試験管の少女は唄を紡いだ。
誰にも聞こえない唄を。
その大きささえ無視すれば、試験管、そう形容してもいいかもしれない。培養槽の中で少女は歌っていた。
意味などはないのだろう、言葉は知らないのだから。
ぽこり、ぽこりと泡のきらめくその培養槽の中で少女は口をぱくぱくと動かしていた。あわせてその背中の小さな翼や、紅葉のような小さな手がゆらゆらと動く。
白衣の男がそれに気付くとリズムをとって、コン、コンとガラスを指で叩く。
何が嬉しいのか、あるいはただ真似しただけか、そのリズムに段々合わせるように少女も内側から同じように叩き返す。
その不思議そうな表情に、最近めっきり笑い上戸になったと感じながらも男はまた小さく吹き出した。
最初は薄暗く、何の飾り気もなく、鉄とプラスチック、電子音とコンソールを叩く作業音しかなかった部屋に、段々と彩りが増えて行く。
それは小さい人形であったり、男が小さい時に好きだったレトロなブリキのおもちゃであったりもした。
それは決まった時間に小鳥がワルツを歌う時計であったり、時間が来るとくるくると回ってピエロたちが踊り出すオルゴールだったりもした。
デスクの中央にいつしか飾り瓶が置かれ、造花が飾られる。冷たいリズムをとる音しかなかった空間にピアノを基調としたクラシックが流れる。
その壁に飾られた、男が自分ではよく判らないながらも買ってきた……と思わしき壁掛け、絵画、押し花、といったものも10を数えた頃だっただろうか。
色合いに踊るような赤い色が混ざったのは。
「これも、これも、これもだ!」
男は何かに憑かれたかのように書類を燃やしていた。
換気も十分効いているだろう室内にすら、煙が充満していく。
それを吸い込んだ男はひとしきりむせ返り、机に手をついて息を整えた。
ふうと一息吐き、頭を一つ二つ振るとコンソールに向かい操作を始める。
「……アドニア、君はすぐに自由になる。次に目が覚めた時には暖かいベッドの上だよ」
何らかの複雑なプログラムらしき文字の羅列がディスプレイを巡る、そこから目を離さずに男はつぶやいた。
やがて、培養槽から液体が抜け始め、少女に幾重にも絡みついていた管もゆっくりと外れた。
槽の液体が抜けきると同時に駆け寄った男は何らかの器具、ガスマスクのような形をしているものを少女の口にあてがい、スイッチを押す。小さな駆動音と共に少女の気管と肺を充満していたであろう液体が排出され床に流れる。
耳を近づけ、ひゅ、ひゅ、という浅い呼吸音を聞き取った男は、力が抜けたかのように表情を緩め、次いで背後で聞こえた物音に厳しい表情となった。
男が入り口をゆっくり振り向き、長身の人影を見ると体に緊張が走る。
「相変わらず君は肝心なところで徹底できないな、セフォン研究員。やるなら後腐れなく始末するか、後遺症など考えないで強力な薬を使いたまえよ」
「……主任」
主任と呼ばれた長身の男は、荒れた室内とディスプレイに明滅している情報をざっと見、感情の全く出ない顔のまま向き直り言った。
「しかしまあ……全くよくもやってくれたものだ。これで、もう8年にもなるこの研究所とも別れを告げねばならん」
「主任……僕は……」
何か言いかけようとした男──セフォンの言葉を遮るように「言わんでいい」と主任は言った。
「ああ、言わんでいいとも。その実験体に情が移ったのだろう。研究者としては失格だが人間としては正しいのかもしれん」
主任はそこで初めて右頬を歪めて薄く笑った。
「尤も、数々の人体実験をしてきた身としては、今更と言ったところでもあるのだろうがね」
「……それでも、僕は」
「言わんでもいいと言っただろう。行くならほれ、退職金だ」
デスクになにがしか入っているような膨らんだ封筒が置かれた。セフォンの目が大きく開かれ、申し訳なさそうに歪んだ。
「……主任、すいません……」
「謝るな。君も感じている通り、この実験は行き詰まりだ……考えてみれば無理があったのだろうよ「無限の欲望」の成功例が奇跡に奇跡を重ねたものだったというだけだ」
主任はそう言うと何もない虚空に目を向け、重く、長い息を吐き出した。その吐息で10年は年老いてしまったかのように声がひび割れる。
「あの成功があってから研究所も、スポンサーも気が狂ったよ……もしかすれば過去の英知を復元できるのかと。または人が過去から完全に複製されるならそれは不死ではないのかと」
愚かな事だった。と首を振る。自らの手を軽く持ち上げ、見ながら続ける。
「……何体切ったかな、医者なら切った数は名誉であり実績だが……」
見つめる己の手に何を幻視したのか、目尻がひきつっていた。もう老人にしか見えないその瞼を閉じると、一息、二息と呼吸を落ち着けた。
「君のリークした情報で、管理局も動き始めたようだ。あるいは、証拠の隠滅かもしれんがな。さ、もう行くといい」
セフォンは無言で軽く頭を下げ、少女を懐に抱きしめ、出口に足を進める。
お互い背を向け合った所で思い出したかのように主任が声をかけた。
「行き先を決めていないようなら、その封筒の中の座標に行ってみることだ。逃げる為の専門家がいる。幸運を祈るよ、ペル・セフォン研究員」
セフォンはその声を聞くと唇を噛みしめ、弱気そうな顔をくしゃくしゃに歪めながら小走りに走りさった。