その日は腹が立つような快晴だった。
心の中とは裏腹に、すがすがしく、暖かく、いかにも過ごしやすそうで、何もなければ良い天気だと……皆をピクニックにでも誘っていたところだったかもしれない。
私の出元でもある施設の院長先生が、聖王教会にもツテがあったというのを思い出して連絡を取ったところ、教会に頼んで神父さまを派遣してくれるようだった。さらに葬儀用の一連のことを教えてもらったのは正直ありがたい。地味に調べるか、葬儀業者に全て頼むしかないと思っていた。
なにぶん、どれだけ学校の成績が良かろうと、魔法のレベルが大人顔負けだろうと、ティーダもまだ12才……いや13才になったのだったか。
業者に頼めば確かに一式のことはやってくれるだろうけど、出された情報を鵜呑みにするしかない。疑うだけの人生経験はティーダにはなく、知識が私にはなかった。
教会から派遣されてきたお爺さんとも言えそうな司祭さまは、私達が皆歳が若いのを見て取り、親身になって世話をしてくれた。善意というのは本当に身に染みる。ありがたい。
◇
朗々たる祈り、夕焼けの橙色に照らされる中でランスターのパパさん、ママさんの棺は土の中に隠れていく。
ランスター夫妻は友人も多かったようで、たくさんの人がその別れを悼んだ。その中で弱音も吐かずにティーダは応対している。そろそろ一歳半ばにもなろうとしているティアナちゃんは普段は騒々しいくらいなのだが、さすがに場の空気を感じているようで、私に抱っこされ大人しくしていた。
やがて葬儀も終わり、諸事気を使ってくれた司祭さまに礼をする。帰途についた頃にはすっかり夜の帳も降り、ティアナちゃんは腕の中で静かに眠りについていた。
ティーダは変わらず表情を崩さない。心配して付き添ってきているディンとココットが時折話しかけると張り付いたかのような笑顔を浮かべて話す。
ディンがちょいちょいと私を手招きして、小声で言った。
「あいつさ、やっぱかなり無理してるだろ?」
「あー、うん。そりゃ見て判る通り……ね」
ディンは髪をひとしきり掻きむしってぼやく。
「ったく……そりゃ両親が亡くなるとか想像もできねーけど、こういう時くらい頼れっつんだよな」
だが、それも難しいと自分で思ったのか、ほどなくディンはため息を一つついて、頭を振った。
余裕を無くしてると人付き合いも、形をつくろうだけで精一杯になってしまうことがままある。それを思ったのだろう。
「しばらくはそっとしておくくらいしかねーのかなぁ?」
ディンはなんともやりきれなさげに夜空を仰いだ。
ランスター家の前に着く。暖かみを感じた家も今はどこか寒々しい。
すっかり眠ってしまったティアナちゃんをベッドに寝かせ、皆の居るリビングに戻った。
リビングでは微妙な空気が漂っている。さすがに今の状態では話す事もないみたいだった。むしろティーダに気を使わせてしまっているようでもある。
私達が居ると休めないかもしれない。ココットもそう思ったのか、アイコンタクトをとってくる。小さく頷くと、私達はそろそろ、と帰路につくことにした。
「そういえば」
駅のベンチで列車待ちの中、あまり美味しくもなさげに清涼飲料を飲みながらディンが思い出したかのようにつぶやいた。
「あいつは局員だから生活は大丈夫だろうけど妹居たよな。ありゃどうするつもりなんだろ?」
「ティーダが上司さんと思われるような人と話していましたが、どうも局内の託児サポートを利用するつもりらしいですよ。少しは周囲の話を聞く癖もつけてください」
「ふーん、やっぱあいつはこんな時でもしっかりしてんなあ」
ココットはどうやらしっかり葬儀の場でも聞き耳を立てていたようだった。
夫妻そろって管理局員などという事も割と多いので、そういった事情からも局内の託児サポートはなかなかしっかりしたものが組まれていると聞く。あまり興味がなかったのでうろ覚えなのだが、ティアナちゃんがこの先世話になるというならしっかり調べておく方がいいのかもしれない。
……しかし、ティアナちゃんとティーダはあの寒々しい家に二人でか。
んーむ……何というか、何ともかんとも。むむむ。
「しっかりしているというのは確かですが、先の様子を見ると少々心配ではありますね。明日の午後の授業はどちらかというと出席取るだけのような授業ですし、切り上げてまた様子を見に来てみますか?」
「んー、そうすっかー」
伸びをしながらディンが答えた。
「ティーノはどうする?」
「あー、うん。そーだねえ……」
生返事を返してしまった。
いかんいかん。
「明日ね、うん。行く事にするよ、さすがに心配だからね」
と慌てて言い直した。
いや、言い訳をするわけではないが、さっきから寒そうに身震いするティアナちゃんのイメージが脳裏で……ぐるぐると。
うん、悩んでいても仕方ない。
私は、ぽんと目の前で手を打った。思い出したかのように言う。
「忘れ物してきちゃった。二人は先帰ってて」
そう言って駅を後にしたのだった。
◇
夜の町を小走りに走る。
いつかもこんな事があった、確か地球で目覚めてすぐの頃だっただろうか。あの時も道ばたの家々の明かりが眩しかった。夕食も終わって団らんの時間なのだろう、私の耳には時折笑い声やふざける声が聞こえる。そんな中しんと静まりかえる家の前にたどり着いて、私は息を整えた。
さほど息が乱れているというわけでもないのだが、こう……来てしまったものの何も考えてなかったので、どう言い訳しようかと……
「ん、面倒臭いな。えいや」
別にやましい事が有るわけでもあるまいし、成り行きに任せる事にしてチャイムを鳴らす。
数度呼び出したが、出てくれないので強硬手段を使う事にする。
高等部に入ってからもちょこちょこ遊びに来ていたら渡された認証キー。
誰も居なかったら入って待っててね、などと言われて渡されたものだ。すっかり「息子の友達の近所の子」と言った感じである。
カードを通せば機械音と共に錠が開く。
「……再びお邪魔します」
小声で囁きながら玄関に入れば中は真っ暗である。
もう寝てしまったのだろうか?
何となく足音を忍ばせながらティアナちゃんの寝ている部屋に行き、確認してみる。
肌がけをかけていったのだが、どかしてしまっている。寝返りをうったようでベッドの端まで転がってしまっていた。
「ん、しょうがないなティアナちゃんは」
子供の顔というのは本当に癒される。私の顔も笑顔になってきてしまう。
手を差し入れ寝場所を真ん中に移した。肌がけをかけ直しておく。
もぞっと手が動いて私の指を掴んだ。
「まぁまー……」
と寝言が出る。
「……んあ、あれ……ちょっと……え?」
ティアナちゃんの顔が急にぼやけた。胸が締め付けられるように苦しくなる。
急な訃報で喪失感を感じる暇も無く、慌ただしさと現実味の無さばかり感じていた私はそこで何故か涙が出てきてしまった。
この子は物心が付く前に親を失ってしまった。いや、もしかしたら聡いところを見せる子だから、この先物心がついてからも、うっすらと覚えているのかもしれないが……
我ながら不思議なほどに心を揺さぶられている。天井を向いて目を閉じた。涙は止まらなかった。
ようやく落ち着いた時には相当時間が経っていたかもしれない。
涙の流しすぎで痛むこめかみを抑えながら私はスヤスヤと眠るティアナちゃんを見た。
私が育てるとまではそりゃ言えるものではないが、うん。守ろう。決めた。
あどけない寝顔を見ながらそう心に思う。
◇
気を取り直して顔でも洗おうとリビングを横切ったところ、真っ暗な部屋でテーブルに肘を突き、祈るような姿勢で手を額に付けているティーダが居た。
半眼で何もない虚空を見つめ、微動だにしない。
両親のことでも思い出しているのだろう。完全に自分の内側に引きこもっているようだった。
「こほん」
わざとらしい咳払いなどをしてみても全く気付く様子もない。
私はぽりぽりと頭を掻き、思い出したこともあって、パパさんの書斎に向かった。
トクトクトク……
漫画などではおなじみの擬音だが、瓶の形状で実際にそういう音が出る。このパパさんが秘蔵だと言っていたウイスキーは特にその傾向が強かった。
トレーに置いて持ち運べばグラスの氷が動いて涼やかな音を立てた。
ティーダの横にグラスを置き、私も座ってみる。
未だ気付かないので、一緒に持ってきたアイスペールの中から一つまみ氷を取り出し、握りこむ。うむ、冷たい。
十分手が冷えたところでおもむろにティーダの背中に手を差し入れた。
「……ッ!!」
ティーダが面白い顔になった。背筋がぴんと伸び、ゑという発音でもするかのように口を開けたまま硬直している。
やがて、ぐぎぎと錆びたブリキのロボットのようにこちらを向くと私を確認すると、驚きの表情になった。
「あ……れ、帰ったんじゃ?」
そこは……まあ、説明しようもないので、黙ってグラスを滑らせる。
不思議そうな顔をするティーダに話してやった。
以前……私が書斎に置いてある高そうな瓶と高そうなペアのカットグラスに目をとめた時の話だ。
結婚記念の折に、早くに病気で亡くなってしまった父母から贈られたグラスだという。ウイスキーもその折に貰ったものらしい。その隣には似ているがまだ封を切っていないグラスがあった。
聞くと面映ゆげに、もう少ししたら息子とサシでまったり飲んでみるのも良かろうと思ってね、と言う。どうやらティーダ用のグラスらしかった。
「大事な時に大事そうに飲むための酒だよ。ティーダが産まれた時、ティアナが産まれた時、しみじみと一杯飲んで忘れないようにしていたものさ」
そこまで話し、パパさんとママさんのグラスをティーダの対面に置いた。
「あ……」
つぶやきと共に月明かりに照らされたティーダの目から静かに涙が滴り落ちた。
唇を噛むような表情になり、少し俯く。私が先程置いた、ティーダ用にパパさんが買ったグラスをそっと手に取った。中の琥珀色の液体が揺れる。氷が小さな音を鳴らした。
そのまま一口、ウイスキーを飲むと「甘くて……苦いね、はは」と泣き笑いの顔になって言う。
もう一口すすった時には耐えきれなくなったかのように、大きく息を吐いて、グラスを握りしめてテーブルに突っ伏した。
「父……さんっ、母……さん……ぐッ……うあぁ……」
絞り出すかのような嗚咽を漏らすティーダを、私は頬を掻きつつ見ないようにして翼を現し、すっぽりティーダを包んでおく。そのくらいにはこの翼も伸ばすと大きくなってきている。
こういう時の男の涙はあまり人に見せるもんじゃないんだぜ、などと心でつぶやいた。今の私が実際につぶやいてもさまにならないのは重々承知だ。
本棚に置かれたウイスキーの瓶、その隣にいつしか加わっていた、いかにも女の子受けを狙って何かを間違えてしまったような二つの小さなグラス……突っ込みたいのは山々だが、あいにく故人である。その一つに私もちょっとだけウイスキーを貰う。こういう悼み方もまた有りなのかもしれなかった。
私もその煙るような甘さと苦みのあるウイスキーをちびりと口に含む。天井を向き、細いため息を吐いた。
◇
いつしか静かになっていたので見てみればティーダはテーブルに突っ伏して寝てしまっていた。
肩をすくめ、グラスを片付ける。綺麗に飲み干されているようだ。
寝るにしても自分のベッドに行って寝た方がいいと思い、起こそうとして、直前で何となく思い直した。
せっかく眠れたところで起こすのも忍びない。
「んー、運ぶか」
長身のティーダを抱えるのは低身長の私には少々面倒なのだが、そこは創意工夫のしどころである。背中におんぶする形で、横にだけずりおちないように翼でガードしておく。力だけはあるので、抱えてしまえば後は楽だった。
なんとかなりそうだったので、ティーダの寝室までえっちらおっちら壁にぶつからないように運び入れる。
「よっこら……しょっ」
おっさん臭い声と共にベッドにティーダを降ろしたのだが。
「へ?」
腕を掴まれ引っ張られた。
さすがに予期していなかったのでバランスを崩して倒れ込んでしまった。
いや、ティーダが何故かしがみついているんだ……が……ってええ?
ちょっと頭がフリーズした。
そして、私が固まっていたら、なぜかそのまま引きずりこまれて敷かれて……胸あたりにティーダの頭があるのだが、私のは大平原だぞ? 最近ちょっと起伏があるが。
いやまて、落ち着け。シュールになれ。シュールになってどうする。今の事態が非常にシュールだわ。
これはあれか、いや、かつて私も男であった時の記憶があるはずだ、思い出せ、思い出すんだ。寂しい時に勢いで一発とかそういうやつなのか? いやティーダがそんな理性的でないことをするなんてこたー、いや考えてみればまだ13才だったか、13才と言えばなんだ、うん、どんなのが相手でもがっちり反応してしまう年頃だなワハハ。
……ワハハじゃなく。なんだ、私は若い身空で何かを散らしてしまうのか? こういう時、どうすれば、ああ、ティンバーからのプレゼントが残っていたのだった、持ってくればよかった……って待て!
何故すでにそんなのが確定してるんだ。そ、そうだ抵抗せにゃ。それが第一段階だった。
と、混乱しきりな頭の中、ティーダを確認してみれば動きがない。
「あれ……?」
耳を澄ませばすーすーと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。
「ね……寝ぼけてただけ……?」
私は胸にティーダをしがみつかせたまま、顔を俯かせた。
顔に血が音を立てて登っている気がする。絶対真っ赤だ。熟れたリンゴのように真っ赤に違いない。
なんでそんな勘違いをしてしまったのか、10秒前の自分をハンマーで叩きたい気分に襲われる。私は心の中でうめき声を激しくあげながら頭を抱えていた。
自分のベッドで足をばたつかせて叫びたい感情を必死に抑えこむ。
「平常心平常心……」
さすがに起こすのは忍びない。
何とか静かに体を引き抜こうとするものの、がっちり抑えられていてさながら抱き枕の様相と化している。
幾度かの挑戦と失敗のあげく、三十分もした頃だろうか。
いい加減もう開き直った。
「もういいや……考えてみりゃ子供同士の雑魚寝みたいなもんだし、寝よう」
そう行って目を閉じる。
……ぬ。
……眠れん。
「何故だ……いや、考えるな、考えるだけ無駄だ。寝よう、うん。おやすみ」
そう言って目を閉じた。
ついでに今度は定番である羊を数えてみる。
いやいっそ、素数を……
眠りたい時の物理学を……
──気付いた時にはすでに夜も明けていた。
気の早い小鳥がつがいを探すための歌をさえずっている。
私は相変わらず眠気という眠気が一向に訪れず、悶々と悩んでいた。
◇
瞼がゆっくり開いて半開きの目は焦点が合っていない。
額がかゆさでも感じたのか、目の前の布に額をすりつけた。
夢でも見ているのだろうか、半開きの口が何かを話し、涎が少し垂れた。
ふっと眉が寄りまた目を閉じた「う……んー?」といった声が漏れる。
また一つ、声にもならないような声を出すと、大きく息を吸い、目が開いた。二度三度まばたきをして、今自分がどこに居るのか確認するかのように首を動かす。
やがて自分がしがみついて涎を垂らしている枕が体温を持っている事に気付くと、ぶるっと一つ身震いをして、ゆっくりと首を持ち上げた。
目が合う。
「……おはよう、ティーダ」
こんな時どんな顔をしていいかわからない。私は仏頂面だったかもしれない。
ともかく一つ挨拶をしておく。
……おや?
ティーダの動きが止まったようだった。
むしろまた眠たげな半眼になって、胸に顔をすりつけてくる。くすぐったい。お前は子供かと……
「てい」
眠気覚ましのデコピンを額に放つと、どうやら意識がはっきりしてきたようだった。
「あ、あれ? ティーノ? おはよう? へ?」
疑問符が多そうな台詞を放つティーダ。
ちなみにまだ私にしがみついたままの姿勢である。
「まあ……なんだ。起きたならそろそろ解放してくれないかな?」
そう言うと、改めてやっと現状認識が出来てきたのか、慌ててベッドの端に飛び離れる。いや、離れろと言っておいて何だが……それだと私がばい菌か何かのようで……なんだ、ちょっとムッとするものがないでもない。
しかしまあ、長い時間ではないとはいえ、人一人を体に乗っけて姿勢を変えなかったのでちょっと体が凝ってしまったようだ。肩を揉みながらベッドを降りた。
「ご……」
「ご?」
「ごご、ごめん! え、ええ、これはどうすれば!? 良かったけど! 事故あいや事後!? ……責任! そうだ責任とらないと」
突然脈絡のない事を言い出すティーダ。寝ぼけてるのか? うん寝ぼけているっぽい。
しかし、責任? 首をかしげていると、全体的に縮こまっているティーダには場違いに主張する一部分が見えた。
ほほう。こりゃなかなか。
「エロい夢でも見た? どんな夢だった?」
現状確認するように大きくあいた目がキョロキョロとせわしなく動く。急速に目覚めて行く様だった。どうやら現実と夢がごっちゃになっていた事にでも気付いたらしい、だんだん顔が赤く染まっていく。右手で目を隠してあーとかうーとか呻きはじめた。
恥ずかしい思いをしたのは私だけではなくなったようだった。八つ当たりも良いところかもしれないが、昨晩の自分の事を考えるとざまーみろと思ってしまう。
「ぷふっ……あはは! 冗談だよ冗談。ティーダ……それより」
そう言って私はベッドの端に座るティーダに近づいた。顔を近づけて精一杯真面目な顔を作ってみると、釣られて真面目な目になった。
てい、と一声。主張するものをデコピンで軽く弾いた。敏感な部分に不意打ちを食らったためか、硬直する。かなり効いたらしい、私はもう感覚も忘れてしまったが、こりゃ相当効いてる。
「トイレにでも早く行ってきた方が良いんじゃないかな?」
「……ぐぬ、君はまた無造作にそういうことを……」
二枚目顔を恨めしげに歪めて私を睨む。
「けけ、さーて。私はコーヒーでも入れておくよ」
相手をせずにリビングに向かった。後ろから目覚まし用に濃いのをと注文が入ったので右手をひらひらして答えておく。
もっとも、その前にちょっと服も着替えたいのだが。涎を垂らすなまったくもう、と言ったところである。
グレアムの爺さまには良い顔をされないのだが、私は割とコーヒーも好きだった。
ドリップ時の挽きたての豆がお湯を吸い込んで膨らんでいく時の香りなどはなかなか他の飲み物では味わえないものがある。
ただ、苦いのが少々その……苦手だが。子供舌は厄介である。しかもなかなか治らない。
ストックからコーヒー産地としては古株の銘柄を取り出す。あっさりさっぱりしながらも香りと味のある銘柄だ。
リクエスト通り、普通より多めの豆を挽く。
ごりごりごりごり、と景気の良い音が響いた。
コーヒーミルのハンドルを回しながら何とはなしにレース越しの外の様子を見る。
今日も晴天、なかなか暑くなりそうだ。小鳥の鳴き声がひっきりなしに聞こえていた。
お湯が沸く頃には丁度挽き終わる。
ちょっと注いだお湯で蒸らされた豆が膨らみ、良い香りが漂った。次いで細くお湯を注ぎ入れる。
このゆったりした時間が、何もない時なら安らぎの一時なのだが……
やがてティーダが着替えてリビングに顔を出した頃には丁度コーヒーも淹れ終わった頃だった。
「ん、いいタイミングだティーダ」
ほいよ、とソーサーに乗せたカップを出す。
ティーダがブラックのまま一口飲み、すました顔でカップを戻す。私がちょっと苦笑いして砂糖とミルクを押しやると無言で投入し始めた。
一息つくとおもむろに口を開いた。
「ところで、これからの事だけど……」
「ストップ」
開いた……が、私が待ったをかけた。何を話したいかはおおむね想像できるけどまずは。
「まずは、食欲なくても食事。こういう時だからこそね。支度しておくから、その一杯を飲んで目を覚ましたらティアナちゃんを見ておいて」
ティーダが、それもそうか、と頷いたのでエプロンをしてキッチンへ向かった。
こういう時だからこそ、というのは別に詭弁でも何でもない。人間、悲しい事が起こると体も不調になっていってしまうというものだ。そんな時は野菜たっぷりメニューである。朝から手がかかってしまうが野菜三種のジュースに、レタスなどの葉っぱ系中心のグリーンサラダに生ハムをちぎって彩る。ティアナちゃんも余裕で食べられるパンプキンポタージュにマッシュポテトに焼き色をつけたウインナー。
冷凍して保存しておいたパン種はコーヒーを淹れながら解凍してオーブンに突っ込んでおいたのでもう焼き上がった頃合いである。
できたよー、と声をかけるとティアナちゃんも起きたのか、ティーダに抱っこされてきた。
好きな服に着替えさせて貰ったようで至極ごきげんだ。
「おはようティアナちゃん」
「ねぇー」
覗き込んで挨拶した私に向かって手を伸ばす。言葉の発達具合が早いのかどうかは判らないが、単語だけならもうすでにかなり覚えてきているのだ。
ちなみに覚えたのはティーダを呼ぶ時の「にぃー」より私を呼ぶ「ねぇー」が先だった。あの時の勝利の感覚はいつしかの模擬戦の時よりも大きかったかもしれない。度々付きっきりで構っていたのが効いたのかもしれなかった。
よしよしとふわふわの髪を撫で、食事用のエプロンをかける。
専用の椅子に座らせると疑問を感じたようにきょろきょろして。
「まぁま?」
と言う……正直きついものがあった。ティーダなんてうつむいて口が一文字になってしまっている。
空気を感じ取ったのか不安そうな顔になってしまったティアナちゃんを抱きしめた。
「まぁま……はね、遠いところに行っちゃってるから……でも、ティアナちゃん、大丈夫、大丈夫だよ」
こういう時自分が落ち着かないと、赤ちゃんは鋭敏に感じてしまう。大丈夫だよなんて言葉は自分に向けたものかもしれなかい。
なんだかんだで病院に行ったりで母の不在にもそれなりに慣れてしまっている。そんなティアナちゃんは泣き出すような事もなく食卓についた。
最近使いこなしてきた感のあるフォークを使ってポタージュスープに浸して柔らかくしたパンをつつき始める。
「ん、ほら、ぼけっとしてないでティーダも食べる」
「あ、ああ……そうだな、頂くよ」
しばらくはもくもくと食事が進んだ。
食欲もそう無いかと思ったが、体が要求しているようでしっかり残さず食べてくれたようなので安心する。根拠も何もない勝手な思い込みだが、食べられるうちは元気なのだ。そして元気があれば割と何とかなるものなのだ。
食卓を片付け、食後のお茶を出す。ほっと一息。何とはなしに空気が穏やかになってきた。そろそろ良さそうなので。
「……さてと、ティアナちゃんの育児は局の育児サポートを受けるとか昨日は言ってたみたいだけど、具体的には?」
と水を向けてみる。
「そうだね、申請次第だけど、例えば全面的に子供の面倒を任せるといった時などは本局に住居を移すことになるみたいだ」
手元の端末にいつの間にか調べておいたらしい情報を映し出して確認しながら説明する。
しかし……そうかあ、本局に行っちゃうのか……
心情がが顔にでも出てしまったらしい。ティーダは私の顔を見て軽く苦笑した。
「最初はそれも考えていたんだけどね……考え直したよ。ティアナがのびのび出来る場所が一番だろうしね」
さらに聞けば、どうやら住居を変えなくてもさまざまな形でのサポートは受けられるらしい。例えば家政婦、シッターの派遣であったり局員としての長期出向時などは一時的に預かってくれる保育所の紹介もあるらしい。さすがに無料とまではいかないものの、格安になるとのこと。
一応の確認ということで、世知辛い話でもあるが、保険や遺産はどうなっているのか聞いてみたのだが。
「あー、うん。保険金は入ってくると思うんだけど……多分家と土地のローンで……」
「分かった、すまん。みなまで言うな」
本当に世知辛かった。見せてもらった保険は住宅ローンをした時に同時加入した生命保険なのだろう。住宅ローンを払いきれずに亡くなった際に生命保険から補填されるというたぐいのものだ。
ミッドの行政の方で確か収入のない若年者の保護制度はあったと思ったが、ティーダは局員になっているのでそちらからの支援は期待できない。
「まあ、なんだ。頑張れ大黒柱。それとティアナちゃんの世話だったらいつでも頼って来るといいよ。高等部の寮広いし。むしろ年中私に預けっぱなしでも私は一向に構わん! って奴だぞ?」
「いやいや、まさかまさか。そう簡単にティアナは渡せないな」
ティーダはそう言い、放り出したままの端末をいじくるティアナちゃんを後ろから抱きしめる。ティアナちゃんは不思議そうな顔で兄を見上げた。
「そう言うなティーダ、管理局の仕事、特に空士だと出向も多くて家に帰るのも大変だしょ?」
私はとっておきの秘密兵器、おやつ、余った卵白で作ったマカロンをちらつかせ誘ってみた。ティアナちゃんの目がロックオンに入る。手が伸びてきた。おいでおいでと誘うとまだ頼りない足取りで歩いてくる。私のもとまでたどりついたので持ち上げて腕の中にすっぽり納めた。いい感じに歩けたぞと、褒美にマカロンをくわえさせる。
「家の行き来に関しては、転送ポートの使用許可があるから大丈夫なんだよ」
お菓子で釣るなんて卑怯な、とでも言いたげな顔で言う。
そういえば局員になると使用許可が降りるんだったか。転移魔法は事故もあるのでミッドでは原則禁止なのだが、あちこちに点在する転送ポートを用いた転移だけは許可されている。通常は局員にしか使えない施設ではあるのだが。
ともあれ、それなりに考えているようで安心はした。
私は抱え上げたままのティアナちゃんの食事エプロンを外した、わりと綺麗に食べてくれる子なので服は汚れていない。……むしろ私の格好の方が、以前遊びに来たときに置いていったままだった仕事着みたいなものだが……まあいいか。
「それじゃ、腹ごなしにちょっと散歩でもしてくるよ。ティアナちゃんも外に出たいだろうしね」
僕も、と椅子から立ち上がりかけたティーダを手で止めた。
「申請書類書かなくちゃでしょ、家が静かなうちに片付けておきなよ?」
そう、申請する事はそりゃあ……ぱっと思いつく限りでも不動産の登記変更、局への育児サポート申請、保険や銀行にも連絡しないといけない。
日本のそれよりは合理化も進んではいるのだが、それでもこういう時の手続きの大変さはどっこいどっこいといったところだった。むしろミッドと局への申請書類は被るものも多い分大変かもしれない。
それもそうかと項垂れるティーダの肩をぽんぽんと叩いてなぐさめ、日の眩しい外に出ることにした。
◇
ついでに買い出しも済ませ、いつの間にか昼を過ぎそうになったので戻ってみるとディンとココットが来ていたようである。
日傘を玄関に置いて「ただいまー」と一声。ひとまず買い物の袋も置いて、ティアナちゃんのベッドに向かう。どうも揺られると弱いのか、すっかり眠ってしまったのだ。だっこ紐を解いて、丁寧にベッドに降ろす。ベッドに入ってガーゼの肌掛けをかけると、目が半分開いてまどろみながら「ねぇー」とつぶやいて私の手を小さな手が掴む。
「……ぐあ」
私は左手で胸を抑えてたじろいだ。胸キュンさせられるのも全く何度目であることか。じ、自制しないと、猫可愛がりしてしまう。
しばし、寝付かせる時のように、安心させるように布団をぽんぽんとゆっくり叩いていると段々掴んだ手の力が抜ける。半眠りのようだった瞼も落ちて、穏やかな寝息をたてはじめたのだった。
リビングに行くと、早速といった感じでココットがニヤニヤと妙な笑いを浮かべながら近づいてきた。
「ゆうべはお楽しみでしたね」
開口一番の台詞がこれである。お前はどこの宿屋のエロ親父なのか。
私はがっくりと肩を落とした。大きくため息が出た。
「それとティーノ、忘れていたようですが高等部の寮監さんには私から話を通しておきましたよ」
あ、と思わず口から漏れた。いや、すっかり忘れていた。高等部と言ってもそりゃ無断外泊は厳禁である。伝えておかないといけなかったのだ。
感謝感謝とココットを拝んでおく。
そろそろ時間も時間なので、昼の支度に入るためにエプロンを装着した。
「二人も昼食はまだだよね?」
午前の授業が終わってその足で来たという事らしい。二人分を追加で作ることにして、キッチンに向かう。
朝とは違い昼食は至って賑やかなものとなった。
昨日の今日なので、二人とも心配していたのか、気を使って場を明るくしようとしている。
ティーダは終始穏やかにティアナちゃんの今後のことをどうするかとか、家のことをどうするかとか、今朝方私と話したようなことを二人にも話している。
ディンがなぜか私の方をちらりと見て、ココットと怪しげな目配せをした。
おもむろに頷き合う。
「ティーノ、ティーノ。ちょっと来て下さい。ティアナちゃんの様子を見に行きましょう」
何ともあからさまにココットが私を誘導してきた。思わず不審げな顔になってしまうのだが……ともあれ、ティアナちゃんの様子もそろそろ見ておきたい時間ではある。お昼寝から起きれば時間的にもうお腹も空いている頃合いだろうし。
そんな理由もあり、ココットの思惑に乗ってみる。
リビングを出てドアを閉めると、途端に部屋の中でどたんばたんと音がした。ティーダの「うわなにをするやめ……」なんて声が聞こえた。何をじゃれあってるのだか。一つ肩をすくめた。
寝室に入り、ベッドを覗き込めばまだティアナちゃんは静かに眠っている。疲れてしまったのか……あるいはここのところの皆の緊張を子供ながら感じていたのだろうか? 妙に静かな時があったし、そうなのかもしれない。
「眠り姫はまだ深い夢の中だねー」
私はベッドの傍に中腰になって寝顔を覗きながら起こさないように小声でココットに話した。ココットも控えめにこそこそと口を開いた。私を指さしていわく。
「……顔が有り得ないほどたれてますよ?」
「うぇ?」
それは言われた事がなかった。自分の指で顔を触ったり押したりしてみる。そんな有り得ないっていう言葉使われてしまうほどすごい表情になっていただろうか……
うーむ、と唸りながら私は首をひねったのだった。
しかし……ココットもディンも私の耳の良さというものを甘くみているようだ。実のところ、集中して音を聞くとそりゃもう1キロ先の針の落ちる音が聞こえるんじゃなかろうかというぐらいなのだ。全くのアホスペックである。もちろん、普段からそんな地獄耳だと生活に困る。意識しないとそこまでは聞こえないのだけど。
そして、短い廊下を隔てて、一つ先の部屋くらいならドアが閉まっていてもそれなりに聞こえてしまうのである。ちょっと意識すれば。
内容はと言うと……まあ、聞かなかった方が良かったと言うべきか……なんとも。
「おいおい、昨夜とは随分顔色も違うし余裕しゃくしゃくじゃねーか」
と、ディンがティーダに絡む言葉から始まった。なんだかばたばたと騒いだ後の事である。
「……も、もしかしてやっぱなんだ、アレか、男としてやるべきことやっちまったのかええ?」
なんてちょっぴり恥ずかしそうにティーダに聞いている。
ティーダはティーダで勢いに飲まれたのか。
「あ、う、うん」
何て言ってしまった。お、い……
「ど、どうだった? やっぱ胸とかそれなりにあったのか? 俺はティーノは着やせタイプだと思うんだが」
「あ、いや胸はちょっとだけ」
以下略である。というか聞き耳を立てているのが馬鹿らしくなったというか、何というか。非常にむずむずするものがこみ上げてくる。
自分がその手の話のネタにされてるというのはどうにも居心地の悪いものだった。
というか、ココットの開口一番のネタといいどいつもこいつも、そればっかりか。
寝息を立てるティアナちゃんの隣で私もぐっすりと安眠に浸りたくなった。考えてみれば寝てない。溜め息が漏れた。全くもってやれやれである。