「本日よりお世話になります、ティーノ・アルメーラです。赤ちゃんのお世話はまだ不慣れな事も目につくとは思いますが、気になったらどうか遠慮せず指摘してくださいね」
短い間ですがよろしくお願いします、と頭を下げる。
挨拶は基本なのだ。普段の私を知っている施設の子達たちが見れば噴飯ものなのだろうが、それはそれ。一応の礼儀くらいは知っている。
「あらあら、ご丁寧にありがとう。こちらこそよろしくお願いするわね」
「うん、よろしく頼むよ……しかし、何だティーダと同じ年と言うが、随分しっかりしているなあ」
と答えたのが、ランスター家の奥さんと旦那さんである。ちなみにティーダも多分このくらいは平然とこなすと思いますよというのは頭でだけつぶやいておいた。家だとそれなりに子供子供しているのかもしれない。ともかく、掴みは良しらしい。
奥さんはちょっと痩せ気味で調子が悪そうだったが、ほんわりした人である。明るくオレンジにも見える赤毛を緩くまとめて前に流している。ティーダのぽややんとして見えるところなんかは案外この人の遺伝なのかもしれない。
旦那さんの方は口に咥えたパイプがトレードマークの大柄で朴訥そうなおじさんだった。年の差夫婦なのか、旦那の方が少々老けても見えるが……仲は良いのだろう。奥さんを労る仕草がどうも板についている。
◇
時節は夏、ミッドにアブラゼミはいないが、何とは知れない虫の音色が喧しくなってくるのはどこの世界も一緒のようだ。
そして、受けてみればさすがにまだまだ余裕だった一学期の考査試験を終えて、ついに夏休み突入である。
メディア露出で噂になってしまい困っていたが、夏休みなんて長い期間が挟まれば沈静もするだろう。してほしい……
ともかくティーダとの約束通りにベビーシッター……感覚的には友人のお手伝いなんて部分もあるのだけど、それをしに来ている。ちなみに、ミッドの文化は割と欧米圏と被る部分があって、ベビーシッター業などは案外ポピュラーなアルバイトでもあるのだ。多くは通いで小遣い稼ぎのような形でもあるが、友人に頼む時などもあるようで、今回の私のような例もそう珍しくはない。
就業可能年齢も低く、そこは日本で戸籍もなく見た目子供で稼ぐのにも苦労していた身からすると、ありがたいような妬ましいような……私も気がついてすぐミッドであれば苦労はしなかっただろうに。
いや、思い出すのはさておき、ランスター家である。
それなりに市街地から遠い喧噪を離れたところにある住宅地の一角。変わったところも取り立ててないような極めて普通の家だったが、持ち主の人柄か木製品が多いからか、全体として柔らかげな印象がある家だった。
とりあえず初日ということで家の中を軽く案内してもらい、あてがわれた部屋に荷物を置かせてもらう。
肝心の赤ちゃんの方は今おやすみ中だということで、この際にお茶を頂いた。しばらくお話して子供の好物、癖、嫌がることなど教えておいてもらう。
奥さんは貧血気味なのか、顔色があまりよくないが、やはり今一番可愛い盛りだからなのだろう。できれば自分で最後まで面倒を見たかったようだ。しかし、それを見ている旦那さんの方が心配して病院でしっかり治療させたがっているらしい。
そんな思いが伝わってくると……なんだ、私もそう軽い気持ちで引き受けたわけでもないが、うん。しっかり面倒みてやろうじゃねーかべらんめーという気分にもなってくる。義理人情である。
と、寝室の方からむずがる声が聞こえてきた。子供が起き出したようだ。ティーダが寝顔を見に行っていたはずなので、頬でもつっついて起こしてしまったのかもしれない。
「あらあら、ごめんなさいね、お話の途中に……」
そう言って奥さんはぱたぱたと寝室に足を向ける。
うん……丁度いい機会だしお目見えさせてもらう事にした。
奥さんの後ろから続く形でこっそりと寝室に入ればまた何とも言えない光景。ベビーベッドの隣でぐずついた妹をどうやってあやせばいいか判らず、おろおろと挙動不審な動きを見せているティーダが目に入った。
「まったくこの子は……」
苦笑を浮かべ、頭をぽんぽんとするとキョドっていたティーダも大人しくなる。さすが母の手力。
そしてぐずつく赤ちゃんを横抱きに抱え上げ、ゆっくりと揺らし始める。
ふわりふわり。
見ている方が眠くなってしまいそうな絶妙の揺らし加減だった。
さすがの赤ちゃんもそれには対抗できずに、段々と大人しくなっていく。あーあー泣いていたのが次第にうにゃうにゃと言い始め、やがてすっかり大人しくなった。
「……母さんにはかなわないな」
ぽそっとティーダがつぶやいた。うん、世の子供の多くはそう思った事があると思うよ。
しかしなんかまあ、不思議な感じだ。
子供は散々相手していたというのに……いや、さすがにこんな小さい子の相手は初めてだっただろうか。
ちょいちょいと手招きされた。
「じゃあ紹介するわね、ティアナ・ランスターよ、よろしくねー♪」
そう言って赤ちゃんの右手を持ってフリフリしてみせる。
む、むう。これは……なんとも。ともあれ、ちょっと挨拶をば。
「ティーノ・アルメーラですよ、し、しばらくの間だけどよろしくね」
そっと手を出して手に触れると指を握られた。
お、おおお……
ちょっと感動である。というか先程から私もティーダを笑えないくらい挙動不審な気がする。
そんな私を見たのか、ランスターママさんは軽く笑って、じゃあ抱っこしてみてね。なんて言われる。良いんですかい、なんかちょっと大雑把な私としては怖い気も……ってシッターがそんな事言ってられない。
何故か出てきた弱気を押し込め、おそるおそるティアナちゃんを抱っこさせてもらう。
た、確か、まだ股関節脱臼とかしやすいから両足を揃えて抱きかかえないようにだったか。お尻を手で支えて肘と腕で背中と頭を支えるように……私自身が小柄なので少々大変だが出来ないことはない。
「ふふ、確かにこの子は横抱きが好きだけど、もう首も据わっているし普通に抱っこして大丈夫よ?」
なんて言われた。普通に縦抱きでも平気らしい。いや、まあ。聞こえてはいるのだがなんとも、なんとも。
にへらと口元が緩んでしまうのが自分で判ってしまう。直そうとも思わないが。
腕の中の赤子が可愛くて可愛くて……いやなんというか、保護欲? 違う……なんだろうこれは。あああ、もどかしい。
「ティーノがなんだか……お花畑に行ってしまってるよ……」
「赤ん坊のあなたを抱いてる時の私も似たようなものだったかもしれないわね。でも気に入ってくれてよかった……さ、私は今日までしかティーノちゃんを歓迎する日がないんだから、せめて息子のガールフレンドに美味しいご馳走を作って来るわね」
「そ、そんなんじゃ……」
などと聞こえてたりもするが、まあなんだ。腕の中の暖かさを感じていると、不思議な感覚が次々とわき上がってきていて、私も整理に一杯一杯である。
ママさんが部屋を出て行くと、赤ちゃんもまたむずがりだした。やはり母親と居たいらしい。真似をしてふわふわ揺らしてみるものの、なかなか上手くはいかない。あ、あわ。慌てるな私。
え、ええと、せめて、もこもこしたモノでも。ああそうだ。
翼の幻術を解いてみる。目の前に羽をちらつかせると思った通り興味を示してくれた。よし、よーしよし。良かった良かった。
ふわふわなんだよーとティアナちゃんのお尻の下に翼を敷いて支えてみれば、うん。なんだかふにふに押されたり羽をしゃぶられたりしたが、落ち着いてくれたようだ。
ひとまず安心である。
ゆらりゆらりとそのまま揺らしているとそのまま寝息を立て始めた。
どうにも顔のゆるみが止められない。こんなに私はアレだっただろうか。ああ、認めたくはないがアレかもしれない。いやもう認めよう。
私はそのまま声を絞り出した。
「ティーダ……すまない」
「は……え? 白い翼とか……あれ?」
「私は相当なロリコンだったみたいだ、ティアナちゃんをください、むしろ義兄と呼んでいいだろうか?」
「……いや、いやいやちょっと待てその理屈は何かおかしい、というかどこを何から突っ込んでいいか僕も混乱してきたよ!?」
ええい、まどろっこしい奴め、男ならしっかりしろ。翼の一枚や二枚で騒ぐな、そんなものケンタッキーに行けば売ってるだ……ろう?
……お?
「おおおっ!?」
「ああぅー」
驚いた私の声に反応してティアナちゃんも起こしてしまった。いかんいかん。
ゆるゆると揺らしながら、声のトーンを抑えてティーダに話しかけた。
「あー、えーとな……この翼の事なんだけど……」
「あ、ああ、うん。何というかびっくりしたんだけども……」
だよなあ、いや、迂闊だったというか、ティアナちゃんの魔性にやられた。この子の笑顔にかかれば私の秘密の一つや二つ軽いものである。
いやまあ、どう説明するか……と頭を悩ませたものの、そう浮かんでくるわけもなく。
「あー、うん、面倒なんでぶっちゃけちゃうと、こういう種族なんだ私。ラエル種とか言うらしいけどね」
何かあまり考えたくないアレで狙われる事も多い種族みたいだよと、この前知った半端な知識で恐縮だが説明しておく。
誤魔化そうかとも思ったけども、下手に誤魔化してもボロが出るに違いないのだ。
さて、どう出るだろうか。
ミッドが様々な人が集まると言っても、本局ほどではなく、ほぼ通常の人間なのだ。人は変わり種を排斥する。今のところ私の姿を見て気味悪がられた事はないが、何故かそう扱われた事があるかのようにビクビクしている部分が私の中にあるのも事実だった。
「で、ティーダはどうする?」
「へ? 何をさ?」
なんて鈍い言葉を吐く。
「いや……あんまこういうのが気味悪いとかなら今回のシッターの話は……」
私の言葉をティーダはジェスチャーで遮った。
「何を心配してるかは判ったけど、僕は気にしないし、うちの家族も気にしないよ?」
「……ん、そっか。良かった」
──我ながら不思議なほどに安堵が広がった。ほっとしたように肩の力が抜ける。
とはいえ、一応家族には秘密にしておいてくれと念を押しておいた。
そりゃ、仕方なくバレる時はあってもことさら宣伝するようなものでもないのだ。
私の翼の上で寝息をまた立てているティアナちゃんを見た。うん、可愛いもんだ。私はふっと思い出したように言ってみた。
「それはともかく、ティアナちゃんくれない?」
「断る、大事な僕の妹だ」
◇
パイ料理がランスター家の味らしい。
お昼が出来たのでとお呼ばれすれば、小麦粉の焼き付けられた良い香りが漂う。
出されたのはきのこのシチューパイとアップルパイだった。パイシートで作ったのだろうか、店で出せそうなくらいに綺麗なパイである。
ひとまずアップルパイの切り分けられたものを頂いてみると。
さく。
「……むぅ!」
これは……。
中の層はふわふわで、一番外側は何というサクサク感……
何より鼻に抜ける香りが。シナモンは勿論、これは小麦の香りが引き立っている……? 生地を打つ時に何か手間をかけているのだろうか。
これは美味しい。確かめるように、さくさく食べていたらいつの間にか終わってしまった。
「気に入ってくれたようね、良かった。私の得意料理だから」
そんな事を言いながらちょっと大きめに取り分けてくれる。
そんな物欲しそうな目でもしてしまっていただろうか……
しかし、このママさんとも会うのは今日だけという日程なんだよな……ここは一つ食事が終わったらさりげにレシピでも聞いてみることにしよう。
「ところでうちのティアナとは上手くやっていけそうだったかしら?」
「あ、はい。手のかからない子みたいで……あ、でもやっぱりお母さんがいて欲しいらしくて、部屋を出てった時はちょっとグズりはじめて……焦っちゃいましたけど」
あはは、なんて誤魔化して頭を掻いておく。
いや、その後は赤ん坊に夢中になって隠さないといけないものを颯爽とバラしていたなんて今考えると阿呆過ぎるぞ、私。
仕方ないんだ、ティアナちゃんのバラ色ほっぺがいけない。あの顔でむずがられたら際限なく甘やかしてしまえる自信がある。
その後もしばらく歓談していたのだが、さすがに疲れた色を見せてきたので、ティーダに目配せをすると察したようで……
母さん疲れた顔してるよ、などと言って休ませに行く。
後片付けはしておきますので、と見送った。
さて、と腕まくりをして皿を洗い始める。ついでに離乳食の用意もしておいたほうがいいかもしれない。まだ離乳食は1日1回のペースだが、もう完全にさらさらの状態でなくても食べられるらしい。冷蔵庫に貼ってある昨日までの献立を参考してジャガイモのポタージュに細かくちぎったパンを入れて少々煮溶かしたものを用意しておくことにした。
折しも出来上がった直後にティアナちゃんもお腹が空いたのか、子守をしていたお父さんに抱かれて運ばれてきた。もう、自分の意志もしっかり出せるみたいで、私が鍋の前で何かしらやっているのを見ると手をさしのべてあーうー言っている。た、たまらん。じゃなく熱いままなのでちょっと待って貰わないと……ええと。
大きめの鍋に水を入れてその中に離乳食の入った小鍋を浮かしてかき混ぜる。
「ちょっと待っててね、ティアナちゃん。すぐ冷めるからねー」
やー、なんて返事してくれた。
パパさんが、食べさせてみるかい、と仰るので、私も人肌程度まで冷ましたものをあーんなんてジェスチャーをして、食べさせてみる。
あむんと食べた、口の中でもごもごしたと思うと不器用そうに飲み込む。
しかし、本当これは危険な可愛さだ。将来管理局員入りを目指していたが、いっそ保育士でも目指すか?
次のを催促するようにあーんと口を開けるティアナちゃんを見てそう思ってしまうのだった。
◇
夕食は頼み込んで私も手伝わせてもらった。昼間のパイのレシピなんかも実際に作りながら説明してくれる。うん、私の料理のバリエーションもまた少し豊富になった。まさか小麦粉の段階でオーブンで焼き付けるとは。感じた小麦粉の香りはこれか。
「学校でのティーダですか?」
「ええ、あの子ったら母親の私が言うのもなんだけど、何でも一人でやってしまう子でね、あまり学校のことを親に話してくれないのよ」
ママさんは贅沢な悩みだとは判ってるんだけどね、と頬を掻いた。
と、言われてもである。むしろティーダについてよく知ってるのは、長年……というわけでもないが、当初からの知り合いだったディンとココットであって、私は最近の事しか知らないわけだが。
ありきたりの事かもしれないですが、と前置きして学校での事を話しておいた。
例えば、ディンという古くさい少年漫画の主人公のような子と最近仲直りしたことや、高等部にさっさと飛び級してしまった事でちやほやされるもののやっかみも大変なものらしいとか。
年上の女性にはとても人気らしい事や、実は校内の非公式チェス大会で連続優勝してるとかまぁ、他愛もない話である。
……もしかしたら自分のことで母に心配かけたくなくてティーダは話してなかったのかもしれない。ともあれ、その事で逆にストレスになってしまっては本末転倒というものだろう。
「そんなわけで、付き合いのまだ浅い私が言うのもなんですが、最初見た頃より表情が柔らかくなったし、楽しくやれているんだと思いますよ?」
「そうかー、うん。ありがとうねティーノさん。おかげでティーダが最近の連絡で明るくなってる理由がわかったわ」
そう言っておっとりと微笑む。
そして柔らかい笑みのまま爆弾を投げ込むのだった。
「ところで、うちのティーダを貰ってくれる気はない?」
いや、奥さんティーダは犬や猫ちゃいますねん……
そんな突っ込みを入れたくなった。現実には、へけっと変な音を出してむせただけだったが。舞った小麦粉が喉に入っただけである。
いや、まあ私もその手の冗談は、施設にいた頃から人並み程度には言われてるので今更初々しく反応したりはしないが。とりあえず手をひらひらと振って。
「私なんぞより星の数ほど出来た女の子が居ますって、大体ティーダの事だから彼女もさくっといつの間にか作ってますって」
「あらら、残念……今ならティアナも付くのにねえ」
なんです……と!?
思わずイエスイエスイエスと言ってしまいそうになったが何とかこらえる。
私の落としどころを短期間で見抜くとはこの母親……やりおる。
「でも本当に残念ねえ、料理上手なお嫁さんとか楽で良いのに」
そんな、さらっと本音っぽいことが聞こえたような気がしたので、私は全力で聞いていない事にして、目の前のパイ生地を折りたたむのに集中するのだった。
◇
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうものである。
気付けばこの二週間、この機会にティーダから勉強をみっちり教えて貰おうなんていう目論見もすっかり忘れて、ティアナちゃんを構い倒していたような気がしないでもなかった。
いやほんと、私も何故こうまで構ってしまうのか判らないくらい飽きずに構ってしまっているのだが。
「なぁうぅ」
と、最近では発音が楽しいらしい。もごもごにゃあにゃあと声を出しては……まあ、私もいちいち反応してしまうので、遊び感覚なのかもしれないが。それで上機嫌になってくれれば良いのだ。
そして私が覗きこむと、やっときたーとでも言うかのように「やー」とか言って腕を上げた。抱っこして欲しいらしい。
よしよし、お望み通りにしてやろうじゃないですかい、とそっと抱き上げ揺らす。
きゃっきゃっとはしゃぐティアナちゃん。……うぉ! アホ毛を囓らないで、そんなのに栄養ないよー
さすがに飲み込んでしまっても困るので引き離したのだが涎でべっとりになってしまった。人差し指を立て、ティアナちゃんに向き合って言う。
「駄目だよ、ティアナちゃん。これが無くなったら私は出入り口とか自分の体がくぐり抜けられる大きさかどうか判らなくなっちゃうからね?」
「そのハネた毛は猫のヒゲかい?」
ティアナちゃん以外に聞いている人が居るとは思っていなかったので油断した。
人差し指を立てたまま、私は固まった。
その様子を見て言われた。
「……見られて恥ずかしいならやらなきゃいいのに」
ほのかに顔に血が上っているのを感じつつ、私も口を開く。
「は、早かったね買い物……あ、いやさ、お帰りティーダ」
ティーダは一つ笑って肩をすくめると、頼んでおいた食材を冷蔵庫にしまい込みに行った。
実はティーダ、何でもできるようで家事スキルは全く無かったので基本のことをちょこちょこと教えている。その成果もぼつぼつと見えてきたようだ。
風通しの良いところに置いてある野菜篭と冷蔵庫に食材を分けながらしまい込んでいく。タマネギやジャガイモなども蒸れないように包装から出していた。
やがてしまい終えるとリビングに戻ってくる。
「うー!」
兄が構ってくれると思ったのか、ティアナちゃんがハイハイにて突撃を開始した。
そう、もうハイハイが出来るようになったのだ。子供の成長とは恐ろしく早いものである。
私が来て一週間ほどだったか……ベッドの上でころんと転がったと思ったらゆっくりハイハイで私に近づいてきたのだ。
それまではコロコロ転がっていたので、いやそれはそれで可愛いものだったのだが。
と言ってもまだ四つん這いでしっかり足を使えるわけでなく、どちらかというとほふく前進に近いのだが。ともあれ、それに合わせるかのように、不安定だった座っている姿勢も安定してくるようになった。座っていても、いつ転がるか判らないという不安定さは無くなったものの、今度は行動範囲が広くなって大変である。
なんとかティーダの元までたどり着いたティアナちゃんはお兄ちゃんに抱き上げられた。ゴールだ。
「よーし、良く頑張ったなーティアナー」
ティーダも人の事を笑えないのである。目が細くなりすぎて線と言ったほうがいいだろう。立派な兄馬鹿である。元から割とぽややんとしているのに、こんな調子ではもうとろけたプリンのようと形容したほうがいいだろう。
偉いぞ偉いぞーなんて言いながら、頬をスリスリ。ティアナちゃんもきゃきゃと上機嫌だった。
ああ、楽しいのはいい。うんいいことだ。
私はちょっと所在なげに手をぶらぶらさせていたが……
いや、むくれてなんてないよ。本当だよ。ただ、ちょっとその……ああもう、私も構いたいのだ。
◇
夕食用に仕込んでおいたパンを焼く。先程ティーダに買ってきてもらったパプリカ、タマネギ、セロリを炒め、柔らかくなったらペーストになるまで潰して、ブイヨンを入れて味を調える。冷めたらオリーブオイルと卵を入れて混ぜれば優しい味のパプリカソースの完成である。鶏肉のソテーにでもソースとしてたっぷりかけてもらう予定だが、そのまま離乳食としても使える。
一通り作り終え、あとは温めればすぐ食べられるようにしておいた。
まだ時間も余っていたので、仕事で疲れたお父さん向けの夜の酒に合う肴でも用意しておくか。
たしか、夜中に一人ウイスキーグラスを片手に読書にふける姿を見た事が何度かあった。
ならば、とちょっと考え生ハムで人参、レタス、アスパラ、チーズをそれぞれ程よい大きさに切り、巻いて皿に盛りつけ、冷蔵庫に入れておく。
キッチンの後片付けと掃除を終えて、時計を見れば、そろそろ夕方になる頃である。
エプロンを外しながら、しっかり馴染んでしまったキッチンを見渡す。
うん、汚れは無し。シンクも棚もぴかぴかである。
後はそろそろ、パパさんが帰ってくる時間になるのでそのくらいまでに荷物を纏めるだけである。
そう、なんだかんだで今日がシッター最終日だった。
仕事と学業を忘れて楽しんでしまったというのが実情である。我ながら不真面目というか何というか……
もっとも個人的にはティアナちゃんとはまだ遊び足りないというか手放したくないのだが、私は私で既に今日の夜の列車で施設に里帰りの予定になっているのだ。すでに乗車券も入手してしまっているのである。
いや、施設の子たちを忘れているというわけでもないし、久々に合う院長先生にも土産話がたんまりあるので、里帰りも楽しみではあるのだが。
ま、まあ、友達の家に遊びに来るだけなら理由もいらないわけだし、うん。
今度はディンやココットも誘って遊びに来てみるのもいいかもしれない。
いよいよ、いい時間となって薄暗くなってきた夕空の下で挨拶を交わす。
「では、これで失礼します。パパさんもお酒と煙草は控えてくださいね? 一家を支えているのだから、体を悪くしたら事です。おばさまにもよろしく伝えて下さい。美味しいレシピをありがとうって」
「……ん、うむ、こほん。酒と煙草については鋭意努力するよ」
ちょっと目が泳いでいたので、信用度が今ひとつだったが仕方ない。こういうのは他人が言ってもなかなか上手くはいかないものだ。
「ティーダは来週が空士の一次試験だっけ? 一次はそれほどの難しさじゃないらしいけど、頑張れ。私達の世代の出世頭くん。そして受かったらお祝いに旨いものをご馳走して?」
「あ、ああ。そりゃ頑張るさ……いやまて何かさらっとおかしかった! 普通はご馳走してくれるもんじゃないのか?」
「チッ」
なんて戯れていると私が別れを惜しんで抱っこしているティアナちゃんが真似をしはじめた。とはいえ歯がないとこの発音はね……
「いっ……いー」
なんて発音になるのだが、段々声を出しているうちにご機嫌になってきたらしい。楽しげにいーいー言っている。うんうん。
……お、おう。ほっこりしていたらいつの間にか5分も経っていた。
「ええと、それではまた遊びに来させて頂きますね、ティーダもまた、学校で」
簡潔に言ってバスの停留所に歩きだす……事ができなかった。
ティーダに腕をがっしりと掴まれている。
くっ、私の力でもはがれないとは何という……
「その前に、ティアナをナチュラルに連れて行かないように」
「くっ……」
渋々とティーダにティアナちゃんを譲る。赤ちゃん特有のぬくもりが腕から逃げてゆく。
「うう、ティアナちゃん、また遊びに来るからね、ティーノお姉ちゃんを忘れないでくれよぅ」
きゃいきゃいとはしゃぐティアナちゃん。どうやら別れの悲しみは私一人だけのもののようだった。
まあ、いつまで寸劇を続けていても仕方ない。最後に、ふわふわの母親譲りなのだろう……オレンジにも見える明るい髪を撫でつけ、くすぐったそうに目を細める姿を目に収め、別れとしたのだった。
◇
列車の背もたれにもたれかかって、そんなランスター家での事を思い返しながら軽く目をつむった。
いや、良い仕事だった。仕事という意識もなかったが。アルバイト代を貰うのが申し訳ないくらいである。
ちなみに学生シッターであるので、相場もそう高いわけではなく、日本で言えば高校生が学校帰りにアルバイトをして貰える一ヶ月分の給料くらいなのだが。
夏休み前に子供達にもたせてやった土産代や、友人との付き合いもあるので少々寒い風の吹いていた私の懐も、やっとこさ温もりを取り戻したようだった。
駅からバスに乗り換え、いつかも通った道を通りながら田舎道を走る。すでに早い子は寝てしまうような時間である。もう乗客も私一人だけなので、施設の前まで送ってくれると言う。その辺の融通は田舎ならではというところだろう。
やがて懐かしい気持ちすらしてしまう施設の前でバスを降り、夜気を胸一杯に吸い、うーんと背筋を伸ばす。
さすがに長時間の移動で背筋がこった。
体をほぐしていると、バスが来たのを中から見ていたのか、玄関のドアが空いて院長先生が出迎えてくれた。
「おかえりなさいティーノ、さ、みんなもう待ちかねていますよ」
そう言って先生は微笑む。
私も何となくその笑みが伝染したのか、ほっとして表情が緩んだ。
ただいま先生と答えて、施設に入る。が、広間に入ったと同時に明かりが消え──
「今だ!」
というかけ声と共にクラッカーの一斉砲火を食らってしまった。
正直、驚いたのなんのって。ティンバーが居るんだからこのくらいの悪戯は予想しておくべきだったか……!
何か言おうとしたのだが、舌がもつれる。
まごまごしているうちに明かりがつけられた。
「誕生日おめでとう!」
皆が思い思いにそう言ってくれる。
飾り立てられたテーブルの上にはごちそうが並び、院長先生お手製と見られるケーキがどんと鎮座している。悪戯が成功したことを楽しみながらも、子供たちはテーブルの上の料理に目が釘付けだったりもする。
そう、今日は書類上ではあるものの、私の12才の誕生日だった。皆が祝ってくれるというので、ちょっと頑張って帰ってきたのだった。
院長先生がゆったりと歩いて入ってくると、自然と騒々しかった空気も収まる。
「さ、ようやく今日の主役も到着したことですし、今日は堅い事は言わないでおきます。では、ティーノの12才を祝い、乾杯してから頂きましょうか」
ワインを持ち上げながら、堅い事は言わないながらも略式のお祈りだけは欠かさない。
子供達も子供用にアルコールのほぼ入って無いワインを持ち上げ、グラスを隣の子とぶつけて遊んだりして賑やかに乾杯をした。
私も注がれた一杯を飲んで、ふうと一息吐く。
いやはや……
「ふふ、帰って早々に慌ただしくて大変でしたねティーノ」
ふくみ笑いをしながら先生が私の頭を撫でてくる。
まあ、何となく面映ゆいのだが、この人には何故か逆らう気がしない。ちびりちびりとグラスのワインもどきを舐めるように飲む。
少々もの足りない。空いたグラスに注ごうとボトルに手を伸ばすと横からさらわれた。視線を移せばラフィがボトルを持って待機している。空いたグラスに飲み物を注いでくれるようだった。
どうやら今日は大人しく主賓らしくもてなされろ、と言うことらしい。
そうして、何とも騒がしく、楽しい夜はそうしてふけていく。
──しかし。しかしである。
どうもこう、子供達が可愛く見えて仕方ないのだが、どうしたものだろうか。
やはり、ティアナちゃんには私の中の何かを目覚めさせられてしまっていたらしい。ロリコンやないんやーなどと言っても誰も耳を貸さないだろう……落ちるところまで落ちたものである。
「うふふ……ふ」
「な、何だ……ティーノがおかしな笑い方してる?」
ティンバーが不気味に笑う私にちょっと引き気味である。まあなんだ。
──逃がさない。がっしりとばかりにティンバーの腕を掴んで引き寄せ、椅子に座っている私の膝の上に乗せてモフった。
「んーふふ、おねいちゃんを驚かせてくれたからなぁ、今日は逃がさないぞ」
「お、おおおい、ちょっと待て待て待て待って! 酒っ臭っ! 誰だティーノ姉に本物のワイン飲ませたのは!?」
おお、テンパると私を呼ぶときも姉が付くのかーそうかー。
「んふふー、うい奴めうい奴め、ほれほれほれほれ、セクハラするのは得意でもされるのは苦手かー」
「ぎゃあああ! そんなとこに手ぇ入れんな! 握るなあああああッ」
ふふ、マフィアに手込めにされそうになったほどのエロ種族(暫定)を舐めるな。全く関係ない気もするが。
……そういえばあれからずっと考えていたことがあった。
ふっと思い出し、ティンバーを抑えていた手を緩めると、敏捷にホールドを抜け出された。ちょっと残念である。
少し目をつぶり、ゆっくりまぶたを開く。うん、明かそうと思ったもののやはり勇気がいる。何故だか知らないが。
手をパンと一つ鳴らして注目を集める。
「皆、聞いてくれるかな?」
そう言って私は隠し通して来た翼の隠蔽を解き、大きく広げて見せた。
うん、いい機会なのだろう。おりしも誕生日だし、ティーダにも見られてしまったことだ。何より、院長先生やカーリナ姉は最初から知っていたようだし。
堅物のクロノやアリアさんからは「リスク管理がなってない」とか言われるかもしれないが、施設の皆は家族も同然である。あまり秘密にしておくのも少々心苦しいものはあったのだ。
「見ての通り、こんなのが背中に付いてたりするんだ。まあ。こんな機会でもないとなかなか明かせ……ってえええ!?」
唐突に子供達に揉みくちゃにされた。
「すげぇー! これ本物? 抜いていい?」
「うわー暖かいんだけど何コレ、何コレ」
「羽根……古き者ども、深き者ども、ディープワンの親戚?」
デュネットそこ、さらっと私を妙なものと一緒にしないでほしい。
ちびっこ共、羽根抜くな痛い!
とまあ、大騒ぎである。
そんな一幕も何とか収集がつき、さすがに騒ぎすぎて疲れたのか、寝ぼけた子も出てきたのでお開きにした。いつも通り、年長のティンバーとラフィに連れていかせる。
「ああ、全くみんな元気だなあ」
ちょっと羽根がむしられて文字通り鳥肌が見えてしまっている翼をさすりながらパーティの余韻に浸る。
「そうね、子供たちには屈託のない元気な顔が似合うと思うわ、けどねティーノ、それはあなたも同じ。いい顔になってますよ?」
すっきりしたみたいですね、と微笑みかけてくる。
見抜かれているというのは面映ゆい。頬を掻いて誤魔化す。
「ところで、カーリナ姉が言うには一ヶ月ほど前にこっちでも変なのが居たらしいけど、子供達は不安になってなかった?
と、強引に話題を変えてみる。
まあ、何でも地元の警察に逮捕されたらしいソウルオブザマターの見張り君の事だが。
「大丈夫よ、それにティーノ。こんな訳有りの子供たちばかり預かる施設が何の備えもしていないわけがないでしょう? 私自身、魔導師でも何でもないけれど昔のツテで聖王教会には顔が効きますからね」
確かベルカ貴族の教師役だったというあれか。
どんな備えを、とは言わなかったものの自信げである。
それにね、とちょっと悪戯気な顔になる。
「あなたも気付かなかったみたいだけど、ご近所さん、果樹園のナシュアおじさんや初等科の授業をしてもらっているダグウッドさんも引退したとはいえベテラン魔導師なのですよ?」
聞けばかつてグレアム提督の下で動いていた管理局員だったらしい。しかしまあ、言ってくれれば良かったのに……
アルコールも手伝ってか、どうも子供らしい表情が表にでてしまう。唇を突き出してちょっと拗ねた顔になってしまう。あらまあ、なんて言われながら私は頭を撫でられたのだった。
私は面はゆさと、妙に落ち着くような感覚、それを同時に感じながらワインをちびりと口に運んだ。