世界が揺れ動く。
どこかで瓦礫が崩れる音がした。
……何をこの忙しい時にガッツポーズとか決めてるんだ私。
はっと我に返ると少し前のテンションを恨みたくなった。いや、頭抱えて部屋を駆け回れるような状況でもないのだが。
「ティーノ、障壁はどうなって……ッ!」
ティーダが私と同じように通り抜けようとするとやはり障壁に阻まれた。
どういうことだ?
いや、考えるのはとりあえず後回しにしないと。
「姫様……」
振り向くと折れたらしい腕を抑えながらも、私を見て驚いている様子だった。
「ティーノ、あなたその背中……」
「……え、あれ。魔法解けてる、何で!?」
私の幻術で隠していた翼が丸見えだった。いやバリアジャケットも解け、そんな翼があっても着れるように改造した普段着になってしまっている。
変な違和感は確かに感じたが、もしかして認証システムに加えて魔法も使えないとか? ああもう訳判らん、ややこしい!
いや、いや。今はこの……暴走の留まるところのないロストロギアの制御が問題である。
いろいろと頭の中では「ばれたまずいアリアさんの説教くる」とか「変に思われる、見るな私を見るな」などといった声が巡っていたのだが、それは置いておく。地下空間の崩落も始まっている。緊急事態すぎるのだ。
「ひ、姫様、そんな事より制御を」
「あ……え、ええ、そうね!」
シャルードさんから手順は教わっていたのだろう。
迷いなく石台に近づき、左手の指を噛み、少しくぼみとなっている部分に血を垂らした。
どこかで聞いたような文言を唱えると、石台に複雑な文字、発光するそれが浮かび上がり、くぼみとなった部分に魔法陣が描かれ、朱色の魔力スフィア、手の平に乗るほどの大きさのそれが生成された。
姫様はそこに手をかざし。目を瞑る、口元が何か話すかのように動いているところを見ると、念話のようなもので命令を伝えているのかもしれない。
やがて際限なく、波打つように流入していた魔力が安定した流れになりはじめた。
「そうです、姫様。まずは経路を安定させ、この空間内に輪を描くように循環させてください。元の世界にそのエネルギーを戻すための仕組みについては、私が組む事ができます」
シャルードさんがいつしか近くに来てそう声をかけている。
緊張ゆえか額に汗を流しながら姫様が一つ頷いた。
ある程度やり方に慣れてきたのか、さほど待たずに魔力が螺旋を描くように空間内を舞った。やがてそれは姫様が手を差し伸べている石台の前方、ロストロギア、天の門の前辺りに、糸を丸めるかのように球状にまとまり始める。不安定さは消え、次元震らしきものも感じられない。この後の始末があるとはいえ一つほっとした……その時だった。
「ひ……姫様?」
「駄目、駄目……制御が……制御が効かない……」
一旦は安定したかに見えたそれは完全に安定する直前、突如暴れ出すかのように暴走し始めた。
得体のしれない魔力は今や荒れ狂うかのごとく流入し、世界に穴を穿っている。
文字通り世界が落剥した。
見慣れぬ空間、私も教科書でしか知らない虚数空間なんてものが口を開けた。
──どうしたら、一か八かで封印魔法を? 障壁に阻まれる、いや試す価値は。ただし今まで試した事もない、本当のぶっつけ本番に。いやそれならティーダが適任なんだけど、障壁を抜ける方法は。
刻一刻と迫る状況に頭も働かない。
何か手はないのか、何か……何か!
私がそんな事を思った時だった。
(よばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん)
幻聴が聞こえる。しぶとく生きてきたつもりだったけれど私もこれで終わりなのだろうか、最後が懐かしのアニメ特集でたまに聞くような台詞だなんて勘弁してほしい。
(……ティーノ、バレンタインの日にこっそりチョコを作って、ティーダに渡すのも意識してるようで嫌だな、でもあげたいな、とか散々迷っているうちにミッドにそんな風習ないのを思い出して自分で食べたよね)
無言で頭を抑えてうずくまった。
思い出させるな人の黒歴史を……
「って……ええッ?」
いつぞやの亡霊さん、消えるとか言っていなかったか? しかも今はばっちり起きている最中だというのに……もしや。
「この出来事は夢?」
(そんなわけがない)
そうだよね……思わず頬を引っ張ってしまったよ。ひりひりする。
(懐かしい感覚だったので表層に出てきただけ。説明は後、コントロールスフィアに手を置いて)
コントロールスフィアって姫様が手を置いているあれか……いやしかし、ここで私がしゃしゃりでるってのはちょっと……やります、やるからこれ以上私の記憶から変なものを拾い上げてこないで。
今度は施設に居た頃の失敗話などを亡霊さんに持ち出されかけ、慌てて止めた。どのみち、ふざけてる時間もないし、他に手も浮かばないんじゃやるしかない。
私は姫様の横に立ち声をかける。
「姫様、説明してる暇もないのだけど、替わってください」
「……ティーノ、何か手があるのですね?」
なぜかちらりと私の背中に視線を飛ばし、すんなり交代してくれた。
私が替わってスフィアに手を伸ばすと脳裏に様々な情報が……視覚的に伝わる? どこの文字だろうか、姫様なら読めたのだろうけど。多分これが操作法になっているのだろう。
(1755983ad,1e1b3db4d,1ca4f6332366e6)
十六進数?
私の中に居るのだろう古代の亡霊さんがそんな数字を入力したようだった。本当は百進数なのだとか、何その進数。
というか、入力できるのか……実は私の体も操れたりするんじゃなかろうか……いや、あはは、まさかね。
(ときどき夜中に男漁りを)
「いやあああああ!」
どうしたのですかティーノ! と心配してくれる姫様。すみません、私の中の亡霊さんが洒落にならないネタを飛ばしてくるんです。気付かぬうちにご近所様から白い目で見られるような事は勘弁してほしい。
というか、心の奥底から聞こえてくる私ではないワタシとか厨二病的な存在もここに極まったものである。
状況は限りなくシリアスだった。そんな中、私一人だけアホな悩みに悶えていたのだが。その間にも吹き荒れていた魔力は一変した。少し前と同じように巻かれた糸のごとく、球状に集束している。
私にスフィアより伝わる情報でも何というか、緊急停止スイッチが押されたかのように数値の動きが少なくなっている。
「うそ、制御された?」
「ティーノ、肝心のあなたが今疑問系ではなかったですか?」
姫様……腕折られて痛いでしょうに脂汗流してまでツッコミますか。
ともあれ、これで……後はシャルードさんに任せれば良いわけだ。翼の事もあるし、何でかロストロギアを操作できた亡霊さんの事もあるし、今後が凄まじく頭の痛い事ではあるけれど。
と、気を緩めたのがいけなかったのかもしれない。本当にまたか、と言いたい。
殴り飛ばされていたヴェンチアが跳ねるように飛び起き、集束した魔力の元に走った。
コントロールスフィアに手を置きっぱなしなものの、咄嗟に姫様を庇うように構えた私には目もくれない。
(いけない)
亡霊さんがつぶやきのように言った時だった。
「俺の願いを叶えろ! ノウンファクトの遺産よ、貴様が伝承通りのものならば!」
そう叫び、ヴェンチアは集束した魔力の塊に手を伸ばし、触れた。
音はしなかった。
光りもしない。
ただ、ヴェンチアが消失した。
「一体何が……え?」
スフィアより伝わってくる情報がアラートを示している。
この文字は判らないが、危険なのは判った。
何しろ……またもや、制御が効かなくなっている様子だ。しかも今までになく激しい。
「ティーノ! ティーノ! どうしたのですこれは、ヴェンチアが何かをしたのですか!」
姫様が取り乱して聞いてくるが私だって分からない。
(無形の力。かつての私達を支え、文明の基となった力。法則を与えるもの)
亡霊さんがそんな事をつぶやくように……頭の中でつぶやかれるというのも妙な話ではあるのだが、言った。
法則を与え……?
ならヴェンチアが最後にやったことは……
そんな事を考えてる合間にも再び世界が揺れを起こし始める。
(どう作用したかは判らない。おそらく暴走……このままではこの世界が保たない)
どうすれば……手立ては?
そう問うと少し言い淀んだようだった。
(あなたたちが呼ぶ天の門、あれには結ばれてる向こうの世界に力を戻すための機能はあるはず)
ただし、とその平坦な声に少し悔しそうな響きが混じった。
(以前言ったように、私はデータとしての記憶しかない。その機能がどう作用するのかは不明)
流入する魔力はさらに激しさを増した。
不思議な形になっている空間の壁も削られ、瓦礫が落ちていく。
私は一瞬目をつむり、開けた。
「ていっ」
当て身一発。
古典的にきゅうと言って気絶してくれた姫様をティーダに放る。ぞんざいな扱いは許してほしい。文字通り手が離せない。
障壁ぎりぎりで立っていたティーダはナイスキャッチ。
「ティーノ、何を?」
不審気な顔で聞いてくる。それも当然か。
「ティーダ、姫様連れて逃げて。解決できそうなんだけど、何が起こるかちょっと判らないみたい」
「馬鹿な事を……」
私はストップと手で合図した。
頭の中で亡霊さんよりカウントが告げられる。
「議論してる暇はないよ、早く行って。あと90秒」
周囲を囲んでいた局員やグレイゴースト側の人達にも声をかけ、避難を促した。私みたいな平局員の言う事を信じてくれるか不安だったがカーリナ姉がまとめてくれたようだ。
「ティーノ、余計な事は言わんがとっとと作業してこい。打ち上げは地ビールを用意している」
「未成年に飲酒は……今更か。確かこの世界、ヴァイスブルストに似たソーセージがあったからそれお願い」
用意しておこう、とカーリナ姉はまた無駄に格好の良い笑みを浮かべて走り去った。
スフィアから伝わる情報はあと40秒らしい。私には読めないのに亡霊さんが通訳代わりとは何とも言えない感じがする。
「で、後どんくらいでえ?」
「さっき90秒って言ってたとこから数えると30秒少々じゃない?」
……うおい。
人がせっかく格好つけて、死亡フラグどんと来いの覚悟決めて逃がしてたのに、この二人は。
見ればティーダも戻ってきてるし……
私は頭痛を感じてうつむいた。
「まあ、私は研究者としての好奇心だし、この脳味噌まで筋肉の男は、不完全燃焼なだけでしょ」
「おおよ、あれだけラスボス然としていながら自滅じゃなあ……何起こるか判らねえってんなら最後まで見届けさせてもらうぜ」
まあこの二人は仕方無いというか、立場的にも一番好き勝手出来る立場だし。
ただもう一人……立場も責任もある奴をじろりと睨め付ける。
「ティーダ……姫様の護衛はどうしたのさ」
「本職の隊長さんに任せてきたさ」
「えーと、割と本格的に危なそうなんだけどティアナちゃんの事とか考えたりしなかった?」
「むぐ……い、いやしかし、僕も逃げてしまうのは……さすがに男としてきついというかなんというか、ああうう」
頭を抱えるティーダ。
何故かビスマルクが気の毒そうに肩を叩いている。
ため息を吐きたいのは私だっての。もっとも、その時間も無さそうだが。
亡霊さんが時間だよ、と頭の中で囁いた。
天の門に刻まれている朱色の文字、その輝きが一層増した。世界が割れ、いつしかも感じたかのような浮遊感も一瞬。
いつかの焼き直しのように、まるで法則が違い、引力は反発し、質量は実体を持たず、水は気体でしか存在できないかのような空間に投げ出された。
やばいまずい嘘死ぬ死ぬ嫌嫌、さすがに同じの二度目は勘弁!
パニックを起こしそうになったが……
「あれ?」
普通に息が出来る。
堅くつぶっていた目を開けると、そこは不思議な空間だった。
◇
私は道を歩いている。
どこか作り物めいた道だった。
幅は2メートルほど、縁石には気味悪いほど同じ大きさの石が並び、道は細かい白い砂が敷き詰められている。
両側は深い森が広がり、人が入れるような隙間は無い。
ティーダが回収していてくれた私のデバイスを起動させると普通にバリアジャケットを展開できる。魔法は使えるようなので虚数空間のどこかなんていうとんでもない話でもないようだが。
飛んで遠くを見渡してみても不自然なほどに森が広がっている。川すら見あたらないのだ。
まるでおとぎ話の中にでも入り込んでしまったかのような気持ち悪さがあった。
私……いやアドニアはロコーンの暴走に巻き込まれた形で死亡した。何で今回は無事だったのか不思議だったので亡霊さんに聞いてみれば、アドニアの時の方は全く制御していない、本当の意味での暴走だったそうで、その差が現れたのではと言っている。
この世界については知識にないらしい。もしかしたら、と言葉を濁していたので何か思い当たるふしはあったようだが。
私の近くに居たティーダ、ビスマルク、シャルードさんも同様に転移されており、直後はあの法則がばらけるような感覚を味わったせいか、ひどく気持ち悪げにしていたものだった。
もっともシャルードさんなどは興奮して、例の黒いキューブやら、工具のように見えるものやら、人形にしか見えないようなものやら、どこからか取り出して計測だろうか? 作業に没頭していたのだが。
それをただ待っているだけというのも芸がないので、ビスマルクを残して、私とティーダでその単調に伸びている道に沿って探索している。
あの得体のしれない魔力、亡霊さんは無形の力とか言っていたか。その出元の世界だとすると何が起こっても不思議じゃない気がする。転移魔法はシャルードさんが計測を終えるのを待って相談してからだが……時折飛行で横の森を上空から観察しながらも慎重に進んだ。
……20分程も歩いた頃だろうか、あまりの単調さに辟易しながら歩いていたら前方から人影が見える。
少し待てば見えてきたのはティーダだった。
「ティーダ、逆方向に行ったはずじゃなかった?」
「君こそ……もしかして空間がループしているかな」
理解早いよ……結界魔法には詳しくないので何とも言えないが、そういう種類のものもあるのかもしれない。
他に何か説明できるとしたらば……
「いや、もしかしたら、私の前のティーダは本物じゃないのかもしれない」
「誰かが僕の姿に化けているって?」
確認してみようか、本物しか知らない知識で、と私は横に並んで歩いて言った。とりあえずティーダの歩いてきた方向に進めば、元の地点に戻るという事になるのだろう。
「質問です。ティーダの毎月欠かさず購入している雑誌の名前は?」
「月刊GUNG-HO-GUNS」
ピンポンと指を立てる。ミッドで流通している銃とか剣とか質量兵器の専門誌だ。何でも12人プラスアルファの記者が作っているらしい。たまに読みながら、ティアナにダブルファング……とかつぶやいているので私はとてもとても警戒している。この兄は自分の趣味で妹を染めるつもりのようだった。
「次の質問、最近ティアナちゃんがお手製で作っているものは何でしょう?」
「え、ええともしかしてジャム?」
正解、ともう一つ指を立てる。作るといっても、私との共同作業だけども。踏み台に乗って真剣な顔で鍋をかき回す姿はキュンとするものがある。いろいろな果物を買ってはジャムに仕立てているのだった。すでに出来たジャムの種類は10を超えている。
「二問連続正解、調子良いですねティーダ選手、では次の質問です。ティーダ君が何かの機会で貰ったものの何となく捨てきれないコールガールの名刺3枚。その隠し場所は?」
「本棚二段目の辞書のな……って待った! 何でそれを!」
はい正解、お年頃で興味しんしんですね、と指をもう一つ立てる。肩を落とすティーダの背中を叩いて、気を落とすなよボーイ、と慰めておいた。
そんなおふざけをしながら歩いていると、やはり前方に元の地点が見えてきた。
シャルードさんが手を振って、おかえりーなどと言っている。
「どうだった?」
「どうも何も……」
ループ空間に閉じ込められている事を説明すると、さもあろうとでも言うかのように頷いた。
「ティーノにもこの空間のことは判らないのね?」
私は頷く。
「じゃあ推論を言うけど、多分この空間は天の門がその使用者に付与した保護結界のようなものだと思うわ。あまりにも作り物めいているし、計測した魔力値にもゆらぎがなさすぎる」
そしてあの法則が乱れる感覚、と思い出したのか身震いをした。
「おそらく、結界の外側はそういった空間が広がっているはず。そしてヴェンチアの最後の言葉、伝承、結界の特性、それをつなげるととても面白い推論も出来るのよね」
気を取り直すかのように目を上げ、私達を見た。
「神様って信じる?」
私とティーダは揃って一歩下がる。
「すいません、うちはちょっとそういうのは……」
お断りしますと手を振った。
「……二人とも息が揃ってるのはいいけどね、ちょっと真面目に聞いてね」
シャルードさんは、頭が痛むかのように額に手を当て、ぼやくように言った。私はティーダと顔を見合わせ、あらためて向き直る。
「カーリナから聞いているかもしれないけど、来訪者達の中でも神様に会って力を与えてもらったとかそういう話がちらほら出てくるの」
ああ、そういえばそんな話を聞いたこともあるかもしれない。
「かく言うあたしもそのクチなんだけどね。そこの脳味噌筋肉は別に神様みたいなのには会わなかったらしいし、かなり個人差はあるんでしょうね」
そう言ってシャルードさんは指先に魔力を集中し空中に何か文字のようなものを描いてみせた。
「いろいろ端折るけど、私も力を貰っちゃったわけよ、レアスキルとも言えるかも知れないけど……私から言わせて貰えばこれも魔法の一形態に過ぎないわね」
しばらくふわふわと空中に残留していた文字はゆっくり溶けて消えていく。
「ただし、魔導師とは魔力の運用法も成型法も違うの。ティーノはそちらの付き合いも多そうだから気付いたかもしれないけど、来訪者はそのほとんどが通常の魔法を使えない。リンカーコアはあるのに。なぜ?」
気付いてなかったですええ……もしかしてビスマルクとかバリアジャケット着てなかったりしたのだろうか。私思い切り空から地面にたたき落とした事があるのだけど……うわ、なにそれ怖すぎる。
「答えはその能力を使用するための肉体の構成になっているから。そういう意味で言えば、ミッド魔法で言う使い魔、それも特殊用途用に改造した個体というのが最も近いのかもしれないわね」
しかし、自分達を使い魔扱いするとか何やら空気が重い話に……なってないな。研究者の目だ。
「本題はここからでね、その神様から貰ったはずの私の能力。それによって作り出すことの出来る結界とここの結界がよーく似ている事なの。さらに言えばノウンファクトに伝わる伝承……神の門を携えた御使いの降臨譚、ヴェンチアの、願いをあたかも叶えられるかのような最後の一言」
神様でないにしろそれっぽいのが居てもおかしくないでしょ? と言って肩をすくめた。
「ま、そんなわけで行くわよ」
すごい軽く言ってまた、どこからか取り出した歪な短剣? まるで雲型定規のようなそれを取り出した。
おりゃ起きろ、とビスマルクを蹴り飛ばしている。
「行くって……?」
「まーまー、ティーノちゃん。お姉さんに任せておきなさい。さっき言った通り私の手持ちの札である魔法とここの結界の構成はよく似ているし、アクセスも容易って事……よっと」
その台詞とともにシャルードさんが地面に歪な短剣を突き立てた。
一瞬目眩に似たような感覚が襲う。
鈴が鳴るような音をたて、世界が壊れた。
「んーふふ、もしかしたら世界の根幹に関わる本質的な魔法にも手が届いたりしてね」
当のシャルードさんは鼻歌などを歌ったりしているが、風景はかなり怖い。
突き刺さった短剣を中心に半径5メートル程が結界に包まれているようで、その外側は……何というかカオスな空間だった。
虹色の川に大きな時計が流れ、草木が芽吹き、ピエロが生える。マシンガンのような速さでピストン運動を繰り返す星があれば、ドーナツ状になったり四角くなったり忙しい太陽がある。
無理矢理例えてみるなら、宇宙空間を極彩色のぬいぐるみがパレードを行っているような。目が痛くなるとかそういう問題ではなく、一周して何か悟りでも開いてしまいそうな光景だった。
「こ、これは気持ち悪いね」
「ティーダ、こっちを向くのはいいけど吐かないでね」
青い顔したティーダの背中をさすりながら思う。もしかしたらかつての私──アドニアはこんな世界に投げ出されて命を失ったのだろうか? 何というか……うん、ちょっと泣きたい。
「もうちょっとの辛抱よ、これだけ法則が乱れている状態なら安定してる所がかえって目立つから。んふふ、あたしが来ていて良かったねティーノちゃん。こういうのをご都合主義って言うんじゃない?」
「本当に都合良いならもっとすんなり解決してます……」
それもそうかもね、と軽い調子で言い捨てた数秒後だった。
「ん、見つけた見つけた、ヒット!」
魚でも釣り上げたかのような声を出し、またもや少しの目眩と共に風景が変わった。
◇
あれ? と間抜けな声が私の口から漏れた。
振り向けばティーダも、いやシャルードさんやビスマルクも意外そうな顔をしている。
あれだけ変な空間から抜け出した場所は、極めて普通の景色……どこか違和感のある景色だが。
周囲は針葉樹に囲まれているが、さほど見晴らしも悪いわけでもない。
正面は白亜の、おとぎ話に出てくるような壮麗な城がでんと構えている。そう……城があるだけなのだ。私は違和感の正体に気付いた。
「門がない?」
それどころか堀や水すら引いている様子がない。建物を見ても扉さえついていない。ぽっかりと口を開けている。
人気も感じられず、さながらホラーハウスのような不気味さを覚える。
「ま、行ってみれば判るんじゃね?」
あまりにも何事もなく過ぎていたゆえか、しびれを切らしたようにビスマルクが歩いていってしまった。
おいおい、と言いながらも続くティーダ。
私とシャルードさんも顔を一瞬見合わせ、それに続いた。
大きく口を開けている入り口を抜けると、中はそう暗くもない。
長方形の広い部屋になっていて、絨毯が敷かれている。壁際には鎧が所狭しと飾られていた。
階段からビスマルクが降りてくる。
「上にゃ何もねえな。調度品はたっぷりあったが」
何もというか……探しているのが食料だったのかもしれない。げっそりした顔で腹をさすっている。
ふと見ると、一階の渡り廊下の入り口でティーダが足を止めていた。
「ティーダ?」
呼びかけると緊張した面持ちで手招きする。近くによれば渡り廊下の向こう側、かなり行った場所から呻き声のような……鳴き声のような……声が聞こえた。
既にティーダが魔法で探索はしたらしいが、黒い影にしか見えないらしい。
何事かとこちらに来た二人にも説明し、私達は慎重に渡り廊下を渡った。
少し傾斜がついており、下っている感じがする。その長い渡り廊下を通った先はとても広い空間だった。
まるで球場のようなとでも言えばいいのだろうか、1万人ほども入れそうな広い、吹き抜けになっている大広間である。
ただ、私達の目を奪ったのは残念ながら、そんなものではなかった。
巨人が座っていた。
その面立ちは恐ろしいほどに整っている。美しいとも言えるかもしれない。賢者を思わせる深い眼差しに曲がるところのない真っ直ぐな鼻梁、さらさらの亜麻色の髪が無造作に後ろで纏められている。
そして、対照的にその体は恐ろしく醜悪だった。
肥え太り、糞尿が乾いて鱗のようになった下半身、掻きむしった胸には瘡蓋があちこちにできている。
大広間の空間の大部分を占めている巨人は晩餐中のようだった。凄まじく下品に、何か判らない肉を手づかみで食いちぎり、葡萄酒を飲む。
その動きでぼとぼとと何かが落ちてくる。
ぐしゃりと私達の目の前で潰れたのは人だった。
脳漿がぶちまけたペンキのように広がり、破裂したらしい腹からは凄まじい量の血がしぶいた。
気付けば私はティーダの腕を掴んでいた。自分では判っていなかったが震えている。
よくよく見れば巨人の表面を虫のように這い回っている生き物がいる。それらは転げ落ちた食べかすにも群がりあっという間にむさぼり尽くした。
山羊、犬、牛、虎、鼠さらには人の姿も見えた。
巨人はたまたま目についたのか、大きな牛、それも巨人の小指の大きさでしかないが、をつまみ上げると口に入れごりごりとかみ砕き、欠伸を一つした。痒そうに体を掻き、私達のところにもそのごりごりという音が聞こえる。
その動きでまた二つ、三つと生き物が振り落とされ、地面に赤い水たまりを作った。
「は、は……一体なんの悪夢なんだこれは」
ティーダが熱に浮かされたかのような声音でそう言った。
(ティーノ)
未だ現実感が伴わない私の頭の中に亡霊さんの声が響く。
(関わっちゃ駄目。あれらは関っても災害にしかならない。人には推し量れない)
心なしか、無感動で平坦な声が慌てているかのようだった。
(あれらはただ遊ぶために創り壊す。ただ戯れに数百年、あんな事をやっていて飽きない、そんな存在。あれは来訪者たちの言う……)
続いた言葉に私は思わず口から出てしまった。
「あんなのが神様……嘘?」