って来た。
“すごい すごい”
目にハートマークが浮かべているんじゃないかというくらいの勢いである。少々効きすぎたらしい。
“うん、まぁ落ちつけよ。な?”
“こうびっ!”
生殖行動はあっという間に終わって、ミズオは卵を産み落とす。卵は一度に5つも産み落とすことができた。
卵の生成によって体内のエネルギーがごそっと減ったのを感じる。5つも産めば当然だ、と思う。
(大事な物を失くした気分だ)
痛くも気持ち良くもなかったが、喪失感を覚えるのもまた事実。
人間の時の感性はさっさと捨てないとこれからも苦しむんだろうなぁと思っていると、ミズオの意識が急激にぼんやりしてくる。
気付けば体に活力が全然残っていなかった。
(お、お…? え、寿命?)
卵を産んだことで減ったエネルギーの減少が止まらない。気付かないうちに限界以上のエネルギーを放出してしまったらしい。
体の内部が崩壊していくのが分かって、ゾッとした。筋肉に全く力が入らず、骨が自重を支えきれずにへし折れ、体どころか頭も支え切れなくなり、顎が土に落ちる。
ミズオだけではない。見れば先ほど卵を産んだ二匹も、ミズオと交配した個体も、死体置き場に身を横たえている。
(マジか……!)
寿命というよりも、次代を残して死ぬ種だということなのだろう。
視界が急速に狭まって行く。
ナッツにお返しもしてないのに、死んでしまうのだろうか。死んでも死にきれない。どうにかして仲間に託したかったが、テレパシーを送る力はもう残っていなかった。
(なんだよこれ…)
最後の瞬間意識がどこかに引っ張られて行く感覚があり、ミズオは昏倒した。
そして目が覚める。
真っ暗な空間で、ミズオの意識は急速に事態を理解する。
(なんていうか……ありなのか?)
簡単に言えば、己の生んだ卵の一つに転生したのであった。
まるでミズオの意識を途絶えさせないために、誰かに操作されている気分である。
それはミズオを微生物にした何かかもしれないし、違うかもしれない。
考えても栓ないことだろうが、ミズオとしては少々引っかかる、
しかし今はそれよりも、この己が作り上げられていく感覚を味わおうではないか。
卵の殻の中の暗がりで、ミズオの体が、母体から託されたエネルギーを用いて急速に造られて行く。
それは少しの痛みを伴いながら、発生の過程をたどるように、ただの原始的な細胞が、エネルギーを消費しながら微生物時代に酷似した姿を経て、脳・心臓・血管・神経・そして四肢を形作る。
瞬く間に彼の発生は終了し、ミズオは産声を上げる時を知った。
内側から殻を突き破り、ミズオは丸まっていた体を思い切り伸ばした。肺に吸い込んだ空気が、陸上に上がった時を再現するように、少しだけ痛い。
だが美味い。
胸一杯に吸い込むと、発生の名残で肺が造りかえられており、今度はさわやかな気分が胸を占める。
力の漲る四肢、明晰に動く脳。世界はより広がりを増したかのようだ。
「うぉおおおおおおお………ッ!」
己が生まれ変わったことを確信した時、ミズオは叫んでいた。それがミズオの産声であった。
この世界に生まれ落ちたことがこの上なく嬉しかったのだ。目に映る全てが輝いて見える。
赤ん坊が産まれた時に鳴くのは歓喜のためかも知れないと、ミズオは心から思った。
そして体の変化はいっそ劇的であった。他の生物と見間違えるほどに。否、もはや別の生物であった。
遺伝子がもたらす変化は、微生物の時よりも大きい。
エイリアンもどきの遺伝子は足の進化をもたらしていて、関節が強固になったミズオの四肢は、重力に逆らって胴体を支持しており、そのため腹が地面から浮いていたのだ。移動速度が大幅に上がるのは、想像に難くなかった。
さらに、交配していた相手も持っていた遺伝子のお陰か、尻尾の先には爪のような器官が出来ている。
口には、小さな前歯が出来ていた。
遺伝子に寄らない、環境に適応するための変化もあった。
尻についていたジェットの名残は完全に消え失せ、代わりに尻尾が太く、長くなっている。首もまた同様で、長くなった足と併せて、体型はやせ細った馬のようだ。
つるりとした緑色の肌と、額に生えた二本の角が前の姿の名残であった。力を込めると目の下辺りで電気が弾ける。発電器官も健在だった。
一頻り変化を確認していたミズオだったが、やがて衝動が思考を占め始める。
(………食べたい…っ!)
お馴染みの飢餓感である。
目線は自然と巣の片隅に盛り上がるたくさんの果実に向く。
駆け寄り、噛みつこうとした時、彼を押しのけるように貧相な馬モドキの生物が、それに噛みついた。
“うまっ! うまいっ!”
テレパシーを四方にバラまきながら果実を食べるその個体は、客観的に見るのが初めてだったので気がつかなかったが、ミズオとそっくりであった。それがぞろぞろとやってきて、ミズオを入れて5体になる。ミズオが産んだ卵の数と同じだ。
その他にも二匹、ツチノコみたいな形の生物がニュルニュル動きながら果実を貪っていた。
(俺たちは一代で急速に進化し、その方向は一つではない、ってことか?)
適当に考えてみたが、だいだい合っている気がする。
まぁ考察は後でいい。今は腹が減っている。それに見ろ。この淡い色の果実の、なんと美味そうなこと。
(いただきます………う、うまッッッ!)
一度口に含めば、その芳醇な香りが口腔を駆け上り鼻孔を突きぬけ、頭蓋を乱打したのち脳天から飛び出していく。そんな感覚を覚えるほど、美味い。
長くなった喉は滑り落ちる果肉を一秒でも長く味わう為にあるかのようで、胃袋は消化液を逆流させかねないほど、果肉の到着を待ちわびる。
何より得られるエネルギーは、枯渇寸前であったこの身を内側から奮起させ、目をつむれば己が燃えあがっているかと思うほどであった。
しばらく無心でモリモリと食べ、人心地ついたときはすでに果実が残っていなかった。仕方ない。それほど美味かったのだから。
横でエフっと体内に溜まったガスを吐きだしている音がする。つまりはゲップなのだが、それをしたのはツチノコのような姿に進化した同属であった。
もう見た目からして全然違う生物になってしまったが、交配をしようと思うと、できるような気がしてくるから不思議である。姿形は変わっても、きっと同属は同属なのだ。
交配したら一体どうなってしまうのか、少しワクワクする。
案外、元のトカゲもどきに戻ってしまうかもしれない。
全く、我ながらおかしな生物である。
何となく楽しい気分のまま、ミズオは空を見上げた。霧は晴れていたが、太陽は今沈もうとしているところであった。卵の出産から孵化までどれくらいかかったか知らないが、それほど時間はかかっていないという確信があった。
何せ微生物の時は数十秒で終わった変化だ。およそ半日くらいだろうと見当をつける。
とりあえず、交配で進化できて良かった。小さいまま、弱者のままで終わるより、ずっといい。
「これからどうしようか」
口に出した声は、以前よりずっと聞きやすかった。喉も変化しているらしい。
言葉としては成り立っていないが、以前の雑音の如き鳴き声と比べるとずっとましで、これなら歌も歌えそうである。
(……ナッツをここに招くのと巣を移動させること。とりあえずはこの二つはすぐにでもしたい。そしてできれば、他の種族とも交流して遺伝子を分けあいたい)
ミズオはもっと進化したかった。どんどん大きくなって、いずれはあの巨大な生物に脅かされないほどの生き物を目指すのだ。
その道筋も、見当がついている。
やる気が体の内から湧いてくるようだった。
(そうだな、まずはナッツを迎えに行くか)
ナッツはミズオの変化をどう思うだろうか。
ビビってへたり込むかもしれない、とミズオはほくそ笑む。
「おっしゃー!」
気合と共に方角の検討を付けて駆けだすと、長くなったミズオの四肢は力強く地を蹴り、体は風のように前へと進むのだった。