その日、冬木におけるタクシー運転手歴三十年のベテラン、佐々成明(58)は、これまでにない奇怪な客を乗せることとなった。
いきなり乗り込んできたのが、客かと思いきや小さな子供。
しかも、その子供が百円と十円の山を財布から取り出してこちらに突き付けながら、
「間桐さんの所まで、お願いします」
正直、困惑するしかない。どうしていいやら分からない。
警察を呼ぶべきか? いや、子供とはいえ金を持ち、目的地を示した以上は客である。
しかし、ここで素直に頷くには怪しいというか、腑に落ちない部分が多すぎた。
それはさておいたとしても、間桐さんの所まで? そんな人名を出されても困るしかない。タクシーの運転手は確かに地理に通じているが、別に個人の住所まで覚えているわけではない。
「あのですね……住所か、施設の名前で言っていただければ嬉しいんですが……」
「え、えっと……間桐……あ!」
思いついた、という風情で手を打った少年は、こう言い放った。
「遠坂さんの家とお友達です!」
知るか。
佐々は、こみ上げてきた頭痛を堪えながら、どうにかそう言ってやりたい欲求を抑えた。
相手子供、自分大人、怒るな怒るなと自分に念じ、やっとのことで問いかける。
「で、その遠坂さんっていうのは?」
「えっと、ここの丘の上におっきな家があって、そこに住んでる人なんですけど」
「はあ、そうですか……って、そこの遠坂さんなら有名ですよ? ってことは、あの間桐かな?」
「え、分かったんですか?」
「えーっと……ああ、あったあった。間桐という人が経営している会社ならありますよ。不動産ですが」
佐々の頭の中に浮かび上がってきていたのは、間桐なる一族がここ冬木の土地はもちろん、他にも各所の土地の権利を所有しており、それを不動産会社を通して客に貸し付けて利益を得ているという情報。
別に隠されているわけでもなんでもなく、間桐不動産という実在の会社だ。実際、佐々も間桐不動産の客を運んだことは何度かある。
――ただし、どこかまともではない連中ばかりだったが。
なぜか知らないが全身を和服を包んでいたり、
理由ははっきりしないが、どこか威圧感を放ちまくっているスーツ姿の男だったり、
とにかく、私生活で知り合いたいとは露ほども思えないような客ばかりだった。
(あんなとこに、こんな子供が何の用だ?)
訝りはするが、そこで問いかけるのは運転手としての職務を逸脱している。そしてそれ以前に運転手失格もののマナー違反でしかない。佐々は首を振って疑問を追い払った。
「じゃあ、とりあえず、間桐不動産でよろしいですか?」
「うん。――あ、えっと、はい」
「了解しました。じゃ、出しますよ」
急いで敬語に言い直した少年が、初めて年相応の子供に見えて内心ほっとしつつ、佐々は車を出した。
その車体に、見たこともない羽虫が一匹、引っ付いていたことも知らずに。
間桐不動産。
知る人ぞ知るというか、魔術師や教会関係者、呪術師など――要するに、裏の人くらいしか知らない不動産会社である。
冬木市内の霊地の所有権を抑えているため、魔術師に高利で貸し付けては稼いでいる。
よって、あまり堅気のくる店ではなかった。
そんな店に勤める会社員も、やはり普通の人間は少ない。
ここ間桐不動産の受付嬢歴3年の新人、木本咲(21)などは、魔術師の家に次女として生まれながら、魔術の才能がないために後を継げず、しかし魔術の存在は知っている便利な人材としてここに雇われている。
ここ冬木の御三家で、人を雇っているのは遠坂と間桐のみ、そして金払いがよく安定しているのは間桐となれば、ここに勤めるのは自然な流れだった。
そして、今日もまたドアが開き、備え付けの鈴が来客を告げる。彼女は自分に与えられた役目を果たすべく、深々とお辞儀をして口上を述べた。
「いらっしゃいませ。こちらは……あれ?」
なにかおかしい。
なにが?
お客様が、いない。
不審に思って顔をあげると、そこには少年が、どこか不安そうに佇んでいた。
あまりに予想外な光景に、笑顔が固まる。
「……迷子になっちゃったの?」
できる限り優しく問いかけると、少年はなにかを決意したかのような表情になり、こちらを真剣に見つめて、言い放った。
「ぼくは、まとうひだかです! おじいちゃんに会いにきました!」
「……はい?」
木本の笑顔が、ビシッ! と効果音を伴いそうな様子で固まった。
(落ち着け。落ち着くのよ、私。この子、いまなんて言った?)
思わず現実逃避したくなるほどに意味不明な状況の中、彼女の脳内で少年の声が再生される。
――まとうひだかです! おじいちゃんに会いにきました!
聞き間違いかもしれない。一縷の望みをそこに託し、木本はひきつった笑顔のまま問いかけた。
「え、えーと……おじいちゃんって、誰? ていうか、お名前、もう一回だけ教えてもらってもいいかな?」
「まとうひだか」
「歳はいくつ?」
「七さいです!」
「お父さんの名前は?」
「まとうかりや」
まとうかりや。
つまりは間桐雁夜。
十年ほど前に家を飛び出したとかいう、間桐家の次男。
噂に聞いたときに、うわーすげー根性ある人よねーペラペラー、とか話していた自分が憎たらしい。
(うわ、もう確定だわ……)
もう現実から逃げられない。観念した木本の頭は、急いで回転を始める。
つまり、さっきの台詞を修正すると。
――間桐ひだかです! 臓硯(おじいちゃん)に会いにきました!
「嘘でしょ……」
思わず呟く。と同時に考える。
(この子、どこまで知ってるのかしら? 見た感じ回路も開いてないし、そもそも魔術の存在すら知らないように見えるけど……)
どうしよう。そう思った。
はっきりいって、ここまでくると受付嬢に任された領分を越えている。
魔術に関わってはいないのだから本来なら通すわけにはいかない。記憶消去なり暗示なりかけて、はいさようならである。しかし、これでも間桐の直系の子供であることは間違いないのだから、そんなことを独断でするわけにもいかない。
「……ちょっと待っててね。連絡とるから」
もう私知らね。
とっとと目上の人間に押しつけてしまおうと決意した木本は、電話を手に取り、ある番号を打ち込む。
幸いというかなんというか、相手はすぐに出た。
『鶴野(びゃくや)だ……』
相変わらず陰気くさい声だった。そしてどことなく呂律が回り切っていない。また酒を飲んでいるらしかった。
とはいえ、軽蔑する気にもなれなかった。そもそもあの館が陰気で仕方ない。おまけに間桐臓硯と一つ屋根の下など、考えるだけでぞっとする。
そんな諸々の同情と憐れみから、木本は自分にできる最大限の優しさを声に込める。
「はい、鶴野様。あのですね、少々、変わったお客様がいらっしゃいまして」
『変わった客? そんなのそっちで――』
「雁夜様のご子息が、臓硯様に会いたいと仰せでして……」
『……は?』
電話の向こうで、相手の硬直する様子が伝わってきた。
当然である。木本はなにも疑問に思わない。自分もつい先程まで硬直していた身なのだから。
さて、どう説明したものかな、と思っていると、
『あっ……おじ』
と言ったきり、鶴野の声が遠くなった。なにやら揉め事が起こったらしい。
「鶴野様? どうかなさいましたか?」
――もう面倒だわ本当。
本音と言葉を正反対にしつつ安否を問うと、
『心配いらん。電話は変わったぞ』
聞くだけで背筋に寒気が忍び寄るような、しゃがれた声が返ってきた。
間違いない、この声は――
「ぞ、臓硯様!?」
『こちらから迎えをよこす。飛鷹――そこの小童を、それまで逃がすな』
「は、はい。承知いたしました……」
『もし逃がした場合、その責任はおぬしに問うとしよう。心せよ』
「はいぃっ!」
もはや涙目になった木本の耳元で、電話の切れる音が響いた。
放心状態に陥りながらも、なんとか気力を振り絞って、電話を定位置に戻す。
戻した瞬間、腰が抜けて座り込んでしまった。
「……今日は厄日だわ」
誰にいうでもなく、呟く。
あの臓硯が、迎えをよこすと。しかも逃がすなと明言したのだ。おまけに、その責任は自分にあると。
(この子には悪いけど、なにがなんでも出すわけにはいかないわね……)
冗談じゃなく自分の命がかかっている。まだ二十一歳の若い身空、木本に自殺願望などない。
できる限り優しい視線、態度、声を作り、完璧な笑顔で少年に話しかける。
「いま、ひだかくんのいうおじいちゃんと連絡がとれたわ。迎えが来るって」
同時に、暗示をかける準備も怠らない。相手は七歳ではあるが、もし逃がしでもしたらと思うと万全を尽くさざるを得なかった。
「ほんとですか? ありがとうございま――」
元気よく少年が礼を言おうとした瞬間、盛大に腹が鳴った。
どうやら誤魔化せたらしい、と木本は思う。
ついでに、時間を稼ぐ方法も見つかった、と。
「……おにぎりでよければ、あげるけど」
「……ありがとうございます」
木本の昼食抜きが確定した瞬間だった。
それでも、ひだか、なる子供の行く末を思うと、同情を禁じ得ない木本であった。