媚薬が抜けない。
とはいえティアナちゃんだけを相手にしている間は、頭がちょっと緩い感じになっているだけなので、うん。普通に家事もできるし、ご飯だって作れた。というか一緒に作った。
「というわけで今日はラザーニャーなのだよ、ティアナちゃん」
「ラザーニャー!」
「ニャー!」
二人してニャーニャー言いながら平たいパスタを茹でる。
ペシャメルソースをティアナちゃんにかき混ぜててもらい、私は三種類のチーズを刻んでおく。
ミートソースも単調じゃ飽きるので、ベーコンを使ったものと挽肉を作ったもので二種類のソースを作っておいた。
耐熱のガラスの器を出して、ペシャメルソースを盛り、パスタをぺろんと乗せる。ミートソースを塗り、まずは伸びるゴーダチーズをわしゃわしゃ。ペシャメルソースをさらに塗り、パスタを重ね、ミートソース。二層目のチーズはとろっとろになり香りがあるチェダーチーズをわしゃっと。三層目は一番上にスライストマトを並べて上からかけるならコレ、と言った感じに主張するお馴染みパルメジャーノ・レジャーノをわしゃーである。勿体ないくらいにチーズは使わないと美味しくならないし香りが立たないのだ。香り付けに上からバジルを振ってオーブンにGO!
そして、待っている間にティアナちゃんと踊っておく……じゃなかった。サラダを作っておく。
「キュウリ!」
と私が野菜を高々と上げればティアナちゃんも真似をして。
「トマト!」
と続いてくれた。
「レタス!」
「アスパラ!」
「ロースハム!」
それ以上はティアナちゃんも出てこないのか、あれ、あれ、と言っている……というか冷蔵庫にあるサラダに入れるような品はティアナちゃんの嫌いなセロリくらいである。
「おねえちゃんずるい!」
「ふへへ」
ティアナちゃんに責められてしまった。
いや、いけない。やはり何かテンションが変だ。変なのにこれが当たり前のような気もするし、困った。
「おねえちゃん?」
ぼうっとしていたらしい。ティアナちゃんに不思議そうな顔をされた。ごめんね、と一言かけて次の料理に向かう。
もう一品くらいはあったほうがいい。スープが良い。まったりしていて、甘めのミルクスープが。
◇
遅いお昼の食事も終わり、ティーダはティアナちゃんのお勉強を見てあげている。
ここのところえらく忙しかっただけに教えるティーダの顔もどこか嬉しそうだ。
ティアナちゃんが「ここは?」と見上げてティーダに聞くと、ティーダは「そこはこういう風に考えるとどうかな」とティアナちゃんに考えさせる。教えられた方だって頭が良い。少し考えると顔を明るくして答えを書き込む。
その姿はまるで兄と妹というより父と娘のようで……それをテーブルでニコニコ眺めている私はじゃあ母親なのだろうか? お母さんみたいに思ってくれているのかな。何となく駆け寄ってその事を聞いてみたい衝動がむくりと持ち上がって、慌てて首を振った。
「少し散歩してくるね」
本当に流されそうだ。私はそう声をかけていそいそと支度をはじめる。
「ティーノ、安静にしてろって……」
「大丈夫、大丈夫」
ティーダがそう声をかけてくるけど、私は私で頭を冷やしたいのだ。うん。窓から外を見れば冬空が広がっている。頭を冷やすには丁度いいだろう。しかし低い声聞くだけでもこうじーんと来る、どうしたもんかこれ。
ぼんやりした頭のまま、街に出た。
デパートに入り、ふらふらと眺める。中に入っているテナントは多種多様で見ているだけでも面白い。
何となく玄関の飾り用にガラス細工の花瓶を購入、もののついでに雑誌コーナーを眺めているとふっと目に止まったものがあった。
「……夜だけに使える秘密の魔法100選」
20代前半をターゲットにしているのだろうその女性誌を無言でぱらぱらと捲る。
「あ、ああ魔法ね。うん魔法ね」
魔法といっても載っていたのは別に魔導師の使う魔法というわけじゃなく……まあその、ごにょごにょなやり方とか、その気にさせるやり方とか。ムード作りのやり方とか……
……気付いたら既にもう良い時間だった。何をやってるんだか……帰らないと。
帰り際、先程の雑誌で載っていた店を見つけた。
いや、なんで気になっているのか、スルーである。スルー。
本当に……早くこの薬物代謝されないものだろうか。
「ただいまー」
と帰ってみると珍しい、気を使ってくれたのかティーダが夕飯の支度をしてくれていた。
「あ、用意してくれてたんだ。へええ、ほおお」
なんてちょっとわざとらしくキッチンの後ろから覗きこむ。
腰にしがみつかれてちょっと困惑げなティーダだった。
そんな様子を見ただけで嬉しくなってしまい、翼がぴこぴこ動く。見えないけども。
ティーダの作った夕食を頂いた。
切り方は不器用だけどほっとする味のシチューだ。
何となく心が温かくなる。
「おねえちゃん、何か変だよ?」
食事中にこにこしてたらティアナちゃんに心配されてしまった。
その口元についたシチューを丁寧にぬぐい取る。
「うん、今ちょっと変なんだよ、ごめんねー、ちょっとお酒に酔っちゃってるようなものだと思ってね」
「お酒はよくないよ」
多分学校で教えられたのだろう、飲んじゃ駄目、と説教されてしまった。ミッドでは多様な世界から人が来る都合上、飲酒や喫煙の年齢制限などは設けられてはいないけど、こうやって教育しているのだね。
うんうん、その通りだった。わりと私はその手の常習犯でもあったりするのだけど。
◇
相変わらず妙なテンションは自覚している、もっともティアナちゃん相手には普通に対応できるようだった。普通に対応できてると思いたい。
時間も時間になってしまったので、ティアナちゃんと一緒にベッドに横になり、眠りにつくまで思い出した童話でも寝物語に聞かせる。
それは年をとったりした動物たちが人間の元を離れて、協力しながら、知恵と機転で居場所を作るお話。
私もどこかで読んだのだろう、何となく覚えていた童話だった。
動物たちが盗賊を追い払ったところまで話したところで、すでにティアナちゃんは夢の中だった。かなり伸びた髪が口に入ってもごもごしてしまっている、起こさないようにそっと髪を引き抜いた。
「お休みなさい」
口の中でそっとつぶやき、ゆっくり布団を出る。
リビングに戻るとティーダが本を読んで寛いでいた。
私を見ると本を置き、言った。
「だいぶ落ち着いた様子に見えるけど、自分ではどう?」
何の事だろうか……ああ、媚薬っぽい成分回っているのだった。
お湯を火にかけておく。
「んー、正直よく判らないんだけど。ティアナちゃん寝かしつけてたら落ち着いてきたような」
「うん、顔が赤くなったりとかはしなくなったみたいだね」
そういえばこうしていても心臓は落ち着いている。しばらく静かな沈黙が流れた。
……と、お湯が良い温度になった。茶葉を蒸らし、程よい加減になったらお湯を注ぐ。
お茶が出るのを待っている間、鼻歌を歌いながらカーテンを指で動かした。外の寒さで窓が盛大に曇っている。何となく指で絵を描く。へのへのもへじと。
「はい、お茶。ミルクたっぷりで」
「うん、ありがとう」
ティーダの前に置く。
私も隣に座った。室内は暖色の明かりで統一してある。そんなぽかぽかするような色合いに染められた横顔ってのもまた乙なもので。
時間がゆるやかに過ぎた。
「……あの、ティーノ」
「ん?」
「なんでそんなぴったりくっついているんだい?」
「……んー」
何でだろうか。よく判らない。
案外、落ち着いたんじゃなくて飲まれかけているのかもしれない。ただ……何だかもう違和感も感じることができなくなってきてて。それでもいいやって。
「んー、じゃなくて……」
「……うん、ごめん」
困らせてしまったようだった。そんなつもりはないのに。
「その……シャワーでも浴びて、今日は寝ようと思うよ。疲れを取らないとね」
「あ……」
離れていってしまった。
「こいつ……どうすりゃいいんだろうか」という困り顔をされた事が思ったよりきつい。何だか心に重くのしかかってる。
ええと、上手く頭が回らない。どうすれば、どうすれば……
「そうだ!」
思い出した。アドニアの経験、正直思い出したくもない記憶だったけど、何が役に立つか判らない。
他に思いつかないし……ティーダになら。ん? 望むところなんだろうか。まあ、いいか。
ちょっと寒いけど、厚着をして家を出る。行く先は先程見つけた店。いろいろ怪しいものを取り扱っているらしい店だった。
◇
赤ら顔のおじさんに変な目で見られながらも買ってきたそれをひとまず自分の部屋に置いておく。
外に出ている間にティーダはお風呂から上がったようで、交代するように私が入る。
体中を念入りに洗った。いつもは面倒臭がってシャワーで済ませてしまう背中の羽根もちゃんと泡立てたシャンプーで洗い、椿油を少し馴染ませておいた。髪も少し切って整えてみたりする。鏡に映る姿は……うん。自分じゃよく判らないけど、多分良いんじゃないだろうか。細いあごにアーモンド型の目、プラチナの髪に真っ白い肌。全体的に白い感じがするけど、暖まっている今はピンク色とも言える色になっている。背は小さいけど、胸はそれなりにあるし、腰回りは幼児体型から遠ざかりつつあるし……足だって細くてすらっとしてる。あ、爪も切っておかないと。
なんだかんだと時間をとられてしまって、バスルームを出たのはもう深夜と言ってもいい時間だった。
自分の部屋で、買ってきたそれを見る。
「なんだか、おかしいような気も……でも、でも他に私にはないしなー」
そうつぶやいて、かつては馴染みだったそれを着用する。
それはかつて──アドニアの時と違って、どこか嬉しいようなもどかしいような。不思議な気分だった。
ティーダは時間も時間だからか、もう自室に行っているようだった。丁度良い時間だったのかもしれない。
私は湯上がりでほかほかしている体に大きなタオルケットを被った。この後に及んで恥ずかしさをまだ感じてるのは何なのか。湯上がりのせいだけでなく顔が火照る。
がちゃりと──
ドアを開ける音がやけに大きく響いた気がした。
部屋に入るとティーダはベッドに寝転がりながら、サイドスタンドの明かりで本を読んでいる。
「ティーダ……」
私がそっと呼びかけるとこちらに気付いたようだった。かなり驚いた表情をする。
「ティーノ? ええと……なんだいその格好は……」
「ん……その、ね」
私は口ごもりながら、のそのそと近づいた。
さすがに動悸が……呼吸も早くなっているみたいだ。気付かれないといいけど。
私は何となくうつむいたまま、そのままベッドの上に上がった。ティーダに被さるように座る。
「ティーダ」
熱に浮かされた気分だ。でもそれが悪くないから困ってしまう。
衣擦れの音が耳につく。私が羽織っていたタオルケットをはだけた。裸の上半身が露わになる。
「う」
と、ティーダが息を飲んだ。
私は、自分が付けている首輪から伸びた鎖を両手で……捧げるようにティーダの前にそっと差し出した。
ちゃら、と音がなる。
「な……な、まっ……ちょっと……ティ、ティーノ?」
慌てるティーダの手にそれを手渡し、包み込むように握らせる。
なんだかやっと繋がれたような気分がした。
そうだ、と思いついてあの呼び方もしてみる。
「ごしゅじんさま……」
呼んでみると悪くない。あの男とは本当に大違いだった。
口の中でもごもごと転がすように、二度、三度つぶやいてみる。
ティーダは固まってしまっていた。思わず首をかしげる。
「こういうのは……駄目……ですか」
我ながらとても不安げな声だった。
「いや、なんだ、駄目とかじゃなくて……何で……というか嬉しい、嬉しいんだけどね、いきなりこういうのはハードルが高いというか」
そっか、嬉しいって言ってくれた。ならもっと……
媚びるなんて、良い意味で使われないけど……全力で媚びるようにしよう。外からどう見られるかなんて知らない。私があなたに気に入られるように、あなたが私に飽きないように。
手をとって、頬をすりつける。安堵が体を包んだ。
「ティーダ……ごしゅじんさま。ご奉仕……させてください」
私は体を覆っていた残りのタオルケットから抜け出るように、上半身を起こし、身を固めている様子のティーダに静かに覆いかぶさった。翼をティーダの後ろに回し、ふんわりと包み込むようにする、クッションになるように、できるだけ居心地が良いように。
額、頬、首筋……ゆっくり、ゆっくりとキスをしていく。
「……あ」
思わず小さく声がでてしまった。反応してくれたようだった。すごく嬉しい。
「とても元気」
それを右手で撫で上げる。
ティーダはびくりと背筋が少し反り返った。
「だ……駄目だよ、ティーノ、今の……君は」
苦しそうな顔をして言う。そんな苦しい顔は見たくないのに。
だから私はその口を人差し指で塞ぐ。
「うん……媚薬。でもいい、ティーダならいい」
ティーダがごくりと唾を飲む音が私にまで聞こえた。
「乱暴にしてもいい、どんなことをしてもいい。私は……」
鎖をちゃらりと鳴らす。
さすがに恥ずかしさに耐え難くなってきて、顔が見えないようにティーダの胸に抱きつくようにして囁いた。
「私はあなたの──」
ティーダは深く息を吸い込んだ。
「……ティーノ、言い訳はしない」
どこか覚悟を決めたような声音で言った。強く、痛みさえ感じるほどに抱きすくめられ、今度は私の耳元で──
「頂くよ」
と囁かれた。その低い声を聞いた瞬間、ぞくぞくとした感覚が全身を包む。体の力が抜ける。
私はふにゃけた腕に力を込めて体を少し起こす。ティーダの目を見て頷いた。
「ごしゅんじんさま、はい。どうぞ──」
と言いかけたところで、唐突に……唐突に意識が……まとまりを取り戻して。
「あ……」
正気なんていう毒が広がる。戻ってしまう。
項垂れて黙りこんだ私を不思議に思ったのか、ティーダが訝しげに私の名前を呼んだ。
私は一瞬びくりと震えた、感情を持て余し、どうすればいいのかも判らなくなり──
「記憶を……失ええええいッ!!」
涙を流しながら渾身のヘッドバッドをティーダに見舞い、ティーダはきゅう、とばかりに気を失った。
「わわわ、私は、私は、何を何を何を言いかけて!? 私はあなたの──なんて、うわあああああああ! 死ねる恥ずかしい駄目だもう顔出せない話せないよ!」
転げ回りたいところだったけど下半身がずーんと動かない。力が抜けすぎている。ああもうどうしろと。
「ううう、なんかお尻もべちゃべちゃしてるし、お漏らしか、お漏らしなのか!?」
いや、判ってる、判っているのだ。現実逃避したいだけで。これがお小水なんぞではないことはよく理解してるのだ。
しばらくして、私はひぐひぐと泣きじゃくりながらベッドのシーツと……ティーダのパジャマも交換した。
お風呂場で洗濯して、夜だから乾きにくいだろうけど干しておく。
そこまで済むと、ティーダのベッドサイドの前でペンを動かす。
『迷惑をかけてしまって本当にごめん、明日まで休暇と聞いているので少し頭を冷やしに山に行ってきます ティーノ』
そんな書き置きを残し、私は夜の闇に全力で飛び出した。
ランスター家の鍵締めを忘れ、一度引き返し、再び全力で走る。いろいろ格好がついていない事甚だしいものがあった。
◇
山を駆ける。
すっかり葉も落ちた木々の合間をくぐり抜け、絡んだ蔦を足場に伝い、ミッドにも生息している木の上のお猿さんを時には驚かせ、慌てて逃げる狐と併走し、お腹がすいているのか、襲ってきた熊を跳び箱のように手を突き、飛び越える。
小川の音と、水の香りを感じて木の上から飛び降りた。
川面に映った私の影に驚いて魚たちが逃げ散って行く。
手を入れると思ったより温かかった。どこか近いところで温かい湧き水でも吹き出しているのかもしれない。
水をすくって顔を洗う。
冷たい風であっという間に冷えるのを感じた。走りっぱなしで火照った今はそれが丁度気持ち良い。
そのままの姿勢で私は盛大にため息を吐いた。
はああ、と声まで漏れるようなため息は初めてかもしれない。
やってしまった感がものすごい。別の意味では未だやってないのだけど。
ちゃら、と音がする。視線を下にやると細い鎖がおへそくらいまで垂れ下がっているのが見えた。
「そういえば……付けたままで来ちゃったのか」
本革の艶光りする首輪をもそもそとした動きで外す。
外したモノを束の間眺め……いっそ飛んでけ! とばかりに振りかぶった。
その姿勢で硬直する。
昨夜の光景が浮かんできてしまった。同時に感情も。
「ご……ごしゅじんさまー……とか」
いやいや、いやいやいや。何を思いだしているのか。
「……なんなんだ私、ありえん」
投げ捨てようとして、思いとどまり、投げ捨てようとして、思いとどまり……
結局捨てるに捨てられず懐にしまい込んでしまう。
本当に、本当に何をやっているのだろう私は。
辺りを見回す。水温の高い川の付近だからか、季節としては珍しい霧が出てきていた。厚着はしてきたもののさすがに寒さを感じてぶるっと震える。
西部であるのは間違いないと思うのだけど……真っ暗な中、文字通り暴走していたので、方向とか把握してない。
「デバイスは……」
そういえばランスター家に置きっぱなしだったかもしれない。
何とも情けない気分になり、再びため息を吐いた。突然の呼び出しだって来る事もあるってのに。
「局員失格だあ」
私はそう投げ捨てるように言い放ち、枯れた木にもたれかかるようにして、草むらに腰を降ろした。
いつかどこかで歌った事のあるような歌を口ずさむ。何かを誤魔化すかのように次々と。
ゆったりと、ゆったりと日が昇り、霧もだんだん薄らいでいく。
さすがに落ち着いてきた。
戻ってどんな言い訳すればいいのか……それだけが頭痛の種だけど。このまま家出してしまうわけにもいかない。
さしあたって問題は一つ。
左を見れば森だ。右を見れば森だ。目の前の川の向こうもまた森である。
「さて、どうやって戻ろうか」
寒さに負けず元気に飛んでいるカラスが、そんな私を馬鹿にするように一声鳴いた。
◇
山を下りてみれば人里もあっさり見つかり、ヒッチハイクをしながら帰り着く。運送のおじさん、その節はありがとう。
昼過ぎにはランスター家の玄関についていたのだけど……私はなかなか扉が開けられなかった。
いや、いつまでこうしていても仕方がない。フッと息を吸い、気合いを溜める。
緊張のあまり、ちょっと震えてしまっている手でドアを開けようと手を伸ばした時──
「……え?」
「ひひゃあっ」
突然ドアが開いてティーダと鉢合わせ、私は驚きのあまり変な声が出てしまった。
ティーダもまた驚いた様子で固まっている。私は私でどう話しだせば良いのか判らず、意味もなく、右を見て左を見て……ああ、こういうのをキョドってるって言うのだろうな、なんて頭の片隅で自分にツッコんだりしている。
「その、ティーノ……」
「ええとね、ティーダ……」
被った。
再び一秒ほど停止。
そちらが先にどうぞ、いえいえそちらこそ、と譲り合う事数度。
きりがない、とティーダが困り顔で頭を掻いた。
「その、なんだ、ティーノ。昨日の事は媚薬の効果が大きかったんだろうからさ、こんな事で気まずくなるのも嫌だし……そう、日本語で確か『海に流す』ってことわざがあったよね、それでいこう」
「……海って拡散でもする気?」
水に流してほしいものだった。こんな話を拡散するとかとんだ鬼畜なのである。
ティーダは、そういえば水だった、とわざとらしく肩をすくめる。
どう言えばいいのか、悩みながら来た私としては拍子抜けというか何というか……
ため息を一つ吐く、あまりため息を吐くと幸せが逃げてしまうのに。
なんだかどっと疲れてしまった。
とはいえ、水に流してくれるというならありがたいのだけど。
家に上がろうとすると、ティーダが手を私の前につきだした。
「……なに?」
「お手」
私は無表情にその手と、それをつきだしているティーダを見やった。
にやにやしている。これ以上なくにやにやしている。素知らぬ体で、はてと首をひねった。
ティーダはからかうように、く・び・わと声に出さず口を動かした。
なるほど……なるほど。私はにこりと笑いかける。
「わんわんっ」
我ながら可愛い声である。同時にお望み通り、お手をしてあげた──力一杯。
手と手を打ったものとは思えぬ音が響き渡る。ティーダは差し出した手をそのままにずるずるとうずくまった。
「痛い……この少年の遊び心が判らないなんて、ティーノは面白みがないよ……」
「面白み云々の前に、水に流すって言った口でそれ?」
「……なんてことだ、寒空の中に居たせいかティーノの目が冷たい。かくも自然とは厳しいものか」
芝居がかった仕草で顔を手で覆い嘆いた。
態度が冷たいのは誰のせいか? 何でこういう時にティーダは真面目に話さないのか。
まったく、とまたもやため息を吐き、お風呂場に向かった。寒空の下にいたのは確かだし、ちょっと暖まりたいのだ。
本当にこいつは……時々こう茶化すクセが無ければ普通の二枚目なのにもったいないものだった。
◇
ここのところ、本局に居るよりも任務先に出張っている事の方が長くなっている。
単純に時間のかかる任務が多くなっているだけなのだけど、現場に行ってみれば解決済みであったり、逆に先発しているはずの部隊がまるで見あたらなかったり。そうした混乱で尚更時間がかかってしまうという事も多い。何だかなあと思いつつも、そんな現場での調整もまたうちの部隊の役割ではあった。本当に名ばかり特務、雑用部隊である。
「しっかし、あちこちの次元世界、行ったり来たりしてると季節感が……」
帰還中、航行船の中でティーダにぼやく。ぼやいたところでどうしようもないのではあるけど。
「はは、さっきまでの世界は暑かったしね。ミッドに戻れば寒いだろうけど、ああ休暇の時にティアナに新しいコートでも買ってあげれば良かったなあ」
思い出したように腕組みするティーダ。
だねー、と私も同意しておく。年々背が高くなるので、去年のコートはもう着られないだろうし。
今からでも遅くないかな、とティーダが端末でカタログを見だしたので、私もその後ろから覗きこんだ。
「……いやいや、ティアナちゃんに買ってあげるのにミリタリーなコートを見てどうするのさ」
「ティアナなら理解してくれる……はず」
「いや、やめようよ、ただでさえ最近ティーダの雑誌見て影響されてるんだからさ」
以前ティーダが買ってあげたおもちゃの拳銃で近所の男の子を追いかけ回し、泣かせてしまった事もある。
もっともあれは野良の子猫をいじめている男の子を叱ろうという事だったらしいのだけど、お互い言いあってるうちにエスカレートしてしまったらしい。
ティーダは、将来が楽しみな事だとか笑っていたけども……
教育って何とも難しい。
本局に帰還すると、寝耳に水の情報が飛び込んできた。
ロストロギア「闇の書」
そんなモノが地球にある可能性が高いとか。
少し前に噂になっていた管理外世界のモンスターハントの一件、それも絡んでいたのだという。
私はこれを聞いた時、苦虫を噛みつぶしたような顔になっていただろう。
またしても……とでも言うべきだろうか、本当に第97管理外世界は騒動に事欠かない。
何でもなのはちゃんが交戦の結果負傷、さらにそれを助けに入ったフェイトちゃんもまた負傷してしまい、一度は本局に運ばれて検査を受けたのだとか。
負傷……といってもリンカーコアへの負荷だそうで、命に別状はないという事だけど。
……うん、いろいろ思う事はある。中でも疑問だったのは、なんで私が本局に戻ってくるまで一片の情報さえ入らなかったのかということだった。
それについては任務報告の間も片時も手を休めず仕事をこなしているロウラン提督がこっそり教えてくれたのだが。
何でも、少し前から散発的に発生していた情報の誤差……そう思われていたものが一気に拡大。新手の攻撃プログラムだったらしく情報部が現在地獄絵図なんだとか。それは情報部だけに留まらず、管理局の後方全体に波及、生活レベルに影響を及ぼすほどではないものの、末端の情報網があちこちで寸断されているような状況らしい。
コンソールを一つ強く打つ。提督はため息を一つ吐くと、部下を呼び出した。
「……リンディが来た時用のスペシャルティを一つ運んできて頂戴。糖分、糖分が頭に足りないから」
あれか……あれを嗜むのか。
過去二人の提督の間で無意味に競い合ったと言われる糖度耐久決戦。その最後の一品、甘き氷山と呼ばれる紅茶、見ているだけで胸焼けを起こすというあの伝説の……
私は戦慄を隠せなかった。
提督はともかく、と前置きして私とティーダに向き直る。
「後でちゃんとした形の書類は送っておくけど、内示として聞いておいて。あなたたち二人はアースラチームに合流、闇の書の件に当たってほしいの」
これも言っておくべきか、と少し考え込むようにつぶやいた。
「資料にも載っている話なんだけど、リンディは旦那さんのクライド提督を以前起きた闇の書事件の折に亡くしているのよ。大丈夫だとは思うのだけど……引き際だけは見誤らないように。その為の万が一の保険とも考えておいて頂戴」
お目付役……といったところなのだろうか。
プライベートな付き合いもある私達は確かに丁度良いポジションなのかもしれない。
「本当は追加で一個中隊くらいどーんと送ってやりたいのだけどね」
そう言ってまた再度ため息をつく。
「情報の制御システムが駄目になっているような現状だと……どこも余裕がなくなっちゃって。正直、先発で送っておいた武装隊の維持が精一杯。それだったら半端な寄せ集めを急遽送り込むより、二人だけでも気心が知れてて、ある程度の力を有する魔導師であるあなたたちが適任という判断よ。第122管理世界での、組織から切り離された状態で成果を上げた事も含めてね」
あの世界での事は失態だったと思ったのだけど、そんな評価をされていたらしい。
特務小隊は隊長職をラグーザが臨時に任命され、今回の状況が終了するまで運用部が預かる事になっていた。何でも麻痺している末端への情報伝達に使われるのだそうで……うん。出立する前に栄養剤を前もって差し入れしていった方が良いかもしれない。あれはこき使う気まんまんの目である。
ともかく私としては個人的にも付き合いのある人達ばかりなのだ。一も二もなく了解し、手続きが完了次第アースラに向かう事となった。
「ロストロギア……か」
何となくティーダが浮かない顔をしている。
私は渡された資料を閲覧しながら、生返事で答えた。
「そうだね、どうかした?」
「前回の任務……122管理世界の前例があるからなあ。またまた厄介な事にならないといいけど」
「……えーと」
「ティーノ?」
私は無言でその資料をティーダに見せる。
そこには現在判っている限りの闇の書の特性などの情報がまとめられていた。
「……アルカンシェルで消滅させても、一定期間をおいて再出現してしまう再生機能。一体一体がAA級魔導師以上の力を有する闇の書の騎士達。さらには勢力としては不明のままである仮面の男、暴走時の危険性、エトセトラ……」
ティーダは両手を上げた。呆れたように言う。
「これはこれは……なるほどすでにして厄介だった。言い方を変えた方が良いみたいだ。これ以上厄介にならないといいね」
私もまた肩をすくめる。ジンクスを信じるわけじゃないけど、言えば言うほど難解な事になりそうな気がした。
向かう前にティアナちゃんに連絡をしておいたのだが。
──私はこの日ほど管理局に入ったのを後悔した事はなかったかもしれない。
すごく寂しそうな目で言ったのだ。
「……また帰ってこれないの?」
と。
これには私も心中にざくりときた。聞いた事はある。仕事で忙しい親が言われるらしい。管理局でもままあることだ。これが悪化すると最終的には帰っても「いらっしゃい」と言われる事になってしまうのだとか……
隣でティーダが固まっていた。私は何とか表面だけは取り繕い、通信を終える事ができたのだが……
「く、くく」
隣から不気味な笑い声が聞こえた。
ティーノ、と一声かけられ、私は若干の戦慄と共にゆっくり振り向く。
「いいかいティーノ、闇の書だろうが何だろうが速攻で終わらせよう、そして休暇を取るんだ。ティアナにこれ以上寂しい思いをさせちゃいけない。いっそこの後は小隊内のシフトも変更して、そう、そうだね、ラグーザには頑張ってもらおうか」
そこには底光りする目をするティーダが居た。本人の知らぬところで割を食う事が決定してしまったラグーザには申し訳ない。心の中で線香を上げさせてもらった。
ティーダは再び端末に映し出される今回の事件に関する資料を見る。
芝居がかった仕草で手を突き出した。
「待っているが良い、闇の書の騎士達、有象無象の区別なく、僕の魔弾は逃しはしない」
私の右手が閃いた。
ぱあん、と景気の良い音が通信室に鳴り響く。最近熟練度がさらに増した気がする。ツッコミだけ。
本人はネタのつもりだろうけど、そういう台詞はやめてほしい。縁起でもないのだ。
◇
闇の書の一件に当たっているアースラへの応援として合流し、早くも十日が経った。
とっとと仕事終わらせて帰るぞ! という私達の意気込みとは裏腹に事件は全く解決の目処が立っていない。
勿論その間休んでいたわけではなく、散発的に出現する闇の書の騎士達の反応を見つけ次第急行、幾度か戦うような事もあったのだが……なのはちゃんとフェイトちゃんが協力員として、なぜかパワーアップもして戦線に復帰。その時を境として敵さんも方針を変えたらしく、すぐに撤退してしまうようになった。
また、ユーノ君が私達とはすれ違うような形で本局に行ったらしい。
無限書庫の探索という事だったのだが、まさか本当に新情報を掘り当ててくるとは思っていなかったとか。クロノが驚いていた。
その情報によると、闇の書というものも本来は夜天の書という古代の資料備蓄用デバイスだったものが、改編され、改編され、現在のような形になっているのだとか。
私もまた身のうちに亡霊さんが未だ居るわけだけど……魔法による人格プログラムである亡霊さんの在り方と防衛プログラム人格である騎士達は似ているのかもしれない。ラエル種もまた古代からの生き残り種族だし、複雑な思いを感じなくもない。
首を振る。まばたきを二度、三度。
追っても追っても追いつかないような感じで精神的にも疲労してきているようだ。思考も散漫になっているようだった。
その日の日本はクリスマス。ミッドでは当然この行事はないのだけど、そのお祭りムードには馴染みのないエイミィやティーダもどこかその様子を見て感心していた。
いつしかティアナちゃんもこの時期に連れてきて、キラキラ光る夜景を見ながらケーキでも頬張らせてあげたいものである。
もちろんこっそりとプレゼントも用意するのは忘れない。熱を受けてくるくる回るキャンドルスタンド、そのほのかな灯りに照らされながらおもむろにプレゼントを手渡すのだ。きっと喜ぶ。ティーダがちょっと期待するような目で見るけど、私はそ知らぬ振りをする。枕元に置いてあるから後で喜ぶと良いのだ。そして雪化粧されたクリスマスツリーを窓の外に眺めながら、ちょっとその日ばかりは大目に見て欲しいホットワインで乾杯をする。ほっと一息吐いた私は、気分良く、クリスマスにはお決まり、Silent Nightを囁くように歌う。
──なんて現実逃避をしていた。
現実は非情だ。
クリスマスはクリスマスでも私の目に映るのは煙るようにどんよりとした夜の空。
体は痺れたように動かず、かろうじて顔を動かすと、二人の姿が目に入る。
「なん……で」
呂律の回らない口で独り言を絞り出した。
何度まばたきをしても、その姿を変えたりはしなかった。
グレアム提督、それにプレシア・テスタロッサ。二人のS級……一人に至ってはオーバーSの魔導師。
全く感知のできなかった不意打ちに、私達は為す術もなかった。私も含め、ティーダ、クロノ、なのはちゃん、フェイトちゃんもまた倒れ伏している。
闇の書……いや夜天の書の意志と呼んだ方がいいのだろうか、それが表に出てきている八神はやてを複雑な封印の術式が囲んでいた。
「爺さん……なんで」
私は多分、身体のつくりが違うせいだろう。回復が早かったようだ。まだ痺れも残るものの、ゆっくり立ち上がり、よろけながら向かい合った。
白いものが視界に映る。翼にかけている常用の幻術もまた解けてしまったらしい。
グレアムの爺さんは何とも言い難い感情が揺れている目で私を見た。
「よもや、ここまで来るとはな。いや、お前の関わりを思えば予想しておくべきだったか」
しかし、と言って封印の術式に手を向ける。
「情にかまけ、闇の書を『何とか出来るかもしれない』というリスクの上に投げ出す事は私には出来ん」
向けていた手を握りしめた。
夜天の書の意志、その身を包む魔力の光がまるで拘束具のように巻き付く。街ではあれほどなのはちゃんやフェイトちゃん相手に暴れていたのに……眠ったように大人しくなってしまっている。
「くッ」
私が飛びだそうとすると、バインドが身を縛る。見覚えのある構成、間違えようもない。アリアさんの魔法だった。
さらにロッテさんが私に歩みより、無表情に。
「ごめんね」
囁きと同時に重い衝撃、魔力を伴った掌底が腹部に叩き込まれた。
力が、抜ける。
「過去の大戦にて廃棄されたロストナンバーの世界があらゆる世界から隔絶した形で存在している。三日後にその世界にて儀式魔法による闇の書の封印を行う。ティーノ、理解するのだ。これが最善手だと」
へたりこみ、身動きの取れない私を一瞥し、三人は転移していった。
◇
「かあさん……」
フェイトちゃんもまた意識を取り戻したようだった。
提督とリーゼ姉妹が転移した後も、悠然とした様子で腕を組み、何か考えるように佇んでいたプレシア・テスタロッサはその目を向けた。
「フェイト、一度だけ言ってあげる。共に来なさい」
「……ッう」
フェイトちゃんがびくりと震えるのが見える。
「夜天の書を解析すればその再生システム、さらには魂の情報化への道筋も開けるかもしれない。私はアリシアを……今度こそは成功してみせるわ」
情念の篭もった声で言い、さあ、とフェイトちゃんを促す。
「……わ、私は、わたし……は」
うつむき、震えた。涙がこぼれ、地面に染みを作る。
その様子をじっと見たプレシア・テスタロッサは、そう、と感情のこもらぬ声で言う。
「涙……ね。そう、あなたはもう人形でもないのね」
しばらくそのまま押し黙った。自嘲するかのようにくく、と笑いを漏らす。
「くだらないわ、くだらない。本当にね。ふふ……じゃあ、さようならね、私の子」
そう言い残し、転移した。
「あ……かあ……さ」
フェイトちゃんは何かを言いかけたが、張り詰めていたものが切れたのか、気を失ったようだった。
封時結界が解け、世界が色を取り戻す。
雪が舞っている。
「こんな時……どうしたらいいのさ……」
私の小さなつぶやきは誰に聞かれるでもなく、どんよりとした空に吸い込まれた。