しゃり、しゃり、という音が妙に響く。
静けさゆえだろうか、あるいはこの部屋の音響のせい?
別に何か問題になるわけでもないのだけど、何となくこだわり心が疼いて、包丁捌きに集中する。
綺麗に丸く剥くには角度を一定に、細かく上下に揺すりながら剥くのがコツだ。かつらむきの要領である。
少々時間がかかりながらも皮も途切れず綺麗にリンゴを剥き終えた。うむ、自己満足でしかない。
切り分け、爪楊枝を刺す。
「ほりゃ食え」
「ん」
ティーダが口を開けるので、切ったリンゴを食べさせる。
ドラマとかでよく見るシーンだったけど、実際やってみると何とも普通というか。何の感慨もないものだ。普通に介護する気分である。
私も一個リンゴを口に運ぶ。程よい酸味と甘みが口いっぱいに広がった。
ベッドのサイドテーブルに頬杖をつく。
「まったくねえ、あんな事言って倒れた時はどうなるかと。心配させてくれちゃって」
「……いやいや、さすがに僕もあれを最後の台詞にくたばるのは勘弁願いたいね」
そういうティーダは左腕を欠損させていた。
右手は無事であったけどそちらも負傷により現在包帯でぐるぐる巻きにされてしまっている。
リンカーコアの伝達経路も破壊されてしまったとかで、魔導師としてはピリオドを打たれた形になってしまった。
それでも……うん。
「普通の二枚目だったら死んでいた所だったね。こう、ドラマの中で最後の格好良い言葉を伝えて逝く役」
「……二枚目半とかいう奴で良かったよ僕は」
まったくだよ、とリンゴをもう一つティーダに食べさせる。
静かな病室にしゃくしゃくという、小気味良い咀嚼音が響く。
先の事件からすでに二日ほどが経過していた。
搬送されて丸一日目を覚まさなかったティーダも、意識を回復して以後は容態も安定し、命には問題無いらしい。
私に至ってはある意味ティーダよりはるかに重体だったのだけど、そこはまあ、ちょっとちぎれたくらいなら生えてきてしまう、トカゲもびっくりの種族である。栄養を取り、一晩寝たら動けるくらいには回復していた。
私達が病院に搬送された後もいろいろ動きはあったようだ。
かつて、闇の書事件の折に役に立たなかった事への反省から強化された査察部が本局より派遣され、様々な不祥事が明るみに出てしまったのだとか。
元々は首都航空隊の予算の使い込みから始まった事だったらしい。ギャンブルで溶かしてしまった中隊長3名に金銭の工面をつける形でつけこんだのが、あのマフィアのボスだったようだ。ここにきて初めて名前を知ったのだけどバイロン・トロメオなんて名前のようだ。さらには本部の事務方、オペレータ含む8名も検挙される事態となってしまった。
犯行の動機については、まあ……何というか私怨である。しかも私への。二度関わった事でとんでもない怨みを買っていたらしい。
また、122管理世界での、かつての共和政府軍の残党を取り込んでいたとかで、今回私達が戦っていた魔導師達はそんな連中だったようだ。
亡くなった少女については、名前も調べがつかなかった。
本当にあのヴェンチア・ゴドルフィンの娘であったのかすら判らない。ただ、あんな死に方はどんな理由があっても認められるものではなかった。あまりにも救いがない。
マスコミにも当然隠しておけるわけがなく、航行隊本部は蜂の巣を突いたような騒ぎになっているらしい。私も今回はいろいろ無茶を押し通してしまったのだけど、今はそれどころではない様子だった。
◇
「ところでさ」
ティーダがふと思い出したかのように言った。
「もうかなり長い付き合いだけど、その、君に男の影とかはまったく見えなかった……ええと、彼氏とか……いるのかい?」
私は頬杖から自分のあごがずりおちるのを感じた。
何を言い出すのか、私は呆れて、いやいや、と手を振る。
「いるわけない、いるわけない」
「でも、ええと、そのなんだ。あの時処女はとっくに……なんて言っていたのは、そういう事なんじゃ……どういう事なのかな、なんてね」
ティーダは頬を掻き、私から目を逸らし、妙に歯切れ悪くそう言った。
そうか、うん。そうだよね、普通はそう思う。それであんなに驚いていたのか。
私は軽く唇を噛む。何となく空中を眺め回した。目が泳ぐってのはこんな感じなのだろうと自分で思う。目を閉じ、ため息をついた。
年貢の納め時、というやつなのだろう。
私の過去の話はずっとティーダには言ってこなかった……というか、ティーダはティーダでいろいろ勘づいていたふしもあるけど。
今までなあなあで済ませてしまい、ちゃんとした話はしていなかったのだ。1年経つ毎になおさらその事は話しにくくなってしまって……時に「話さなくちゃ」と思う事はあれど、同時に「何事も無しにいけるならむしろこのまま……」などと思ってしまう事があった。
私は病室に備え付けの冷蔵庫から冷たくしてある紅茶を出してきた。
グラスに注ぎ、ティーダに渡す。
私も自分のグラスに注いで、一口飲んだ。
笑顔を作り、ティーダを見る。ああもう……困ったものだ。力無い笑顔とやらになっているのが自覚できる。
「ティーダ。いつか言おうと思ってた話をするけど……引かないで? いや……引いても良いんだけどさ。正直、私も結構な覚悟して話すから」
雰囲気を感じ取ってくれたのか……ティーダは真面目な顔になり、静かに頷いた。
私はどこから話そうかと思い、考える。また一口、紅茶を含み、ゆっくりと切り出すのだった。
「朝起きたら蜘蛛になっていた男の話って知ってるかな、以前古本屋で見つけてつい買っちゃった本。リビングに置いてあるんだけど……私もまた、似たような事が出発点になってるんだ」
気付いたら自分が何者かも判らない存在になっていたこと。
その原因があの次元世界外で出会った神様モドキの仕業だろうという推測。
来訪者だったのだろう薄れ行く命だけで身体のない男性、死んでしまったアドニア、元よりアドニアに封入されていたプログラム人格。それらがこね合わされ、乱雑にまとめられた存在であったこと。
混ざっている男性の記憶は、段々薄れてはいたのだけど、初潮を境にその勢いが増し、もうほとんど脈絡ある形としては残っていない。ただ、やはりジェンダーについての悩みは色濃く付きまとっている事。
そして今の私の中核ともなっているアドニアの過去。
心は身体に隷属するのか、身体は心に隷属するのか。正直判らないけど……不安定だった様々な記憶が統合され、安定して以来、もっとも自分の記憶だと感じられるのが彼女の記憶だった。
もっともこの記憶は穏やかとはほど遠い。
偶然、一番初めに最高の存在が出来上がってしまったゆえの研究所の暴走。そこで生まれた、本来なら使い潰されてしまうはずだった命。
いずれ父と呼ぶ事になる研究員に助けられた後も、紆余曲折の果てに苦しんで、すり潰されるように消えていった。
研究所において封入されていたプログラム人格……私が亡霊さんと呼ぶその存在の事は、ティーダの長年の謎を解決したようだった。私が時折ひょいと持ち出していた知識がどこから来るのか不思議だったらしい。
一通りを話し終えた時、すでに日が傾きはじめていた。
沈黙が空間を占める。
私もまた、その沈黙をあえて破ろうとは思えなかった。
空になったグラスをふらふら揺らす。
あごに手を当てて、考える様子を見せているティーダが息を吐いた。微笑を浮かべて私を見た。
「いろいろ過去にあったのは判ったけど……ティーノはティーノだよね?」
「ん……?」
「君は、不幸であったアドニアでもなければ、名も思い出せない男性でもない。ましてや古代より蘇った亡霊でもない」
包帯だらけの右手を私の頭の後ろに軽く回す。引き寄せられた。間近で視線を合わせる。ほっとしてしまうような笑顔が浮かんでいるものの……その目は真剣だった。
「10歳の頃から僕と一緒にいて、気付けばよくつるむようになっていて、料理好きで、子供好きで、サブカルチャー系も大好き、しっかり考えているようでいて、その実いろいろ抜けてるところが多い」
顔が近づいた。
「君がどういう存在だったとしても、過去にそんな事があったとしても。僕にとって何より大事なのは、子供時代をずっと一緒に過ごし、ずっと隣にいてくれたティーノ・アルメーラって事だよ」
「わ……」
殺し文句だ。ひどい殺し文句。
私なんかが……と言いかけた言葉が口の中で溶け、消えていく。
「だからティーノ」
ゆっくりと引き寄せられていく
ティーダの顔も静かに近づき。
私はぎゅっと目を閉じた。
「お兄ちゃん、お見舞いにき……」
がちゃりと音がして、ティアナちゃんの声もする。私は思わず目を見開いた。
そろーっと目だけ動かして見てみると、紙袋をもったティアナちゃんが驚いた様子で固まっている。
唐突にベッドの陰に隠れるようにしゃがみ込むと、じっとこちらを見た。親指をぐっと上げて一言。
「続きを早く」
私はティーダと顔を見合わせた。
同時に向き直り口を開く。
「できるかあッ!」
「もちろん!」
え? と疑問の声を上げる間もなく、私は強引に引き寄せられ、口を塞がれた。
◇
「お兄ちゃん、やる時はやるんだね!」
「うん、そりゃお兄ちゃんだって男だからね」
ティアナちゃんとティーダが弾む声でそんな事を言っている。
一緒に見舞いに来てくれていたというなのはちゃんとフェイトちゃんにもまたばっちり目撃された。
「つ、ツバサお姉ちゃんが……お、男の人にキスされるとあんなになっちゃうのかな?」
「うん、あんなへろへろになっちゃうんだ。真っ赤だし……す、すごいんだね。なのははユーノとの進展は? なのはもあんな風になってるの?」
「うぇ!? まさか、私はユーノ君とはその……そにょ」
などという恥ずかしいトークも耳に飛び込んでくる。
へろへろになってしまうのはラエル種の特性なのだ。きっと。そうに違いない。
ああもう……あんな……風に。
……うあ。
気付けば無意識に唇を指でなぞっていた。
何やってるんだ私。転げ回りたい恥ずかしい自分を消し去りたい。
真っ赤に火照っている顔を見せないように縮こまるようにしてリンゴを剥く。
3個目を剥き終わった。
果物を盛りつけた皿がてんこもりになってしまっている。
一切れ取って口にいれた。甘くて酸っぱい味が広がる。
唐突に私にだけ聞こえるような小さな声で、ティーダがつぶやいた。
「続きは帰ってから……だね」
私を半ばからかっているのは判っている。それでも反応してしまう自分が憎い。
私は固まった。顔が熱い。ぎぎぎとティーダを見ればにやにやと憎らしい笑みがを浮かべている。
いろいろな感情がこみ上げてきてしまい、誤魔化すために私は、四個目のリンゴに包丁を入れ始めた。
◇
この事件の後、一ヶ月の入院生活を経て、ティーダは管理局を引退する事になった。
私と違い、指揮能力もまた評価されていたので、魔導師としてやっていけなくなったとはいえ、引き留める声も大きかったのだけど……
「この機会に、他人に期待される生き方を外れて、自分がしたい生き方をしてみようと思う」
という事だった。
二年も経った頃には、ある理由から私もまた管理局を辞める事となった。
小隊の長は現在、隊長補佐だったラグーザがその任にあたっている。本来、小隊長くらいはこなせる彼も、前科があるということがネックとなって中々その立場に就けなかったのだが、そろそろ勤続年数も長い。その間の功績が認められる形だった。
私が辞める理由は、魔導師としての相方がティーダ以上に噛み合う存在が居ないというのもあったのだけど……それは些事だ。極めてプライベートな事と、何よりも、私が育った養護施設のことが大きい。
そちらの一切をしきっていたカラベル先生がさすがの高齢となり、同時に多額の援助金を出してくれていたグレアム提督も現在は次元世界へおいそれと干渉できない事から、運営がなかなか厳しい事になっていたのだ。カーリナ姉や巣立っていった子達もまた寄付金を送ってはくれているのだけど、元々訳有りの子供が多く預けられている場所である。出て行くお金もまた大きい。私としても何とかしたかったので、それならいっそ……と施設の事に専念する方向で調整していたのだった。
養護施設の方針を変えるつもりはなかった、ただ、赤字を何とかするために当面は私の退職金を補填し、闇の書事件の時のネームバリューを利用して寄付金を募った。さらに、これまでやってなかった新しい事として、レストランの経営も始めている。管理局員としてあちこちの世界を渡り歩いていた時にも思った事だけど、外食産業は基本的にどこの世界にもあるのだ。食いっぱぐれのない仕事とも言えた。
子供達に契約書を作る所から教え、雇用契約を結ぶ。ちゃんとお給料も払うのだ。日本での人権団体が見たらいろいろ言われそうだけど、ミッドでは子供でも就業できる以上、こういう知識は必要だと思う。また、どこの世界でもある外食産業での働き方を知っておいてもらうだけでも、将来に役立つだろうと考えたのだ。もちろん収益が出たら施設の運営費に充てるつもりなのだけど、今は店の経営費で赤が出たり黒が出たりという所である。そこはまだ将来の課題と言ったところだった。
◇
「オーダー入りましたー」
昔は年少組のまとめ役として頑張ってくれていたラフィが今日も明るい笑顔を振りまいている。
この子は両手両足が義肢で、技術の進歩で昔より格段とスムーズに動けるようにはなったものの、やはり力加減が苦手だったりする。調理はさすがに難しいので、ウエイトレスをやってもらっているのだけど、性格的にもぴったりくる様子だった。近隣のお爺さん、お婆さん達のマスコット的な存在として可愛がられていたりもする。
ご注文は今日のお薦めランチセット。
施設の隣の果樹園農家から頂いたブルーベリーをアイスにしてデザートとして付けてみたら、今日の売れ筋となってしまった。
他の品も結構力を入れているのだけど、何が目玉になるか判らないものである。
ランチタイムも終了間際となって、厨房も落ち着いてくる。
今のうちに溜め込まれた洗い物でも……と思っているとひときわ騒がしさを感じた。
店のドアに付けた鈴の音が響き、来客を告げた。翠屋のベルの音が綺麗だったので真似てみたのだ。
私は調理用のエプロンを外した、ラフィに「私が出るよ」と言って、お盆にお茶とおしぼりを乗せて応対に出る。
「いらっしゃい、ゲンヤさん。お疲れさまスバルちゃん、ティアナ、今日は学校は?」
「お姉ちゃん、今日は午前で終了って言ったじゃない。それでね」
「てぃあー、お腹すいたー、ごはんごはんごはん」
「ああもう、スバルは……ちょっと待ってなさいよ、お姉ちゃん、欠食児童が居るから私も手伝うね!」
すまねえな、いつものを頼むと手を振るゲンヤさん。
私は苦笑して、頷いた。西部からここまで、アクセスは直通路が出来たから早くなったけど、最近は道も混む事が多い。運転手を務めてきたのだろうゲンヤさんにはお疲れ様と言うしかなかった。
ティアナちゃんは本人の強い希望で、西部エルセア……ランスター家もある地域なのだけど、そこの魔法学校に編入したのだった。さらに数ヶ月して編入してきたのがこのスバルちゃんである。聞けば今年の春に起きた空港火災の折に巻き込まれてしまったそうで、その時なのはちゃんに助けられた事から魔導師への道に入る事を決めたのだとか。訓練校に入る前の基礎過程を学ぶために地元の魔法学校に入学した、という事らしい。
お互い編入組だからか、妙にウマがあったようだった。ティアナちゃんは今まで一番下だっただけにお姉ちゃんぶりたい様子で、スバルちゃんにあれこれと世話を焼いている姿を見ることができた。私としてはそんな姿を見る度にほくほくである。
そのスバルちゃんがこのレストランに家族を連れて来た事がある。
ナカジマというファミリーネームの通り、ご先祖は97管理外世界の日本が出身らしく、ものは試しと日本料理……オーソドックスなご飯と魚、味噌汁にお漬け物、なんてものを出してみたら、見事にハマった。それ以来何かというとご贔屓にしてくれる常連さんなのだった。
「じゃあ私はゲンヤさんの和食セット作るからティアナはそっちをお願いね」
「うん、あ、でもソースはお姉ちゃんお願い」
了解了解、と言って2人して調理を始めた。
小さい時からティアナちゃんも料理を手伝ってくれていたのだけど、レストランを始めてからはこうやって手伝ってくれる事も多くなった。12歳でこれだけ料理上手な子もなかなかいないと思う。なまじの男に渡してやるわけにはいかないのだ。ちなみにティアナちゃんが作っているのは、ピラフのお代わり無料、スタミナセットだった。これはかなりのボリュームがあり、大人2人分を想定している。もっとも、スバルちゃんは気持ち良いくらい一杯食べていくので、最初からさらにピラフを追加で盛りつけているようだった。
出来上がったものをティアナちゃんが運んで行く。
その間に先程ゲンヤさんの和食セットと並行して作ったものを盛りつけた。
スバルちゃんのスタミナセットを運んで行ったティアナちゃんを追いかけるように、私もまた運び始める。
「お姉ちゃん?」
「ん、今日はお客さんもそんなに居ないから大丈夫だよ。せっかく友達と来たんだから一緒に食べなさいな」
そう言って空いている席の前にティアナちゃん用に先程作ったパスタセットを置く。
大人ぶっているというか何というか、昔のようにストレートに感情を出す事はなくなってきたものの、一瞬目と口がほころんだのを私は見のがさなかった。
「あ、でも……」と躊躇するように言って私のお腹に目をやった。
ああ、なるほどねと思い、ティアナちゃんの腕をぽんぽんと安心させるように叩く。
「ティアナ、さすがに気を使いすぎだよ」
ゲンヤさんは目ざとくそのやり取りで判ってしまったらしい。
ほほぉ、とつぶやく。
「ようやくティーダの奴もこれでパパさんかい。こりゃあ、祝いをしてやらにゃな」
「ありがとうゲンヤさん、でも、まだお祝いには早いですけどね。三ヶ月なんです」
私が自分のお腹を優しく撫でた。何度も検査して、正常な妊娠が可能だというのは判っている。
ただ、こうして私が精神的に落ち着いてきたのはほんの一月前だった。それまでは夜になると不安で、それはもう情けなく泣き出していたものだ。
不安要素が多すぎる。
122管理世界の姫様がそうであったように、ラエル種は人との混血が可能なのだった。ただ、さまざまな特徴は優性遺伝してしまうものらしい。未だ狙われる事もありうるラエル種の特徴を、である。それに私……アドニアは生育の過程でいろいろ実験対象にされていた。色素異常はその副作用でもある。何度医師に大丈夫と言われても、過去投与された薬剤による副作用が出るのではないかという不安は消えなかった。
ティーダと……それに「いい年して……」なんてとぶつぶつ言いながらも一緒に寝てくれたりするティアナちゃんが居なければとても持たなかったと思う。本当に私は弱くなった。
からん、とまたドアの鈴が鳴り響いた。
目を向けるとティーダが来ていた。義手をつければ良いものを、苦手らしい。中身の無い左の袖がひらひら揺れる。
「お、子供達の授業終わった?」
「うん、今はお昼を食べさせているよ、ちょっと様子を見に来たんだ」
「ティアナといい、揃いも揃って心配症だなあ」
と言っても心配されて嬉しくないわけでもない。私はティーダに近寄って、少し曲がってしまったネクタイを直した。
まだお腹もそう大きくなってないし、つわりが重くなってるのと、胸が大きくなりすぎてきついくらいである。大変なのはこれからだろう。
と、そこでようやく、話の流れが掴めてなかったらしいスバルちゃんがピンと来たようだった。
「おめでたッ!?」
ガタッと音を立てて立ち上がる。
「え、えっと、父さん父さん、赤ちゃんのオモチャとか、ぐるぐる回るやつとか、うちにあったっけ!? 何かお祝い、お祝いしないと!」
「落ち着きなさいよスバル。気が早すぎる」
ティアナちゃんがべしんとツッコミを入れた。うん、素質がある。
ゲンヤさんが豪快に笑っていた。
私はその楽しげな声を聞きながら自分のお腹に再び手を当てる。
静かにしていると時折鼓動のようなものを感じるのだった。
自分の中に新しい命が生まれ、育つというのはこんな感覚なのだと不思議にも思う。怖くなってもおかしくないと思うのに……不思議と怖くない。
そういえば、予定だと結婚記念日とこの子の誕生日は重なるかもしれなかった。
そんな事になったら将来文句を言われる事になるのだろうか。
誕生日祝いなのか、結婚記念日の祝いなのか判らないって。口をとがらせて抗議してくるのだろうか。
ふ、と息を吐く。
……気付けば皆の視線が集まっていた。
「す、すごい幸せそうな笑顔だったね……びっくりしたぁ」
「最近じゃ割とこんな感じなのよ……ちょっと前はかなり不安定だったのにね」
スバルちゃんとティアナちゃんがひそひそと話している。
その向こうではティーダがゲンヤさんに、しっかりやる事はやってやがったな、なんてからかわれていた。
辟易している様子に私はついくすくすと笑いが出てしまう。
困った。
本当に困った。
何気ない今日や明日が楽しくて仕方がなくなっている。
子供が生まれれば、きっと名前を悩むのだろう。
精一杯良い人生が送れるように、子供に親が与えられる一番初めの贈り物を悩むのだろう。
離乳食を卒業できるようになったらティアナちゃんにまだ伝えてなかったランスター家のママさんが得意だったパイを焼こう。きっと頬をほころばしてくれるに違いないのだ。
これまで、あっちに行ってはこっちに行って、本当にフラフラと彷徨っていた気がする。
ただ、どうやら私の道行きは定まったようだった。
決して珍しいものでもなんでもない。
家族と一緒に穏やかに生きるただの日常──
きっと、おそらく。私の物語はすでにして終わっているのだろう。
波乱続きだったティーノ・アルメーラは既にティーノ・ランスターと名が変わり、日常に、誰にでもある日常に埋没しているのだから。
fin