強い日差しが照りつけ、肌を焦がす。街路樹ではアブラゼミとミンミンゼミがけたたましく合奏していた。
夏休みに入ったのだろう、部活帰りの中学生達がふざけあいながら歩いている。それを見て何か思う事でもあったのか、妙に哲学者めいた表情で、休憩中である工事現場のおじさんがペットボトルのお茶を煽った。
自分という自称もさすがに往生際が悪い。そろそろもう「僕」と言っても良いのかもしれない。もっと大人になれば、以前とは違うニュアンスでもって「私」という自称を使えるようになるのだろうけど……うん。未だにいろいろ慣れないものを感じる。肉体的な変化は割と平気だったのに、こういう部分で慣れないというのはどういう事なのだか。部屋の内装や小物の趣味もまたちょっと少女趣味が入ってしまっているものだったりする。今更女装したいなどとは思えないのに何故なのか、まったく不思議なものだった。
ジュエルシードの事件より数ヶ月が経っていた。
夏休みに入ったので自由な時間も増えている。もちろん宿題などは最初の三日で片付けてあった。
いつものように海鳴市に散策しに行き、商店街をぶらぶら歩いた。闇の書事件への対応をどうしようかと考えながら。
ここまで関わる事じゃないだろう、という思いもまたある。
ただ、ジュエルシードの一件のことを考えると、力を持たなくても物語には簡単に影響を与える事ができてしまった。ならこの先知っている通りに進むかはまったく判らない。
「まったく、怖いなあ……」
ため息を吐く。なまじ妙な記憶を持っているからこそ怖い。きっと本来の物語のあれ、闇の書の解決は相当綱渡りの上での成果だった。いや多分描かれていないところでちゃんと何とかなるような体勢も整えていたのだろうけど……そう信じたい。
闇の書事件については、ジュエルシードの一件とは違い、期間を縮めれば良いというものでもないと思うのだ。
ギル・グレアム提督、時空管理局、ヴォルケンリッター、それぞれの思惑があり下手にタイミングがずれたりすると途端に悲劇が待っている……なんて事になりかねない。
結局の所、情報収集だけは欠かさないようにして、臨機応変に対処するしかないのだろう。行き当たりばったり、でたとこまかせも良いところだった。
何も知らない振りをして逃げてしまえ、耳を塞ぎ、目を閉じ普通に暮らしていけば良い。きっとあの頼りになる主人公達が何とかしてくれる。
そんな誘惑の言葉が脳裏によぎる。
「なんて事ができたらなあ……」
小心な自分の性格は把握している。今の状態で逃げ出したら、それはもうウジウジと悩みに悩んで不安と後悔に苛まれて、胃に穴でも開いてしまうに違いない。せめて、大丈夫だという確信を得ておきたいものだった。
◇
足繁く海鳴市に通っているのは、情報を得るためや地理を体に覚え込ませるという面白みのない事とは別にちょっとした楽しみもある。
商店街など歩いていると、たまーに高町恭也を目にしたりもするのだ。しゅっとしている。タレント的な格好よさではないものの、精悍と言えば良いのだろうか。そして武術をやっているだけあって、歩く姿勢が非常に良い。まあ、生まれる前の感覚を引きずっているのかもしれない。ちょっとしたファン心理が働いていた。声も良い。いつか自爆について言及する台詞を引き出したいものだった。
……といっても、それはどちらかというと過去の自分の感性を懐かしんでいるような感じもあり、何とも複雑であったりもする。
多分「僕」自身はもう恋には無縁になってしまっているのだろう。
異性として男性を見る事も出来ないし、異性として女性を見る事もできない。ちなみに元から同性愛には興味がない。まったく難儀なものだった。
そして本来の物語の主人公たる高町なのは、彼女は非常に可愛い。元気で明るく、何より真っ直ぐな優しさで溢れている。
覚え違いなのか、あるいはどこかで知識が何かと混ざったのかそうあまり「なのなの」とは言っていないようだった。ちょっと聞いてみたかったのだけども。
別につけ回したりしているわけでもない。どうにも高町家の面々というのは目立つのだ。オーラが違うと言えば良いのだろうか。大衆に紛れ込み、埋没するのが得意な自分とはまったくもって逆を向いている。正直羨ましいと思わないでもないが、文字通り生まれる前から自分に対して諦める事には慣れていた。
その日も商店街を冷やかしながら散策している時のこと。
すれ違った、とある三人組に目が釘付けになってしまった。
日に照らされるとオレンジ色にも見える、暖かい髪の色をした小さな女の子、ツインテールを作っている。小学校に上がったかどうか、そんな年頃だろうか、活発な印象の子だった。その子が手を繋いでいる二人……そう、何か違和感を感じたのだ。
見た目が明らかに日本人離れしているからというわけでもない。大体海鳴に住んでいる人は結構多国籍なので、外国の人が珍しいというわけではないのだ。
何か記憶にひっかかる。どこかで見た事があるような。
その元気そうな子の手を握っている二人のうち片側の男性は、柔和な笑みを浮かべ、辺りを物珍しげに見回している。細身で身ごなしも軽く、育ちの良さを感じさせた。顔立ちは整い、いかにも日本人の女の子受けしそうな容姿でもある。若干くすんでいるものの髪の色が少女とよく似ていた。
もう片方は……何と言えば良いのだろうか。綺麗な少女だった。男性と一緒に並んでいるので余計目立ってしまうが、小柄なようだ。漂白でもされたかのように色が白く、髪もまたプラチナブロンド、むしろ銀髪と言ってもいいかもしれない。小柄なのにスタイルは……胸が揺れている、ありえん。バランスがとれているのは、全体的に細身なのと、顔もまた小さいせいだろう。北欧、いやロシアの雪景色か、そんな風景によく似合いそうな少女だった。強く触れば壊れてしまいそうな妖精じみた美しさがある。
ただ残念だったのは表情があまりに生き生きとしすぎているということか。ドールのように整った顔をしているというのに、それが感情につれてころころ変わる様子は何とも言えないもどかしさを覚える。無表情か、モデルがよく浮かべる微笑、そんな表情であればぴったり合うというのに、その一点が美しさを台無しにしていた。
しかしどういう組み合わせなのかよく分からない。三人の兄弟姉妹と言うにはちょっと違うようだし、若い夫と妻というにはあまりに妻が少女すぎる。今の自分と同じくらい、小学校と中学校の間くらいの年齢にしか見えないのだ。友人というにはちょっと距離が近すぎるというか家族的な感じしかしないし、不思議な三人だった。
興味をそそられるがままに、商店街の人の波に混ざって目立たないよう聞き耳を立てていると聞き捨てならぬ名前が。
「ティーダ? それにティアナって……はあ?」
っと、勘が鋭いようだ。口の中でつぶやいただけだったのに、銀髪の少女がきょろきょろと不審気に見回している。
しかし思い起こせば確かに少女には……ティアナ・ランスターの面影が、とするとあの男性がティーダ・ランスターか。作中ではティアナ・ランスターの過去を語る中でしか出てきてないと思ったが……確か21才で殉職してしまうはず。いや、それ以前になぜ地球に居る? 首都航空隊勤務ではなかったか? プライベートな旅行? いや、わざわざ海鳴市を選んで来るなんて天文学的な確率になる。何か理由があるはず。一体、一体どういう事なのか……
混乱する頭を抱えながらも、もはや習性となっているかのように、周囲に混ざり込み、付きまとってみた。
どうやら日用品を買い出しに来ているらしい。皿やグラスなども買っている。趣味はどちらかというと実用的で、あまりデザインにはこだわらないようだ。しかし三人で楽しそうである。ああいうのを見ていると切実に出会いが欲しくなる。いや、だからといって恋人は出来ないだろうけど。むう妬ましや。
馴染みであるかのように翠屋に入っていく姿を見送った後、怪しまれないように少し間を置いて入店する。どうやらあの三人は奥まった窓際の席に陣取ったらしい。応対に出てきたウエイトレスさんに、窓際が良いんですが、と示して仕切り板を挟んだ隣のテーブルに座らせてもらった。
注文したのはカフェオレとチョコバナナサンデー。先程ちょっと時間をとった時に買った本を取り出し、時間つぶしでもしている風を装う。
しばらく待つとウエイトレスさん……余裕が無かったので先程は気にしてなかったのだけど、高町なのはのお姉さん、ええと美由希さんだったか、が注文した品を持ってきてくれた。しおりを挟み、本を置く。
バナナの乗ったアイス部分にスプーンを入れ一口。もっちり、ふわとろ。濃厚アイスクリームだ。バナナは柔らかく甘みも強いはずなのに、この濃厚アイスクリームの後に食べると不思議とあっさり感が強く、そのギャップがまた面白い。そしてこのかかっているチョコレートシロップがまた本格的で……
「んぅー」
思わず満足気な呻きが出てしまう。
チョコバナナサンデーなんて誰が作っても同じようなものと思いきや、さすがだった。何度か雑誌でも取材されてるお店だけのことはある。美味いでござる美味いでござる。
なんて夢中になっている間に、高町兄妹もまた先程の三人と一緒の席で歓談を始めたようだった。時計を見るとランチタイムが終了したらしい、忙しい時間を抜けたので休憩にでも入ったのだろう。
カフェオレを少しすすり、また読みかけの本を開く。何食わぬ顔で、仕切り越しの会話に耳を澄ませた。
どうやらあの全体的に真っ白い少女はツバサと言うらしい。呼び方が君だかちゃんだかで安定しないが、何なのだろうか。しかし、道すがら話していた感じだとティーダ・ランスターはティーノと呼びかけていた。どっちか偽名なのかもしれない。
高町恭也、美由希兄妹とはかねてからの知り合いらしい。ただ、ティーダ・ランスターと共に居るってことは多分管理局絡みの人間なんだろう。
記憶の中の物語にはこんな人物はいなかった。
いや、記憶を頼りにしすぎているのかもしれない。またはこれもバタフライ効果の一端だと言うのだろうか。
だとしたらどこがどうなってこうなったのだか……
考えに没頭し、カフェオレをまた一口飲もうとして空になっている事に気付いた。
◇
その日以降、記憶の中の物語には存在しない人物、ツバサの情報を集める事に集中した。
幸い彼等は自分たちが見張られているとは思っていないようで、監視カメラやら野外用集音器などを一時的に設置しておくだけでもかなりの情報を得る事ができていた。
まず、管理局の魔導師であることは間違いないようだ。街中でも普通に次元世界の話などしている時もある。隠す気が無いというより、この世界だと聞かれたところでSF小説か何かにしか思われないという判断なのだろう。時折ぼかすような表現をするところをみると、さすがにこの世界では軽々しく口にできないような事もあるのだろうけど。
十日ほどもそうやってひたすら情報を集めていたのだが……
正直考えあぐねていた。
ティーノ、こちらの世界の人相手にはツバサと名乗る少女、彼女がどうにもよく判らない。
グレアム提督の名前やリーゼアリア、リーゼロッテという名前、さらにはクロノ・ハラオウンという名前も出ていた。
そしてランスター家とのつながり……というかほとんどあれは夫婦だろう。本人達が無自覚なのがまたタチが悪い。見ていて何度か砂糖を吐いた。口直しに塩飴は必須である。まあ、知っている物語そのものにはティアナ・ランスターにああいう年上の姉のような存在は出てこない。となると、この後ティーダ・ランスター共々殉職してしまったということなのかもしれない。
……あるいは「自分と同じような存在」か。
自分だけが特別、なんてことがいかに有り得ないものか、生まれる前からよく知っている。
未だに会った事はないが、生まれ変わりなんてプロセスを経たのが自分だけだとは考えられない事でもあった。
とすれば、グレアム提督や猫の使い魔、高町家とも知己であり、クロノ・ハラオウンとも接触のある彼女によって事態がどう動かされているか、まったく読めない事になる。
もし自分があの立場であれば、闇の書の危険性はよく知っているはずだし、既に管理局内で動いているかもしれず。その為の人的つながりと見ることもまたできる。こちらが何か要らない手を入れる事で変にこじらせる可能性だってあった。
「ああもうまったく……」
髪をかきむしる。自分から出るなんて趣味じゃないのに。今回はこれしか思いつかない。
机の中から箱を取り出す。鍵を開け、さらに何重にも紙で包まれた宝石を取り出した。極力触らないように、束の間その青い輝きに見惚れる。
交渉の切り札に、とも考えていた、最初に拾ったジュエルシードだった。どのみち個人で持つには危険すぎる。いずれは管理局に渡そうとは思っていたものだ。
まだ幼いティアナ・ランスターはなんで居るのかよくわからないが、ティーノとティーダ・ランスターについては先の事件の現場調査をしているということは知っている。ジュエルシードを見せれば見過ごせないはずだった。
入念に準備をする。おびき寄せ、導くルートを選定し、多少変更があってもすぐにリカバリーできる柔軟性を持ったプラン、これを考えるのに丸二日もかかってしまった。
またゲームセンターで目星をつけてあった、同じくらいの背丈の子に自分と似たような服を着させ、攪乱用に動いて貰う。ちょっとしたお小遣いで動いてくれた。
聞きかじった限りでは、管理局の魔導師はどうやらこの管理外世界では魔法の使用に制限がつくようなのだ。おそらくだが、こちらが地元の民間人である限り、おおぴらに魔法を使用してくる可能性は低いということでもある。それがこちら側のつけいる隙になる。
魔法を使わないただの人であるなら何とかなるのだ。懐から手帳を取り出し開く。これまでのティーダ・ランスターとティーノ二人の動きを判る限りで記録しておいた。観測点はかなりの数になるようで、連日観測データをとる時もあれば、一日置き、二日置きにデータを取りに行くポイントもあるようだ。それによって一人で動く時もあれば二人で一緒に動いている時もある。今回については、もっともその2人の物理的な距離が開く時のパターンだった。その帰りを狙い、おびき寄せ、接触を図る。
時折動向を確認しながら待つ。緊張に手が震えた。
◇
さて、あのやたら綺麗な少女、ティーノと接触してみれば、思っていたよりさらに一枚上を行く単純さだった。
「お、またこけた」
持ち主には迷惑だろうが、壁に貼らせてもらったミラーフィルムの罠にかかったらしい。いやまあ、全力疾走しているときにかき消えるようにターゲットが消えれば足元もお留守になるか。紐張ってあっただけなので、本当に子供のいたずらレベルなのだが。それに、こんな年齢の子供があちこち罠を張って誘い込んでいるとかは普通思わないだろうし、うん。判らなくもない。
そして、大きく距離を引き離すための仕掛けがある河川、橋の下あたりで接触を計る。
テトラポットに座り、息を整える。自分を出してはいけない。個性を極力押しつぶすように、物語を読み解く第三者であるように振る舞うのだ。これからは言葉の駆け引きも混じるのだから。
「遅かったね、時空管理局のお姉さん」
そう声をかける。かなり面食らった様子だ。管理局の名前を出した事でイニシアチブは一先ず取れたようだった。
驚きの後、名前を名乗ってきた。ここでやっとファミリーネームが判った。アルメーラさんというらしい。空曹、空曹か……管理局の空曹って言うのがちょっとピンとこない。
何も返さないのもあれなのでこちらも名乗っておくと。
「トキノ……トキに野原?」
後半はぼそっとつぶやくようだった……好きなように呼んでと言いかけ、違和感を覚えた。そう、漢字だ。彼女は漢字を理解している。
なるほど、これは……うん。カマをかけてみるとしよう。
「ところで、プレシア・テスタロッサは元気にしてるかな?」
そう声をかけると目を細め、あからさまに警戒している様子になった。
何というか可愛くてならない。こうも引っかってくれると、なんだかたまらない気持ちになってしまう。お前はそれでも女なのかと、そんなあからさまに表情が出てはバレバレだった。
どうやら今の反応からするとプレシア・テスタロッサは生きているらしい。予測のうちの一つではあったが……死ぬ人が生き延びられたならそれはそれで良い結果だろう。
考える暇を与えないために、用意しておいたジュエルシードをいとも軽々しく投げ渡した。
ティーノ・アルメーラはひどく慌てた様子でそれを受け取り、顔をしかめた後、デバイスに格納する。
……しかし起動状態のデバイスを生で見るのは初めてなのだが、何というか随分重量感があるものだった。というかでかすぎないだろうかそれ。少女が持つような物体じゃない。ところどころに頑強そうなフレームが付けられてるし、杖というより槌だろうと言いたい。声を大にして言いたい。
いや、少し呆気にとられてしまった。いきなりごついものを出すから。
こほんと小さく咳払いをし、ペースを取り戻す。そう、見透かしているかのように、手の上で何もかも動かしている策士気取りで雄弁に。
「それはフェイト・テスタロッサが回収に失敗した一個だよ。それにより、事態は本来より一つのズレを生じた」
目の前の少女はそれほど驚いてはいないようだ。目は細めているけど。
「事態は基点を少しだけずらされ、上に積もった形は本来と違うものになる。焦りを抱えたテスタロッサは本来の力を発揮することができず、ジュエルシードはその多数が高町なのはの元へ、それを通じ管理局へ渡る事になった」
ってなところだろう。実際にはジュエルシードを高町なのはが多数回収せしめたかは未確認。テスタロッサ側はある程度動向確認もできていたが。
本来と違うもの、という言葉を入れてみたが反応しない。これは違う……かな?
「情報を持つ者が少しだけ違った場所に居る、それだけでも違う。傷ついたアルフは善意の第三者の手により運ばれ、迅速に情報を提供する事ができ、結果的にプレシア・テスタロッサの制圧時期については早まる事となった」
かもしれない。実際に早まったのかどうかまでは判らない。いや、これも驚かないか。
「概ね、予測の範囲に事は収まった。掌の上で全てを踊らせる事なんて到底できないが、それなりに上手くいったのだろう……ただ、ここに来て一つ、大きすぎる齟齬が生まれた」
勿体ぶったように言い、座っていたテトラポッドの上に立つ。
表情の変化を見のがさないように注視しながら言った。
「ティーノ・アルメーラ……あなたは誰だ?」
……なんて。その後も二言三言交わすもどうも要領を得ない。僕と同じような存在ではないかと疑ったが、カマかけどころか、直接的に言っても誤魔化すような素振りは無かった。
この少女の性格については大体読めている。誤魔化したり嘘をつけばおそらく判るはず。
だとすると、バタフライ効果がどこかで起こったか。プレシア・テスタロッサが生きていたのならそれはかなり大きな変化とも言える。それがさらに波紋を呼んでもおかしくはない。グレアム提督ともつながりがあるようだし、あるいはその関係……本人は意図せずともグレアム提督の思惑で動かされている可能性もあるか。
ふ、と息を抜く。あまり時間をかけているともう一方、ティーダ・ランスターが駆けつけてくるかもしれない。ジュエルシードも渡せた事だし、ここはそろそろ引くとしよう。
そのまま後ろに軽く飛ぶ。
ある程度の深さがあるのは確認済だった。
仕掛けと言っても単純なもので、向こう岸の鉄杭にロープを結びつけてある。流れに任せておけば勝手に向こう岸に行き着けるようにしてあった。実験したところ流れに乗って変なゴミでも当たってこなければ割と楽に渡れるようだ、渡った先は高低差のためか複雑な地形になっていて、橋から通じる道からは回り込んだ道でしか繋がっていない。古い住宅地の隙間から通り抜けられる道もあり、人を撒くのには絶好の場所だった。木々に覆い隠されていて上空から確認されにくいのもまたここを選んだポイントだったりする。
「と、え……」
驚いたのは、こちらが川に落ちると間髪入れずに少女が走った勢いのままに飛び込んできた事だった。
服着てるんだから少しは躊躇しろ、というか魔導師なんだから無茶すんなと言いたい。
いや本当にこの少女、魔導師か? 戦闘機人じゃないのか? いやそれだったら沈みそうな気がするが。えらい勢いでざぱぱぱぱと水しぶきを上げ迫ってきている。こちらを心配するような声をかけてきた。何となく……ちょっと申し訳ない気分になってしまう。
ロープがぴんと張った。ぐぇと漏れそうになる声を抑える。川の流れのままに動いていた勢いが止まり、向こう岸に動き出した。
何やら叫びながらも川の流れには抗えず押し流されていく少女に手を振っておく。うむ、今度機会があったらケーキでもおごるとしようか、お人好しなティーノ・アルメーラに。
川の水が鼻に入り咳き込む。口の中に詰めていた綿がついでに吐き出されてしまった。
◇
ある程度予想していた事だったが、その後海鳴市にはとても近づきにくくなった。
当然ながらそんな怪しい接触をしてきた人物を放置できるわけもなく、探されているようなのだ。
と言っても、あまり心配はしていない。管理外世界の事であるし、ロストロギアをまだ持っている可能性があれば別だろうが……今回渡したジュエルシードで数は揃った、そう本腰を入れてはこないだろうという予測だった。今来ているティーダとティーノ両名も任期が終了すれば管理局に戻るはず。今は何食わぬ顔で生活しほとぼりを冷ましていれば良い。闇の書事件まではまだ時間がある。トキノなんて名字は付近でもこの家くらいしか無い。逆にあからさま過ぎて偽名扱いすることだろう。騙し合いの中に真実を混ぜてもそれは嘘としか思われない……なんて。うん、いろいろ前向きに考えてはいるものの、緊張してつい口から出てしまっただけだったりした。今になって後悔しているが手遅れも良い所だろう。
とはいえ、あの程度の接触ならそう重要人物とは見なされないだろうし、管理局もいつまでも関わってくるほど暇じゃないと思うのだ。
しばらく経った頃、頭を抱える事になっていた。まさか現地に合った形で調査の手を広げてくるとは想像していない。記憶の中の管理局のイメージにより先入観が出来てしまったとでも言うのか。
張り紙が張られ、またその手の人探しでも雇ったのか、かつて攪乱のために手伝って貰った少年達から妙な聞き込みを受けたとフリーメールに連絡が入っていたりもした。
律儀に連絡してくれてありがたいのだが、その少年達に合ってお願いするときも一々細かく見た目を変えたりしている。印象はちぐはぐなはず。そこからたどられる事はないだろうが……
また新聞の尋ね人の欄にも妙な一文が載っていた事がある。失せ物『宝石の種』を持ち込んできてくれた方、依頼主が探しておりますお礼を差し上げたく……うんぬん。
結構こういうのって掲載にもお金かかるはずなのだが、そこまでするか……いやまあ見つけられたら見つけられたで管理局も悪の組織ってわけじゃないだろうし、魔法の素質はないだろうから問題ないと言えば問題ないのだが。できればこのまま諦めて欲しい。闇の書関係の情報集めにも出向けない。
悶々としながらも身動き取れず、いつの間にか秋も深まってきた頃、学校からの帰り道、見知らぬ子供に絡まれた。
「こんにちわ土岐野 実さん。ロストロギア回収の件でお伺いしました」
人違いですと言いそうになったが、口をつぐむ。フルネーム、そして学校の帰り道に待ち伏せ……よく調べてある。これは駄目か。見た目自分より2、3歳下だろうか、いや……地球とは水準が違う。管理局の魔導師なら見た目の年齢で推し量る事はできない。
どう突き止めたのか聞いてみれば、どうやら名前での探索などは最初から行わず、似たような年格好の子の目撃情報を丁寧に集め、さらには周辺地域の小中学校で海鳴市で目撃された時間帯に不在だった子供という条件で絞っていったらしい。堂々と本名を名乗られているのだったらそっちから調べれば良かったですね、とか言われた。
まあなんだ。正直そこまでやるか、と思う。管理局って案外暇なのかと問い詰めたい。
頭痛を感じながらも、詳しい話をしたいというので、その子に続いて近くのカフェに入った。
そこで聞かされた話はもう、頭痛を感じるなんてもんじゃなかった。
どちらかというと現実逃避をしたくなる。
なんでも目の前で甘そうなミルクコーヒーを飲んでいる子供は、管理局の関係ではないらしい。
「グレイゴースト?」
「ええ、来訪者達の保護を目的とした次元世界のNGO団体です。本拠はミッドチルダ北部ベルカ自治区にあり、来訪者達の情報交換、生活、就職支援などを行っています」
来訪者というのは、要するに僕のような存在の事を指して言うのだとか。意識のどこかでこの世界に「来た」という意識があることからそんなネーミングになったらしい。
どうも来訪者達というのは様々な出現の仕方があるようで、普通に生まれてくる場合はむしろ稀なんだとか。
その場合生活のバックボーンを持たず、さらに社会にも馴染めない。苦労する事が多いらしい。さらには、大抵がレアスキルじみた能力を持っていて、しかもその使い方はなぜか理解できているために、そのまま犯罪者になってしまうケースも後を絶たないのだとか。そんな事情もあって、互助組織的なものとしてグレイゴーストを設立したらしい。
……頭痛が痛い。そんなアホな事を言いたくなる。
もはや本来の物語がどうとか、そういうレベルじゃない。
そりゃ、僕のような存在が1人だけって事はないと思ってはいたが、まさか管理局と交渉できるほどの組織を作り上げてしまう程に数が居るとは予想外にも程がある。
また来訪者というものを聞くにつれて、ある意味ではやはり自分の選択が正しかったという事も判った。
記憶が曖昧になっているらしい。個人差は相当あるようだったが……よく覚えている者でも、せいぜいがとこ自分がどういう生活をしていたか、どんなものを食べていたか、などなど非常に断片的な記憶でしかないと言う。関連する単語を聞かされた時などはふと蘇る記憶もあると言うが、それもまたぶつ切りの記憶でしかなく、脈絡というものが一切無いのだとか。
またその能力についても話してくれた。そちらもまた十人十色で例えば視線でもって人を支配してしまうもの、あるいは意識の中を覗き見てしまうもの、あるいは攻撃的なものなど様々らしい。その為、非合法組織などからも魔導師では出来ない事もやれる存在として非常に重宝され、当初懸賞金をかけられて捕縛されていたことなどもあったという。
カップに口をつける。温くなってしまったコーヒーはあまり美味しくない。
目の前の子、デュレンと名乗ったがこの子はまだ気付いていないのだろうか。いや……多分気付いている。僕が来訪者達が失ってしまったはずの記憶、それを保持していることを。あるいはそれに類する情報系の能力を持っていると思われているか。
わざわざ人を支配できるだとか、意識の中を覗きこむだとか、そんな例を挙げる事自体気付いている証拠だろう。遠回しな恫喝のようなものだ。
これは観念する時か、半ば諦めた思いになり、要求を聞いたところ……えらくあっけないものだった。
グレイゴーストに所属してほしいのだと言う。
出されたのは一枚の書類、契約書か……規約を読むと、まあ、大雑把に言うと来訪者があまり常識から逸脱した行為をした場合はグレイゴースト側から罰則があり、あまりに悪質な場合は管理局に突き出すというような事が書かれている。書き込む欄は名前と能力の詳細、生活基盤がある場合にはそこの住所、そして連絡先くらいだった。
しかしまあ、規約を読んでみるとかなり緩い。これで良いのだろうか……?
不思議に思ったのが表に出ていたかもしれない。デュレン君に笑われた。
あくまで来訪者保護の組織であり官憲ではないと言う。
また報告も兼ねて毎月、来訪者達が自分達で発行している月刊誌が届いたりするらしい。セミナーや講習会などのお知らせ、求人情報なども掲載しているのだとか。
ともあれ、心配していたようなものではなくて安心した。
ほっと胸をなで下ろしたのだが、問題は能力の書き込み欄である。いや多分、ここで隠しても良い事にはならないだろう。恐らく管理局のティーノ・アルメーラを通じて話した事は伝わっているはずだし、能力が無しというのは信じてくれるとは思えない。支配、あるいは意識を探る系の能力を持つ人間が居るというのは、あるいははったりかもしれないが、それに賭けるのはリスクが高すぎる。
しばらく悩んだ末、打ち明ける事にした。闇の書事件がどう動くかも怪しいし、先延ばしもまたリスクがある。今言っておくのが一番なのだろう。
記憶がほぼ残っている事、その中で覚えているアニメの物語がそのままこの世界のものと被る事。アニメとか聞いた時、最初は眉をひそめ、何を言っているんだと言うような表情だったデュレン君も、闇の書が実は夜天の書であった、なんて事まで話が進む頃にはすっかり真顔になっていた。
……真顔過ぎる。やはりというか何というか、相当のレアケースだったらしい。断片的な記憶を持っている人間ばかりで、完全に覚えている人というのが居なかったのだとか。
デュレン君が上と連絡を取り合った結果、グレイゴーストの本部で話して欲しいという。
正直、えー、とでもぼやきたいところだった。ぱっとしない生前の自分なんてそうそう語りたい過去じゃないのだ。
いやまあ、本当なら危機感を覚えなくてはいけない場面なのだろうけど、生憎、安堵の方が大きかった。この記憶、世界を先読みできるほどの知識、自分でも相当重荷になっていたらしい。共有してくれるというなら願ったりかなったと言ったところだろう。
翌日にはグレイゴーストの本部に到着していた。
家族の方には、どこからか大人2人が現れ、親を説得する。僕はどうやら原因不明の難病の検査により一週間ほど学校を病欠する事になったらしい。もちろん普通ならそんな事信じないのだが……信じてしまった。弱くではあるもののデュレンが何かしら自ら能力を使ったのだと言う。能力というものがどういうものなのか、それを実感してほしかったのだと言うが、正直あまり良い気分はしない。
ミッドチルダという場所がどういうところなのか内心かなり楽しみだったのだが、残念ながら悠長に観光する機会はなかった。
本当なら、定期運航されている次元航行船でのんびり行くらしいのだが、グレイゴースト側の手配により管理局員も派遣され、転移により最短距離で行く事になったのだとか。次元空間が安定していたのも良かったらしい。
本部と言ってもそう変わった建物というわけでもなかった。
ベルカ自治区の建築様式がそうなのかもしれないが、何というか、いかにも洋館と言った感じの建物である。
物静かなたたずまいとは違い、中に入るとかなり忙しく人が動いている様子である。ぶっちゃけ言葉が通じないので言っている意味が判らないのだが、新聞社の編集を連想させる感じだった。
さて、ついてしまえば最早まな板の上の鯉である。人事を束ねている人というのが出てきて「今回は特殊で重要なケースだから」という事で遮音室に連れていかれる。話が漏れないようにという配慮らしい。
プライベートな事以外、洗いざらいを語り終えたのは三日も経とうかという頃だった。
記憶というのは言葉にすると莫大な量になるものらしい。もちろんその三日間ずっと喋りっぱなしだったわけではないが。
ともかくこれで重荷を下ろせた気がする。その知識を使って何をするかはもう完全に僕の手を離れた。
……と言っても、あの物語のようにはいかないだろう。既にしてかなりの差違もあるのだし。指針程度にはなるのだろうけど。
またジュエルシードについては回収に力を貸した事により金一封を貰った。管理局からの報奨らしい。
そしてこの記憶の事については人には決して漏らさないようにと注意を受ける。言われずとも話す気はないが……何でも、グレイゴースト側でもまたこの記憶の件に関しては一部の人間に教えるのみで留める方針だと言う。来訪者の根本に関わる問題だったし、闇の書の事など「これから起こるはずの事件」に不用意に手を突っ込みかねない人もまた多いのだとか。統制にはなかなか苦労している様子だった。
二日ほど観光でベルカ自治区を見物させてもらい、大いに楽しんだ。地球レベルから見るとまるっきりSFの世界なのだ。売っているお土産一つとってしても面白いものが多い。買っても地球への持ち込みは制限されるらしいのでお土産として持ち帰れるのは生活雑貨くらいのようだが。とりあえずシャンプー、コンディショナー、基礎化粧品、爪切り、鼻毛切り、などなど。
買い物に付き合って貰ったデュレン君には呆れられた。そういえば、このデュレン君は我らが主人公、砲撃少女高町なのはに懸想しているらしい。なんでも以前会った事があるらしく、とても照れながら話してくれた。というか、地球出身らしいし、そんなに気になるなら次元世界に居ないで海鳴に住み着いてしまえば良いのに……と言ったら、それは、デュレン君が男として何か駄目らしい。いっぱしになってから改めて声をかけるとか言っているが、ううむ……ユーノ君という厚い壁があると思うのだが……まあ、人の色恋に口を突っ込むほど野暮はない。
◇
地球に戻り、以前の生活にもまた復帰した。検査入院の結果、ただの誤診だったという事になっている。その事に対して疑問を感じさせないのが来訪者たちの使った能力の怖いところだとも思う。
闇の書事件の経過が気になり、時折海鳴市をうろついたり、高台から望遠鏡で覗きこんだりもするのだけど……ジュエルシードの事件の時とは違って、何かある度に結界を張っているのだろう。観測する事はとうとうできなかった。クリスマスの日も同様である。静かなものだった。冬空に大きく息を吐き、一つ身震いをする。
中学生にもなり、割とよくその辺にいる……幼少時は天才、今となってはちょっと変わった子供なんて目で見られながらも普段通りの穏やかな生活は続いていた。
大きな事件は二つ。プライベートな事とプライベートではない事。
プライベートな方は精通がとうとうあった事だろうか。いや、あれ以来まずい。本当にまずい。男の子が性欲抑えるのが大変だとか言っている気持ちがようやくにして判った。きっと男ってのは恐竜のように、下半身にもう一つ脳の代わりをする神経瘤でもあるに違いない。手が勝手に動きかねない。未だに男にも女にも惹かれるものが無いというのに性欲だけはあるってどんな拷問だろうか。処理した後の虚しさと言ったら無いのだ。
そしてプライベートでない方は、グレイゴーストから送られてくる月報誌にあった。
とうとう来訪者たちも元の世界、次元世界ではない……元に居た世界に帰れる可能性が出てきたらしいという事だ。
ただしまだまだ技術的に未知の部分があるそうで、安定して人が行き来できるような代物ではないらしい。現状ではテストのための人員を募集しているようだ。
もっとも、あの元の世界に帰るつもりもないのだが。
やはり父と母を残してあの元の世界に行ってしまう事はできない。いや、元の世界にもかつて「私」であった時の親は生きてるはずだし、懐かしむ感覚もあることはある。だからといって今の親を感情的に切り捨てる事もまたできないのだ。
これもまた記憶を持っていなければ無かったジレンマかもしれない。きっといつまでもうじうじ悩み続けるのだろう。
人生をもう一度やり直せればそれは天才になれるのではないかと思っていた事もあった。
ただ、それは無理という結論に至る。
天才というものは天の才と書くだけあって、努力してどうこうなるものではないのだろう。秀才が100年かけて突き詰めた理論を一年で完成させてしまうのが天才なのかもしれないと思う。どれだけ物覚えの良い幼少期に勉強しようが、比べるのもおこがましい。
今の自分はちょっとだけ勉強が進んでいる中学生に過ぎなかった。工学系の知識があって、ちょっとした回路図くらいなら設計できるが、それも仕事でやっている専門家には到底叶わないだろう。
その学業面の優位も、大学レベルまで進めば関係が無くなる。向き不向き、のめり込めるかどうかが鍵となるようだった。
生まれ直した事でズルをしているという意識もなかなか消えず、自信満々に「自分の力です」とは言いにくい事もある。
人生イージーモードではあるはずなのだが……心情的にはどうだろうか。
なかなか世の中楽には行かないもののようだった。
中空にため息一つ。まだまだ先行きは見えてこない。