5cmほどに成長し、水から出てきたミズオは、這いずりながら少々嫌な予感を抱えていた。
この陸地には、彼が食べることのできる物はないのではないかということだ。
試しに齧りついた植物の茎は硬く、噛み切ろうとしたミズオの口吻は逆にダメージを負うことになった。結局食べることはできず逆に修復にエネルギーを使わされて、ミズオはますます飢餓を感じている。
だが、彼を取り巻く環境はそう悪い物ではなさそうだ。
―――――ピェエエエエエ!
(うぉっ!?)
突然甲高い鳴き声が辺りに響き渡り、盛大にビビってその音源を捜したミズオの目に、柔らかそうな赤い実が飛び込んできたからだ。
赤い実はギザギザとした縁を持つ葉の根元に実っており、太陽の光を受けて艶々と輝いている。
ミズオの心は一瞬で奪われた。
(何て美味そうなんだ…!)
ミズオの口の中に消化液兼潤滑液――つまりは唾液―――が溢れてくる。ミズオの目にはもうそれしか目に入らない。
背の低い植物といえどもミズオの口が届く範囲になっている訳ではなかったが、額の角を振り回して、葉を震わせ、何とか落とすことに成功した。
とふ、と落ちて地面で柔らかく変形する実は、見るからに食欲をそそり、居てもたっても居られずミズオはぎこちなく舌で浚い、口に含む。
くちゅり、と口の中で果皮が裂け、液体が漏れ出してきた。
(あ、甘い……!? 味が……!)
進化したミズオの舌は味覚を備え、衝撃と共に陸上での初めての食物の感動を何倍にも増幅する。
舌の上に溢れた果汁は、口腔をくすぐり喉を撫で、胃にじんわりと染み込んでいく。通った後が熱を持つ。
これだけでも感動でミズオはどうにかなりそうだったのに、続けて果肉が舌の上で存在を主張し始めた。
その僅かな硬さは一瞬で溶け、喉をかすかに押し広げながら、胃袋へ到達する。確かな重さが異に落ち着いた時、ミズオは今まで感じたことのない満足感を得た。
そして何より実によってもたらされるエネルギーはどうだ。
モヤモヤの持つエネルギーとは桁違いの密度と量で、ミズオの体は翻弄された。ミズオの四肢に力が漲り、たった一つの果実で生まれ変わったかのようだった。
(た、堪らない…ッ! 生きてて良かった……ッ!)
脳みそが何か危ない物質を分泌しているかのように恍惚となったミズオは、涎がダラダラと溢れだしていたことに気が付き、頭を振った。
そして見上げると、同じような実をつけている植物はまだまだあるのだった。何のことはない、ミズオが地面ばかり見ていて気がつかなかっただけなのだ。
(うおぉっ! 最っ高ッッ!)
ミズオはその小さな体を一杯に使って、活力のままに飛び跳ねるようにして、その果実へと向かっていくのだった。
陸上に適応した体はそれなりに複雑になったためか、エネルギーを充足するだけでは大きくなることはないようだった。
水辺で起こった適応は、まだ変化が起こっている最中に自らはい出したためだったのだとミズオは結論付けた。
だがこのままの大きさではあまりに小さい。
そらを舞う鳥の大きさは比べることも馬鹿らしいほどだし、何より周りを囲む植物が大きすぎる。食べれる物が少なく、大きな生物が気づきもせずに踏みつぶすこのサイズでは、生きていくのはどうにも心もとない。
エネルギーを満たすことで成長しないならば、もう一つの可能性、同属との遺伝情報の交換を試してみるべきだろう。
よって早急に彼が行うべきことは、陸上に進出した同属を探すことである。
多分、同じように陸上に上がった同属がいるはずだ。
最後に交配したあの同属のような奴が一体だけというのはあまりに不自然であり、仲間の存在を、ミズオは疑っていなかった。
そして活力は果実のおかげで体内に溢れんばかりでどこまででも探しにいけそうである。
一つ問題があるとすれば、先ほど発したミズオの声である。それは非常にガラガラとしており、しかも出せる音階が非常に少ないのだった。これでは言葉をしゃべるなど夢のまた夢である。
テレパシーが通じるならそれでよし。最悪筆談で意思を伝えることを想定しておいた方がいいだろう。
考えをまとめると最後に一つ実を齧る。
脳髄が蕩けるような甘さと共に、体にさらなる活力が溢れ、前に進む意思が湧いてくる。これだから、この不自由な体でも生きるのを止められないのだ。成長は別にしても、寿命を延ばすという意味で、仲間を探すのは必須であった。
気持ちの準備が整い、さぁ進もうという時だ。
陸上にて、ミズオは初めて他の動物と遭遇したのである。
それを見た瞬間、ミズオは体を硬直させて息を止めた。
その生物のあまりの奇妙さに驚きと危険を感じたのである。
ミズオの体は緑色を濃くした皮膚を持っており、それは背が低く地表付近に葉を広げる植物の下に居る現状、上手く擬態として働いてくれるかも知れなかった。
ミズオが注意深く観察する先で、その生き物は口を寄せて果実へと噛みつこうとしていた。
奇怪な形の生き物だった。不釣り合いに大きい頭はタコのようで、その下から生える四本の細い足は、触手のようにすら見えた。だが色は黄土色であり、その目は水中に居た微生物たちと同様、不自然に大きい。
タコを10倍くらい情けなくしたエイリアン、というのがミズオの感想だった。生前見かけたら、捕獲して研究所に売れるレベルで奇怪である。
バランスの悪そうな体型で、体の大きさもそう変わらず、戦ったら負けることはなさそうに見える。しかし四本の細い足をかさかさと動かして歩いてきた様子から、その生物は存外に機敏で、逃げられれば追うことは難しいということもまた分かっていた。
戦う予定はないのでそれはそれでまったく困らないのだが。
その生物だが、見たところあまり頭は良くないようである。
さっきから届きそうで届かない場所にある果実目がけてぴょんぴょん飛び跳ねているからだ。その果実は最初に噛みつこうとしていた果実で、つまりこの生き物はここに来てから一つも食べることができていない。
すぐ横に行けば簡単に食べられる高さに果実がなっているというのに、どうにも視野が狭いようだった。
その間抜けかつ必死な様子を見て危険がないと判断したミズオは、のそりと葉の下から這い出した。
しかしエイリアンもどきは動き出したミズオにもさっぱり気がつかない。
(危機感がなさ過ぎる……。こいつ、生きていけるのか?)
思わず心配しながら、ミズオは近くの葉から果実を突き落とし口に咥えると、その生物に近づいていった。
流石に至近距離に来れば気付くようで、エイリアンもどきは驚いて1cmほども―――ミズオにしてみれば結構な高さだ―――跳び上がる。
着地した後硬直してしまったその生物の前に、ミズオはそっと赤い果実を置いてやった。
そしてのそのそと後退する。
その生物は挙動不審に目を泳がせ、果実とミズオを何度も見て、恐る恐るという仕草で、果実を食べる。
途端、その細い足をふにゃりと折り、地面へと崩れ落ちる。どうしたのかとミズオが近寄ってみれば、その生物はなんと恍惚の表情をしているのであった。ミズオも経験したので分からなくもないが、エイリアンもどきが蕩けている表情は何とも奇怪である。
(なんだよ、焦らせやがって…)
焦ると分泌液が多めに出てしまうらしい。無駄に分泌液を多く出してしまったミズオは、安堵に息を吐く。同情で実を進呈したのに、それで死なれたら後味が悪すぎる。
ふとその頭に影が差し、見上げるとタコもどきがこちらを見ていた。
同じ程度の大きさながらエイリアンもどきの身長は縦に長く、地面に這いつくばっているミズオと並ぶと上から見下ろされる形になる。
なぜかその瞳が純真な光で輝いており、ミズオが微妙に引いていると、エイリアンもどきは口を開き、これまた奇怪な音を発した。
体を揺らしてキュイギュイと謎の音波を発しつつ、その視線はミズオを一時も離れない。
(これは、もしや…)
ミズオは悟った。恐らく、友好の証を示しているのだ。突拍子もない推測ではあったが、本能に刻まれているかのように、その想像はぴったりと当てはまった。
これはさしずめ、友好の歌ということなのだろう。言葉による意思疎通ができない異種族同士、気持ちを示すならこれほど有効な手段も無い。
(そんなに嬉しかったのか)
ミズオはほっかりとした気持ちになって、口を開く。友好の証を示されたなら、こちらも返さねばならないだろう。
この喉では歌なんて高尚なものは歌えないが、向こうもそれは一緒である。エイリアンもどきの音の並びを真似して鳴いてやると、ミズオの声が非常に汚いにも関わらず、エイリアンもどきは飛び跳ねて喜んだ。
そして、そのままぴょんぴょんと左右に体を揺らしつつ奇妙なステップを踏み始める。視線はやっぱりミズオに固定である。
(ダンス…か?)
なるほど、これも友好の証だろう。そこまで仲良くしたいか。そうかそうか。
「良いだろう……俺のダンスをみろぉー!」
テンションの上がったミズオもエイリアンもどきの動きを真似て踊りを返す。
その瞬間二匹の心は通じ合い、友達だという共通認識が生まれた気がした。
(異種族交流……悪くないな)
相応の運動をして疲労を感じつつも満足したミズオが目を細めていると、エイリアンもどきが歩き出し遠ざかって行く。
ここでお別れか。寂しくなるな、等と考えていると、エイリアンもどきは立ち止り、こちらをチラチラと振り返ってきた。
まるで、ついてきて欲しそうな様子である。
(どっか連れて行ってくれるのか?)
特に行く当ても無いミズオはのそのそとエイリアンもどきの後を追い、エイリアンもどきは嬉しそうに跳ねると、かさかさと細い脚を動かしてミズオを先導するのだった。
エイリアンもどきの胴体(というか頭)は四本の細い足で空中に浮いており、バランスは悪いが地形の凹凸にとらわれにくい。
逆に腹ばいで移動するミズオは安定感はあれども、どうにも段差に弱かった。体の小さなミズオにとって、少ししか地表に露出していない木の根でも、この上ない障害となってしまうのだ。
“おーい、ちょっと待ってくれよナッツ”
頭がピーナッツっぽいという理由で勝手に着けた名前を、届かないとは知りつつもテレパシーにして飛ばして呼びながら、ミズオは先を歩くエイリアンもどきに必死に着いていく。
どれくらい歩いただろうか。ナッツが止まる。
太陽の高さがそれほど変わっていないので短時間の移動のはずだが、無理して急いだミズオの疲労がピークに達しかけている。
疲労したミズオの目の前でナッツが振り返り、何かを披露するように横に一歩避ける。
(おお……!?)
そこにあったのは、ストーンサークルとでも言うべきか、小さな石で囲まれ、中に柔らかそうな葉が置かれた立派な巣であった。
巣にはエイリアンもどきが他にもチラホラと居て、小さな個体や、巣の中心にはカタカタと揺れる卵も置いてある。
卵は今にも孵化しそうで、今まさに数を増やそうとしているところのようだ。
興味深そうにこちらを眺める数匹のエイリアンもどきを見ていたミズオだが、ナッツがミズオを押すように巣の中に招き入れ、食物をくれたため、なし崩しに食物を頂戴することになった。
それは皮のやや硬い黒い果実だった。しかしその味はまさに天上の喜びをミズオにもたらした。
内部に含まれるエネルギーは赤い実に負けず劣らず、味はやや苦みを残した乙なものである。
至福の時間を過ごしたミズオだったが、しかしこの場所が他の生き物の巣であることを今さらながらに認識する。ナッツはやたら好意的だが、他のエイリアンもどきたちはやや遠巻きに見ているのだ。
このままでは、突然やってきて貴重な食料を食べていった変な奴という印象しか残らないだろう。
それは嫌だった。
自己満足かもしれないが、初めて遭遇したこの生き物たちには良い印象を持っていてもらいたいのだ。
美味しい実を食べさせてくれたことが、その気持ちに拍車をかけた。
(感謝と友好を示すには、これしかない…!)
あいにく声には全く自身のないミズオだったが、踊りはまだまだ改良できる点があると踏んでいた。
ミズオはキリリと気持ちを引き締めると、いざ、とばかりに、ステップを踏み始めた。ところどころで、自分の声で拍子をとりつつ、華麗に見えないことも無いステップワークを披露する。
地べたを這いずるミズオが見せたとは思えないその動きに触発されたのか、エイリアンもどきたちも揃って踊り始める。生まれたての小さな個体ですら、たどたどしい動きを見せてくれる。
(これだ、これだよ! この一体感! 言葉なんていらねぇぜ!)
テンションのままにミズオがフィニッシュのポーズを決めると、エイリアンもどきたちも各々好き勝手にポーズを決める。それは人間の頃からみれば失笑物のポーズだったかもしれないが、ミズオにとってはとても格好良い物であり、この時、確かな絆が生まれたとミズオは強く感じたのだった。
心地よい疲労に包まれながら地面に腹をつけるミズオの周りでは、小さな個体がちょろちょろと走り回っている。リーダーらしき存在にもう一つ果実を勧められるほど、彼らは打ち解けていた。
「おお、すまんね……。うめぇ…ッ!」
再び脳汁が溢れだすような美味しさに身を震わせていると、ナッツが巣の傍らで何かをしていることに気づく。
そこには生物の死体が置いてあり、それはどうもエイリアンもどきにしか見えないのだった。
(何をしてるんだナッツ…?)
同属食いかとちょっと引き気味に見ていたが、どうもナッツは食べているのではないようだった。
ぐずぐずに崩れた仲間の死体の中から何かを取り出し、ミズオの方へと持ってきたからだ。
(これは)
ナッツから差し出された物を見て、ミズオは衝撃を感じた。少しばかりの忌避感とそれ以上の感動で、体が震えるのを抑えられない。
ナッツが咥えて持ってきたのは、微生物の時に何度か見た、遺伝情報の塊だったからだ。この生き物は、自分たちの遺伝情報をミズオへとくれようとしているのだ。仲間の死体を解してでも、相手の生存がより有利になるように、相手の子孫が少しでも長く生存できるようにしてくれたのだ。
目を上げれば、ナッツは相変わらず純粋な光をたたえた目でミズオを見ていた。真摯にミズオを思う瞳がそこにはあった。
「お前…」
存在しない涙腺が壊れそうになった。胸が熱い。
「こんな……こんな大事な物を……! ありがとう……!」
ミズオは万感の想いを持って、渡されたそれを一息に飲み込んだ。その味、まさに凝縮された命の味であった。エイリアンもどきの生きた証を丸ごと貰ったような、溢れんばかりの多幸感。
吸収された遺伝情報が乱流となってミシミシと脳髄を軋ませた。ミズオが交配することがあれば、この贈り物はきっと彼や子孫を助けるに違いない。
「ナッツ…っ!」
この想いをどうやったら伝えられるだろう。衝動のままにミズオがナッツに頭をこすりつけると、ナッツもその長い頭を押し付けてくる。ナッツの体は細いながらも、確かな生命の鼓動を感じさせた。
熱い、命の脈動であった。
最後にもう一度踊りを見せあって、ミズオは彼らと別れた。
同属を探しに行くのだ。ここのようにどこかに巣があるはずだ。
(この友情、決して忘れない……!)
彼の集落を見つけた時、必ず彼らを招待して同じ行動を返そう。そうミズオは胸に誓い、どことも知れぬ己の巣を目指して這い出した。
進んでいくうちに、やがて、聞きなれた音を聴覚が捕らえた。
それはミズオの同属が交配相手を求めて肌を震わせる、あの音に間違いない。水中でなくとも、ミズオが聞き間違えるはずはなかった。
―――――近くに、同属が居る…
ミズオは耳を澄ませ、やがて一つの方角を睨むと、そちらへ向かって一心不乱に進み始めるのだった。