冬木市内、遠坂邸から車で二十分ほどの場所に位置している、1LDK風呂付きの安アパート。
それが、雁夜と飛鷹の家である。
タクシーが到着し、飛鷹は荷物を持って後部座席から飛び降りた。久しぶりの家が待ち遠しいのだ。
対照的に、雁夜は険しい顔のまま自分のトランクを持ってタクシーを降り、アパートの鍵を開ける。
開いたドアの先には、少し埃っぽい空気で満ちた、狭い部屋があった。
「ただいまー」
「……ただいま」
歓声でも上げそうな勢いで靴を脱ぎ、荷物を持って部屋の中に入った飛鷹とは対照的に、雁夜はトランクを持ったまま玄関で佇んでいた。その顔は、苦悩と葛藤に彩られている。
そして雁夜は、玄関に腰を下ろす。相変わらず顔を負の感情で満たしながら。
まだまだ元気な飛鷹とは対照的に、雁夜はどこか疲れて見えた。
「お父さん、どうしたの?」
飛鷹も気づいて心配そうに声をかけるが、なんの反応もない。
その深刻そうな顔に、それ以上声をかけるのが躊躇われて飛鷹は黙り込む。
が、もう一度。
「ねえ、お父さん、大丈夫? さっきから、ずっと顔色悪いよ」
「……ああ、流石に疲れたんだ……アメリカから休みなしだったから」
「じゃあ、肩叩きしてあげる!」
反応があったことにほっとした飛鷹は、そう言って素早く靴を脱いで部屋に上がると、雁夜の背中をぽこぽこと叩き始めた。
我ながら、決して強い力ではないと思う。未成熟な子供の体でどれほど頑張って肩を叩いても、マッサージ効果など高が知れている。
「ああ、凄く気持ちいい。ありがとう、飛鷹」
だというのに、雁夜は引きつった笑いを浮かべて飛鷹を褒めた。
うそつき、と飛鷹は思う。雁夜が二つ嘘をついていたから。
こんな弱い力で叩かれたって、出張で疲れている体に効くはずがないし。
疲れた様子だったのは、出張のせいだけではない。
(出張のせいだったら、もっと前から疲れた顔しててもいいし……いまのお父さん、疲れたっていうよりは、なにかショックなことがあったときの感じだもんね)
生まれてからずっと一緒にいた家族のことが分からないほど、飛鷹の“大人”は弱くない。親の気持ちが分からないほど、飛鷹の“子供”は弱くない。
(お墓にいたときは、動くのがしんどそうなだけだった。この顔になったのは、ぼくをお家に降ろしてから。タクシーの中で、なにか嫌なことを思い出したんだ。それか、気付いた。うぅん、なんだろ?)
暫し頭を悩ませた飛鷹だったが、答えは出ない。“大人”の思考力があっても、“子供”の直感を持っていても、なんの手がかりもなければどうしようもない。その在り方は人間として異常ではあるが、決して全知全能ではないのだ。
もしも、雁夜が魔術や聖杯戦争についての知識を、僅かでも飛鷹に与えていれば、あるいは真実に近づけたかもしれない。
しかし、飛鷹は魔術を知らなかった。聖杯を巡る争いについて、その存在すら知らなかった。雁夜はなぜ実家を捨てたのか、母親はどんな人だったのかを詳しく教えてもらえないのを不審に思ったこともあったが、常識的に考えても、そういった類の話はあまり軽々しくするものではない。“大人”の観点から見て、雁夜の口が重いのは、あくまで納得できる範囲の拒絶だった。
やがて飛鷹は、肩を叩いていた手を止める。
「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「お父さん、どうしたの?」
大好きな父親が自分を頼ってくれない、自分になにも話してくれない――それが飛鷹には、遠坂の家で過ごすよりも寂しく、辛いことだった。
ゆえに、飛鷹は決断する。
正直に聞こうと、決める。
「……どうした、って……お父さんは別に、どうもしてないよ?」
「うそだよ。ずっと顔色悪いし、疲れた顔じゃないもん。嫌なことあったんでしょ? なにか、すごく嫌なこと思い出したんでしょ?」
飛鷹は一歩も引かない心積もりでいた。
大事に思うからこそ、自分からは引けない。
なにもかもを共有する、自分の命よりも重い存在。
それが、飛鷹にとっての家族だった。
雁夜は咄嗟に答えられず、困ったように微笑んで――その口を、ゆっくりと開いた。
「……お父さんは、悩んでるんだよ」
「なにを?」
「ある人が、悲しむかもしれない。でも、本当に悲しむと決まったわけじゃないんだ」
「……それで?」
促すと、雁夜は少し逡巡して、それでも続きを語る。
「うん。その人が本当に悲しむようなことなのか、お父さんのお父さんに、聞きにいこうかな、って悩んでる。」
「お父さんのお父さん……おじいちゃん?」
「うん。そのおじいちゃんに、聞けば分かるんだ。でも……」
暑い季節でもないというのに雁夜の額には汗が滲み、その手はなにかに耐えるように、きつく握り締められていた。
これはただ事ではない、と飛鷹はさらに注意を高める。
いまの飛鷹は、はっきりと“大人”にシフトしつつあった。
「一度聞いてしまえば、もう後戻りできない。お父さんは、おじいちゃんと仲が悪いしね。そういう人に頼るのは、あまりいいことじゃなんだ」
「そういうものなの?」
「そういうものなんだ。――これは大人の事情ってやつだから、飛鷹は気にしなくてもいいんだよ。お父さんがなんとかするから」
「そっか」
ここが引き際とみた飛鷹は、短く会話を終わらせる。
しかし、相変わらず、雁夜は道に迷った人のようで、見るに堪えないほど悩んでいた。
飛鷹は、それも嫌だった。
自分も、なにか役に立ちたかった。
でなければ、なんのための家族だというのか。
「お父さん」
「ん?」
飛鷹には、雁夜の悩みがどんなものか知る由もない。
それでも――父親には笑っていてほしい。
だから、“大人”としては余計な言葉を、あえて投げる。
「お父さんには、自分のしたいことをしてほしいな」
「……え?」
言葉を失った雁夜に、飛鷹はさらに続ける。
「よく分かんないけど、ここでなにもしなかったら、お父さんずっとその顔のままの気がする。お父さんは、いつもカッコよくて、自分の信じたことを貫く人でしょ? だから、思うようにしたらいいよ」
「飛鷹、お前」
「そうじゃないと、ぼくも息子の面目が立たないもん」
なにか言いかけた雁夜を制するように、最後の言葉を結ぶ。
普通なら、七歳児がなにを偉そうに、と思うだろう。
しかし、雁夜なら受け取ってくれる。色眼鏡なしに、自分の言葉を考えてくれる。飛鷹はそう信じていた。
そして、雁夜の表情は決然としたものになって、その信頼は裏付けられる。
「……飛鷹。お父さん、もうちょっとだけ出かけなきゃならないんだ。ここでお留守番、できるかい?」
――やだ――
(うるさい)
自然に浮かんできた“子供”の欲求に無理やり蓋をして、飛鷹は問い返す。
「え? また、どこか行っちゃうの?」
「いや、今度の用事はすぐ終わるよ。今日中には帰ってくる。晩御飯までには帰ってくる。だから、ここでお留守番しておいてほしいんだ」
「えー……」
飛鷹は不満げに唸った。
久しぶりに大好きな父といられるというのに、またすぐに別れるなど、普段の飛鷹からすれば考えられない。文句の一つも出るのは当然である。
ただし、この場面での飛鷹は違う。
自分が少し我儘をいうことで、どれほどの事情なのかを、さりげなく探ろうとしているのだ。
もちろん、“子供”が不満を覚えているのも事実だが。
「頼むよ。どうしても行かなきゃならないんだ。カッコいいお父さんでいるためにも、ね」
雁夜は申し訳なさそうな顔をしつつも、妥協する素振りを見せない。
飛鷹は知っている。こういう顔をしたときの雁夜は、なにがあろうと諦めないということを。それだけ大事ななにかがあるから、雁夜はこうして飛鷹に断っている。
ならば、それを応援して送り出すのも自分の役目である。
「……晩御飯まで?」
“子供”と“大人”が葛藤し、結局、飛鷹は笑えずに、むすっとした顔で問いかける。
自分でけしかけておいてこれでは、我ながら矛盾していると思いつつも、どうしようもなかった。
「晩御飯まで」
「絶対?」
「絶対」
飛鷹は、“子供”の自分が恥ずかしかった。
雁夜が、父が、ここまで言い張ったことは滅多にない。それを素直に送り出すくらいのことが、どうしてできないのか。
「……じゃあ、いってらっしゃい」
「行ってきます。――飛鷹、大好きだよ」
一度だけ、ぎゅっと飛鷹の小さな体を抱きしめ、雁夜は背を向けて走り出す。
飛鷹は、その温かさを逃がさないように、少しの間だけでも寂しさが紛れるように、自分の体を自分で抱きしめる。
それを嘲笑うように、音を立てて閉まったドアが、雁夜の姿を消した。
◇◆◇◆
タクシーを携帯で呼んだ雁夜は、到着するまでにもう一つ、電話をかけていた。
『なにを言い出すかと思ったら……ふざけてんのか?』
「ふざけてなんかいないさ、守。もし、俺が朝になっても連絡を寄こさなかった場合――」
電話の相手は、雁夜の個人的な友人である。
名を小竹守というその友人は、児童養護施設――いわゆる、孤児院の院長だった。
出自こそ真っ当なものではないが、子供を辛い目に合わせるような孤児院ではない。いたって普通の施設だ。
「――俺の家に行って、飛鷹を保護してくれ。」
これは雁夜からすれば当然の措置だった。
なにせ、いまから赴く場所は、悪という表現すら生ぬるい、唾棄すべき魔術師のねぐらである。生きて出られる保証はどこにもない。
無論、飛鷹を置いて死ぬつもりは毛頭なかったが、万一の事態に備えないのは愚か者のやることだと、雁夜は考える。
幸い、守の孤児院は冬木市外どころか県外に位置している。冬木市しか行動範囲にできていないほど衰弱したいまの臓硯ならば、それだけで十分な避難措置になるはずだった。
なにより――守は、魔術の世界を知っている。
雁夜とは違い、才能が劣るために一般人として育てられた結果、いまの孤児院の院長に収まったのだが。
「いいか、俺の兄や親類、友人を名乗る人間がきても、絶対に引き渡すな。顔も合わせるな。もしも俺が生きていたら、なにがあっても迎えに行く。だから頼む」
『悪い冗談にしか聞こえねえが、どうやらマジな話だな……。魔術絡みか?』
「そんなとこだ。いまから、父親と感動のご対面だよ。穏やかに済むとは思えない」
むしろ、悪い冗談であったなら、と雁夜も思うくらいである。
「間桐は言うまでもなく、結城も遠坂も信用するな。遠坂葵という人が迎えにきた場合だけ、飛鷹と話をさせてくれ」
『……あいよ。お前さんが無駄に死ぬとも思えねえが、受けてやる』
「すまない。じゃあな」
返事も聞かず、電話を切る。それしきのことで怒る相手でもないし、それほど浅い関係でもない。飛鷹の回路を調べたのも小竹の家の当主である。守には、それだけの信用を置いていた。
これで、飛鷹の命だけはなにがあっても守れる。そう思うと、雁夜は少しだけ気が楽になった。
と同時に、気を引き締める。
(息子に励まされるなんて、父親失格だな……)
自嘲して、それでも息子の激励を思い出して頬を緩ませながら、雁夜は表情を劇的に変化させていく。
父親のものではなく、一人の男のものに。
(臓硯……なにもかも、お前の思い通りになるなんて思うなよ)
雁夜は自らの因縁と対峙する。この世でたった二人だけ、自分の命よりも重い存在が笑っていてくれるために。
そして、決意する。
(なにがあっても、絶対に生きて帰らなきゃなぁ……)
助け、同時に生き残るための戦い。その幕が、開いた。
雁夜は、魔物の棲む街――深山町へと、赴く。
飛鷹は知らない。自分は、父親を魔窟へと後押ししてしまったことを。
飛鷹は知らない。雁夜の悩みとは、他ならぬ自分の初恋の少女の命が関わっていることを。
そして、飛鷹はおろか雁夜も知らない。飛鷹の運命が、この日をきっかけに魔術と交差することを。
そして、朝。
「やあ、飛鷹くん。迎えに来たよ」
「……だれ?」
結局、雁夜は帰ってこなかった。