地の獄と書いて、地獄。
生前に罪を犯した者が裁かれ、叩き落とされる、硫黄と火で満ちた空間。
少なくとも聖堂教会は、そう定義している
しかし、魔術師から言わせれば阿呆極まりない考え方である。
ステレオタイプな死後の世界など存在しないことは、既に学問的事実として立証されている。死後の魂がどこに行くのかさえ解き明かされた現代の魔術師にとって、地獄とはすなわち、この世のものに他ならないのである。
なぜなら、魔術師こそが最も地獄に近い存在であるが故に。
人の血を吸い、肉を喰らい、ネズミ算式に下僕を増やす、ヒトならざる化け物。
根源という一つの目的のために、それ以外の全てを捨てる人非人。
教義のためなら教祖を殺す、血も涙もない悪魔殺し共。
こんな悪夢を間近に見続けていながら、この世が楽園だと思えるならば、それはある種の異常者だと言えるだろう。
そして――己が命のために、他の人類全てを犠牲にしても構わないという精神の持ち主もまた、地獄を形作る感性と資格を持っているのだ。
ただ苦しめるだけではない。人を縛り付け、やがて日の光の記憶すら失うまで心を責め抜く、この世の掃き溜め。
飛鷹にとっての地獄の定義が、それに変わったのは、つい二週間前のこと。
間桐邸の最北、日の光の最も遠い場所。
そこにひとつの部屋がある。
使用人も、間桐の血族も、人間は誰一人近づこうとはしない禁忌の部屋。
唯一そこを使用する臓硯は既に人間の体ではなく、その毒牙にかかった哀れな被害者もじき人間ではなくなる。
その部屋は、いつしか蟲蔵になぞらえて、蟲部屋と呼ばれるようになっていた。
蟲部屋は、地獄というものがこの世に実在するなら、ここ以外にはありえないと、飛鷹が生まれて初めて思った場所だった。
蟲蔵に入ることになれば、また少し違った感想を抱いていたのだろうが、それはどうでもいい話である。
飛鷹が次期当主の座についてから一ヶ月が経過していた。
雁夜の、文字通り血反吐を吐く程の修練は、最初の峠を臓硯の見立てよりも早く越したという朗報が入ってきている。ここを越えたならば、あと半年ほどは順調に進みそうだという見立ても。
むしろ、地獄へと近付きつつあるのは飛鷹だ。
次期当主となって一週間は何事もなく過ぎていた。血液採取。趣味嗜好の詳細な調査。各種身体能力の測定。様々な質疑応答。色、形、事象、状況に対する、瞳孔、発汗、動作などの反応テスト――精々が、その程度のものでしかなかった。
それが変わったのは、きっかり二週間前。
――今日より臨床実験を始める――
それが、死刑判決の判決文だった。
キィ、と扉が開く音が響いた。それが部屋の広さを物語っている。
部屋の中にはなにもなく、暗闇が広がっていた。ただ中心に僅かな明かりと、それに照らし出された手枷があるだけだ。
飛鷹は少しの肌寒さを感じつつも全裸のまま部屋に踏み入り、明かりの下まで歩み寄った。
カチカチと歯が鳴る。ただし寒さでなく、恐怖からだと飛鷹には分かっている。おそらく、この光景を眺めているであろう臓硯にも分かっている。
音が蟲の気を引くのではないか――そんな考えに襲われ、顎ごと手で掴んで無理に押さえ込んだ。
その間も止まることなく歩き続け、部屋の中心に据えられた手枷を自ら嵌める。後は目を瞑り、歯を食いしばり、心を押し殺して待つだけだ。
いまの飛鷹はあくまで“自分から進んで臓硯の研究対象となった存在”であり、臓硯は“心苦しく思いはするものの、仕方なく飛鷹の善意に甘えている研究者”である。
このカバーストーリーを語るときの臓硯は、それはそれは嬉しそうな顔をしていた。
――嫌がる者に蟲を集らせるようなことが、このワシにできると思うか? 本来ならば、やりたくもないわ。しかし、どうしても自分を使ってくれという心優しき者がいれば仕方ない。
酷い茶番もあったものである。飛鷹の部分はさして違わないが、臓硯にそのような感性が存在するなど有り得ない。冗談にしては質が悪すぎる。
「は……は……ッ」
早くなる呼吸を平常に戻そうとするが、上手くいかない。
これから嫌なことが起きると、体が、頭が学習してしまっているのだ。
一刻も早く逃げろ、ぐずぐずするな、そんな本能の叫びが生体反応に姿を変えて伝わってくる。
カタリ……。
そんな音が暗闇から響き、飛鷹は反射的に呼吸を止めた。
息を潜めて身を隠したくなる。足を持ち上げて床から離したくなる。
見つかるまい、触れられるまいと暴れたくなる。
だめ、だめと、自分に言い聞かせる。脳の指令により逃避を許されない体は、本能と理性の相反する指令ゆえだろう、ピクピクと震えていた。
筋肉は強張り、足の指は力が入って丸まっている。
恐怖からくる全身の緊張。
いい加減に始まる前くらいは大人しくしていられないのかと我ながら思う反面、一生慣れないという予感もあった。
「……ッッ!」
足になにかが触れる感覚。
無数の脚を持つ生き物が、ゆっくりと体をはい登ってくる感覚。
もう全身に鳥肌が立つどころの騒ぎではない。悪寒と恐怖で体が固まってしまっている。
そのその感覚は足をするすると伝い、下半身から上半身へと進み来る。
入口を探して這いずる瞬間は、生殺しという表現がぴったりだった。
「ひぎっ!?」
一瞬、覚悟を決めて殺していた心と体が覚醒するほどの痛みと、おぞましさ。肛門から、一匹の虫がのたうつように侵入したのだ。
堪らず暴れるが、虫の動きは止まらない。やがて完全にその体を入れ込み、腸内への侵入を果たす。
そして、痛みのあまり一瞬動きが止まった飛鷹の隙をついて、次の虫が別の部分よりさらに侵入を果たす。
そうなれば、後は早い。毛穴から、鼻孔から、口唇から、肛門から、尿道から、人体に存在するありとあらゆる隙間に、大小様々な蟲が殺到した。
窒息死させない程度に、しかし容赦なく、蟲は目の前の獲物を蹂躙していく。
そして――虫たちが一定の動きを始める。
(き……た……ッ!)
飛鷹はおぞましさと喪失感に身を震わせた。
体が燃えるように痛み、同時に快感らしきものが送り込まれる。しかし、未成熟な体に経験の足りない心、それらは快感を快感として受け取ることができず、ただただ未知の刺激としてのみ認識する。それを立て続けに毎日送り込まれる脳は、翻弄されるばかりである。
ゆえに、残されたのは喪失感だけだった。
体内に虫が入り込むというのは、それだけでも遠慮したいものである。
しかし、この虫たちは、ただ体内に入り込むだけでなく、臓硯の組んだ術式を携えている。
虫の体表から分泌される特殊な体液の中へ内包されたそれは、対象の粘膜から直接的に吸収させることで最大限に効果を発揮する。
そして魔術回路の形、配列、魔力傾向、特性に至るまで、内側から染めていくのだ。
それはつまり、生きながらにして自分という存在が別のなにかに造り替えられることを意味する。
末期の瞬間、死の息吹を間近に感じる瞬間というのは、さしずめこんな感じなんだろうな――そう思わされる、自分の体が自分のものでなくなっていく感覚。
恐怖に震える幼子を、老人の悪意と妄執を携えた蟲が蹂躙していく。
本来、遠坂桜という少女を間桐桜に改造するために用いられるはずだったこの蟲は、間桐のそれとは、やや違う術式を携えている。ただし、被害者からすればどんな術式であろうと大差無い。苦しみと、痛みと、わけの分からぬ快感があるばかりだ。
限りなく死に近いものを実感しながら、飛鷹の心は諦観と、意識の放棄すらできない絶望に落ちていった。
最初の一分間は、歯を食いしばってじっと耐える。
次の三十分で、なにも考えられずに暴れて泣き叫ぶ。
それもさらに三十分時間後には、喉が枯れ肺が焼け、四肢から力が抜ける。
そこから一時間かけて、飛鷹の心は自衛のために、ゆっくりと死んでいく。
残りの二時間は、人形に蟲が集るだけの単調な時間だ。
この無間地獄が終わりを迎えるのは、常に同じだけの時間、放り込まれてからきっかり四時間が経過してからだった。
「出ろ、飛鷹」
いつもの迎えがやってくる。
顔は見えない。声だけで判断している。
その迎えは、自分の体に布切れを巻きつけ、触れるのも穢らわしいと言わんばかりに引きずって部屋から連れ出す。
そんな乱暴な手ではあっても、飛鷹からすれば、まさに救いの使者だった。
自分で這って出ていく体力すら残っていない飛鷹にとっては、引きずられようが投げ飛ばされようが、この場所から遠ざけてくれるというだけで慈悲に等しい。
尤も、そんな単純な喜びすら感じられないほど、その瞬間の飛鷹は冷え切っている。否、冷え切った心を、さらに摩耗させつくしている。
だからこそ、この迎えの男も容赦なく、飛鷹を物のように扱うのだが。
人間ならば哀れみもしよう。幼子ならば憐れみもしよう。だが、人形に同情は必要ない。手を粘液で汚したくない、それだけの理由であっても、実に気楽なものである。
それを、飛鷹はなんとなく理解していた。
自分でも汚いと思うほど汚れた体なのに、他人が嫌がらないわけはないのだから。
「ーっ!」
部屋の敷居をまたぐ時、ゴツリと腰骨の辺りを強打し、鋭い鈍痛に思わず呻く。
当然、その呻きは声にならない。ここまでの四時間で、声などとうに枯れ果てていた。
声帯に依らない呻きは、微かに音としての用を成す吐息に変わった。
それを不快そうに聞いた男は、ますます遠慮なく、そして勢い良く飛鷹を引きずり、蟲部屋の向かいにある部屋へと放り込んだ。
そこは小さなシャワールーム。
男は無言で蛇口を捻り、肌に心地よい温水を流す。
そして扉にバスタオルをかけて閉め、仕事は済んだ、と言わんばかりに足音も荒く去っていった。
一方の飛鷹は、無色透明の粘液に塗れ、裸の上に布一枚という格好で放置されている。
飛鷹は扉にもたれかかり、温水の心地よさに体を委ねながら、目の前の鏡に映る自分を見つめる。
蟲による実験の影響からか、髪の色が少しずつ変化してきていた。黒色が若干だが抜け、いまは黒紫といった風の色だ。このままいけば、完全に紫色になる日もそう遠くはないだろう。
次にゆっくりと手を上に持ち上げ、てらてらと光り、滴り落ちる液体を見つめた。
率直に言えば、とても気持ち悪い。
そして鏡の中の自分は、そんなもので全身を覆われているのだ。
「……ぁは」
笑う。
なにもおかしくないのに、笑う。
涙は流さない。泣いてはいけないと分かっている。
だから――自分の感情の発露として、まだ人間であることの証左として、人形という自己暗示の上からさらに暗示をかける意味を込めて、笑ってみせる。
そうして、人間が人形になったのと同じだけの時間をかけて、人形は緩やかに人間へと戻っていく。
◇◆◇◆
――どうすればいいのかな。
シャワーを浴び、自室のベッドで休息を取る飛鷹は、思いを巡らせていた。
臓硯が自分のどこに興味を持ったのか、分からない。
というよりは、自分が持つ二重性は、どういう価値を臓硯に示したのか、分からない。
敵の思惑を理解できないというのは、どうにも嫌な感じがあった。それによる不快感が、まるでこびりついて取れないシミのように、飛鷹の脳内に居座り続けていた。
間桐臓硯。
全ての元凶、諸悪の根源。
想像すらできなかったほどの邪悪を考えると、さしもの飛鷹も背筋が寒くなるのを禁じ得ない。
しかし、その臓硯を出し抜かなければ二人を――雁夜と桜の両方を救う妙手を思いつくことはできない。
そう――今現在、飛鷹が寝転がって必死に考えているのは、両方を救う方策である。
飛鷹の“子供”は理想の結末を諦められるほどに諦観してはいないし、“大人”の思考力は、臓硯が趣味としか考えていないならば勝ちの目は十分にあると踏んだ。
もちろん、恐怖はしっかりと染み付いている。正面きって戦いを挑むような愚行はもっての外だ。表向きは怯えと従順さを前面に押し出し、裏で画策する面従腹背の作戦を取るしかないと考えている。
(お父さんと逃げて、その後に桜ちゃんをこの家に近付けさせないのが一番だけど……)
飛鷹は思考を進める。
桜については、どうするのが最善かを測り損ねている状況だ。
遠坂家は魔術の家門であると知ったいま、彼ら――というか時臣が信頼できる相手なのか、分かりかねるのが原因である。
蟲の充満した蔵に閉じ込められ、犯されるというのは、おそらく魔術の世界でも決して快いものではないだろう。しかし、どこまでが許されるのか分からない。
時臣に桜が落とされる地獄を教え、その残虐さを訴えたとしても、有効だとは限らない。それが魔術師の常識に照らし合わせてどれほど非常識で酷いものなのかが、飛鷹には分からないのだ。
時臣が一般常識に近い良識を持ち合わせており、桜を蟲の餌にするのが忍びないということであれば話は早い。臓硯も無理に桜を捕らえようとはしないだろう。
その点には、飛鷹なりの確信があった。臓硯と直接会い、話したからこそ分かること。
魔術師、間桐臓硯という存在は、彼なりの掟と暗黙の了解を持って行動しているという核心が、飛鷹にはある。
臓硯の言葉、行動は、決して混沌によるものではない。むしろ、一本芯が立って、一貫している。自分には窺い知れない別の倫理と法律を持った、歪に秩序だった世界の住人のものだ。
それを、知識によらず、感覚で理解していた。
だからこそ、まず魔術師についての常識や基礎知識を集めた後でなければ、臓硯の警戒と怒りを呼び起こす危険を冒すのは避けるべきだと飛鷹は判断していた。
ならば、まずは雁夜を助けるほうに注力する。
まず、できることなら聖杯戦争に参加させたくない。負けることが決まりきっているのだから。
自分の父親だからといって――否、自分の父親だからこそ、きっと勝つなどという楽観はとてもできなかった。
なんとしても生き残らせる。助けてみせる。
そのためにも、飛鷹はここにいる。
――とはいえ、どうすればいいか、方策など思いつかないのが現実である。
ある意味、聖杯戦争こそが絶好の機会だと言えなくもないのだ。
聖杯戦争。
超常の力を持つ歴史上の英雄たちが、恐るべき暴力と猛威を振るい、聖杯を求めて争うバトルロイヤル。
御三家として雁夜を立て出場する以上、臓硯も飛鷹や桜にばかり注意を払ってはいられないはずだ。街中に間諜を放ち、警戒に当たらざるを得なくなる。
その時こそ、千載一遇の好機が、一筋の光明が見出せることだろう。
ただし、やはり雁夜を戦争に参加させるのは躊躇われる。
現時点で最も妥当な手段としては、やはり遠坂家と連絡を取ることだろう。
それが本当に有効な手段なのか、それはこれから知っていかなければならないことだ。
いまの無知な飛鷹が決めるには、あまりにも重大すぎる。
「……誰?」
「私です、飛鷹様」
唐突に鳴り響いたノックの音が、鬱々と続く思考を断ち切った。
誰何の声を上げると、帰ってきたのはあの家政婦の声。
色々と世話をしてくれたのは覚えているが、いまではこの女性も敵にしか思えなくなっていた。
「どうしたの? 入るなら早く入ってよ」
「では、失礼します」
――そういえば、次期当主、だったっけ。
家政婦の言葉を聞いて、改めてそれを思い出す。
いまや次期当主となった飛鷹は、賓客として遇されていた頃よりもさらに立場が高い。最古参の使用人である彼女に、入室の許可を与える立場にあるのだ。
彼女は完璧な動作で一礼し、入ってすぐのところで立ち止まった。
「飛鷹様、晩餐の用意ができました。急ぎお越しくださいませ」
「うん」
この言葉遣いにも、館の雰囲気にも、段々と慣れ出した自分がいる。
そのことが、ますます日常への帰還など不可能だと教えてくるようで、自己嫌悪に陥ることもしばしばだった。
今回も例外ではなく、憂鬱な気分で体を起こし、ベッドから飛び降りる。
ふと、飛鷹の頭をある疑問がよぎる。
「……ねえ。もうすぐ、この家を出るんだよね」
「はい。あと一月ほどで」
最近になって臓硯から聞いたことだ。
聖杯戦争が迫りつつある中、ただの家政婦を置いておくのは無駄でしかないから、だとか。
人道的というよりは、人的損失を惜しんだ処置に思えた。成程、この家の秘密を知ってもなお働いてくれる家政婦は少ないだろう。そんな貴重な人材を、みすみす戦争に巻き込んでも仕方がない。
飛鷹も、無関係な家政婦が巻き込まれることを望んではいない。
ただ、ほんの少しだけ、確かめておきたいことがあった。
「ぼくと初めて会った日、この家のこと、全部知ってたのに、言わなかったよね」
いかなるときも淀みなかった家政婦の動きが、あの日の問いに対する反応と同じく一瞬止まる。
表情の動きこそないが、場の空気は気まずげなそれに変質していた。
「……申し訳ございません。家政婦として、この家のことをお客様へと漏らすことはできませんでした」
ややあってから帰ってきた答えは、望みもしない謝罪と、見たくもない首肯だった。
「……そっか」
飛鷹は怒るでも悲しむでもなく、無表情のまま家政婦に背中を向け、部屋を出た。
別段、なにか期待していた答えがあったわけではない。
知りませんでした、味方でした、そう言われても信じられない。いまの問いは、聞く意味すらない問い、ただの嫌がらせか八つ当たりだ。
それなのに、聞く前よりも少し疲弊している自分に気付いて、だから飛鷹は改めて思った。
もう、お父さんと桜ちゃんだけでいい、のに――
きっと、それだけで自分は幸せに生きていける。
そんな決意すら、実はまだ固まりきっていなかったのだ。
こんなことで雁夜を救えるはずがない。桜を逃がせるはずがない。
自分の甘さも、状況の厳しさも、飛鷹の心に絶望という重石をこれでもかというほどに積み重ねていく。
一寸先は闇――いまの飛鷹の心中は、そんな言葉がぴったりだった。
飛鷹が「間桐邸における最高の幸せはなにか?」と問われたとすれば。
雁夜と桜、この二人と二階の一室に集まり、共に食卓を囲む瞬間であると断言できるだろう。
とはいえ、いつも囲めるわけではない。というより、囲めたことがない。
雁夜は基本的に一人で食事を取るし、飛鷹もここまで来ることは少ない。桜に魔術の存在や、自分たちの痛苦を知られるわけにはいかないからだ。
桜が飛鷹の部屋に夕飯を持って訪れることは何度かあったが、それも飛鷹の体力がある程度残っていればの話だ。休息が必要なとき、飛鷹の部屋の扉には面会謝絶の札がかかり、何人たりとも入ることは許されない。
今日は、三人が集まることを許された、初めての日だった。
「ヒダカくん、こんばんは」
「うん、こんばんは」
桜と挨拶を交わしながら、心の中が暖かく落ち着き、軽くなっていくのを感じていた。
我ながら現金ではあるが、事実、嬉しくて仕方がないのだ。
桜の服装は、普段よりも少し気合が入っているようにも感じられて、それがさらに喜びを煽った。
とはいえ、フリルがついていて色も可愛いものが多く、なんとなく少女っぽさと可愛さが強調されていることくらいしか分からない。
「桜ちゃん……その服、えっと……可愛いね」
「あ……ありがとう。ヒダカくんが褒めてくれるの、うれしい」
なんとも陳腐な表現になってしまったことを悔やみつつ、桜が笑ってくれたのだからと自分を納得させる。
その流れで、何気なく質問を飛ばした。
「お父さん、まだ?」
「うん、まだみたい」
「そ、っか……」
浮き立っていた飛鷹の心が、水中で重石を付けられたかのように一瞬で沈み込む。
待ち合わせの時間は少しすぎている。なにか異常が起こったのかもしれない、という疑惑があっという間に膨れ上がり始めた。
実験と、修練。命の危険が大きいのは雁夜なのだから、飛鷹は気が気ではない。
もしも、耐え切れずに力尽きてしまっていたら――
雁夜と離れている間、飛鷹の心には絶えることなくその恐怖が居座っている。一時的に忘れることができても、またすぐに、ふとしたきっかけで戻ってくる。
「遅くなってごめんな、飛鷹。桜ちゃんも」
だからこそ、自分を呼ぶ声が聞こえる度に、飛鷹は泣きそうになるくらい嬉しくなるのだ。
しかし、ただ喜んでばかりもいられない。
飛鷹と桜の顔が、その認識には大きな差があるものの、同時に曇った。
「……おじさん、まだびょーきなの?」
「うん、そうなんだ……ごめんね、心配かけて」
邸内を移動する雁夜は、口元と目を除く全ての部分を包帯で覆っている。その下には浮き出た虫の膨らみが幾筋も走り、日を重ねるほど非人間的になりつつあるからだ。
また、ニット帽を被って髪の毛全体を隠すことも忘れない。髪の毛が急速に抜け落ち、白髪に生え変わりつつあるからだ。魔術的要素が絡んで色そのものが変わっている飛鷹のそれとは違い、純粋に激しすぎる苦痛とストレスからくる若白髪である。
どちらの症状も、長期性の病気だと偽っている。飛鷹の髪の色も然りだ。
虫の暴走を抑えきれない、痛みが強すぎて隠しきれない――それらの事情で、桜を怖がらせてしまうかもしれない日、雁夜は絶対にこの食卓に来ることができない。
三人がこうして集まれたことが、飛鷹には泡沫の奇跡のように思われた。
「お父さん……大丈夫?」
飛鷹も問いかける。桜とは違い、全てを理解した上での問いかけである。
雁夜はなんでもないと言うように頷いた。
「飛鷹こそ、大丈夫か?」
雁夜もまた、問う。
飛鷹の受ける実験、その内容を雁夜もまた知っている。初日の実験が終わってすぐ、雁夜に泣きついてしまったからだ。
隠し事をしないという約束もあったが、考える前に体が助けを求めてしまっていた。
いまでも、雁夜の負担を考えられなかった自分の行いを悔いている。
ただ、初めてのときは、それだけいっぱいいっぱいで、どうしていいか分からなかった。
「大丈夫。でも、お父さんは――」
取りあえず大丈夫と言って、それからなんと言うべきか、暫し言葉を探す。
雁夜が本当は大丈夫ではないことなど分かっている。しかし、そんなことを聞いても意味はない。
つい飛び出してしまった言葉の行方を、飛鷹でさえも図りそこねていた。
なにか話さないと――そんな、強迫観念にも近いものに突き動かされて、しかし迂闊なことは言えず、惑う。
「失礼いたします」
相応しい言葉が見つかる前に、数人の家政婦が料理を運んできた。
作りたてであろう料理の数々が机の上に並べられていく。
「ブルーチーズのスパゲッティとバゲットでございます。雁夜様は粥となっております。詳しい説明は」
「いや、いいよ。ありがとう」
雁夜が手を振ると、家政婦は一斉に一礼して出て行く。
飛鷹を連れてきた家政婦も共に退出し、部屋に残されたのは飛鷹と雁夜、そして桜の三人だけとなった。
「カリヤおじさん……おかゆ?」
「うん。今日はちょっと、お腹が空いてなくてね。食べやすいものにしてもらったんだ」
「私も、かぜのときにはお母さんが作ってくれた」
「葵さんが? そうか……」
暖かな会話の横で、飛鷹は険しくなった顔を平静に戻そうと四苦八苦していた。
粥でなければ喉を通らないほどに弱っている。しかも、最初の一ヶ月で――その事実が、飛鷹の胸にのしかかった。
このままいけば、きっと雁夜は耐えられない。戦争に参加する資格が与えられる前に死んでしまう。
止めるべきだ、止めないと――そう思っても、言い出せない。言い出せるはずがない。
今更、どんな顔をして止めようというのか。
こんなものは一時の躊躇いであり、感傷であり、非合理的な恐怖でしかない。
動き出した運命は、もう止まらない。それなのに、決意を鈍らせるようなことを言ってどうしようというのか。
こんなことで、雁夜を救えるはずがない。桜を逃がせるはずがない。
もっと冷静になって、全てを捨てなければならない。極限まで、なにもかも切り詰めなければならない。
「ほら、飛鷹。いただこう」
「……うん」
心の中の葛藤を完璧に覆い隠して、飛鷹は席に着いた。
折角の幸せを満喫するべく、問題を棚上げして目の前の食べ物だけに集中する。
そういえばスパゲッティを食べるのは久しぶり、などとくだらないことを考えるゆとりまで出てきていた。
普段の飛鷹の主食は、魔術的に効果があるらしい、やけに飲みづらい謎の液体と、黒く細い物が数十と入れ込まれているために、これまた食べづらいパンなどである。それも疲れきって空腹に喘ぐ瞬間を見計らって与えられているので、味に悩む余裕などありはしなかった。というわけで、麺類というよりは、まともな食事というものを取るのが久しぶりだったという方が正しい表現である。
「じゃあ……いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
雁夜の音頭に合わせて、桜と飛鷹も手を合わせる。
フォークを手に取った飛鷹は、それをスパゲッティに突き刺して――動きを止めた。
自分でも怪訝に思った。
スパゲッティを口に運ぼうとしているのに、手が一寸たりとも動かない。微動だにしない。
腕が痺れたとかではない。ただ、なにかが食事を躊躇わせていた。
一体、なにが。
「……」
飛鷹は、目の前のスパゲッティを見る。
湯気が立っていて、いい香りがする。
それなのに、
――皿の中に入っているのは、蠢く蟲だった。
「ッ!」
思わずフォークを取り落とし、口元を押さえる。
「……どうしたの?」
怪訝そうに桜が見てくるが、飛鷹には気にする余裕などない。胃からせり上げてくるものを抑え込むのに必死なのだ。
麺の一本一本が、自分の回路に巣食っているものと同じに見える。
ブルーチーズのソースが、おぞましい粘液に感じる。
「ん……うっ……」
いくら飲み込んでも、逆流は止まらない。
喉が胃酸で焼けるように痛む。
涙と鼻水がとめどなく溢れる。
そして、とうとう耐えきれなくなって、飛鷹は部屋から走り出た。
桜には、桜にだけは、自分が苦しむ姿を見せてはならないと知っていたから。
「……っ……う……」
気づけば、誰かが背中を優しく擦っている。頭が割れるようにいたんでいるものの、朧気に感じ取れる。
頭では、分かっている。これは人間の手だ。紛れもなく、優しさと思いやりのこもった手つきだ。
しかし、その感覚すら、虫が体表を這いずりまわっているように思えて、飛鷹は狂乱する。口から吐瀉物を撒き散らしながら、振り払った。
「飛鷹、俺だ! 大丈夫、大丈夫だから!」
言葉と共に、後ろから抱き締められる。
振り払わないと――そう思う前に、その暖かさに体が弛緩した。
蟲の恐怖が薄れて力が抜けた飛鷹の体を、雁夜がより強く抱き締める。
「ぁ……お父、さ……んっ」
また込みあげてくるものを、今度は耐えられなかった。そのまま雁夜の服にぶちまける。
雁夜は服が汚れるのも構わず、ただ少しだけ力を緩めた。
「いいんだ、全部吐け。そしたら、お粥かなにか――」
そんな言葉が聞こえたような気がした。それすらもはっきりとしない。
視界は涙でぼやけているし、耳鳴りも止まない。しかし、それ以前の問題で、飛鷹の世界はぐちゃぐちゃにかき回されていた。
体内の蟲がのたうつ感触が、いまでも忘れられない。
蟲は沈静化させられているはずなのに、不気味な感触だけがずっと尾を引いているのだ。
「ひっ……ひっ……」
今度は、苦しさからではない涙が零れだす。
飛鷹は、どこにいるかも分からない桜に聞こえないように、口の中で声を殺して、暫くの間すすり泣いた。
自分が惨めで、世界が怖くて、幼子の外見に相応しく泣きじゃくる。
なにも考えられずにただ泣いたのは、初めて蟲部屋に入った日以来だった。
これは、ある親子の、ある日常の中でも、とびっきり幸せな部類に入るはずだった日の描写。
Q,救いはないんですか!?
A,あると思いますか?
そんな感じですね。
ちなみに、言うまでもないとは思いますが。
・飲みづらい謎の液体
・黒くて細い物が何十本も入れ込まれた食べ物。
・両方とも、魔術的要素が含まれている。
まあ、わかりますよね。
しかし……診断メーカーって、やってみると意外と面白いですね。
【間桐雁夜の恋愛事情】
恋愛大好き。とにかく「恋愛」というものが好きで、理想の恋愛を求めてころころ相手を変える事も。自分の理想を追い求めるロマンチストでもある。
【間桐飛鷹の恋愛事情】
硬派。あまり恋愛というものに興味がない。ただし自分が「この人だ!」という人を見つけると愚直に突っ走る一途な人。パートナーにはメロメロになる甘えん坊でもある。
……どっちもそこそこ当たってるが、別に飛鷹は硬派では……ない、よな……?
でも、原作の雁夜が「自分の理想を追い求める」タイプなのは大当りですよね。葵さんっていう理想を見つけたから、ほかの人に目移りしなかったのかも……?
あと、
Q.あなたにとって「恋愛」とは?
間桐雁夜「欲望」
これは素で吹きました。というか、普通に当たってるからビビりました。
まあ、悪い人ではないと思うんですが……
次回、聖杯戦争編に突入。