少女は唄っていた。
どこかで聞いたような、あるいはどこにでもあるような旋律。
情感をそそられたのだろうか、緑溢れる山林の大きな岩に腰掛け、飽きずに口ずさむ。
目を閉じ、そのリズムに合わせるように背中の翼が揺れている。
やがて少女は納得のいかないフレーズでもあったのか、二度三度と歌い直し、首をかしげた。無意識にだろう、お腹に手を当ててもう一度歌う。……と、今度は上手くいったらしく笑顔が出た。
じゃり、と足音が聞こえ、少女が振り向くと、もう若さも顔から抜けたらしい男の姿があった。
少女は子供らしく、パッと表情を変え男に文字通り飛びかかった。極度に色の抜けた白銀の髪が風になびく。
「パパ! おかえりなさい!」
「はは、ただいまアドニア。何か元気いっぱいだけど特別なことでもあったのかい?」
男は細身ではあるものの、そこは父の矜持でもあるのか、飛び込んできた少女をがっしりと受け止め、笑ってみせた。
「ん! あったよ! パパが帰った!」
「それは特別なことなんかじゃ……ああ、痛い痛い! うん特別だから! 許してアドニア!」
さすがに腹に頭から突っ込んだ体勢で頭突きをされれば堪えるようだ。
そんな調子で、親子はふざけ会いながら家路についた。
山林と思わしき光景はすぐに一面の海になった。
青く透き通った海面に少し緑がかった空と真っ白な雲が映っている。
まるで山の傾斜を削りとって、巨人の階段にでもなっているかのような形の白亜の箱形の家に二人は連れ立って入った。
「あら、お帰りなさい先生、隣町への出張お疲れ様でした。アドニアちゃんもお帰りなさい」
赤みがかったブラウンの髪を肩口で綺麗に揃えた女性が出迎える。ワンピースの白い衣服で食事の用意でもしていたのだろう、袖を捲っていた。少女と同じように翼もその背中から覗かせているが、その羽根の色は髪の色と揃っている。
「ただいまお母さん」
「やあ、ただいま。しかしまだ『先生』呼ばわりかい?」
男がそう口を尖らせると、何がおかしいのか女性は小さく笑った。
山遊びを覚えて、手足を汚してしまっている少女を濡れた布で拭きながら答える。
「それなりに結婚したてなのに、肝心のお嫁さんを放り出して仕事に明け暮れている人ですから、そんな人は仕事関係のままの呼び方以外してあげません」
そう言って「笑わない笑み」としか言いようのない表情を浮かべ、男を見やった。
男はさすがにたじたじになり、諸手を挙げて全面降伏の構えである。
「悪かった、悪かったよ。こ、今度は患者が助けを求めてきても家族一番で、もう見殺しにしてしまうから……ってそういうわけにもいかないし……ええと僕にどうしろと?」
「……ぷっ」
慌てる男を見て女性はたまりかねたように吹き出し、冗談です冗談と手を振った。
「そういう人なのはお手伝いしていた時から見てきましたから、今更文句は言いませんよ。アドニアちゃんも居ることですし」
そう言って、女性は手の中でむずがる少女の頭を優しく撫でた。
「それに……」
柔らかい笑みになると自らの下腹部をそっと撫でる。
不思議そうな顔になるアドニアの頭をもう一つ撫で、察しろと言わんばかりに男を見た。
一瞬男は呆けたかと思うと、その意味することに気付いたのか、驚きに目を開く。
女性はニュアンスが正しく伝わったことに、にこりとして言った。
「名前を考えておいてもらわないとですね」
男はどうやら混乱と驚愕が抜けないようで、むやみにアドニアを高い高いなどして目を回させていたが。
それは平和な風景、気弱で優しい父とそれを包み込むような支えるような母。
無機質な実験室の中では決して手に入らない風景だった。
ただそれはひどく脆く儚くて──
◇
瞬く間に時は過ぎる。
三回ほども夏と冬が通り過ぎた頃には少女は生まれが生まれだからだろうか、少々の発育不良に悩まされながらも、技術者であり医者でもある父の処方による所もあったのだろう、すくすくと大過なく育った。
「アラエル?」
「そう、大昔の言葉で鳥を司るものと言う意味らしい。我々の持つこの翼……」
と、黒板の前で講師は持ち前の黒っぽい翼を広げる。
石造りの舞台、祭りなどがあれば踊りや劇に使われるそこで、集落の子供達を集め、歴史を教えていた。
「私達にはあまりにも当たり前になってしまっているが、鳥と同じ類のものだ。かつては空を自在に飛び回っていたという文献もある。そして、海に住む人たちについては同じようにガギエルという呼び名があったらしい……地の人、海の人と呼ぶようになって久しく、今では彼等もその呼び名を伝えているかは怪しいものではあるが」
講師は少々大げさな身振りで慨嘆し、次の話題に入る。年頃のアドニアもその講師の話を聞く子供たちの中の一人として混ざっていた。
ところどころで小ネタに走ったりもしながら、話は続いた。
伝承として古い文献にしか残っていないという。かつて大きな大地の変動があったこと。その折に神々も姿を消し、空を行き交うものの翼は空を飛ぶ力を失い、海に住まうものは水から呼吸することを忘れた。環境の激変に適応せざるを得ず、限られた土地、食料を求め、あちこちで争いが起き、溢れるようだった人口も減り続け、いつしか集落ごとにまとまり、互いにあまり干渉することもなくなったという。
帰宅したアドニアは、さっそくと言った形で今日聞いた事、考えた事を物知りである父に話していた。
「うん……うん。確かに飛べたら楽しいだろうねえ、しかしそうか、神々と、そう伝わっているんだね。なるほど……しかし、そうなると、やはりかつては圧縮魔力を通すことで飛行を? いやそれだと羽根に張り巡らされた魔力神経網が理解できないか……あるいはリンカーコアの……」
いつしか、アドニアの理解を超えた言葉をぶつぶつとつぶやき始める。
こうなってしまうと、普段はちょっと鬱陶しいくらいに構ってくる父の面影はなく、研究者然とした顔が表に出ていた。時折神経質そうに指でテーブルをとんとんと叩く。急に思いつきをメモすることもある。この時の父の顔、いや、雰囲気だろうか、それを見る度にアドニアは何故か懐かしい気分になるのだった。
ただ、対照的にそういった空気の嫌いな存在が一人居たのを忘れていたのは父親としては失格だったかもしれない。
「ねー、パパがまた止まってるよ」
「はいはい、ミュラはお姉ちゃんと遊ぼうね」
日も沈み初め、薄明かりの中、近頃隣の集落から交易商が運んで来たというボードゲームでアドニアとミュラの二人は遊んだ。
やがて、食卓に皿が並び、キッチンから美味しそうな香りが流れてくると、さすがのどっぷりと思考に浸っていた男も気を取り戻したようで……
少々面映ゆげに人差し指でぽりぽりと頬を掻き、食卓の自分の椅子に座った。
「さ、そろそろ出来上がるからゲームは仕舞ってね」
「はぁい」
母に声をかけられるが、どうも今ゲームの丁度いいところのようだった。二人して生返事を返す。
配膳も終わり、一つため息をついた母はぽんと手を叩くと、自分の背中の羽根を一枚引き抜いて、アドニアの首筋をこそこそとくすぐる。
「うっ……ぷはっ! あははっあはははあっはやめ、やめてお母さん。ゲーム止めるから!」
色白すぎる肌は見た目通り敏感肌らしく、効果はてきめんだった。文字通りひいひい言わせられた。
ミュラはその年にして既に要領がいいのか、姉の惨状を見ていち早く食卓に着いている。
「ふふ、アドニアちゃんは反応良いわねえ」
地獄の蓋は開いたばかりだ、とでも言わんばかりににこやかに微笑みながら二本目の羽根をもってもう一カ所、脇腹も同時にくすぐりだした。
にぎゃああああというどこか猫の声にも似た悲鳴を父と弟は冷や汗を流しながら全力で見ていないふりをした。
そんな素朴ながらも明るく楽しい夜が過ぎる。
◇
きっかけは何であったのか──
日ごとに美しさも備えてくる少女を唐突に対等な女として見てしまったのか。
あるいはアドニアの前でしか見せない男の研究者然とした姿を度々見る事に耐えかねたのか。
下世話な噂話、男が大事そうに幼子を抱えてこの集落に訪れた時から本当に妻にしたい女は決まっていた。年増の助手など間に合わせに過ぎない。という根も葉もない噂を信じてしまったのか。
産まれた我が子の将来を思って訳のわからぬ不安にでも駆られたのか。
糸が突然ちぎれてしまうように、終わりはゆっくりとなんてやっては来なかった。
それは炎に塗れた光景だった。
白亜の家の壁を炎が蛇のように舐める。
慣れていない手つきで父が作った手製の木馬、大事そうに飾られていたアドニスの花。弟の誕生日を祝ってアドニアが野山を駆け回って作ったリース。
赤く爛れた炎が伸びれば何もかもを黒く焼け付かせていく。
アドニアは現実味がいつまでも感じられないままにその一部始終を見ていた。
初めはただの口げんかのようだった。
いつしか普段は寛容な母が噂話などというものを根拠に感情的になり。
アドニアについて隠し事があるのでしょうと聞かれた時、いつもは優しい男が厳しい表情で「話す事はできない」ときっぱり言った。
それが決壊の一言だったのかもしれない。
母は泣くような、笑うような表情でアドニアを振り向いた。
何かを感じた男はアドニアを庇うように動いたがそれは逆鱗を逆撫でしただけだったのかもしれない。
この地の人々の力は強い。男は掴みかかられ、何事か言葉にならない事を言われながら、首を絞められた。
やがて男の体に力が無くなった。
「あ、あ、私、わたし……殺しちゃった、セフォンを? 誰が? 私が?」
喉の奥から唸るような声を絞りながら、行かなくちゃ、私も行かなくちゃ。とつぶやき油を家中に撒いて火をつけた。
その時には既に何かが狂っていたのだろう。
アドニアを振り返るとにっこりと笑って、自らの首に包丁を当て、引いた。
血がしぶき、ゆっくりと倒れる。自ら被った油に火がつき、凄まじい煙と共に黒く黒くなっていった。
アドニアが気付いた時には清潔なベッドの上で左手に幼い弟がすやすやと眠っていた。
「……夢?」
なんて怖い夢なんだろう、と思うと同時に涙腺が急に開き、滂沱と言った方が良いほどに涙が流れた。
そして、そのまま泣き疲れていつしかまた眠ってしまったのだった。眠っていた場所が自らの家ではない事にも気付かぬまま。
◇
「えーと、夢よ醒めろ醒めろ醒めろ」
夢の中で醒めろと目をつぶって念じるなんて器用な真似をした。
私の足元には眠りこける、今の私を少々幼くしたような子と幼児がすやすや眠っている。触ろうとしてもすり抜ける。部屋の外……壁や窓からは手を出すことは出来ない。この訳のわからなさ……うん夢だろこりゃ。
ちょっと思いつく限りの行動、例えばほっぺたを引っ張ってみたり、逆立ちをしてみたり、バク転をかましてみたりしてみる。
……段々楽しくなってきたので、人目があると絶対にできない一人シャドーボクシングなんてやってみる。
「シュシュッ」
腋を締めて打つべしっ打つべし打つべしっ
「そして止めのッ黄金の左ッ!」
ジェロニモもびっくりの左ストレートで決める。
仮想敵はティーダである。ティアナちゃんを独り占めしおってからに、妬ましや。
夢の中でくらいフルボッコにしてやるのだ!
「気は済んだ?」
突如かけられたハスキーな声にぴたりと腕が止まり、ぎぎぎ、と私は振り向いた。
ベッドを挟んで向かいに足を組みながら座っている女性が居る。
女性であることしか判らない……というか輪郭がはっきりと認識できない?
思わず目をごしごしとこすった。
「まだ、それほど繋がっているわけじゃないから、声だけでも通るなら僥倖と言ったところ」
「繋がって……てかさっきの見てた?」
女性らしき影は一つ肩をすくめたようだった。あっさりと言う。
「初めから最後までばっちり」
「……ぐああ」
羞恥で私は頭を抱えた。
というかどういう状態なんだこれ、ちょっと考えてみるとかなり訳判らん状態でもある。いや、何となく直感で理解してしまっているような部分もあるようで、難しいのだが。
ひとまず聞き出さねばならない。女性の影をきっと睨む。
「あなたの考えている事は判る。あなたもいずれ判る」
それが嘘を吐いていないことも何となく理解できる。理解できてしまうのだ。
頭が上手く回らない。
現実逃避気味に体を動かしてみたところで血が頭に回るわけではなかったらしい。
ただ、一つだけ気になっていることもあった。
あの姿は似すぎている。いや、やはりこの身体は……私は?
「一つだけ……私は……私はアド……」
だが、聞く前に室内というのに霧のような薄ぼんやりしたものに段々覆われ、見えなくなってきた。いや、意識に霧がかかっている?
理解できない。
「ティーノ、あるいはツバサ。いずれまた。あなたには知ってほしい」
何を? と声を出す事も出来ずに霧に飲まれ意識ごと溶けていくのを感じる。
本当に……訳のわからない……