村と言えば家。家と言えば木材。
と言う訳でミズオ達は伐採の真っ最中である。
腕に力を込め、手に持つ石斧を木の幹へと思い切りたたきつける。
鈍い音がして刃の先端が少し木肌を抉った。
ミズオの黒い腕は相当な力を持っているはずだが結果は芳しくない。
やり方が悪いのだろうか。慣れない馬の下半身で体重が乗せれていない気がするし、上手く刃が当たっていない気もする。
刃が木肌に潜れば、内部に反響してコォン、と小気味の良い音が鳴るのだが、いかんせん、ガツっとかベチっとか鈍い音しか出ていないのだ。
むぅ、と唸りながら眼前の木を見やる。
葉が針のように尖った、背のあまり高くない木だ。目測で10mほどだろうか。木肌は滑らかで幹は細い。
だがこの樹はその細い姿に反して中身は詰まっている。相当に堅い。
手先の器用な仲間が造ってくれた石斧は、尖った石をさらに研いだ物なので切れ味はそこまで悪くないはずなのだが。
なんとも、先は長そうである。
ミズオは顎を上げ、左右を見た。ミズオと同じく木を切り倒そうとしている仲間が、チラホラと森の中に散見される。
ミズオ率いる木こり隊の面々だ。
「おらぁ!」
「ほぁああ!」
「これが全速だらぁあああああ!」
皆、慣れない道具と行為に悪戦苦闘しつつも頑張っている。精神が男っぽい同属で結成した木こり隊なので、掛け声が暑苦しいのは御愛嬌である。
中には突進して斧を打ちつけているも者もあった。表面で弾かれた斧が飛び、非常に危険だったが。
他の同属も木こり隊のような隊を組んで、村予定地の地を均したり、食物を集めたり、周囲を探索していたりする。植物で服を作ってくれているチームもある。
隊と言っても各自やりたいことを同士を募って勝手にやっているような状況である。ミズオはそれを苦笑しつつ見守る様なポジションなので、群れの長としての責任は特に感じていない。
皆の動向を把握しておけばいいはずだ。
それぞれ人間の意識があるのだし、そうそう悪いこともないだろう。善良な人ばっかりだし。いずれは隊長なんかも決めたいが、皆の人となりを知らない現状ではそれも難しい。
いずれにせよ、このままでは木こり隊だけ成果なしになるかもしれない。
それは嫌なので何とかしたい。
「――――と言う訳で、どうしたらいいか分かる人」
煮詰ったので、一旦集まってアイディアを出してもらうことにした。木こり隊としてこの森に来ている二十の同属と円形に向き合いながら、ミズオは皆の顔を眺めた。
角の生えた獅子の頭に人間の上体、黒光りする硬い腕に、腰から下は馬。背には羽。多くの同属が一堂に会すと壮観である。うす暗い森の中で聳え立つ2mほどの怪物たち。シンと静まっているのが余計に怖い。
皆同じ姿をしているが細部は微妙に異なるし、各々鬣《たてがみ》のスタイルが違っていたりする。飾りをつけたお洒落な同属も多い。
声も同じ音が出るはずだが、己の記憶にある声と違和感が出たのか、それぞれ己の声を再現しようとしてそれぞれに違う声を出している。よって女性の意識を持つ個体は女性っぽい声を出し、男性は男性っぽい声を出していた。
つまり素体は同じでも、その姿や言動にはそれぞれ隠しきれない個性がにじみ出ているのだ。
その中で一人、真っ直ぐに手を上げる同属がいる。
「はい!」
「おお…じゃあケイジ君どうぞ」
元気良く手を挙げたのは、ケイジと名乗る自称・元高校二年生。目が大きく、体が小さめで愛嬌のある同属だ。
ケイジは自分のすぐ横の同属を手で紹介した。
「ムラサメさんがもう一本切り倒してました!」
「え、マジで?」
思わずミズオは呟いていた。
他の同属も同じ気持ちのようでどよめきが広がり、一点に視線が集まる。
石斧で切り倒せるのだろうか? ていうか無理じゃね? と思って、違う方法を聞くために集まったのだが、石斧で切り倒してしまった猛者がいたらしい。
ムラサメさんは45歳くらいの男だったと聞いている。寡黙な方だ。
自分の毛を引き抜いては不機嫌そうに鼻で笑う癖があり、お陰で顎の下の鬣《たてがみ》がまばらである。
肩に石斧を担いだ姿が凄く似合っているムラサメさんは、「大したことじゃねぇよ」とむっすり顔を歪めている。しかし割と動揺しているようで、髭をむっしむっしと引き抜いている。顎の下が不毛地帯になる日も遠くなさそうだ。
そんな照れ屋のムラサメさんに切り倒せた秘訣を聞くと、落ちついた調子でぽそぽそ語ってくれた。
力を一点に集めることが重要なのだという。
基本はゴルフのダウンスイング。この体の筋力で、体重を上手く乗せれば切れないことはないのだとか。
力を入れるタイミングさえ合えば、一発で半ばまで切り倒せるとムラサメさんは保障した。
「体重の移動がキモだな」
だそうである。
実際にやってもらうことにした。
先ほどミズオが1cm程しか抉れなかった木を見てもらうと、「何とかなりそうだ」とのこと。頼もしい。もうミズオがリーダーをしている意味が分からなくなってきた。ムラサメさんで良いのではないだろうか。
そんなモヤモヤを抱えつつ事態の推移を見守る。
ミズオが切ろうとしていたのは幹の直径が40cm程度の木だ。この森の中では太い方である。その木を前にムラサメさんが目を瞑って集中している。
思わず唾を飲み込むような緊張感が漂っているが、隣に居るケイジは特に何も感じていないようで小声で何やら話しかけてくる。
「いやぁ楽しみですね兄貴!」
「そうだな。もし俺たちにもできるようなら……兄貴?」
「あら。こっちの方が良く見えますぜ兄貴! ささっ、こちらへ……!」
「あ、ああ……」
なぜか舎弟ポジションに収まろうとしているケイジはさて置き、ムラサメさんの気配が濃密に膨れ上がる。
カッと目を見開いたムラサメさんが、立ち上がった。
元々座っていたわけではないが、下半身にある馬の後ろ脚で立ち上がったのだ。右肩の上に両手で捩じり掲げた石斧は4mの高みに達し、薄暗い森に差し込むほのかな木洩れ日をその刃に鈍く反射する。
その残光を引き連れて、体ごと斧が振り下ろされた。
斧は残光にて緩やかなカーブを描き、木へ突き刺さる。
コォンと快音が響き、一瞬の停滞。
ギシィ、と音が鳴り―――何かと思えばムラサメさんが歯を食いしばった音である――――ムラサメさんのむき出しの筋肉が盛り上がる。広背筋が膨張し、背中が二倍に膨れ上がったかのようだった。
直後突き刺さった斧が、ず、と進み、反対側の樹皮を内側から盛り上げ、へし折り、突き破った。
ぱぁん、と木片が飛び散る。
斜め一直線に傷がついた打ち入れ側とは正反対に、振り抜き側は爆発したような有様となった。
恐ろしいことに、ムラサメさんは一刀にて木の幹を両断してしまったのだ。
打ち降ろしの刃に幹を両断された木はムラサメさんとは反対側にゆっくりと倒れていく。周りの木々の枝を巻き込んで、メキメキとへし折りながら、やがて地に沈む。
腹に響く衝撃と舞い上がる落ち葉や土煙りを背後に、ムラサメさんが荒い息を整えつつ、「こいつぁ出来過ぎだな」と呟いた。
出来過ぎどころの話じゃない。
本当に同じ種族なのだろうかと疑問になる様な筋力の差である。
開いた口のふさがらないミズオの横で、ケイジが興奮に尻尾を振りまわしながら叫ぶ。
「すごいよムラサメさん! 僕にもその技を! いや、師匠と呼ばせてください!」
「俺にも頼むよムラサメ師匠!」
「木こりの師匠! 俺にも俺にも!」
やんややんやと皆に褒められ称えられ、ムラサメさんは「よせやい」と照れつつも満更でもなさそうである。
もはや実質的に、木こり隊の隊長はムラサメさんだろう。こんな風にして、隊長が自然と決まって行けばそれが一番だな、とミズオは思った。
何度か試すうち、やがてコツをつかんだ者が数名出てきて、それらが率先して木を切り倒し、木材は大量に手に入った。
森が無くなってしまうのであまり一か所から切らないように言い残し、ミズオは一度村へと戻って運搬要員を連れてくることにした。
今は枝を落とした丸太を引きずって村の予定地へと帰ってきているところである。ミズオ達は一馬力はある体躯を持っているので、木の運搬などお手の物だ。
隣では落とした枝を抱えたケイジが付いてきている。本当に舎弟になりそうな勢いだ。
まぁそれはさて置き。
「うーん、何から作るかなぁ」
材料が用意できそうなので、自然と思考は次のことに向く。
悩みながら両脇に丸太を抱えてずりずりと地面に跡を残しながら歩いていると、独り言を聞いたのか、ケイジがあれが欲しいこれが欲しいと次々に要望を上げ始めた。
「それでしたら安心して卵が産める家を作らなきゃってミナミさんが言ってました!」
「あ、食料を貯めておける建物があると便利だってホクトちゃんが呟いてましたよ!」
「いざという時のために柵がないとねぇってエゾウエのお姉さんが…」
「石斧を置いておく倉庫を作るかってホムラ君が…」
彼の口から出てくるのは全て伝聞系である。
仲間内の意識をかなり把握しているらしい。もちろん知らないこともあるだろうが、その性格からだろうか、彼には皆、つい口が軽くなるのだろう。
下っ端根性がにじみ出ている彼に要望を口にした皆はきっと、「だからお前(ケイジ)も手伝えよ」と暗に言っているのかもしれないが、どんな理由にせよ皆のしたいこと聞き集められる彼の存在は群れの長を任されているミズオにとって大きな助けとなりそうであった。
でもそれを伝えると変な方向に張り切りそうである。
黙って見ていると、視線に気づいたケイジは小首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、何でも無い。それよりも、その中から作るんなら最初は食料庫と産卵室か。まぁ交尾も隠れて森でするよりいいだろうしな」
どちらかと言うと産卵室が先だろう。
なんだか目がギラギラしている同属が居るので、放っておけばすぐに野外で始まってしまいそうなのだ。
すでに我慢できずに交尾してしまった者も居て、彼らのおかげで交尾しても死ぬことは無くなったことが確認できたのだから、何とも言えない気分になる。野外に産み落とした卵は速攻で小動物に持ち去られてしまったそうで、彼らは悲嘆に暮れている。
そんなことが無いようにと言う意味でもさっさと安全な産卵室を作った方がいい。
「しかし作ったら作ったでなぁ……」
基本、交尾に積極的なのは女性の意識を持つ同属で、襲われる側に属するミズオは溜息を禁じえない。この姿になってからは特にアプローチされていないので平和と言えば平和なのだが、嵐の前の静けさに思えて仕方が無いのだ。
そんなミズオの気も知らず、ケイジは安穏とした表情で、肩に抱え上げている枝の束をよいしょと抱え直す。彼は丸太ではなく削ぎ落した枝を運んでいた。
「そうですねぇ。僕もエゾウエのお姉さんとは隠れて愛を育みたいです。ていうか襲われたいです。性的に」
ぐふふ、とやに下がった表情でなにやら良からぬ想像をしているケイジに、なんとも幸せな奴だなぁとミズオは思う。
「……姉御はお前見て舌舐めずりしてたから大丈夫じゃないか?」
「ホントですか! ヒュー!」
無邪気に喜ぶケイジを連れて、ミズオは村予定地へと踏み込んだ。
村の予定地は丸い広場で、百人を超えた同属たちが無理なく過ごせるほどの広さである。
地均しも佳境のようで、燃え残った地面の切り株の下に差し込んだ枝を皆で押し、掘り出しているところだった。
広場の片隅には果実が積み上げてあり、広場の外から帰ってきた同属がさらに果実を追加して山を高くしている。
違う片隅では枝枝を積み重ねた先で何かを言い合いながらせわしなく手を動かしている一団もある。
探索に行った同属たちはまだ帰っていないようだ。
広場の中心に煌々と燃える大きな焚火の影が、夕暮れ時の広場で轟々と熱気を振りまいている。
火があると大型の生き物も寄り付かないようで、余計なトラブルを回避するためにも、日は一日中絶やさないようにしていた。
丸太を持ちかえったミズオとケイジは、同属の多くに迎えられた。彼らは作業を放り出して駆け寄ってくる。特にケイジなどあっという間に抱えていた枝を取り上げられ、もみくちゃにされている。
丸太はまだまだあるので、取りに行って欲しいと伝えると暇と力を持て余している若い意識の者たちが競うように駆けだして行った。
「えらく年輪の詰まった樹だな。こりゃ良い柱になるぞ」
「いやいや、長が持ち帰った最初の丸太だ。折角だから旗の竿にせんか。入口に立てたい」
「それいいね! 白い糸出す虫見つけたしあれで布作ろう! 枝の汁で染めて……煮出すための器作らなきゃ」
持ってきた丸太にも人が群がり、あれやこれやと意見が出始める。
精力的に会話をする仲間たちを遠巻きに眺めていると、近づいてくる影がある。
幾度か微生物の時に助けてくれた、女性の意識を持つ同属であった。彼女は「ベーコ」と名乗っている。
とにかく元気のいい奴で、今日もテンションが高かった。
「おかえりミズオーっ。コレ見てコレ見て!」
「うぉお……!?」
近づいてくるなり、ベーコはミズオの頬にぐいぐいと何かを押しつけてくる。果物のようだが、近過ぎて碌に見えもしない。
「これねぇ、さっき見つけたんだけど、もう、すっごい美味しいの。食え!」
「分かった、分かったから! 俺は頬から飯は食えねぇんだよ!」
「木の天辺にね、固まって生《な》ってたの。枝に並んで生えてて、重さで垂れ下がってて! こいつぁゲットだぜって取ってきたの!」
「お、おう……」
やたらと興奮している彼女から渡された果物を見る。
濃い赤色で、リンゴを彷彿とさせる大きさと堅さだ。水洗いでもしたのか表面に水滴が丸く浮いていた。
まずは一口。
前歯が突き刺さると同時、溢れだす果汁とその芳香が口いっぱいに広がった。
微かな甘みと、その内に太陽でも閉じ込めたかのような濃密なエネルギーを感じる。
果実を持っている手が、ブルブルと戦慄するほどの旨さ。
「――――――ッ! う、うめぇえッッッ! なんじゃこりゃ…!」
こんなに美味い物は……どれくらいぶりだろうか。今は懐かしき細胞時代以来かもしれない。
驚きに目を剥いてベーコを見ると、どうだ、と言わんばかりに鼻の穴を広げてふんぞり返っていた。
「ふふん、我が食料調達隊の収穫はこれだけじゃないよ! お次はこれだ!」
そして新たに差し出されたのはまた果実であった。
どこから出しているのかと見ればいつの間にか背に毛皮でできた袋のような物を背負っている。獣の死体から調達したのだろうか。
そして差し出された果実だが、大きさはサッカーボールほどもあり、見れば、なぜかマザーがひっ付いていた。
なぜ。
「あ、マザーだ」
ベーコも今気がついたらしい。マザーは艶々としたオレンジ色の実に張り付くようにしてして目を瞑っている。どうやら寝ているようだ。
最近は食糧事情がいいのかマザーもめっきり太ってきて、寝息の度にその丸い体が膨らんだり萎んだりしている。
産卵で力を振り絞ったせいかすぐ眠ってしまうらしいが、すぐに死ぬというわけでもないらしい。ミズオ含め彼女を慕う者は多いので、長生きしてほしい物である。
「うーん、すぐに食べて欲しかったけど、まぁいっか。あとでマザーと食べてね!」
困った顔をして、ベーコはミズオにマザーごとその大きな果実を押し付ける。
「他にも色々とあるし、名前も決めなきゃだからあとで調達隊のところに来るんだよー。」
彼女はそう言って風のように走り去る。
思わず追いかけようとしたのだが、入れ替わりのように他の同属が群がってくる。
「長《おさ》ー!」
「これをみてくれ長!」
お父さんに自慢したい盛りの子どものようだ。
相変わらず、皆ミズオが好き過ぎである。
とにかく報告を聞くことはできた。
上半身裸なのが恥ずかしいと服の作成を請け負ってくれた面々の一人は糸を出す虫を見せてくれた。一抱えもある大きな芋虫で、目は無くキューキューとキモイ声を出している。枝を這っているところを捕獲したとか。
他にも地均しの過程で見つけた綺麗な石とか、まっすぐの棒とか色々渡されて、ミズオの両手はいっぱいになった。
マザーは潰れても困るので果実から剥がして頭の上に置いている。
そうしているうちに探索していた面々が戻ってきて、興奮しながら周囲の状況を教えてくれる。
近くに川があり、その先には海があるらしい。周囲を囲む森は実りが豊富で、小動物は多いが危険はなさそうである。
他の集落に迷いこんだ者もいるらしい。
「ミズオさん、なんか食べ物貰ったよ! お土産も貰った! はい!」
「なんだと……」
土産は野牛の頭蓋骨を据えた、大ぶりの杖である。
軽く振ってみると頭蓋はカラカラと揺れるが外れる様子は無い。すごい技術であった。
「ぬぅ……」
とりあえず友好的な種族だったようでなによりである。
他にも肉食で獰猛な種族が集落を作っていたとか。巨大な生き物を集団で狩る種族を見かけたとか、防衛に関しても気をつけた方が良さそうである。
だが、今回作った斧が防衛にも役立つはずである。もっと増やしておくよう頼むかな、とミズオは思った。
一通りの情報を聞いたので、丸太を取りに行った若者たちが戻ってくる前に、食料調達隊の積み上げた山を見に行くことにした。
食料調達に名乗りを上げたのは皆食べるのが大好きな同属なので、そこではすでに食べ過ぎて寝転がっている者が多数。うめき声をあげている。
それらを尻尾で撫でたりしながら避けて歩いていると、ベーコが目を細めて広場の中心を、同属たちを見ていた。
「すごいねぇ」
何やら感じ入った様子でうんうんと頷いている。
彼女と並び立って視線を追ってみると、空はうす暗くなりつつあって、焚火に照らされ影法師となった同属たちが喧々諤々、夜の帳を跳ね返すような活力を持って言葉をぶつけあっていた。
広場の隅ではすでに寝ている者がいたり、新たに焚火をしている者、草笛を鳴らしている者。川に潜ってきたのかびしょ濡れで体を乾かしている者なんかも居る。みんな好き勝手しているようだ。
ベーコは目を輝かせて嬉しそうに呟いた。
「皆生き生きしてる」
「元気だよなぁ」
しみじみとミズオも呟いた。
夕方の風が湿度のある空気を運んできて、ミズオとナオの毛をわさわさと揺らした。
ご飯も食べられるし、いずれ雨露をしのぐ家屋もできる。身を包む服もできるだろうし、衣食住はこれで問題ないだろう。
しかし何かが足りないような。
「ううむ、なんとも難しい」
「何がー?」
唸っているとベーコが顔を覗き込んで来る。
そう言えばこんなに至近距離で誰かと話すこともなかったな、と人間の頃を懐かしく思った。今は、交尾やらなんやらの経験で随分とパーソナルスペースが狭くなったような気がする。
ミズオは笑って誤魔化した。
「いや、大したことじゃないって」
「えー。勿体ぶらずに話せよぅ」
口を尖らせたベーコは皆を見渡し、尻尾を揺らしてぺそぺそとミズオの尻を何度か叩き、そして唐突に話題を変えた。
言葉とは裏腹にあんまり興味はなかったらしい。
「そう言えば聞いた? 他の村の話」
「ん? ああ。お土産な。この杖だよ」
「ええ、それなの!」
なんだか、ミズオの持ちモノとなってしまったその杖は、まるで群れの長の象徴のような厳めしさである。ミズオもちょっと気に入ってしまった。
ベーコも感心した様子で、野牛の頭蓋を撫で回している。
「これはすごい……。何かお返ししたいね!」
「お返しか……ん?」
お返し、と聞いて、ミズオはピンと来た。
今の生活にかけている物に思い当たったのだ。
「そうだな。俺たちの生活には、アレが足りない」
「アレ?」
首を傾げるベーコに、ミズオは頷いた。かつての己を構成する一部であり、それはこの体になってもしっかりと受け継がれている。思いつけば体が疼いてきた。
「そう、文化的な物が足りないんだよ。絵とか――――――歌と踊りとか」
「う、うん?」
決意のままにミズオは拳を握る。
「お返しに、素晴らしいショーを見せてやろうじゃねぇか」
「お、おー?」
よく分かっていないながらも握りこぶしを作るベーコはほっといて、これは良い案だとミズオはほくそ笑むのだった。