私の前に正座したシャルードさんとティーダが座っている。
さすがにフローリングに直接座らせるほど鬼ではない。ソファの上にあった平たいクッションを敷くことを許していた。
「や、やあねえ、ティーノちゃん、ちょっとからかっただけじゃないの」
「しゃらっぷ。今がどんな事態か判って言ってますか……さあ、為友くんやっておしまいなさい!」
あいさー、と元気よく返事した為友くんはヘアブラシ、堅めのアレを元気よく掲げて見せる。やめてやめてと身もだえるシャルードさんに足裏マッサージを始めた。
「あ……あッ駄目、駄目!」
とどこか青少年の耳に悪そうな声をあげて身をくねらせた。
なおも為友くんがうりうりと足裏を刺激する。
「あっ、やあ、ああっ、ひん、はあ……ああ」
どこか啜り泣くかのような調子も含ませそんな声を上げる。
為友くんがふとももをもぞもぞし出した……何という、何という情操教育に悪い人だ。
私は頭痛を感じながら、合図を出す。
「ストップ、為友くん、もういいよ」
「……も、もうちょっと」
「おいこらそこの子供……もうちょっとじゃない。そしてそこのティーダも足をもぞもぞしないッ!」
「いやちょっとこれは、ポジションがその……」
ようやく、為友くんからブラシを奪った時、シャルードさんが私を見てにやりと笑みを浮かべた。
ぐぬぬ……こ、この人は……私では御すことかなわぬというか。
私はシャルードさんの隣に座っているティーダを睨むとその分の憤りも込めて言った。
「ティーダも、気付いてたはずだよね。私だって思い返せばシャルードさんが適当な事言ってるってのは判ったんだから、ねえ」
正直八つ当たりである。
でも止まらない。普段は言わないようなねちこい調子で責め立てるように言ってしまった。
「なのに、何であっさりと口車に乗っちゃうのさ、ティーダらしくないよ、真面目にやろうよ、ティーダはさ──」
私が勢いに任せて言いかけた時だった。
「……僕らしく?」
ティーダの声音が沈んでいた。
「どういうのが僕らしいのさ?」
私はとっさに言葉が浮かばず「え……」などと詰まってしまった。口からぽんぽん出してただけでそう深くは考えていなかったのだ。
「僕はそんなに清廉潔白でも聖人君子でもないんだよ?」
いやそれは判ってるけど、その手のえっちぃ本やデータを隠したりとかしてるし……いや、何か雰囲気が、そう言う事を言ってるんじゃないのか?
身を乗り出してきたティーダに何となく気圧されて後ずさりしてしまった。
なんだこの気合いは……!?
「いいかい君はね、リビングで本を読んでいてふと見れば、背中の大きく開いたタンクトップとショートパンツで無防備に掃除しているし。目の前でちらちらと映る白い肌は何だ、気にしたら負けだ、気にしたら負けだと思いつつ無理矢理本に集中しても、頭に入るわけがない! どうしろってんだ」
お、おう……
言ってる事は情けないような気がするが……何という気迫か。私はたじたじとなるしかなかった。いつの間にやら私自身、迫力に押されて床にへたりこんでいる。
「それだけじゃない、ティアナをお風呂に入れてくれるのはいい、僕も助かるんだ。でも、でもね、バスタオル巻いただけの姿で歩き回らないでくれ。そのまま椅子で足を組まないでくれ、僕は何を試されているんだ、理性か? 自制心の限界か? 忘れているかもしれないけど僕だって15歳の普通の男なんだよ、限度ってものがあるんだ」
わなわなと肩が震える。
やがて力が抜けるように視線が落ちた。
違う、そんな事を言いたいんじゃない、と小声でつぶやく。
「この世界に来てからは、文字通り足手まとい、言葉も解らない有様だし、ビスマルクも……僕とは正反対だったあいつも、決着すらつけずに勝手に自滅して……見知らぬ世界で帰る道筋もままならない。これで、まともに頭を動かせって?」
顔を伏せ、いかにも悔しげに拳が床の上で固まった。
そうか、と私は自分でもひどく優しげに思える顔を作り、肩に手を置いた。
「それで、つい下半身の命じるままに行動してしまったと?」
「うん……しまッ!?」
思わず頷いてしまったティーダの目に映ったのはスリッパの裏側だったかもしれない。
ぱあん、とそれはそれは小気味良い音がし、自分が食らったわけでもないのに為友くんが痛そうに顔を手で覆った。
「成敗……」
今宵も我が煩悩絶ち切り丸の切れ味は抜群である。
「無念……」
時代劇のノリに合わせ、倒れ落ちるティーダ。
私はその上にどっかと腰掛け、頭を一発はたいた。
そのまま黙り込んでしまったので、私はぶすっとした表情のまま言っておく。
「ティーダのせいじゃないよ。突っ込んだあいつの自滅。もしかしたらティーダが逃げる事じゃなくてヒーリング優先してれば……確かに違った結果だったかもしれないけど、あの時は精一杯だったわけだし。止血は済んでたから私達の常識に照らせば余裕を持ってヒーリングは間に合う状態だった。だからさ、ティーダは間違ってないよ」
「……うん」
小さい声で返事が聞こえた。
それと、と私は続ける。
頬に血が上るのが自分で判った。
いや、今は体勢的に顔色なんて見られやしないんだが。なんだろうもう本当。
「昔の事については忘れて、私も気にしなさ過ぎた……これからはきっと注意する。ただ……」
その言葉の後は出てこなかった。
ストレスが溜まってティーダも思わず普段の不満点とか口をついて出てきてしまったのだろうけど……意識させるような事を言わないでほしい。
顔に上った血が中々戻ってくれない。そりゃ、年頃なのは判ってたし、私もからかうことはあったが、実際にそんな目で見られていたのかと思うと、むず痒いような何とも言えない感覚がある。
全く……とつぶやいて、もう一発こんちくしょうの頭をはたいておいた。仕方無い、これで手打ちにする。
ティーダは少しは気を取り直したかどうか判らないが、真面目な声で言った。
「ところで正味な話……背中に当たるお尻の感触がなかなか良い感じなんだけど」
「……まだ言うか」
手打ちは取り消しだった。私はティーダの上に乗ったまま、手近な3人掛けソファに手をかけ持ち上げる。
「おッ……おも、重ッギブギブギブッ!」
タップを繰り返したので、解放してやった。
床に片膝立ちになり、ガッツポーズ。
隣でぐったりとダウンしたティーダは、私に顔を見せないままぼやいた。
「ひどいなあ、君は。でも……まあ……」
ぽそぽそと、普通なら聞こえない声でありがとうとつぶやいた。
私は返事代わりにふたたび頭をはたいておいた、軽く。
「……なあ、シャル姉ちゃん、結局あのやりとりってどういう事なんだ?」
「ん? んふふ、為友くんには早かったかな。お姉さんが解説してあげようね。いろいろあって、ストレス溜まってごちゃごちゃになって爆発しちゃったティーダ君。そして爆発してしまった事への照れ隠しに走るティーダ君を理解して、それに沿った形で形で労ってみせたティーノちゃん。そんな二人のじゃれあいよ。ごちそうさまと言うしかないわねえ」
野次馬の、ひそめた声がどこからか聞こえてくる。
そんな声はシャットアウトしたいのだが、私の地獄耳はそこまで都合よくはなかった。
というかすっかり忘れていた。恥ずかしすぎて死ねる。髪を振り乱してうるさい三連とかこういう時に使えばいいのだとようやく理解した。
「さてさて、為友くん、ちょっと砂糖吐いてくるから一緒に来なさいな」
「ん、なんで?」
「野暮ってもんでしょ」
そしてシャルードさんは私に器用なウインク一つを残して寝室に行ってしまったようだった。
先程のひそひそ話も私に聞こえるように話していたようだし……
カーリナ姉といいシャルードさんといい、私の周囲の年上の女性はほんとどうにかならないだろうか。
私は深刻なため息を一つ吐いた。
「ところでティーノ」
なに? となぜか床に伸びたままのティーダに目を向ける。
「青と白のストライプはグッド」
「しつこいわ」
三度目の下ネタと共に突きだしてきたサムズアップ。私はそれを踏みにじった。
◇
どたばたとした朝方の余韻も消えた頃、私達は相談の末、ある場所に新幹線で移動中だった。
為友くんの覚えている場所というのを今一度聞き直し、最後に覚えている場所──おそらく為友くんが行方不明となり、あの神さまの言う「まいご」となってしまった場所。ビスマルクという人物になった場所、そこに向かっていた。
覚えている地名から割り出した場所はマンションからは相当離れていて、調べたところ新幹線で一時間、ローカル線で三十分、バスで三十分。山の中腹あたりに位置する循環器病院の近くのようだった。都市部からかなり離れたところである。病院で診療してもらった後に、この辺りの夏祭りを見て回っていたらしい。
新幹線で移動中、窓際で物珍しそうに外を眺めていたティーダはいつの間にか眠っていた。
まあ……局員としても私より先輩であるわけだし、他の二人は立場としては民間協力者だ。自分がしっかりしなければ、と気を張って……張りすぎていたのだろう。午前のどたばたでガス抜きにはなったようだが。そこはシャルードさんに素直に感謝……は、何だかする気になれない。これも人柄と言えるのだろうか……
そのシャルードさんの隣では肩にもたれかかるようにして為友くんがやはり寝ていた。体が弱いと言っていたのは本当らしく、元気な口ぶりとは裏腹に疲れやすいらしい。
ずれ落ちたコートをシャルードさんが掛け直した。
ここに来る途中に買い込んだ衣服だ。なにぶん男二人は少々浮くような格好だったので、まずはと揃えたものである。マンションの近くに某量販店があってとても助かった。
「ねえ、良い機会だから聞いておきたいんだけど」
そう言ってシャルードさんが車内販売を呼び止めて買った暖かいお茶を渡してくれる。
ペットボトルでもやはり緑茶が良いのか、若干嬉しげな様子で蓋を開け、一口含んだ。
つられた訳でもないが、何となく私も喉が渇いて同じように一口。
「あなたも来訪者の一人なんでしょ、故郷の感覚はないの?」
ぶぴ、と吹き出しかけた。
「けほ……いや、私自身それ疑ってる所ではあるんですけど……というか何でそこに思い至ったんですか」
あまり隠す気もないけれど、私自身が確信をもってそうだと言えるような確たるものもないのだ。積極的に話した覚えもないのだけど……私が気付いていないだけでどこかに確信できるような要素でもあったのだろうか?
「カミヤ君が不思議がってたわよ、考えてみればなんで一年後に発売されるはずのゲームのキャラをあの子は知っていたのかって」
カミヤ? 確か見た目に驚いた覚えが……ああ、思い出した。そう言えば紹介された時は隣の人に混ぜ返されて曖昧になってたっけ。
しかし、一年後に発売されるはず? 彼等の時間軸は一体どうなっているのだろうか……そういえば、そこら辺の事は聞いた事がなかった。迂闊だったかもしれない。
いや、まて。そういえば私もかつては地震とか先に何かが起こるとか予言めいた事を証言していたような記憶がある。あれは何年前だ? 本局のカルテに当時のデータがあっただろうから今度ちょっとコピーしてもらった方がいいかもしれない。すっかり忘れてしまっている。
頭を悩ませていると、シャルードさんが私の額に指を当てた。
「ま、一人で悩んでないでこの知恵者のおねーさんに相談するとかどうかな?」
「自分で言っちゃいますか……ええとですね、私の頭があまり理論的でないのは承知してるけども……」
私の経緯というものを話すのは少々……抵抗がないでもない。
ここは一つぼかして……
「そういえば、独り言だっただろうけど亡霊さんだったかしら? なんであなたがノウンファクト王家に伝わっていたロストロギアに認証されたかもまだ聞いてなかったわね」
ひぃ……
目が探求心に燃えている。
「あの何だか判らない存在。そうね、特性をよくよく考えれば神としか言いようがないのかもしれないけれど、真っ先にそれを断定したかのように言った事についてもまだ聞いてなかったしね」
シャルードさんの手が逃がさないとでも言うかのように私の手を掴んだ。
無駄に澄んだ微笑みを浮かべる。
私は救援を探し隣を見るが、ティーダはとても健やかな寝息を立てている。どんな夢を見ているのか、だらしなく口元があいてふひひとか笑っていた。援護は期待できそうもない。
「さ、相談してちょうだい。遠慮無く」
「え、えーと……」
何とかぼかして話そうと努力はしたものの……そう、努力はしたのだ。
しかし矛盾があれば鋭く突っ込まれ、話を端折れば怪しまれ……結局洗いざらい吐く事になってしまったのだった。
時間が早いというのもあり、また平日というのもあったのだろう。
私達のとった席の近くに人は座っていない。
それでもなお声をひそめた「相談」が終わった時にはもう……
私は、もともと白い色がさらに脱色されたかのような気分になっていた。
ようやく理解した。この人が研究者の目になった時は話しかけちゃ駄目だ。
ふふ、風が吹けば塵となって飛んで行きそうである。はらはらと、はらはら……
「……面白いわね、まさかそんな事になってるなんて……しかも、くふふ、古代文明の記録を保持したプログラム人格? ね、ねえティーノちゃん、ちょーっと専属の実験台にならない? 今なら三食昼寝付きよ?」
痛いのはちょっとだけだから、と手をわきわきと動かす。
悪趣味な事を言わないでほしい。しっしっと追い払うように手を振っておいた。
「けちねえ……あ、おやつは三百円まで出すけど?」
「私は小学生レベルですか」
「うん」
迷い無く頷くシャルードさん。そろそろ現実逃避してもいいだろうか?
「ま、冗談はともかく……多分……本当の原因は分からないけど、あなたには、あたしやビスマルクのように元になる体もなかったんでしょう。あの訳のわからないアレの事だから、一から体を作ろうと思えば作れた気もするけど……あれに理由とか意味を求める方が間違っている気もするわね」
「そ……そうですか」
そりゃ少しは予想していたのだが、面と向かって言われると妙に落ち込んだ。
元になってる体もない、とか研究者的な視点から見ると当たり前の言葉なのだろうけど。
いや本当今の私って何なのか……アドニアでもない、この世界の人間でもない。
頭を振った。そんな、自分かわいそーなんて気分に浸ってもしょうがない。
そんな私を興味深そうに見ていたシャルードさんはふと意地悪げな笑みを浮かべた。嫌な予感がする。
視線がティーダを少し向き、またこちらに戻る。おもむろに口を開き……
「ぼーいずらぶ?」
「い……いや……違ぅ?」
私は固まった。
そりゃもうゴルゴンに一睨みでもされたかのように。
ジェンダーについては……その、目を逸らし続けてきたのだ、情けない事に。いや、解決なんて多分できない。
私はかつてアドニアでもあったはずだしその記憶もある。同時に、かつて男性であった成分も含まれているわけで、ふとした拍子にそれも顔を覗かせることがあったり。
私自身こんな身の上で成り行きながらもティーダとは仲良くなっていて、ティアナちゃんは可愛くて。あ、いや、それ以前にラブじゃないライクである。
最近では体の変化に合わせてなのか、アドニアと完全に馴染んだのか……思考がまとまらなかったり、妙に恥ずかしかったり。姫様の挑発に思わず反応してしまったり……
いやそもそも、私みたいなのがぶら下がっている状態ではティーダだっておいそれと恋人の一人も作れは……
思考がぐるぐると渦を巻き、どうすれば、どうすればという答えの出ない声が頭を占める。
「……あぅ」
俯いて、言葉の一つも言い返せない私の頭にシャルードさんが手を置いた。
「……ごめん、気軽に聞くにはちょっと複雑な事だったみたいね」
言葉が浮かばないがとりあえず首を振っておく。
一度、目を逸らさず考えないといけない。私は。
◇
駅から出ると、ロータリーにバスが停まっている。行き先を見ると丁度病院前行きだった。
「ここからは俺だけでいいよ、姉ちゃんたちが変に疑われるのも嫌だしな」
「ほ……本当に大丈夫? ちゃんと一人で行ける?」
シャルードさんがとても心配そうな顔で別れを惜しんでいた。
ここは為友くんの実家のある町でもあった。最初は私達が送ると言っていたのだが、本人がしきりに気を使ったのだ。
ああいう一件に巻き込まれた以上、現状では平気そうに見えても、今後どんな症状がでてくるか判らない。そんな事情があるので、私達が魔導師だという事は説明してある。いずれ行き来が可能になれば、予後に問題が起きないかどうかを調査もできるはずだ。
名残惜しそうなシャルードさんを引っ張ってバスで移動すると、あれよあれよという間に風景に畑が広がるようになり、それはやがて森林に変わった。
地図で見たとおり、この町は駅と中心部以外はこういう鄙びた場所らしい。
病院で降り、少し歩いたところにある神社が、為友くんの言っていた夏祭りの行われていた場所だった。入り口の石碑には淤美神社と書いてある。
「おみ神社って読むそうよ、何でも勝負事に御利益があるらしいわね」
静かな境内を歩く。基本は無人の神社らしくひっそりと静まりかえっていた。
少し離れた所に、社殿とは別の苔むした大きな岩があった。
ちょうど私の手の高さあたりに窪みができ、雨水が溜まっている。
しめ縄が巻かれたその古そうな岩、そこを中心として魔力の流れがあることを感じた。
「ティーノ?」
岩の近くに行き二人をちょいちょいと呼び寄せた。
さすがに至近距離まで来れば二人も似たような感覚を得たようで、驚きの顔になる。
「……これ、海鳴とは逆だ。魔力がこの世界に流入してる感じがする」
シャルードさんは岩に手をかざし、目を瞑る。
一つなるほど、と頷いた。
「ここなら魔法も使えそうね、一旦……最初に出た場所に転移、打っておいた楔を回収して座標位置をこちらに変えるとしましょう」
そう言って早速と、キューブを取り出そうとしたのだが、私がストップをかけた。
「ちょっと待ってて、急いで物産店行ってくるから」
先程病院から歩いている途中に見つけたのだ。何をこんな時にと二人を呆れ顔にさせてしまった。
私が急ぎ足で向かおうとすると、後ろから声がかけられた。
「ティーノ、お金ある?」
私はそのまま後退し、シャルードさんに少々の借金を申し込んだのだった。
◇
見覚えのある……あまりに寂れた境内に出た。この世界に来た場所だ。日の射している時間帯だとなおさらその廃墟然とした感じがもの悲しさを誘う。
落ち着いて感じ取ってみるとここもどうも魔力の流れが少しできているようだ。さっきの神社ほど大きい流れではないけれども。
シャルードさんが何やら作業をしている間に、私は先程物産店で買ったおみやげを手に、お婆さんの家を訪れた。借り受けた地元のガイドマップを返し、お礼を言っておく。細かいようだけどこういう事は大事なのだ。
境内に戻り再び転移。淤美神社に祭られている苔むした岩、そこにシャルードさんはゆっくり歩み寄ると、岩の手前の地面に短剣を突き刺し、何やら空間に文字を描く。
ぱん、と一つ手を叩き、振り向いた。
「さて、仕込みは完了。今日は一旦戻りましょうか」
言われて気付いたが、それなりに時間が経っていたようだった。
日がもう傾き始め、影が長く伸びている。
「焦ってもいい仕事は出来ないわよ、復路だって今まで誰もやったことのない道筋を辿るのには違いないんだから、体調を整えておくのが重要」
その言い分ももっともだった。ティーダもうたた寝してしまうくらいには疲れているはずであるし、正直私も、体力はともあれ精神的にちょっと……
来る時は交通機関で時間をかけたが、帰りは一瞬だった。
転移した先は途中で見かけたスーパーの裏手あたりだったのだが。
急に現れてびっくりさせてしまったか、野良猫が慌てた様子で逃げていった。
「よし、人の目はないわね」
「なんでまたこんな所に?」
聞けばちょっと用事があるらしい。
一度マンションの部屋に転移してから出ればいいのに……面倒臭がりである。
表の通りに出れば、すぐ駅前に続くメインストリートにつながる。
銀行を見つけると、思い出したかのようにふらりと入り、程なく用事も済んだのか出てきた。
「いやー、普段から記帳しておけば良かったわ。さすがに長い期間開けちゃうと残高とか覚えてないものねえ」
と言いながらもやはり通帳を持ち歩いていたわけではないらしい。残高確認のレシートをひらひらと振る。
「そういえば、シャルードさんはこっちの世界ではどんな事を?」
何ともルーズな感じが漂うくせにお金は持っていそうである。ふと疑問に思った私はそう聞いてみた。
「今と大して変わってなかったわよ? 自称は考古学者。コネだらけの業界嫌って飛び出しちゃったはぐれもの。親の遺産で好き勝手やってた穀潰しってとこね」
ものすごい自嘲げな台詞をいとも簡単に言ってのける、ふと私の頭に手を置いた。
「この世界に思い入れは?」
「んー、特にないかな。というよりも私個人に限ってはあの変な神様に感謝したいくらいなのよね。能力便利だし、いろいろ面白い研究材料が転がってるし」
そう言いながら置いた手で髪をいじる。
……研究素材って、いやいや。まさか。
「ま、そういう意味でビスマルクとは方向似てたんでしょうね、あいつもまた好きな事しかしないような奴だったし。だからまあ、あいつがああなっちゃったのは、納得もできちゃってるのよ。困った事にね」
そう言って、私の頭を一つぽんと叩く。
「湿っぽい話しちゃったわね、買い物して帰りましょうか」
気付けば駅の近くのデパートに来ていた。
地下の食料品売り場で、すぐ食べられそうなものを買い込む。テナントとして入っている酒屋を見つけたシャルードさんが足を伸ばそうとして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、昨日のワイン……ティーノ、ロリッ子がよくお酒が買えたわね?」
失礼な事を言う。買いに行かせたのはシャルードさんなのに。
とはいえ、見た目……不本意だがカーリナ姉が言うに12歳。不本意だが、その見た目のため、不思議に思われても仕方のないところかもしれない。不本意だが。
「ちょっと見ててください。こういうのはコツがあるんです」
そう言ってお金を貰い、実演してみせることにした。
おもむろに酒屋のスペースに入り、ざっと店内を歩き回った後、店主のおじさんに話しかける。
「ブッフ・ブル……ええと、牛肉のワイン煮込みに使うワインが欲しいんですが、何かありませんか?」
聞かれた店主は困った顔になって言う。
「お嬢ちゃん、あるにはあるんだけど、料理に使うようなものでも未成年にはうちはちょっと売れないんだ。お父さんかお母さんは一緒じゃないのかい?」
「ん、サプライズなんです。お母さんの誕生日に故郷の料理を作ろうとおもって」
なおも困ったなあと言いたげな顔をする店主。頬をぽりぽりと掻いている。
駄目ですか……? と不安げな表情を見せると少し迷った末折れてくれた。
「仕方ないな。あくまで料理用だからねお嬢ちゃん。絶対飲んじゃいけないよ? 牛肉の煮込みだね。ブルゴーニュが良いか……そう言えば予算はどのくらいかな?」
値段を言い、この辺がいいだろうと出してきてくれたのは、ボワイヨ産の頑固職人が作ったというワインである。
礼を言い、ホクホク顔で酒屋を出る。
デパートから出たところで、素知らぬ顔で合流してきた二人に、こんなもんです、とドヤッとした顔で成果を掲げてみせると、ティーダに頭をはたかれた。
「魔法で何とかしたわけじゃないのはいいけど、嘘ついてまで買うのは感心しないよ」
「……ぐぅ」
の音は何とか出たが、正論である。
「真面目ちゃんかと思えばところどころで緩い部分があるわねえ」
とはシャルードさんの言である。
しょぼくれていると、気分を入れ替えるかのように背中を叩かれた。
「ま、気持ちはありがたく頂くわよ。勿論ワインもね。さ、戻りましょ」
日の射す時間も短くなっているようだ。外に出れば斜めだった日差しはすでに暗くなっていた。
冷たい風が吹き抜け、身震いをする。少し足を早め、私達はマンションに向かった。