「お父さん、なに?」
夜、いつもなら寝る時刻に呼び出された桜は、不思議そうに私に問いかけた。
その姿も仕草も、我が娘ながら可憐だ。
そして、その娘を魔術師の道に従って処することに、若干の抵抗を覚えてしまう。
目を瞑れば、脳裏に浮かぶのは凛と桜の遊ぶ姿。眠る姿。そして傍にある葵。
あの景色から桜がいなくなれば、さぞ寂しいことだろうな……。
「桜。今から私が言うことを、よく聞きなさい」
だが、私は意を決して桜に語りかける。
この子に与えられた魔術の才能は、あまりにも大きすぎる。
四十本を超える魔術回路の数と、生まれ持つ属性、架空元素・虚数。最愛の娘に与えられるには少しばかり過ぎた代物だった。これほどの宝が捨て置かれるはずもない。一般人として生きることは望めない。だが、跡継ぎは一人でいい――否、一人でなければならない。エーデルフェルトの双子当主のような例は稀有だ。二つの頭を持った家は滅びていくしかない。
さらに言うならば、人の命を実験材料としてしか見ていない者たちから桜を守るためには……たとえば魔術教会の封印指定から守るには……魔道の保護が不可欠だ。
それ程の才能を持つ桜が、魔術を捨て一般人として生きる――これ以上の不幸はない。
どの観点から見ても、今回の選択は桜にとっての最善だ。
「桜には養子に行ってもらう。間桐の下で、立派な魔術師として修業を積むんだ」
「ようし?」
「間桐さんの家の子になる、ということだ」
「え……?」
眼前の桜は戸惑いと、それに恐怖を隠そうともしない。当然だ、この子はまだ五歳なのだから。
心が痛まないではない。だが、子供の将来の幸せのために心を鬼にするのもまた、親の務めだ。
――目の前の桜はどうだ。その目には涙が浮かび、足が震えている。これが父親として正しい行為なのか?
……そして、このような私情は抜きに利害と信頼、古き盟約を守るのが、魔術師の家の当主としてあるべき姿だ。
心中に湧き上がった声を、私は容赦なく圧殺した。
父親としての私が消え、当主にして魔術師たる遠坂時臣が表に出る。
「わたし、捨てられちゃうの……?」
「そうではない。間桐さんの家できちんと修業して、良い子にしていれば、また会える。きっと会える。ただ、今は向こうにいることが、桜にとってはいいことなんだ」
私の懸念は、もう一つあった。
長女である凛には桜に劣らぬ天才性がある。それは素晴らしいことだ。だが、これほどの天才が並び立つ家は不幸にしかならない。それは歴史が証明している。そうして消えていった家は、時計塔の書物に数限りなく眠る話の一つとして、存在の名残を微かに漂わせるのみだ。
私は、遠坂家の当主として、それを防がなければならない。
近い将来、凛と桜が血で血を洗う家督争いを引き起こさぬと、どうして言えようか。
今は幼さから仲よくしていたとしても、これから先、決定的な亀裂を招かぬと、どうして言えようか。
私は、父親としても、それを見たくない。
遠坂の悲願が達成されるためには、娘たちのどちらにも栄光がもたらされるようするには、こうするしかない。
「約束だ、桜。いつかまた、凛と葵と、一緒に過ごせる日が来る。だから、あまり私を困らせないでくれ」
「…………はい」
やや強い視線で桜を見ると、桜は涙を浮かべながら、それでも健気に頷いた。
桜が退出した後、私は椅子に座って大きく息をついた。
年端もいかない娘にあのような話題を持ち出すのは、やはり堪えるものがある。
だがこれでいい。
今回の話は間桐から申し込んできたことでもある。貸しを一つ作ると同時に、間桐との盟約を再確認するいい機会になるだろう。
あの間桐臓硯を信用しているわけではない。だが、あの男が有能であり狡猾なのもまた事実だ。間桐の血から魔術が絶えかねない現状で、これほどの逸材を潰すような浪費はしないはずだ。
しかし万が一、そのような事態に陥った時――私はどうするのだろうか。
自問しても答えは出ない。
(私は正しい。そうだろう、雁夜)
なぜ雁夜の名を出したのかは、自分でも分からない。
そうしてしばらく物思いに耽っていると、背後から足音が聞こえた。
ちらりと目をやり、誰かを確認するとまた逸らす。
その顔を、今だけは見たくなかった。
「……今日は冷えますから」
そういって私の背中に布をかけたのは、妻の葵だった。
柔らかな布が冷気を少し和らげる。
この気遣いは、古き良き貞淑な妻の手本のようだ。
しかし――この気遣いの裏で、葵はどれほどの涙を飲んでいるのだろう。
断腸の思いで桜を養子にやった後、この家に幸せはあるのか。
愛する妻に、凛に、桜に、そして私にすら、その悲しみと罪悪感は残り続ける。
これが本当に最善なのか?
「葵。私は」
私は魔術師として正しいことをした。
私は親として桜のことを思ってそうする。
今回の決断はそのどちらをも満たす。どこにも矛盾はない。
だというのに、
「私は、間違っているのだろうか」
桜の涙が、どうしても瞼の裏から離れない。
桜に聞きはしたものの、その前から既に決断し、決定したことだ。間桐も合意している以上、今になって断ることはできない。なにもかも取り返しのつかない段階まで進行しつつある……いや、してしまったのだ。私が遠坂家よりも桜を尊ばない限りは、の話だが。
なぜ私は、こんな無駄なことを聞いているのか。
自分でもわからず、それでも葵の答えが聞きたかった。
「私は遠坂葵。遠坂家当主、遠坂時臣の妻です。その決断の正しさを疑いはしません。間桐にとっても遠坂にとっても、これが最良です」
即答だった。
流れるような、模範的な魔術師の妻としての答え。
「葵、私が聞きたいのはそういうことではないよ。そう、間桐雁夜が取るだろう選択肢と、私が取った選択肢と、どちらが正しいと思っているのか……それが聞きたい」
間桐雁夜の名前は、先程と同じく自然に浮かんできた。
あの落伍者、間桐雁夜ならばどうするか? 決まっている、養子になど出すはずがない。
たとえあの男が間桐の魔術を継いでいようとも、飛鷹くんとは別に子を設けていようとも、その子を養子に出すことはないだろう。それが魔術師の家としては間違った判断であったとしても。
私は決してそれを正しいとは思わない。
思わないが、ふと思う。
私が間桐雁夜のような男だったなら、はたしてどうなっていたのかと。
正しいことが、幸せであることを招くわけではないのだから。
「正しいのは、貴方です」
またも即答した葵は、そこで暫し逡巡し、
「……貴方も、雁夜くんと同じくらいの優しさを持っている。ただ、それを秘めているだけ。だから……そんなに心を痛めないでください」
そう言って私の手を握った。
温かい。
冷え切った私の手には、とても心地よい。
「貴方が桜のことを心苦しく思うなら、これを自分の罪だと思うなら、私も一緒に背負います」
葵の言葉と瞳には、今までにない真摯さと力強さがあった。
この全てが、いま私に注がれている。それだけで心が軽くなる。
「時臣さん。貴方を、愛しています。」
「……ああ。私もだ、葵」
答えて葵の手を握り返す。
私たちは少しの間、互いの手を握り合って動かなかった。