「まだ、かな……」
飛鷹は待つ。待ち続ける。
雁夜は約束を破ったことがなかった。だから今度も破らない。
根拠のないその理論に縋って、飛鷹はひたすら待ち続けた。
日が沈んでも。
夕食の時間になって、約束の時間をすぎても。
眠る時間になっても。
そうして、また朝日が昇っても。
ずっと、ずっと、目を開けて待ち続けた。
第三者から見れば、それは異様な光景であったことは容易に想像がついた。
それでも、ずっと待っていたのは、最後に見た雁夜の顔が並々ならぬ覚悟と悲壮感を漂わせていたからに他ならなかった。
飛鷹は、心のどこかで直感していた。
きっと、このまま見送れば雁夜は無事には帰ってこないと。
それでも――送り出さざるを得なかった。
雁夜が、雁夜であるための最低限の誇りを失わないように。
(行かせなきゃ、よかったのかな……)
いつしかそんなことすら思い出した飛鷹の前で、ドアの鍵が突如として開く。
雁夜が出かけた後に鍵をかけておいたドアの鍵が開いた。
つまり。
「お父さん!」
歓喜とともにドアに飛びつき、ドアノブを捻って開くと――見知らぬ男。
飛鷹の喜びは一気に冷め、同時に湧き上がってきたのは警戒心。
そんな飛鷹の内心を知ってか知らずか、男は挨拶でもするように手を上げた。
「やあ、飛鷹くん。君を迎えにきたよ」
「……だれ?」
そう言いつつも、飛鷹は眼前の見知らぬ男を観察していた。
鍵をかけておいたはずのドアを開けたということは、合鍵を所持しているか、違法な手段で開けたかだ。しかし、あの鍵の開き方はちゃんと鍵を使って開けたときのもの。つまり、この男は合鍵を持っている。
さらに気になるのは、この男が自分の名前を知っていることである。これはつまり、雁夜の知り合いであるということ。
もしくは、雁夜をなんらかの理由で調査していたということも考えられるが、そんなことをする理由が飛鷹には思いつかない。
現状で得られる情報から考えれば、この男は雁夜の知り合いである可能性が高かった。尤も、どのような知り合いかは分からないが。
もしかすると、雁夜に恨みを持った誰か、かもしれないのだ。
「俺は雁夜の個人的な友人だよ。とある施設の院長、まあ、要するにだな……」
そこまで言うと、男は自分の頭を苛立たしげにかき、
「まあ、要するにだ! 雁夜は忙しくて帰ってこれなくなっちまうかもしれないから、俺に飛鷹くんの面倒を見るように頼んで行ったんだ」
それを聞いた飛鷹が思ったことは、たった一つ。
(信用……できるわけないよ)
この男がやってきたのは雁夜の差し金だった場合、なにも言わずに出ていくなど有り得ない。
言葉遣いからして粗暴、訪問の方法からして乱暴、おまけになにも知らせが来ていないとなれば、これはもう間違いなく、眼前の誰かは不審者以外の何者でもないという結論に行きつく。
これが飛鷹でなければ、尚更だ。無理に引っ張っていこうとすれば泣き叫ぶことは火を見るより明らか。かといって見ず知らずの大人に唯唯諾諾とついていく人間はそういない。別な意味で警戒心の強い子供ならば、これまた泣き叫ぶことは必定だ。
そして、この男が本当に雁夜の指示で来ていることの真偽など、飛鷹には確かめようがない。雁夜が電話をかけて呼び寄せたという事実を知る由もないのだ。
飛鷹が子供とはいえ、なにも言い残していかなかった雁夜の、痛恨のミスだった。
「あの、お父さんはどんな用事で出て行ったんですか?」
「は? あー、それは、だな……まあ、子供は気にするな。大人の事情ってやつだ」
大人の事情、大人の事情、大人の事情。
またそれか。またそれなのか。
いつまでも子供扱いされることに対する憤り、事ここに至っても何一つ明かそうとしない身勝手さ。
どれを取っても、飛鷹の地雷を踏みぬくには十分な理由だった。
「……そう、ですか」
――もう、いいや。
飛鷹は、キレた。
ただし表面上はいたって冷静に。
そして、今のやりとりで、はっきりした。
(こいつは、悪い人だ。お父さんに頼まれて来たなら、なんでお父さんが帰ってこないのか、その理由くらい知っていて当たり前だよ。なのに知らないってことは……)
雁夜の不在を狙って、その息子である自分をどこかに連れ去ろうとしている。
飛鷹はそう断定して、その場合、どうするべきかを考え始める。
(出ていく直前に、おじいちゃんに会いにいくみたいなこと言ってたし……。多分、おじいちゃんのところにいる。もしいなくても、おじいちゃんならお父さんの手掛かりを持ってるかも!)
こうして、目的地は雁夜の実家に決定される。
それがある意味では地獄の釜の中へ向かうことと同義であるなどとは、夢にも思わない。
「で、だ。これから俺の車に乗って、ちょっと遠くに行かなきゃならない。そこで待ってれば、いつか雁夜――お父さんと会える。分かるか?」
「はい」
精神には極熱を秘め、心の中には灼熱を隠し、しかし応対は淀みなくすませながら、頭の中では必要な物品をリストアップする。
この動きを相手に悟らせないところに、飛鷹の異常性、その真の厄介さがあるともいえる。
「そいつは重畳……つっても意味分かんねえか。まあ、とりあえず車に乗ってくれりゃあいい」
「分かりました。準備するからしばらく待ってください」
「お、おお。んじゃ、俺は外で待ってる」
十中八九、飛鷹の大人しすぎる反応に戸惑いながらも、男は家の外に出た。当然だ。こんな不気味な子供と一緒の部屋にいたくはない。なんだか気まずい思いをすること請け合いである。
まあ、それが飛鷹の狙いだったのだが。
ドアが完全に閉まったのを確認すると、飛鷹は念のために内側から鍵とチェーンロックをかけ、準備を始める。鍵を二重に閉め直すという不自然な行為をあえてしたのは、相手はなかなか短気そうだったので、しびれをきらして途中で入られては困るという恐れからだ。
「じゃ、やっちゃおっと」
呟いた飛鷹は、一切の無駄なく準備を開始する。
豚の貯金箱を割って交通費を確保し、
雁夜と自分の保険証を持って身分証明書を用意し、
冬木市内の地図を入れて目的地への道のりを調査し、
いざというときのために、遠坂家の電話番号をメモ用紙に書いてポケットに忍ばせ、
それら全てをリュックサックに放り込み、背負って、飛鷹は立ちあがった。
こうして、一切の無駄なく準備を終えた。
(あとは……)
ちらりとドアに視線をやる。
おそらく、あの短気そうな男は苛立ち紛れに待っている頃である。
しかし、もう少し待っていてもらわなければ困る。
「すいませーん! もうちょっとで終わりますから、待っててくださーい!」
「……おう! なるべく、手早くな!」
「はーい! ……単純だなぁ」
呆れ混じりに失笑し、飛鷹は窓を開けた。
ここの窓は小さい。しかし、飛鷹ならばなんとか通り抜けられるだけの幅はあった。
しかも、この部屋は一階に位置している。窓は脱出経路として、なんの問題もなかった。
まずリュックサックを外に押し出し、次に自分の体を足から入れる。
「よいしょ、よい、っしょっと」
掛け声と共に着地する。
以前より少し成長したせいか、ややつっかえてしまったが、問題なく通り抜けることに成功した。
そしてそのまま、一目散に駆け出す。
目指すは、冬木駅のタクシー乗り場。
「おい……おい!?」
アパートの前で声が響いたのは、飛鷹が遠く離れた後だった。
以下、蛇足の解説。
迎えにきたのは守さんですが、彼があんな乱暴な対応取ったのは、ぶっちゃけ焦ってるからです。
なんだかんだ言って雁夜が危険とあらば様子の一つくらい見に行く程度の友情は持ち合わせてますから、飛鷹はさっさと処理して雁夜と連絡取りたいというのが正直なところです。
あとは、雁夜がなにも言わずに飛鷹を置いていくとは守も思っていませんでしたから、「なにやってんの雁夜、誰か迎えにくるぐらい言っとけや」みたいな部分もあったり。
ついでにもう一つ言うなら、彼は徹夜で連絡待ちした挙句、朝っぱらから初対面の子供を保護するために、聖杯戦争が間近に迫った冬木に行くという心臓ドキドキ嫌な予感バクバクなことをやらされて、少々お冠です。
とまあ、そんな複雑な心情があったり。