『ソレ』は驚いていた。
今起こっていること――――首に牙が食い込んでくる――――が容易に信じられなかったからだ。
『ソレ』は無敵であるはずだった。生来に持つ無類の毒。
爪も持たず甲殻もない姿をしていたが、極彩色の体は、見る物に警戒を呼び起こさせる。
どのような生き物でも『ソレ』に触れれば死に至る、ということを悟るはずだった。
事実、『ソレ』は産まれてから今まで何ら危険に晒されず生きてきた。他の生物たちは触れただけで死にゆくのだから。
やがて近寄る生物は少なくなり、己より動きの遅い者を捕食して過ごす日々であった。
このまま生を謳歌することができるはずだった。
だが今『ソレ』は深々と首を噛み抉られ、毒の混じる紫色の血液を盛大に噴き出している。口の端から紫色の泡を吹く『ソレ』の体から、温かさが急速に流れ出して行く。
力無く足を動かすが、己に噛みついている何者かを押し除けることはできなかった。
まさか己に噛みついてくる「阿呆」がいるなんて。
最後まで驚愕したまま、一つ熱い吐息を吐いて『ソレ』は意識を手放した。
『ソレ』の死因は上げるとすれば想像力の欠如。飢餓に見境をなくした肉食生物がいるということを想像することができていれば、また違った結末が訪れていただろう。
意識を失くした『ソレ』の首から口を離し、内臓を貪り始めるのは四足の獣であった。毒を浴びて俄かに動きを鈍くしながら、ただただ空腹を満たせることに喜びを感じている。
獣の牙が『ソレ』の中枢神経を抉り、『ソレ』の足が痙攣した。
この捕食劇は水辺で行われている。震えた『ソレ』の足が偶然石を蹴った。直径10センチを超える石はごろりと転がり、水の中へと落ちていく。
気泡を生じながら石は沈んでいく。その姿が見えなくなった頃、『ソレ』を貪っていた獣が頭を上げた。口の周りを紫色の血に染めながら天を見上げ、満足そうに息を吐いた。
そして、体を蝕む毒によって力なく地に倒れ伏す。
ふわりと辺りの草が巻きあがった。それが収まるとその場に動く者はなく、水に僅かな気泡が浮かぶだけであった。風がゆるりと吹いて、倒れた獣の毛を優しく揺らす。
いずれの場所でも繰り広げられる命をかけた生存競争。生物は、タダ己の欲を満たすのみ。
ミズオがこのステージに上がってくるまで、あともう少し。
水に落ちた石は、水底に半ばめり込むようにしてその落下を終えた。
石に捕らえられていた空気が泡となって、水底との隙間からこぼりと湧いて出る。落下の過程でこそぎ落してきた植物の根と共に、泡は水中へと拡散していく。
それに乗りかかるように、ミズオが石の下から脱出してきた。
(た、助かった……)
ミズオは幸運に感謝していた。豆電球のような姿態となった今のミズオの運動性能で、あの石の下から抜け出すのは労苦が過ぎる。
日の光が届かない石の下ではモヤモヤの成長速度は遅く、それどころか死滅していくような有様だったので、空気の移動に乗じなければ割と死の危機があったのだ。
だが石の下から出てきただけで、危機は去っているとは言い難い。生まれた直後ならともかく、今のミズオは体が大きいため燃費が悪い。早急にモヤモヤの群生を見つけなければ、体を保つのが難しくなりそうだ。
現に今、ミズオの体は徐々に縮んでいる。繊毛を動かし、遅々とした速度で進みながら進路上のモヤモヤをひとつ残らず吸い込んでいるというのに、体は縮むばかりであった。
構造上、多細胞生物となったミズオが単細胞生物に戻ることはできない。
ある程度以上まで小さくなってしまえば、待っているのは自壊による死である。
だが危機感だけでなく、エネルギーさえ確保できればこの状態を打破できるという推測も、ミズオは持っていた。
多細胞生物となった時の記憶がそう確信させるのだ。
ミズオが単細胞から多細胞生物となったのはいつの頃だったか。
時期は忘れたが、その時の感触は鮮明に覚えている。
それは交尾による核情報の交換で生まれ変わった瞬間ではなく、モヤモヤを食している最中に起こった。
最初は疑問に思った。その時、体がいつになくエネルギーを求めているというのにいくらモヤモヤを食べても体が大きくならなかったからだ。
閾値を超えたエネルギーは、何故か体を大きくすることに使われず、体の中心に停滞する様子を見せた。
成長限界に達したということなのかと疑問を持った時、体の奥底で、“ぷりん”と何かが弾けた。
気づけばミズオの意識と体は二つに分かたれていた。ミズオは一つの意識でありながら同時に存在する二つの生命体であった。
そして次の瞬間にはミズオの意識は片方死んだ。
残された体がさらに分かたれ、それは様々な器官――――例えば目という器官になり、もしくは消化管となり、吸収したエネルギーを活動力に変換する器官になった。
意識を死滅させたミズオの片割れが、残ったミズオの体の中で分裂して様々な機能に特化していく。
そこには擬似的な死があり、誕生があった。あの何とも言えない感触は忘れようとも忘れられないだろう。そして直後に襲い来た飢餓感は己を内側から磨り潰すかのようだった。
夢中でモヤモヤを貪り人心地ついた時には、ミズオはすでに多細胞生物となっていたのだった。
あの時、食べても食べても体が大きくならず、己の中心、つまり核にエネルギーが集まる感触があった。
現在食べても食べても体は大きくならずむしろ小さくなるばかりだが、あの時と似た感触がしているために成長が一つの節目を迎えているのだとミズオは確信している。
ただ、エネルギーが絶対的に不足している。
モヤモヤの群生……否、群生の集まったコロニーを見つけられなければ成長の節目を前にして、ミズオは死ぬことになるだろう。
そしてミズオの前に立ちふさがる障害はエネルギー不足だけではなかった。
体が大きい割に運動性能が低いミズオは、肉食微生物たちにとってみれば大きな餌でしかなかったのだ。
(は・な・れ・ろぉおおおおおおおおお!)
気合と共にミズオは体内のエネルギーを発電器官に集める。
器官は熱を発しつつエネルギーを電荷へと変質させ、ごく小さい範囲に放電現象を引き起こした。
この間獲得した形質である。
燃費の悪いこれに頼らざるを得ないほど、ミズオは追いつめられていた。
パチリと静電気のような弱い光がミズオの周囲を走り、ミズオの体に取りついていたたくさんの微生物が、わっと離れていく。
その数、30は下らない。以前戦ったゾウリムシもどきや、もしくは初めて見るような目玉だらけの姿の生物もいる。
肉食微生物たちはこのゆったりと泳ぐ巨大な肉体に、我先にと被りつき、ただでさえ少ないミズオの生命を大幅に縮める一因となっているのだ。
ミズオの体に生える細く短い繊毛たちでは、振り払うこともできず、逃げ切ることもできず、放電したのはすでに三回目である。
放電で気を失った微生物もいるが、それ以上の数がまたミズオの体に集まってくる。
(ああ、くっそ! 食うな! こいつら…!)
どうにも活路が見えなかった。
エネルギーを大量に消費する放電でさえ、一時しのぎにしかならない。
(苦しい……)
思考が徐々に霞んでいく。思考をするエネルギーさえ、満足に確保できなくなりつつある。
しかも、視界の先で大きく水が揺れた。何かが近づいてこようとしている。
無数の瞳をその体に張り付けた生物だった。
(ふざけるなよ…)
胸中で愚痴をこぼすのさえ力が入らない。
その目玉の生物は大きかった。ミズオを丸のみできるほどには大きい。不鮮明になっていく視界の中で、その生物が持つ数十の瞳が揃ってミズオを捕らえた。
頑丈そうな顎が開かれ、辺りごとミズオを飲み込もうとしている。
(ああ、死にたくない……!)
体を動かすための繊毛が無茶苦茶に動き、ミズオの体は不格好に水中で蠢く。必死というより既に致死。もう自分で何をしているのか分からない。
(ぁあああああ………っ!)
そして理性より本能が勝った時、ミズオの体は音を発した。それはミズオが忘れ去っていた一つの活路であった。
ビリビリと体の皮膚が震える。集まっていた細かな肉食生物たちが恐れたように離れる中、彼の信号が水中に拡散していく。
最後の手段と言っても良い行動であった。放電よりもはるかにエネルギーを消費するこの行動は、己の寿命を縮めるだけで終わる可能性すらあった。
“………ぉぉぉぉぉっ!”
だが、交尾の相手を探すその音は、遠くから彼の同属を呼び寄せた。
溌剌とした声が脳裏で弾ける。
“ぉぉおおりゃあああああああああああっ!”
ざわり、と周囲の水が動いた。
風のような速度で一匹の生物が飛来し、体ごとぶつかるようにして目玉の生物に突き刺さる。額にある二本の角が目玉を抉り、傷口から奇怪な色の体液が噴き出した。
その勢い、数倍はある肉食生物を弾き飛ばすほどである。目玉の化け物は痛覚でもあるのか、潰された目玉を庇うようにしながら身を震わせ、弾き飛ばされるままに逃げ去って行った。
“…………間一髪?”
間を持って尋ねてきたのは、千切れる前のミズオと同じくらいの大きさの同属だった。得ている形質はミズオとほぼ同じである。興味深そうにミズオを見て、唐突に言った。
“前、君みたいな死にかけている人に会ったことあるよ。…同じ人?”
どうだろうか。聞かれても分からないし、答える気力はすでに無かった。
“とりあえず、やることは決まってるね。なんだか、君はとてもいい物をくれる気がする”
その個体ははしゃぐ様に言うと、体から細い管を出し、瀕死のミズオの体に突き刺す。多細胞となってもこの交尾の方法は変わらなかった。ミズオの体はオスであり、メスなのだ。
ゆっくりと異物が体内に侵入してくる。代わりにミズオの情報も持ち出されていく。
送り込まれた遺伝情報が、ミズオの体の中心で、ミズオの情報と結合する。
変化は劇的であった。
(い……ッ!)
体が軋み、ダイレクトにミズオという意識が焼き尽くされるようだった。生まれてこのかた、人間であった時も感じたことのないような痛みである。
その痛みの裏で、変化は迅速に進行している。
ギシギシと軋みを上げつつ、半分になっていた体が恐ろしい勢いで再生していった。遺伝情報を形にしようと、体の中心に貯め込んでいたエネルギーが一気に枯渇していく。熱された鉄板の上に落とした水滴のように。
新たな器官を得ることはなかったものの、瞬く間に以前の体型を取り戻す。ミズオの尻には、愛すべき推進器官、ジェットの姿もきちんとあった。
そして元の姿になったことで、ミズオはよりはっきりと自覚する。
(腹が……腹が減った……ッ!)
体が変化のためのエネルギーを求めている。構造の簡単なミズオの体が、もう一段上の生物への変化を求めている。
“俺はッッッ、モヤモヤを食うぞ――――ッッ!”
“え、ええー…。お礼とかないのー…?”
電気が出るー! と喜んでいた同属が、不満げに呟いていて、ミズオは慌てて居住まいを正す。
“あ、その節はどうも。しかし今はモヤモヤが先だ――――ッッ!”
“そうだね! 確かにおなか減った! うぉおっ! 藻が私を待っているッッ! じゃあねー!”
“おう、ありがとなー!”
ミズオと同様、助けてくれた同属もエネルギーを求めて泳ぎ出す。二つの生き物は、競うようにてんでバラバラの方角へ泳ぎだし、邂逅は数十秒で終了した。
いずれ、恩を返す機会があるといい。そう思いつつミズオは最後のエネルギーをふり絞り、モヤモヤの群生へと飛び込むのだった。
“………モヤモヤうんめぇええええええええっ!”
本能のまま目に付く範囲のモヤモヤをミズオは食べつくし、ようやく彼の飢餓感は落ち着いた。
満足感に浸りながら、同じ範囲に二匹いたならばきっとどちらかはエネルギーを満たせなかったに違いない、とミズオは思った。
あの同属と自然に分かれたのは、その辺りのことを本能的にどちらも分かっていたのだろう。 ここまで成長した彼らに必要なのは、仲間ではなく、エネルギーなのだ。
モヤモヤの完食から一拍の間を置き、体内に蓄えられたエネルギーが光のように弾け、体中を駆け巡った。
(……キタ…キタぞ……ッ! ぉおおおおおおおおおおおおおッ!)
それは体を書き換えようとする、情報の嵐であった。
最初に変化が起きたのは脳である。
内側から無理やり押し広げるように脳が膨らみ、シナプスが生まれ、走り、結合し、新たな変化を受け入れる領域を作り上げたのだ。
広げられた部屋に次々と放り込まれる新たな器官の情報。その制御方法。
最初に作られたのは心臓であった。続いて血管。細胞小器官が複雑化することで内臓となり、それらと血管でつながった心臓が、どくりと拍動を開始する。
次なる変化の兆しは、強烈な痛みであった。
それは取りも直さず、体中に神経が生じたということであった。
脳から伸びた中枢神経は血管に絡み付きながら、体の各部へと伸びていく。
神経が通ると同時、骨が生成され、腱を介して筋肉と結合し、それらを覆う皮膚は多層化していく。外界と体内を隔てる頑丈な表皮。その下のクッションとなる真皮。
それらにはポツリポツリと分泌腺の穴があき、穴から伸びる管は、体内にある内臓へと繋げられる。
やがて神経は末端まで到達する。
ミズオのひょうたん型の体からは四本の足が生えていた。胴体と区別のなかった頭部は前に伸び、くびれが生じて首となる。重たい脳を詰める頭部とバランスをとるための、尻尾も生えた。
(ジェットは……もう要らないな)
考えが反映されたかどうか定かではないが、ミズオの尻にあった推進器官は皮膚に埋もれ、その痕跡を僅かに残すのみである。
もはやそこに居るのは微生物ではなく、トカゲもどきであった。大きさ数センチとはいえ、ミズオは立派な陸上生物となっていたのだ。
水面下から見る陸上は、希望が溢れているように見えた。しかし同じだけ、不安を感じてもいる。
未知の世界に踏み出すのは、いつでも恐ろしい物だ。
機能を上げた目で、背後をふりかえる。
針の先よりも小さかったミズオが育ってきた水の中は、今も悠然と流れている。
(いつまでも、こうしちゃいられない)
体の複雑化は、それを保つための必要エネルギー量を跳ね上げさせた。もはやミズオの空腹は、水中では癒せないのだ。
ミズオは目線を戻し、上を見上げた。額の角が水面を突き破り空気に触れる。
(行こう)
ざばり、とミズオは水辺に第一歩を踏み出した。急造された足が、その中の骨が、筋肉が、浮力から解き放たれた体の重さを支え、軋みを上げた。支えきれず体は地面へと触れ、腹の皮膚が寄れて裂ける。
(これが重力)
その重み筆舌に尽くしがたく、一歩踏み出すだけで体がバラバラになりそうだった。だが迅速に、綻びた個所が蓄えたエネルギーで補填され、最適化されて行く。
一歩ごとに筋肉は強靭になり、腹と足の裏は分厚くなり、体が地面に押し付けられることはなくなっていた。
数歩歩いた時、肌が急速に乾燥していることに気づく。ピリピリと空気が刺すように感じた。
原因は空から降り注ぐ光であった。見上げれば、どこまでも続く蒼穹と、天高く浮かぶ太陽が見える。
目玉が潰れるほど眩しかった。
(あれが太陽)
ミズオの肌の表面にある分泌腺が粘液を出し、膜を形成する。それは瞼のない眼球をも覆い、乾燥からの保護を約束した。
そして、猛烈な息苦しさ。形だけ作られた肺が慌てて動きだす。内部に込められていたガスを吐血するような苦しさを持って吐き出し、その代わりに、ミズオの肺へと劇物のような空気が侵入してくる。
(これが空気)
水の中と比べて空気中というのは、エネルギーを得るにはいささか毒性が強かった。一息吸うだけで体中がただれていきそうな毒の大気。しかしミズオの体は惜しまずにエネルギーを消費し、順応して行く。
そうして十歩も歩く頃には、ミズオの体は陸上へと適応していた。
ようやく余裕の出てきたミズオの目の前に広がるのは、彼の目の高さの数十倍はある背丈の草であった。その数十倍の高さの位置に色とりどりの花が咲き乱れ、花の向こうには天辺を見あげると霞んで見えるほどの巨大な木々がそびえ立っている。
全てが大きく、ちっぽけなミズオを圧倒し押しつぶすかのようだった。
(これが……陸地…)
「ア゛-……」
思わず発した声は、喉を痛めつけるようだった。
しかも、始めて発した言葉は意味をなしておらず、ただの雑音の集合であり、意思疎通を図るにはいささか頼りのないものである。
だが、これも練習すれば…順応できるだろう。
(……いっちょ、頑張るか。生きるために)
気合いを入れてミズオは這い始める。
まずは、何か食べる物を見つけなければならない。飢餓感は体を突き破って飛びだしそうなほどだったが、目の前にある草は恐らく硬過ぎて消化できないだろう。
理性を失い、消化できないものを食べて消化器官を傷つける真似をする前に、柔らかくて美味しそうな何かを見つけるべきだ。
ミズオはゆっくりと這い、やがてその姿は草々の陰に隠れて見えなくなる。
その後ろでは、ミズオがあるとすら気が付けなかった大きさの四足の獣が毒を食らって屍を晒していた。
ゆるく吹いた風が、辺りの草と共にその屍の毛を撫でていく。
動く者がない空間に唐突に影が落ちる。落ちる影は急速に大きくなり、やがてそれは両翼を広げた鳥となって、その両足に着いた爪でがっちと倒れた屍を掴みこんだ。
体を休めることもせず、羽毛を散らしながら鳥は羽ばたき、獲物を抱えて飛び立っていく。
その際一声鳴いて、のそのそと草場を進むミズオを思い切りビビらせたのは、まったくの余談である。
なにはともあれ、微生物としてのミズオはここで消え、新しいステージへとミズオは挑むこととなるのだった。