声が聞こえた。
「起きてください、誰もが垂涎のトリップイベントがやってきましたよ!」
眠い。眠すぎる。
買い換えたばかりの羽毛布団の暖かさに包まれながらみじろぎをした。
そういえば昨日は徹夜の仕込みだった。眠いのも当然……だ。
「ああもう! 起きてーッ!」
騒がし……
布団を頭に被ると静かになった。今日は祭りでもあったっけか。妙に騒がしい。頭がぼうっとする。
「これは勝手に処置してしまいましょうか……あー、まさかここまで原型留めててないなんてなんてなんてなんて面白い」
ゆさゆさと揺れる。揺れる。揺れる。ゆれゆらゆら。じしん?
「……うほ?」
「いい男的な寝ぼけ方ですね。さて、よろしいですか? 突然ですが、あなたは異世界トリップすることになりました。何か希望があれば聞き入れますよ」
「……少女、こえが……とりっぷ?」
「少女ですね? もしもし、もしもし?」
ぐらぐらと揺れた。何だか浮いているような気がする。布団の中だと言うのに。ふわふわ。
「ん……羽毛最高、ふわふわ、このままねかせ……て……くれえ」
「羽毛……羽ですね! 容姿は丁度──」
何か聞こえる。なんかまあ。
「……すきに……して、眠……」
「──ッ!」
ぼーっと布団の温もりの中で、夢見てるなーなんて夢の中で思いながら、俺はまた眠りにつく。
くすくすという笑い声がどこかで響いたような気がした。
笑い声が頭の中で広がった。
声が泡のように潰れて消えた。
◇
目覚めは首筋をなでる冷たい感覚だった。
「ん……?」
妙に細い声が聞こえる。それよりこの冷たいものは?
起きてみ……ようとして体が固まった。
冷たいものはどうも生き物だったらしく動いている。首筋を這いずりまわっている。
気持ち悪いのだが、どうも寝起きにこんなドッキリやられると驚きで固まってしまうようで、いや思考はどうもさっきから回るのだけど、なんなんだこれ。なんなんだこれ。カメラはどこだ、氷で撫で回してくれてる奴はどこだ? うわ動いてる動いてる、蛇か蛇なのか? 蛇っぽいって!
「っヴぉうぁっ!」
我ながらどうかと思う奇声をあげながら、慌てて布団から飛び出し、首に巻きついてるものを引き剥がして投げつける。
木にべちっと当たってその30センチほどの蛇はカサカサと慌てて茂みに逃げ込んだ。
「……お、お、驚ぇた……って……あ?」
ぜーはー荒げた息を落ち着ける暇もない。
何せ見ている目の前の光景が光景だ。
「……森?」
そりゃもう立派な森だった。
樫、ブナ、楢。人の手があまり入っていないのだろう雑木がひしめき、ツタが絡まりあっている。
振り返って後ろを見てみる。
「布団だな」
さっき慌てて飛び出したせいかぐしゃぐしゃになった布団がある。紛れもない布団だ。買い換えたばかりの気持ちの良い布団だ。
それは別段おかしくない。
地面の上に直敷きしてあるのを除けば。
その向こうに、石を投げれば向こう岸に届いてしまいそうな小さな池があって、そこから手前は花が咲き乱れ、ザ・草原なんて感じののどかな風景になっているのを除けば。
先ほどまで変な夢を見ていたことを思い出す。
「まだ夢か?」
夢を夢と認識できるのって明晰夢というのだったか。
初めて見たかもしれない。少し感動だった。しかし、蛇で目覚める明晰夢って、夢占いにかけたらエラい酷い結果が出そうだ。
なんとなく、池の方に歩いてみる。
物語だと池の中から美人が出てきたりとか、未来の知識を映したりとかかな?
だが、覗き込んでみると、映し出されたのは。
「なんだこの子供」
見たことない子供だった。
俺が右手を上げるとその子供は左手を上げる。
俺が左手であいーんのポーズをとれば、その子供は右手であいーんをした。
……いや夢なんだから百歩譲って子供になるのはいい。回帰の欲求なんて誰にでもあるし。
でもこの姿はない。
本当にない。
「アルビノ銀髪オッドアイとか……」
こんな欲求が俺にあったのかー。厨二なのかー。中学の時に発症しなかったのが悪かったのかー。はたまた巨大掲示板でそのネタを楽しんでいた罰が当たったのかー。
少し逃避気味な思考が揺れる。
この調子だと邪気眼とか隠された人格とか黒翼の堕天使とかそういうのまで搭載されて……と、翼とか思い浮かべた時だった。
「ぶぷっ……おぅふ変な感じが……息ぐる……し……ぐぁぁ」
寝巻きに着てたジャージの背中がなんだか、突っ張る、てか狭い。狭い! 首が絞まって、締まる締まる締まる。ぐぉぉぉ……
限界点に突破しようという時、びりべりばりばりと、ジャージの背中が破けはじめ。なんと翼が──
「生えた」
なにそれ怖い。
色は真っ白でもふもふ具合はなかなか良さそうだが、いや漆黒の堕天使とかにならずに済んで良かった……のか? のかのか?
いやなんだろうこれは。
うん。明日聞いてみよう夢占い。
こんなカオスな夢は何というかすごすぎる。
いい歳した男が夢占い、ありえん、そうも思ったが、いやコレだけの夢だと十分話しのネタになる。
束の間、呆けてしまった。
ひとまずこれからすべきことは。
「寝るべ……」
いそいそと布団を直し、もぐりこむ。
固く眼をつむり布団を頭から被る。
翼が邪魔になるようなので横向きに体を丸めて。
なんだか……いろいろなんだか……夢でも脳は疲れてたのかもしれない。
きっとそうだ、新作メニューの仕込みで徹夜なんかするからこんな夢を見るんだな。
何も考えたくなかっただけかもしれないが。今度こそちゃんと真っ当に現実に目を覚ましますようにと祈る。
意識に霧がかかる。
急速にぼんやりしてきて──
◇
本当に酷い夢を見た。
寝ぼけて誰かに応対しちゃったなーと思ったら、草原で目覚めて、自分がどこかのサブカル厨二小説などでよく見かけるような特徴を兼ね備えたりしていて。
あまつさえ翼などがもこもこと元気に生えて、なにこのキメラ。いや天使ってよく考えたら人と鳥のキメラだよねとか思ったり思わなかったり。
──そんな夢をみた。
「で、終わりになればよかったのに」
そんな夢、いや悪夢は際限なく、容赦なく、否応もなく続行中だった。
流石にあれだけ寝たらもう寝ることも出来ない。寝過ぎた。コレは夢だと思っては眠気を待ち、現実なんかじゃないと思っては眠気を待ち。
恐らく今は昼。
なんたって太陽がいい具合に有頂天。俺の心も暖かく照らしてくれればいいのに。
ため息が先ほどから連続して出ています。丁寧語にもなります。
なぜため息がでるかというと先ほどから嫌な予感がするわけで。それは股間でむずむずしてるわけで。
いやただの尿意なんですけどね。
とてつもなく嫌な予感しかしないわけですええ。
「そうだ、小便行こう」
京都行こうみたいなノリであえて軽く逝ってみる。誤字ではない。これは逝くが正しいのです。
ちょっくら木陰に立って、まあ、寝巻きのジャージのままなので下ろさせてもらいます。
トランクスもちょっと下ろしてみまして、また戻して。
「見なかったことにしてぇ……」
涙が溢れた。
なんたって、長年付き添ってくれた我が相棒が。マイ・サンが。愛すべきエッフェル塔が。ビッグダディが。ごめん嘘ついたビッグって程じゃない。
「……無ぁい……」
へそまで届く俺のピーなんてご立派なもんじゃなかったけど。
毎朝自己主張してくれて、時にはちょっと困ったちゃんだった愛息。その姿が影も形も。
小さくなってたとか、しぼんでるとか腹の中に納まるという空手の奥義とかでなく。見事につるんつるん。
明日のジョーが灰になるような心境。
そう、その心境が正しいのだろう。俺は灰になるという感覚を生まれて初めてその身に刻んだのだった。
◇
思考停止とは便利な言葉だと思う。
応用範囲も広く、例えば誰もが考えてなかった事なのに、いざ政治家がそれで間違えれば「だれそれは思考停止に陥っていたことを反省しなければ云々」なんぞと叩かれたりもする。
ただ時には、精神的に追い詰まっている時などには、この思考停止というものは必要となるものらしい。そう切実に。
性転換なんて単語、雪原を割るがごときクレバスがあったとかそんな事実は、思考のダムでせき止めて考えないことにした。考えないったら考えない。
なんで、とか、どうして、とかは時間のある時にゆっくりゲームでもしながら考えればいいことだ。
「もしもという時は状況に応じ、優先順位を付けて判断することだ」
そんな台詞を迷彩服を着ながら俺に語った親父を思い出す。単純で当たり前ながら良い言葉だ。
妙な服を着ていたからといって別にアフガン帰りの傭兵とかベトナム帰りのグリーンベレーとかではなく、至って普通のサバイバルゲーム好きのおとんである。職業は何てことのないコンビニフランチャイズの店長だった。
「ひとまず目先のことを考えよう。それがいい、それに決めた」
本当に思考停止とはありがたい。
何しろぽんと投げ出され、五里霧中。何がどうしてどうなったという……脈絡もなく、順序もなく、訳が判らない状態だ。この場合の優先順位はというと、自己診断、状況把握だろうか。
気を取り直して、後ろの、静かな池に向かう。
上流から流れ込んでいる小さな川がある、それがせき止められ、ため池のような状態になっているようだった。大きさは10メートルほどだろうか。周囲も岩がごろごろしているわけではなく、粘土質の土が積もっている。ただ、ところどころに大きな岩があるところを見ると、大雨が降った時の川の通り道のようなものになっているのかもしれなかった。
水に触ってみるとかなりの冷水であることが判る。流れ込んでいる川だけでなく湧き水ももしかしたらあるのかもしれない。
水面に映るアレな姿を見てため息を落とすも、いつまでもじっとしているわけにも行かないので、勢いよく水面に顔をつけた。ぱしゃんと水しぶきが服にもはねる。
「……ぷぁー、冷たい」
いい感じにすっきりしてきた。
拭くものもないので、破れたジャージの上着で拭う。化繊は水の吸いが悪いがこの際仕方ない。
「さぁて、まずは……」
自己診断。これはあまり考えたくないが、否定しても仕方ない。この、明らかに日本人らしからぬスラブ系というか、ロシア人と言われて思い描く典型のような顔立ちで、銀髪オッドアイの痛い容姿の奴は俺ということらしい。
髪の長さはあまり変わってない。耳が隠れるか隠れない程度のショートで、割とざんばらりんと……本当に適当に切ってある。さすがにこんなに適当だっただろうか? 一房指でつまんでみる。色はもう笑うしかないようなプラチナブロンド。さらさらの直毛だった。
アーモンド型の大きな目に、高くて通った鼻梁。色白というか色素ねえだろというくらいの白い肌。血の色が透けて見えるので冷水で刺激受けた頬は今ピンク色だが……うわぁ……
くじけるな俺。イタくてもくじけるな。がんばれ、やればできる。俺はできる子だ。自己暗示をかけて再起動する。
目は左目が琥珀、右目が青。金目銀目という奴のようだ。瞬きを二回。水面に映る姿も瞬きを二回。睫毛が長い。爪楊枝8本乗せがいけそうな感じである。
いやまぁ、そこまでは人間の範疇だ。それはいい。よくはないけどいい。
背中の感触が問題だ。この普通に生えてる翼。なんだろうか、背中に腕でもついているかのような感覚。どっかのアニメの三つ目さんが使いそうな、背中に腕が生えて手数が増える技だったか。そんなのを思い出す。
腕とは大分関節の付き方が違うが、何というか、当たり前に普通に動かすことができる。手の平をパーにするような感覚で翼がばさーと開いたり。ぐっとすると折り畳めるとでも言えばいいのか。羽ばたく動作は普通に腕を動かすよりずっと楽にできる。うんうん、何とも鳥っぽい。
「ぐぉぁ……」
ぐっとしすぎたら攣った。うぉお、痛ぃ……ぴくぴく小刻みに動く羽根が微妙な気持ちを増幅する。
……どうしようか、だいぶ人間辞めてしまっている気がする。この上さらに額に目でも出来たら、目も当てられない。というか人目に当たりたくない。いっそもう山に引き篭もるしかない。
落ち着こう、落ち着こう。深呼吸を数回して強引に落ち着く。
ともあれ、この羽根の長さは目一杯広げると片羽根で2メートルくらいか、そのくらいまでは広がる。両方広げれば、俺は体長4メートルの霊長類ということになる。いや、羽根生えてるから鳥類なのか? 混ざって霊鳥類? やめよう。なんだかCOMPとか持ってる人に使役されそうだ。コンゴトモヨロシクとか言う気はない。
そして、体を動かすのにまるきり違和感がなかったので今更になって認識したのだが。いや映った姿で何となく判ってた。なるべく認識したくなかった。
……縮んでいる。洗濯機にかけられたニットのセーターのように縮んでいる。具体的には三分の二くらいに小さく。今の身長は120センチと言ったところだろうか。手足の長さも短く、手の平に至っては何というプニ具合。マシュマロと勝負が張れそうだった。
子供にしか見えない。いや認めよう、いい加減認めよう。今の俺は子供の体であると。認めざるを得ない。よし、自己診断はひとまずこれで……
と、そこまでが俺の限界だった。
「ありえん……ありえん……」
頭をかかえてうずくまる。
夢だろ嘘だろ醒めろ醒めろ醒めろ。
「うぁ……」
そんな自己診断にも思考停止という名の蓋をして、のろのろと立ち上がる。
今の俺を誰かが見れば、レイプ目というものを拝めたかもしれなかった。
「まあ、なんだ……状況、把握せんと……」
既にグロッキーです。
ギブアップボタンかナースコールがあれば連打していると思う。リングにタオル投げていいならセコンドに百本はタオル投げさせてる。と言っても、いつまでこの状態でも仕方ないので。
大きく息を吸って吐く。頬に両手でビンタで気合を入れ。
「……痛ぅぁ!」
思ったより力があった。というか歯で口の中を切ってしまった。ひりひりするが、これはこれで気が紛れたので良しとする。良しとしよう。頭を振って無理矢理気分を入れ替える。
まずやる事は──
あたりを一通り探索してみた。
あまり詳しいわけでないが、植生、また、木に付いている獣毛をチェック、危険な動物がいないかを確認する。一応熊避けに一定感覚で音を鳴らしている。
円を書くように池の周囲を軽く探索した後は、歩きやすそうな、木々の隙間の多い場所を縫って、放射状に探索をする。
迷わないように石でサインを残しながら木々の間を歩いていく。
「森歩きは急ぐな。落ち葉に隠れて穴があるとかはよくある事だ、大雑把な■の事だ。注意しろよ」ふとまた、父の台詞を思い出す。大雑把は自分だろうに、よく俺の事をそうけなしていたものだった。
確かに、連絡手段もない今、怪我をしたら笑い話にもならない。ゆっくり着実に歩みを進める。
──1時間も歩いた頃だろうか。唐突に森を抜けた。
「……おおぅ」
感嘆の声が出てきてしまった。
森を抜けたと思ったら切り立った小高い崖になっていた。
クライマーでもないので降りられる自信はないのだが、そこから見渡せる風景こそが何よりありがたいものだった。
街である。
距離はどのくらいだろう。昼間というのに車も行き交い、それなりに活気のありそうな雰囲気である。中心部と言えそうな所にはビルが立ち並び、こちらから見て左側は緩やかな湾となって、海に面した公園や、倉庫街が広がっているようだった。
港湾都市と言えばいいのだろうか、ひとまず、おおまかな方角だけ確かめ、別ルートで近づいてみる事にする。
太陽が出てるうちなら、おおまかな方角だけは判りそうだ。日が暮れる前には街に着きたいな、と酷く疲れた気がする足を持ち上げてまたゆっくり歩きはじめた。
◇
「ついた……」
やっと森の切れ目というか、人里につながる道路が見えた。人家も見える。
どうやら山間の住宅街のような所に出たらしい。
ぐったりとへたりこむ。
空を見ると既に夕方。
木苺とか見かける度にちょこちょこ食っていたものの、さすがに腹も減る。カロリーが足りない気がした。
とはいえ、どうなのだろうか……疲れているのは精神的な部分らしく、体は妙なことにあまり疲労を感じていなかったりする。3時間以上も道無き道を山歩きすれば、成人男性でも余程鍛えてない限り疲れは感じると思うのだが。
そのあたりの感覚の違いというのがまた少々気持ち悪い。脳が体の動かし方を理解していないような気さえする……考えるどつぼにはまりそうなので、これも考えないことにする。
「さて、とりあえず交番にで……も……?」
行こうとして、俺は自分の今の容姿を思い出して頭を抱えた。
「どこの世界に羽根生やした子供がいるんだよ……身分証明だって出来ないし、前とは見た目も全く違うし……」
住所不明、戸籍不明、世界に類を見ない奇形を持った、保護者もいない子供である。
最悪の場合、闇社会で流通ルートとか、どこのバッドエンドですか。いやいや、さすがにそれは物語だけの話だろう……きっと。いや、多分。
悪い方向に考えるとキリがない。
ただ、この見た目で目立ちたくもない。
「人目を忍んで家族に連絡、かね?」
何しろ格好も普通に恥ずかしいのである。
翼を動かした時に、上着の背中は破れて、結んでいるだけの状態。
泥で汚れたジャージに、靴など当然ないので泥だらけの靴下。
背中から生えてる白い羽根。
どこの研究所から逃げ出してきたの? とか言われそうだ。ライトノベルなら。
そんな事をつらつらと考えながら、意識して人家から距離をとって歩く。
時間としてはもう夕方を過ぎて、暗くなりかけている。
先ほどまでちらほらと帰宅する小学生が見えたのだが、そろそろ夕食と団欒の時間ということなのだろう。
実のところ。
「飯の臭いが漂ってきて腹が……」
ぐう、である。何ともせつない。空腹時に、この美味そうな臭いせつない。マッチ売りの少女も確か、空腹なのに七面鳥を食べる家庭を夢見ているなんて描写があったっけ……判る、判るぞ少女よ。食いたいなぁロースト七面鳥。中はジューシー、外はカリカリ。バジルとオリーブの香りがぷーん。ナイフでモモを外して大胆にがぶり。皮がバリッと音を立て、口の中に広がる肉汁がじゅわわ。
「……うぐぁ、とんでもないものを想像してしまった。腹減った……もう、性犯罪者のロリペド野郎でもいいから、今の見た目に釣られて飯くれんだろうか……」
もっともそんなのが実際に襲ってきたらねじり潰すが。何をとは言わない。ふひひ……ああ、腹が減りすぎて思考が乱暴になっている。
自己主張を繰り返す胃袋を抑えて、人気のない公園があったので、とりあえず水で腹を満たす。日本はすばらしい、水道水が飲み放題だ。涙が出そうになっているのはきっと気のせいだ。
とりあえず水分補給したせいか、多少は余裕がでてきた。
一つ思った事があり、公園に設置されている自動販売機の下をよーく見る。普通なら懐中電灯で照らさないと見えないところだが、目をこらす。発見。そこらへんの枝で手繰り寄せる。
10円硬貨をゲットした。100円硬貨を2枚ゲットした。本当は届けないと遺失物横領……だったか、になるのだが、非常時なので堪忍してもらう。
自分自身でよく判ってない部分も多いのだが、どうもこの子供ボディ、やたらスペックが高い。
夜目が利くわ、力強いわ、スタミナはあるわ、人の気配だの臭いにも敏感だったりする。
野生動物にでもなってしまった気分だ……羽根生えた妖怪とでも思えばおかしくないのかもしれない。妖怪……自分の事をそんな風に思える時点で段々俺の常識も壊れているようだけど。
ともかく、使えるものは使う。
何よりこれで電話が使えるのが大きい。
というわけで早速公園の公衆電話で、硬貨投入。自宅の電話番号をプッシュプッシュ。
しかし、いまだにこの昔ながらの緑色公衆電話が残っているというのは懐かしさをそそる。
「携帯が出回ってからはめっきり見なくなったからなー」
今となればこの電話ボックスのべたべた貼られている、教育に非常に悪いピンクチラシも懐かしい。
プッシュし終えると、数秒の時間の後こう言われた。
「あなたがお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。電話番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
心臓が早鐘を打つ。
「……間違えた?」
再度硬貨を入れてゆっくり口で確認しながらプッシュ。
「あなたがお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。電話番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」
動悸が止まらない。それなのに顔から血の気が引くのが判った。
三度、四度とかけ直す。頭で番号が間違ってないか、思い出しながら。
しかし、つながらない。
隣近所の……小学生の時からの幼馴染、腐れ縁といってもいいかもしれない。奴のところに電話をかける。急に思い出したのだった。
今度もつながらなかったらどうしようか、と少し指が震えた。
数秒待つと、電話のトルルルというコール音。
大きく息を吐いた。やがて、ガチャと音が響き相手が出る。
「はい、溝呂木です」
若い女性の声ではっきりそう言われた。
「溝呂木さん……ですか?」
「はい、そうですよ? お間違えでしたか?」
すいません間違えました、と言って切ったが、声はかすれて届かなかったかもしれない。
動悸が激しくなる。
冷や汗が止まらない。
ふと目が備え付けの電話帳に留まった。
探す。
覚えている限りの近所の新聞屋の名前、工務店の名前、工場の名前、魚屋の、小さい服屋の、行きつけの喫茶の、よく買いものに行くスポーツ洋品店の、腐れ縁の友人が大好きなゲームセンターの──
一致する店が存在しなかった。
それどころか、以前住んでいた、町の名前そのものが見当たらない。
判らない。何でどうしてこうなったのかが判らない。得体の知れない恐怖がこみ上げてくる。現実逃避すらできなかった。
唯一つ判るのは。
「……はは。ははは……本格的にやばい」
人との繋がりが何一つない、本当の意味で孤独という事だった。
◇
気が付いたら、最初目を覚ました時と同じ場所に戻って来ていた。
顔はぐちゃぐちゃで涙だか汗だか鼻水だか判らない。不快感も感じるけどどうでもよくなってしまっているようだった。
「……ああ……あー、はぁ……」
なんだか、頭がぐらつく。池の水に顔をつけた。冷たさが染みる。
顔を上げ、後ろを見れば俺と唯一つだけ、繋がりのあるはずのもの。なんともありきたりな布団。探索する時に枝に干しておいたものが目に止まる。
その月明かりに照らされた青白い布団が、なんともシュールで皮肉で滑稽に思われて。
「……ああ、本格的に駄目だ。精神的に病んでそうだな俺……ぷっ……くくッはッ……ぎゃははは!」
笑いがこみ上げてきた。
腹が痛くなるほど地面を転げまわって笑って、笑って、笑って。
真っ白な羽根がドロドロになるまで転げまわって。
発作のように止まらない笑いの衝動が収まったのは、池にダイブして一通り泳ぎまわった後だった。
魚くんたち驚かせてごめん。おいちゃんも疲れてンのさ。
冷たい水の中でぷかぷか浮かびながら月を眺める。
眺めながら考える。
なんとなく、あえて考えなかった事を考える。
「俺の名前……なんだったけかなー……」
アルファベットで3文字、漢字で1文字だったと思った。
ただ、いくら思い返しても、墨汁を垂らし、拭きとったかのように曖昧になってしまう。残るのはぼんやりとした汚れのようなものだけ。
年齢も同様だった。
気付かないようにしていた。でもここまで考えるとどうしても気付いてしまう。
記憶の中のサバイバルゲームマニア、ずぼらで適当な親父殿も。
うってかわってインドア趣味でドラマに一喜一憂する、妙にホットケーキが上手い母も。
子供の頃からエアガンで遊んでいたらいつの間にかガンオタからアニオタへ変異していた隣の悪友も。
記憶はあるのに、思い出がない。顔も思い出せない。言葉は思い出せるのに。
その顔は思い出そうとしても、水彩絵の具で描いた絵に水をぶちまけたかのようにぼけてしまっている。
「……ああ、うつだしのう」
ごぽんと池に潜ってみる。沈む、沈む。あまり深いわけじゃないが、このまま沈めば底なし沼のように飲み込んでくれないだろうか。
このボディだと水の中でも隅々まで見渡せる。
水底でザリガニが威嚇していた。指を目の前に出すと挟もうとしてくる。かわしてつつく。挟もうとする。かわしてつつく。かわしてつつく。逃げようとするので背中をキャッチ。捕まえた。
卵を大事そうに抱えている。声が出せるなら「しゃぎー」とでも言い出しそうな感じで怒っている。
なんだか力がいろいろ抜けた。
ザリガニを手放した。
水面に顔を出して息を吸い込む。
手のように自在に動かせるようになった羽根でぱちゃぱちゃと泳ぐ。バタ足の要領だ。バタ羽根?
水から上がって翼を何度か勢いよく羽ばたかせると水気が飛んだ。絞った上着で体を拭う。
開き直った。
そもそもそんなに深く悩むのがとても苦手な方なのだ。多分。俺はそんな性格だった。
落ち込むだけ落ち込んだら後は寝るだけ。
ひっかけておいた布団を草の上に敷き、虫除けの松葉を周囲に散らす。
明日は早くに起きてみよう。
そんな事を思いながら、すっかり馴れた翼にくるまって、上に布団をかぶる。。
今は涼しいようだからいいけど、夏は暑苦しいかもしれない。そんな他愛もない事を思いながら眠りについた。