川の流れるような音がする。
まるで嵐の折、泥流が渦を巻くかのような。
私は身じろぎをした。
……痛い。
手が伸ばせない。
相変わらずごろごろという音は続く。
時折突き上げるような震動が伝わる。不快感に伸びをして凝りをほぐそうとして……断念する。
目を覚ませば、私は縛られていた。
別に色気のある縛り方ではない。時代劇でやるような簀巻き、あれを布でやったようなものである。ぐるぐる巻きにされた上から細いワイヤーが乱暴に巻き付けられており、力をいれても食い込むだけで、怪我をしそうだった。
狭い場所に寝かされている。。
車の中、それも兵員輸送車みたいなものだろうか。車の壁際……縦にしつらえられた長座席の上に縛られた状態で寝かされている。
移動中らしい、時折石に乗り上げてごつんといった衝撃が伝わる事からあまり舗装された道路を走っているわけでもないようだ。
もぞもぞと芋虫のように体を動かし、上半身を持ち上げようとするのだが、ぎっちり縛りすぎて体を曲げにくい。
何とか窓際に背をもたれさせることができた。
「よう気付いたか」
長テーブルを挟んで向かい側には、赤銅色の肌を持つ、快活そうな少年が山積みのジャンクフードらしきものを平らげている最中だった。
その横には姫様を攫いに来た特殊な転移魔法の使い手と思われる、緑っぽい女性が座ってヘッドフォンをして目を瞑っている。音楽でも聴いているらしい。
中々の勢いでもってジャンクフードの山を食い散らかしている姿を見ながら、私は自分がいい年こいて攫われた事に気付いた。
……いや、何か違う。こういうのは姫様の役割じゃないのか、いや姫様が攫われなくて何よりなのだけども。
大体私がこういう目に合うのって何度目だろうか、リーゼ姉妹にも攫われた事あるし、作戦とはいえマフィアに拉致された形にしたこともあるし、考えてみれば最近の事件も、姫様と一緒に三人誘拐された形だし。
攫われ癖でもついているのだろうか、そういえばアドニアの時も放浪中に何度か怪しいおじさんに誘われてほいほい付いて行きそうになった事が……
いやいや、思い出すまい。
当然だが、デバイスは取り上げられているようだ。窓から外を覗けば林道のような場所を走っている様子が見えたが、土地勘の無い私にはさすがにどこだか判らない。北部地域ではあるみたいなのだけども。
「ほれ」
しかし、どうやって脱出したものだろうか。このワイヤーとか、私の馬鹿力をよく考えている、力では切れそうにない。それ以前にビスマルクのような戦闘力の持ち主を前に脱出して、逃げおおせるのか。
「ほれほれ」
また、隣の緑の髪の女も油断はできない。カーリナ姉にはボロボロにされているようだったが、あの特殊な転移はこの世界においては相当なアドバンテージになる。園遊会の時と、ちょっと前の襲撃時の時を比較して考えてみれば、その転移させる規模によって発動時間が違うようだが、そこはあまり弱点にはなりそうもない。
「ほれほれほれ」
べちょとソースが私の口にくっついた。焼いた肉の香りが漂う。
「いい加減にしほふへ……」
ハンバーガーを押しつけてくるビスマルクに抗議しようと口を開いたらそのまま突っ込まれた。今のうちに食っとけとか言っているが、私は縛られているので手が使えない。遊んでるだろうこいつ。
嫌がらせかちくしょう、と思いながらも、勿体ないので食べる。食材に罪はないのだ。
んむ……この世界のジャンクフード文化もなかなか。肉とパンは普通ながら使われているソースは美味しい。グレービーソースだろうか、肉汁の味が濃厚でさらに加えられたトマトの酸味とフルーツも入ってそうな甘みが口に広がる。
「う……お、なんだこれ……しょ、小動物みてえに食うんじゃねえよ……むおお、ぎっちり縛っちゃったし何かいけない事をしている気持ちになってきたあ」
「むぐ?」
食えと言ったのは自分だろうに、小動物とは失礼な事を言う。どっちかというと鳥だ。
隣の緑の髪の女性がヘッドホンを外し、何故かうずうずと持っていたフライドポテトをさしだしてきた。
「ほ、ほらほら、怖くない、怖くないよ、よーしよしよし」
ムツゴロウさん……こいつら、完全に遊んでるだろ……
私はむすっとして目の前で揺れるポテトに齧り付く。
「うわ……これは可愛いわ。そんなにモムモム食べちゃって……ああ、これが萌えって奴なのね……」
……萌えられた、こいつらの感覚がよく分からん。
◇
少々屈辱的というか、わけ分からんうちに食事タイムが終わり、一息ついた。
たまにはジャンクフードも悪くない。毎日は食べたくないけども。
「──じゃなくて、結局あれからどうなったんだ」
私は目の前でコーラのようなものを啜るビスマルクに聞いた。敵方とはいえ、雇われっぽいしべらべら喋ってくれそうという下心はちょっと入っている。
案の定。
「へぇ、知りたいか?」
と言ってきたので、私がそれなりに真剣に頷くと。口を耳に近づけ、こそこそと話した。
「一応こういうのは敵方であるあんたらには大ぴらに話せねえんだがな……あの後な」
私は聞き耳を立てる。しばしの沈黙の後──
「フゥ」
「いひゃああ」
総毛立った。妙な悲鳴を上げてしまった。聞き耳立てた状態での耳フーは酷すぎる。
ゲラゲラ笑ってこちらを指さしているビスマルクを睨み付けておいた。というかそのくらいしか抵抗ができない。文字通り手も足も出ないのだ。
「まあ涙拭けよ、ティーノちゃんよ」
「泣いてない……」
てかどこで私の名前を。以前は最後までちっこいの呼ばわりだったような気がする。
いやまあ、調べようと思えば調べるのは簡単だろうけども。
ひとしきり笑った後、最初から別に隠すつもりもなかったのか、目的地に着くまでの暇つぶしに話してやるよ、と足を組みふんぞり返った。
よく見れば、左腕を負傷している。かなり適当に添え木を当てているが、いかにも痛そうである。
私が眉をひそめて見ているとそれに気付いたのか、折れてる部分というのにぽんぽんと叩いてみせる。
「こりゃ、あの茶髪の兄さんにやられたんだ。おかげで一人は回収出来なかったな。あの兄さん、あんたがやられたとなると、殺気立ちやがってなあ……久しぶりにゾクゾクしたぜ」
などと犬歯をむき出して笑いながら言う。楽しくて仕方無いらしい。逃げてはやく逃げてティーダ、戦闘狂にロックオンされてる!
いや……まあ、なんだろう。こんな奴相手に闘って大丈夫だったのだろうか。
「おやん……ティーノちゃんは彼氏さんが心配なのかなあ?」
心配になってしまい何となくそわそわしていると、そんな調子で緑髪の女性がからかうような調子で話してきた。
彼氏さん云々はともかく、心配くらいするだろう普通、常識で考えて。
「大丈夫だと思うよ、というかあれだけ接近戦に慣れてる魔導師って居ないんじゃない? あたしもビスマルクと付き合いが長いわけじゃないけど、それでもこの戦争中、あそこまで攻撃を捌かれてる姿は初めて見たし」
「おお、とりあえず勝つことは勝ったが、大したもんだったな。まあ、ぴんぴんしてっだろ」
言われた事をまるまる信じるわけでもないが、嘘の響きもない。私も少し安堵した。
私との模擬戦も少しは役に立ったのかもしれない。ティーダと私の模擬戦だとどうしても私の方に決め手がないのでいかに近接戦闘に持ち込むか……なんて事によくなっていたのだ。
……さて、ティーダの事はともかくとして、今の私の状況の事だ。
大体なんで私なのか。
「聞きたいんだけど、何で私が攫われてるのさ。普通攫うなら姫様じゃないかな?」
いや、だからといって改めて姫様狙っても困るのだが。
私がそう問うと、ビスマルクはおさまりの悪い髪をぼりぼり掻いて口を開いた。
「あー、もちろん姫さんは第一目標だ。ただ、マフィアの連合の1人が何でかお前さんにえらく感心持っててな、そこからのオーダーなんだよ」
オーダーってあんた、レストランで注文取ってくるんじゃないんだから。
「こちとら、連合に雇われた傭兵みたいなもんなんでな、人攫いでも何でも規約外でないならやらねーとなのさ」
「……あたしは政府のお手伝い程度のはずなのに巻き込まれてるし……あまつさえ、あ、あの女に敵視されて」
そう思わずと言った感じでこぼし、寒気でも感じるかのようにガクガクしている女性。
ビスマルクさえも何処か顔をこわばらせ……
「ああ。離脱するときのあの顔はやばかったな……怖くねえ、怖くなんかねえが」
足が小刻みに震えている。貧乏揺すりとでも言わいでか。
「どどど、どうするのよ、あの女絶対転移先座標とか割り出してくるだろうし、正直このまま逃げ切れる気しないんだけど」
「……大丈夫だ、少なくとも俺個人とかシャルード、お前とも敵対はしてないはず。これからの事も考えがあるからな……た、多分何とかなる」
「頼りねぇー!」
緑髪の女性、シャルードさんとか言うらしい。やっと名前が判った。見かけのわりに至って普通の性格のようである……私が言えない。
そんなシャルードさんの悲鳴を森の中に散らしながら車は走る、風景から林道が途切れた。
◇
迷路のような谷間を縫うように走り、トンネルを抜け、やがて見えてきたのは山に囲まれた、それこそ天然の要塞とも見える都市だった。
何でもアクセスが悪いために時代の流れにより廃された昔の北部首都らしい。
確かにそう言われれば作りが古いというか、ほぼ石造りであり、どこかアドニアの故郷を彷彿とさせる建築様式でもあった。
やがて車から降りた場所は、昔貴族でも住んでいたのだろうか、ダンスホールとか標準でついてそうな壮麗な造りの屋敷だった。
その庭もかつては綺麗に整えられていたのだろうが、今は荒れに荒れている。最近になって人の手を入れたのか、草木が刈り取られ山にしてあった。
私は拘束されたまま、ビスマルクに抱え上げられるようにして運ばれるのだった。
気分はドナドナの子牛といったところだろうか。
総石造りの重厚な床を運ばれながらぼんやり見つめる。
正直悪い予感しかしないが……一応の心構えだけはしておく。
やがて大きな縦長の広間に通されると、私も降ろされた。
まるで王様の謁見室を模したような作りで、一番奥には大きな椅子と重そうな机がしつらえてある。武装した兵員が私達の周りをぐるっと囲い、ボディチェックのためにデバイスの検査機で確認を始めた。
「相変わらずここんちのボスは慎重なこって……」
館に入ってからはだんまりだったビスマルクがぼそっとつぶやく。
少しの間を置き、奥のドアが開き、ボスと思われる人が部屋に入ってきた。
猪のような体型、浅黒く彫りの深い顔立ちの奥にはぎらぎらと精力的すぎる目が光っている。顔を形作るパーツも太く、ごわごわの顎髭を1センチ程で整えていた。
そのボスは私を見ると、たまらない、とでもいったような笑みを浮かべる、すごい形相である。
「久しぶりだねえ、ラエル種のお嬢ちゃんよ」
ああ、会いたかったぞ、とか舌なめずりして言ってるのだが、正直勘弁して欲しい。よりにもよってこいつか!?
かつて、管理局に潰されたマフィア……確かトロメオファミリーとか名乗っていたのだったか、そのボスだった。以前カーリナ姉や内通者とも言えるラグーザと共に私も一役買ったものだが、まだ執着しているのだろうか……
というか、拘置所入ってたはずだがいつの間に出てきたんだ、法務部仕事しろ!
「お嬢ちゃん達に煮え湯を飲まされて以来、私もなかなか忘れられなくてねえ……君を滅茶苦茶にしてやるのを夢にまで見たよ」
寒気がするような台詞を、怖気の走るような口調で言わないでほしいものだった。
今度は油断しないよ、と言い加えビスマルクにもご苦労だった、と声をかける。
ボスが顎をしゃくり合図をすると、周囲を囲う武装した兵員が注射器を取り出して……いやまて、まって。薬物は勘弁、隙を見てとか考えてたが甘かった!
どうすれば、どうすれば、と内心ひどく狼狽える私の体をお付きっぽい人ががっちり掴み、注射器を持つ手が迫り……
その手をビスマルクが掴んだ。
「一つ聞きてえんだが、攫わせた目的はこいつの身柄そのものだよな。ボス、あんたの復讐のために連合に依頼した。そうだな?」
ボスは怪訝な顔をして、当然だと頷いた。
「その通りだが、金なら契約通りに払われているはずだが、上乗せでもして貰いたいのかね?」
その言葉を聞くとビスマルクはにやりと笑い、言った。
「なある、聞いたよなシャルード。契約違反だ。俺は何でも屋じゃない、今回の戦争中、戦闘あるいは戦術的効果を目的としてならそれも契約通りだったんだがな」
シャルードさんは、そう来るか、と小さくつぶやき頷いた。
「何が言いたいんだ、傭兵?」
「好きにさせてもらうってこった……よっ」
パァンとしか聞こえなかったが、周囲を囲んでいた連中が一斉に膝をついた。相変わらずとんでもない早業である。
だが、ボスの動きも速かった。それはかつてラグーザに裏切られた経験から来たものか、何やら机の一部を慌ただしく探ったかと思うと、その縦長になっている部屋を仕切るかのように分厚い隔壁が落ちてきた。
後ろを見れば同じような隔壁がすでに入り口を塞いでいる。
「閉じ込められた?」
「ま、そんくらいの備えはしてたってこったろうな」
そんな事を言いながら私の拘束を解いてくれた。
……やっと自由になった手首を軽く振って血行を戻す。う、痺れる。
「えーと、こんな状態になって今更だけど、良かったの?」
「ああ。元々義理立てと面白え戦いでもあればと思っただけだったしな。胸糞悪い仕事でも持ってきたらどうせ辞めるつもりだった。それにこんな派手に暴れるイベント付きなら」
望むところだ、と犬歯剥き出しで破顔する。
私はうわぁ……と引いているが。
局にも戦いが好きなのは居るけども、ここまでは中々。組織相手に個人で好き勝手やるって、想像はできるけどなかなか出来るこっちゃないぞ。
そんな事を話していると、どこかにスピーカーでもあるのか、ボスの声が聞こえてきた。
『勇ましいな傭兵、九頭会にも連絡をとったが、お前の後ろ盾は手綱を放したようだ。好きにしろ、などと言われたぞ? くく、見捨てられたな』
「そりゃー良かった。その台詞は俺宛てなんだよ、義理立てはもう不要ってこった」
九頭会? とシャルードさんに聞けば、どうもビスマルクが時折、連合とか言っていた非合法組織の集まりのことらしい。文字通り九つの大きな組織が集まっているからだとか。
と、そんな合間にも、ボスとビスマルクは交渉めいた事は続いた、ボスの方はお金で解決したくて、それをビスマルクが断っている形なのだが。
『ここまで言っても聞かんとは、その強情さには呆れたぞ。しばしその中で眠ると良い』
そう聞こえたかと思うと、空気の流れの変わる音がした。正しくは何かが吹き出るような音が。ガス?
……っておいおい、二人はデバイスみたいなもの置いてきてしまってるし、バリアジャケットも纏えないんじゃ無防備もいいところだろ、何か考えがあってあんな啖呵切ったんじゃないのか?
「まずいな」
こちらを見ないでそんな台詞をつぶやくビスマルク、あ、あんた、本当は何も考えてなかったのか!
私はあわあわと慌てるも、シャルードさんがビスマルクの脳天にチョップを入れた。
「ふざけないの、とっととやんなさいよ」
遊び心を知らねえ奴だ、と口を尖らせ振り向いた。入り口の隔壁に向かって右腕をぐるぐる回しながら歩き、そして。
「──は無敵なり」
何を突然イタい台詞を、とシャルードさんを見るも平然としているようだった。いや、確か以前相対したときもこんな台詞言っていたような、詠唱だったのか?
以前見た時と同じように、体表に魔法陣が浮かび上がった。見るにミッド式の魔法陣ではあるのだが、効果がさっぱり判らない。というか、デバイスでの制御要らないんかいあんた、と突っ込みたい。
見る間にその複数現れた魔法陣を通し魔力が循環し始める。循環するたびそれは増す。
それはやがて右足に渦を描くように纏い付いた。
爆発。
口が動いていたので何か技の名前でもつぶやいたのだろうが、爆音に遮られ聞こえない。
抉り突くかのような鋭い蹴り……だと思うが……Sクラス魔導師の砲撃にも耐えられそうな分厚い隔壁を滅茶苦茶に破壊してしまった。
『はぁっ!?』
「はぁっ!?」
とても不本意な事にマフィアのボスさんと声が被ってしまった。
「もどき技だが効果はこんなもんよ」
驚いてないで行くぞ、と促され私は足を進める。
「い、いやあんた、あれは驚くってか、デバイスの意義って何!」
「あれがあると加減が効いていいんだよな」
手加減用かい! 私は何だかもう泣きたい気分である。私がデバイスを初めて知った時なんか、世の中には何て便利なものがあるのだろうと思ったのに、あの感動を返してほしい。
戦闘馬鹿の滅茶苦茶さに振り回されながらも足は動かす。さすがに少し経つとボスも気を取り直したのか、兵員を使って妨害に出てきたのだが、魔法弾をぽんぽん拳で弾かれ、肉薄されて一人一撃で吹っ飛ばされている。ティーダは本当に、こんなの相手にまともに戦えたのだろうか。あるいはティーダは私が思っていた以上に凄腕だったのか。
ビスマルクを一番前に置いておくだけでさくさくと敵が吹っ飛び、扉も吹っ飛び、壁も吹っ飛び、高そうな壺も吹っ飛ぶ。
壊し屋である。私とシャルードさんはその後ろから着いて行くだけで良かった。
私達は廊下を進む事すらなく、館内に穴を開けながら脱出した。石造りのはず……なんだけどなあ。
外に出ると既に日が暮れようとしていた。来る時に乗ってきた輸送車を見つけると積みっぱなしの荷物を回収する。
「ほいよ」
と渡されたのは、カード型の待機状態になっている私のデバイスだった。
うわ……何か妙にほっとした。何だかんだで私も大分魔導師であることに馴染んでしまっていたようだった。
「はあ……また巻き込まれた気がする。とりあえず私の研究室にでも転移するわね」
シャルードさんがそう嘆きながら、荷物から取り出した黒いキューブを取り出し、指で何かしら文字を描いた。
立体的な、積層型とでも言えばいいのだろうか、魔法陣が現れ、いつかのグリーンの輝きと共に風景が変わった。
◇
前回、この転移魔法で運ばれた時にはかなり気持ち悪さというか目眩に似たようなものを覚えたが、今回に至ってはそんな事にはならなかった。
転移先は雑然とした印象の場所である。
十畳間といった広さの部屋で、壁際は整理棚と本棚で埋まり、見た事のあるような試薬から見た事のない鉱石まで雑多に置かれている。
「はい、ようこそ私の家に。こっちよ、お茶くらいは出すから」
そう言って何ら警戒もせずにシャルードさんは扉を開け、とっとと先に行ってしまう。ビスマルクもまた、食うモンないか、などと言いながらそれに続いた。
私は机の上に積まれ、開きっぱなしにもなっているノートに見覚えを感じ、覗いてみた。
……見覚えがあるはずだ、日本語である。
そう言えば姉が追っかけていたけど、もしかしてまたアレなのか。来訪者さんなのか。一体どんだけいるんだろうか……
興味をそそられ、ぱらぱらページを捲る。
ウイルドって何だろうか?
魔導物理と科学物理の考察、次元世界とは異なる世界の境界面? 認識できないはずの六つの高次元に干渉可能な素子の考察、魔導師の可能性……えとせとら
難しい数式が雑然とメモのように書かれており、ちんぷんかんぷんである。目が滑る滑る。
「そっちは色々あるから見てるのはいいけど触っちゃ駄目、それとお茶入ったわよ」
なんて声がかかってしまった。何となく悪い事をしてるのを見つかったような気分になって、こそこそと隣の部屋に向かう。
リビングが研究室から出てすぐにあり、私は久しぶりにも思える暖かいお茶を頂いた。全体的に緑色のシャルードさんはやはりお茶も緑茶である。どこで仕入れているのだか。
窓から外を眺めてみれば、畑が広がり、背の高い建物の一つとして見あたらない。聞いてみれば、少し頬に指を当て考える仕草を見せたのち、まぁいっか、と軽い調子で答えた。北西部にある辺境もいいところの村らしい。戦争からなるべく遠ざかった場所に居を立てたのだと言う。お茶の一杯を飲み終える頃には、あれほど慌ただしかった心も落ち着いていた。窓の外にトラクターの上で一杯飲りながら畑を耕しているおじさんの様子が見える。
……さて、流されるままに来てしまったけどもそろそろ。
「あ、それとあなたにはもう何もしないから安心していいわよ。もともとあなた目当てで動いてたのはそこのビスマルクだけだったし、あたしともう一人、リーガルって言うんだけどあいつは雇い主が別だから」
……私が問いただす前に答えられてしまった。
「大体、あたしはあのおっかない女……あなたの姉を敵になんか回したくないしね、元々姫様の拉致だってスポンサーがうるさいから手伝っただけなのよ、本職は研究者だし」
研究者だってのは何となく判る。しかし……
「スポンサー? 共和政府そのものだったりして」
「そそ、条件が良いのと遺跡いじれるんで乗ったんだけど、本職外のことまでさせるわ研究にもあれやれこうしろと指図がうるさいわで、最近はちょっとねー」
守秘義務とかはないんですかいこのお姉さん。随分軽い調子で喋っているのだが。
いや、共和政府と言ってもかなり寄り合い所帯のようだし、ビスマルクの件にしても相当アバウトな人の使い方である。この人もあまりそういう帰属意識は無いのかもしれなかった。
「ま、それはともかく、安全な場所まで送ってあげるからあなたの姉に、シャルードは敵じゃないんですよと言っておいてちょうだい」
私は一つ頷く。というかカーリナ姉は多分勧誘に来ているのだと思うけども。一旦力の差を示してから交渉に入るとか……考えてそうだな、これまでの成功率とかからはじき出して。
私の隣で大あくびをするビスマルクはというと。
「仕事が切れちまったからなあ、つっても、まだ面白え事もあるかもしんねえし、シャルードのとこで居候でもしながら適当にしてるさ」
「げ……あんた居座る気?」
「今から寝場所見つけるのも面倒臭えだろ? ふあ……眠う」
そういう問題じゃないと叱りつけているが、ビスマルクは何食わぬ顔で聞き流していた。
私もそういう問題じゃないと思うぞ。
「ああもう……いいわ、後でちゃんと話付けるけど。とりあえずティーノちゃん、送ってあげるからこっち来なさい」
こめかみを揉むようにしてリビングのちょっとスペースのある場所に動く。もしかしたらこの転移には広い空間が必要なのかもしれない。
「さて、ビスマルクもこんなんだし、あなたの姉がそちらに居る以上、私はもう王政府に対して直接動く事はないと思ってもらっていいわよ。ちょっとスポンサーがヘソ曲げるだけだし」
「……おーう、行くかぁ。茶髪の兄ちゃんにもよろしくな、また楽しく戦ろうぜ、って伝えておいてくれや」
ビスマルクは眠そうに右手をひらひらと振っている。
シャルードさんは、これだから脳味噌野菜人は……と愚痴る。一つ頭を振りかぶると、私の頭に手を置いた。
「想起しなさい、あなたの覚えている安心な場所、安全な場所、身を休め心を労れる場所、親しい人、親子、姉妹、恋人どれでもいい。その記録されている魔力の波長から割り出すから」
はい? 想起って、ちょっとミッドの魔法とは感覚が違いすぎるような……イメージは大切だと言っている人も多いけども。
安全、安全と言っても……えーと、よく判らん。とりあえず姫様の所とか想像すればいいのだろうか?
「……OK、掴んだわ。ちょっとずれるかもしれないけど、石の中とかにいるとかは無いから安心してちょうだい」
もうお馴染みとなった黒いキューブを取り出し、文字を描くと発動する。多分デバイスなんだろうなと思いながら私はグリーンの輝きに包まれた。
◇
一瞬の浮遊感の後、私が転移したのは空中だった。
真ん前というか真下1メートル程には驚きで目を大きく開けた状態で固まる……ティーダぁ!?
浮遊の魔法を使おうなんて考える暇もなく、私は重力に従って落っこちた。
星が飛んだ。
頭がくわんくわんと揺れる。
「お……おお……う、ぐ、ティーダって意外と石頭だったのな」
「は、へ? え?」
おお、よく混乱している。いや当然か。突然寝ている所に上から人が落ちてくれば。
見ればどうやら、幕舎ではなく建物のようである。王軍の進行具合は判らないが、もしかしたら制圧した街を侵攻先の拠点にでもしたのかもしれない。
ティーダはベッドの上で寝ていたらしく、そこに私が正面衝突した形である。
……事故は起こってない。多分。少し血が上っているのも疲れているからだろう。
とりあえず。
「えーと、ただいま?」
「お、おかえり? って、ティーノぉ!」
私が挨拶すると、混乱は収まったようだが、今度は驚きの声を上げた。
声でかいっての、驚きすぎだと言おうとした時、廊下から忙しない足音が複数聞こえ、ドアが開いた。
「どうされたティーダ殿!」
そんな声と共に衛士と思わしき男性が数人、騒ぎに駆けつけた感じで慌ただしく入ってきた。
そしてベッドの上を見、固まる。
……ああ、うん。想像してみようか。
ベッドの上にはビスマルクとの戦いで負傷でもしたのか、包帯を巻き、下着姿のティーダが寝ている。上半身は裸である。調子が悪いのか、はたまた混乱していたせいか、少々顔色が赤く、汗が出ていた。
腰まではだけたタオルケットの上から、いろいろ……多分攫われた時、縛る時に邪魔だったのか侍女服は脱がされてしまったようだ。ほとんど下着姿……いやもちろんパンツ一丁とかではなくインナーくらいは着ているのだけど。まあ、そんな少女が乗っかり、一見して押し倒しているようにも見えるはず。
それを見た男達が何を想像するかは、それはもうたやすく分かろうというものだった。
「チッ、これだからイケ面はよ……そんな状態でもかよっくそっ」
「あんたみたいなのが市場を独占するから……俺は……俺はっ」
「ああなんだ、夜中に騒がしいと思えばもげろどうかごゆっくりもげろ」
散々に罵声と絶対零度の視線を注いで立ち去る。
ええと、あれだ。
「なんか、その、ごめんティーダ」
「……うん、いいよ慣れてるから」
学校でも女子に人気だったものな。とはいえ声は疲れているようだが。
そういえば、私もいつまでティーダを敷いているつもりなのか。
「む……」
最近になっていろいろ反応するようになってきてしまっているのだ。一度意識してしまうともう駄目だった。
顔に血が上がる前に私はティーダからのそのそと降り、壁際に歩み寄る。細めに開けられていた窓を大きく開けて涼しい空気を吸い込んだ。
一度、二度、深呼吸。
よし落ち着いた。
私は振り向いてティーダの寝ているベッドに座る。
水貰うよと一声かけて、サイドテーブルに置いてあるグラスに水差しから注ぎ、喉を湿らせた。
「……私が攫われてからどのくらい経った?」
「ん、丸一日ってとこだよ」
それなら時間感覚も間違っていなかったようだ。と、すると一日でそう大きく動くわけもないから、今居るここは多分制圧した都市か。
「そっか、怪我は?」
「はは、そんな目しなくてもぴんぴんしてるさ」
「過労でぶっ倒れた時も同じ台詞だったから信用ならないよ」
やれやれと私はため息を吐いた。
「ところで報告が少し長くなるけど、寝なくて大丈夫?」
「君に驚かされたからね、眠気は吹き飛ばされてしまったみたいだ」
少し肩をすくめておどけるティーダ。そんなリアクションを取って、痛ててなどと言っている。
アホめ、と私もこめかみに指を当て、さも頭痛でもあるかのように目を瞑る。
まったくもって緩んだ空気、肩の力が抜けるのを感じる。窓の外に雲に隠れた月を見やりながら、私はここ丸一日の経緯というものを説明するのだった。