雁夜が日本に帰国し、こちらに向かっているという知らせを飛鷹が受けたのは、朝食が終わった直後だった。
「えっと、忘れ物はなし。この服は葵さんに返して……」
帰る準備をする飛鷹は、やや浮足立っていた。
雁夜が海外出張に出かけていた期間は約二週間。その間ずっと遠坂家に世話になっていたのだ。
普通、七歳の子供が他人の家で二週間も過ごすというのはストレスの元だ。飛鷹の大人の部分は雁夜の出張に納得し、また余所の子供を二週間も預かる遠坂家の懐の広さに感謝していた。だが、子供の部分はずっと雁夜の帰りを待っていた。
その父親が帰ってくるというのだ。浮足立たないわけがない。
「お母さん。お父さん帰ってくるよ。今度行く場所は危ないって聞いてたから、ぼく心配してたけど、無事で帰ってきたってさ」
飛鷹が話しかけているのは、人ではなかった。
普段は服に隠れているが、首から下がったロケット。その中には、黒い髪をポニーテールにした女性が、むすっとした顔の雁夜と、おそらくは無理やりに腕を組んだ写真が収められていた。
冬木市内でこの女性と面識があるのは、おそらく飛鷹と雁夜のみである。
そこで、ノックの音が来客を知らせる。一声かけると、入ってきたのは葵だった。
「飛鷹くん。雁夜くんがもうすぐ来るから、庭でお出迎えしましょう」
「はい! ……じゃあ帰ろっか、お母さん」
飛鷹はロケットを閉じ、服の中にしまいこむと、荷物を持って葵の後についていった。
遠坂家、中庭。
タクシーから降りた雁夜は、飛鷹を一目見るなり足を動かし笑顔で叫ぶ。
「飛鷹!」
「お父さん!」
飛鷹は、自分に向かって駆け寄ってくる男を見て歓声を上げる。
そして自分もまた走り寄り、思い切り抱きついた。
雁夜も飛鷹を抱きかえすと、その体が僅かに浮き、爪先立ちになる。
「ごめんな、ずっと待たせて」
「いいよ。それより、怪我とかない?」
「お父さんは大丈夫。それより飛鷹、熱を出して寝込んだって聞いたぞ。もう大丈夫なのか?」
自分を降ろし、体を離して心配そうに見つめる雁夜に、飛鷹は満面の笑みで頷く。
「うん、もう元気だよ。遠坂さんたちがお世話してくれたから」
「そうか……。葵さん、それに時臣。本当にありがとう」
「ありがとうございました!」
頭を下げる雁夜と、それに追従してお辞儀をする飛鷹。
その光景を、葵は微笑ましそうに見つめている。
時臣はいつもの理知的な無表情を崩さない。
が、凛と桜はきょとんとした表情。彼女たちからすれば、飛鷹が子供らしい面を見せるのは珍しいことだったからだ。
もちろん飛鷹は、同年代の子供たちに比べて格段に落ちついている。だが前述したように、その心の半分は、あくまで子供のものである。
離れ離れになっていた父親が帰ってくれば素直に嬉しく思い、その体に抱きついて甘えることを恥ずかしいとは思わない。
凛にからかわれたりすれば、大人の片鱗を見せて反撃する可能性もあるが。
「特に葵さん。飛鷹の看病をずっとしてくれて、ありがとう」
「いいのよ、雁夜くん。また遊びにきてほしいくらいだわ。でも――」
言い淀んだ葵の言葉を、一歩進み出た時臣が補足する。
「ああ、時期も時期だ。例の件が終わるまで、あまりこの家には近寄らないほうがいい。君は一介の記者にすぎないのだからね」
「……言われるまでもないさ。だが」
雁夜もまた進み出て、時臣と葵にだけ聞こえるよう声をひそめる。
「葵さんと凛ちゃん、それに桜ちゃんはどうするつもりだ? この家に置いておくというわけにもいかないだろう」
「君に関係のあることか? これは魔術師の問題だ」
挑発的とも取れる時臣のセリフに雁夜は眉を動かし、葵は二人の間に流れ出した険悪な空気を察して止めるべきかを悩む。
が、雁夜は何事もなかったかのように肩をすくめた。
「大いにある。大事な友人である幼馴染と、飛鷹の友達の安否にかかわることだ」
「ふむ……」
時臣は顎に手をやり、髭をしごきながら暫し考える様子を見せた。
そしてさらに一歩、雁夜の耳元に口を寄せて囁いた。
「どこかは言えないが、安全な場所に避難させる」
「そうか。なら、いいさ」
時臣が殊更に声を小さくして言った情報を聞き、雁夜は体ごと引き下がる。秘密というのは誰かと共有した時点で秘密ではない。ルポライターである雁夜には、そのあたりの機微が理解しやすかった。ゆえに、時臣の立場から家族の安全を考えた場合、この情報制限は妥当な判断だと認めたのだ。
そもそも、自分は部外者だと弁えていたというのもあるが。
そのまま雁夜は時臣と目を合わせる。
「いいか時臣。俺は魔術師じゃないし、聖杯にも興味はない。だからお前の応援なんてしてやらない。だけどな――」
そして、思い切り睨みをきかせ、ドスの利いた声で続けた。
「葵さんや凛ちゃんや桜ちゃんを遺して、無駄に死んでみろ。ただじゃおかないからな」
「ふむ……。君に言われる筋合いもないが、安心したまえ。私が負けることは有り得ないからね」
「死んだら、お前の墓の前で大笑いしてやるからな」
「雁夜。君こそ流れ弾で死なないように気を付けたまえ。葵が悲しむからね」
「ぬかせ、時臣。――生き延びろよ。みっともなくてもいい、絶対に生きて帰れ」
そこまで言うと、雁夜はすっと身を引いた。
「さあ飛鷹。帰ろうか」
「うん。じゃあまたね。桜ちゃん、凛」
「うん。ばいばい、ヒダカくん」
飛鷹が手を振ると、桜は笑顔で手を振り返し、凛は不機嫌そうに頬をむくれさせた。まるでリスのようである。
「……なんで私だけ呼び捨てなのよ」
「だって、凛は可愛いけど女の子っぽくないもん」
「うっ……なんか腹たつけど、誉められてるから怒り辛いわね……」
「ごめんごめん。またね、凛」
「もういいわよ……またね、ヒダカ」
凛も結局は、どこか投げやりに手を振る。
「おじさん、おばさん、今日まで本当にありがとうございました」
「構わないわ。またね、飛鷹くん」
「前には気をつけて歩くように」
葵と時臣にもそれぞれ別れを告げ、その返答をもらう。
最後の言葉には少し恥ずかしさを覚えながら、飛鷹は雁夜と手を握った。
「じゃあ帰ろう、お父さん。お家の掃除もしないと」
「そうだな。飛鷹みたいにしっかりした子供がいて、俺は幸せ者だ!」
雁夜が、高い高いをするように飛鷹を持ち上げた。
「お、お父さん、降ろしてよ!」
「あっははははは! さ、行くぞ飛鷹! またね、葵さん、凛ちゃん、桜ちゃん」
「ちちょ、ちょっと……あ! さよーなら! 桜ちゃん、また遊びにくるから一緒に遊ぼうね!」
飛鷹を担いだまま、意図的に時臣の名前を呼ばずに去っていく雁夜。
雁夜に担がれたまま、急いで最後の別れを告げる飛鷹。
こうして珍客は遠坂家から去って行った。
飛鷹の最後の言葉を聞いた途端、遠坂家に、やや重苦しい空気が漂ったことにも気付かずに。
誰もが死んだように黙り込む中、やがて桜が小さな手をぎゅっと握りしめ、
「……ごめんね、ヒダカくん……」
そう、寂しげに呟いた。
◇◆◇◆
「今から、どこ行くの?」
「そうだな……お母さんにただいまを言いにいってから、帰ろうか。すいません、冬木霊園まで」
タクシーの運転手が了解して車を出すと、遠坂家の門はみるみる遠ざかり、あっという間に視界から消えた。
「飛鷹、桜ちゃんと凛ちゃんに遊んでもらったのか?」
「違うよ! 遊んであげたの!」
「そっか、飛鷹兄ちゃんは偉いな」
「えへへ……」
褒められて照れ笑いをする飛鷹に、雁夜は何気なく質問をする。
「で、どっちが好きなんだ?」
「えっとねー……えっ!?」
雁夜の質問に同じく何気なく答えようとした飛鷹は、大人の知性ゆえにどのような質問化を正確に理解し、顔を真っ赤にした。
雁夜からすれば軽い冗談だったのだが、こういう反応を示されるとからかいたくなるのは人の性である。意地悪い笑みを浮かべ、さらに追撃をかける。
「だからさ、凛ちゃんと、桜ちゃん。どっちが好きなんだ?」
「え、えええええええっと、べ、別にどっちも好きじゃなくて! ただの友達だから!」
動揺のあまり日本語が怪しくなっていた。
できた大人ならばポーカーフェイスで誤魔化すだろうし、ただの七歳児なら恋愛の意味を理解できない。中途半端な飛鷹だからこその事態だと言える。
「うーん、そうだな。お父さんの勘だと……」
「え、あ、う……」
もはや口を開閉するしかない飛鷹の目前で、雁夜がその名を言う。
「凛ちゃんだな!」
「え? ……あっ!」
予想とは違う答えに思わず聞き返した飛鷹は、次の瞬間、これが雁夜の罠だったことを理解した。
「ふっふっふ。そうかそうか、飛鷹は桜ちゃんのことが好きなのか。いやーお父さん知らなかったなー」
「お、お父さん! ひどいよ!」
「まあまあ。桜ちゃんをお嫁さんにしたいなら、そんな小さなことで拗ねてちゃ駄目だぞ」
「お、お嫁さん!? だから、そんなんじゃ、なく、て……」
恥ずかしさのあまり、言葉が尻すぼみになって消えていく。
飛鷹からすれば、これは初恋である。といっても、桜の笑顔が見ていて楽しいとか、話していると楽しいとか、桜の前だとついつい照れながら笑ってしまうことが多いとか、そんなレベルではあるが。
――要するに、幼いなりにベタ惚れなのだった。
黙り込んでしまった飛鷹を見て、雁夜は自分のことを思い返す。
葵のことが好きで、愛していたのに、結ばれなかった。
やり直したいとは思わない。その結果、最愛の息子がこの世に生を受けたのだから。
しかし一片の後悔、一欠けらの未練、そして今もまだ燃え続ける愛情があるのも、また事実だった。
そんなやり切れない思いを、飛鷹にしてほしくはなかった。
葵の娘と自分の息子が幼馴染となっているいまの状況が、自分に被ったというのもある。
「よーし、お父さんが好きな女の子と仲良くなる方法を教えてやろう!」
「そ、そんなのいいから! もうほっといてよ!」
怒り出してしまった飛鷹を微笑ましく思いながら、雁夜は二つのことを考えていた。
――この子には、好きな人と結ばれてほしい。親子そろって報われないなんて結末はいらない。
――だが、桜ちゃん以外の、魔術回路を持たない普通の子を好きになってほしい。
自分の父を名乗る妖怪の、虫唾が走る顔を思い浮かべながら、雁夜は切に願った。