「……ん」
目が覚めた時、眠りにつくその時まであった温もりが消えていることに気がついた。
なんで――そんな疑問が一瞬思い浮かび、すぐに消える。
雁夜は、また耐えているのだろう。そうでなければいいのに、そう思う一方、現実的に考えればそれ以外の可能性は低いことを頭が囁く。
若干嫌な気分になりながら上半身を持ち上げると、ベッドで眠っていたことが分かった。お父さんが運んでくれたのかもしれない、そうだったら嬉しいなと、少し思う。
そんな思考を重ねながらベッドを降りて、とりあえず外に出た。
どれほど眠っていたのかは分からない。ただ、桜と出会ったときは夕方で、いまの窓の外は真昼のように明るいことから、一晩眠りこけたことは確かだった。
もう、昨日から数えた明日になった。
今日という日が来てしまった。
臓硯に会わなければならない。
答えを聞かなければならない。
その答えが、自分の望まぬものだった場合、どうするのか――それは決めていない。
少なくとも、諦めるつもりはないということだけは確定していた。
桜ちゃんはどうしたのかな――そんな疑問が、ふと頭の端を掠める。
まさか、いきなり蟲蔵に放り込まれているということはないだろう。こちらから持ちかけた取引に返事をしていない。ただ、一抹の不安が残っているのも確かだった。
地獄の淵に、桜が来てしまったこと。それ自身に対する不安だ。
臓硯は、桜に手出しをしないと明言してはいない。
だが――十中八九、手は出していないだろう。
それは、これから決まることだ。
それを防ぐために、父親と戦う――そう決めて、飛鷹はここにいるのだ。
運命の分岐点。
関わる者全てを引き裂き、引き離し、引き寄せる、気まぐれで力強い大渦潮。
それが、自分の前に、すぐそこにある。
人の手で、大渦に逆らうことはできない。
それでも抗う。それしかできない故に、足掻く。
――行かなきゃ。
呟いた飛鷹に、もう眠気は残っていなかった。
そして、その顔もまた――子供のものではなかった。
行き先は決まっている。
与えられた部屋から廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりの角を曲がってすぐの扉の先。そこは、つい先日の対決でも使用した応接間である。
迷わず扉をあけた飛鷹は、奥で待つ老人の姿を見て、自分の予想が間違っていなかったことを知った。
「よく眠れたか」
「はい」
必要最低限の言葉だけを返し、臓硯と向かい合う。
なんとはなしに分かっていた。ここにいるだろうと。
臓硯もまた、飛鷹がここに来ることを読んでいたのだろう。
お互いに暗黙の了解のようなものがあった。
「桜ちゃんは?」
「与えた部屋で休んでおる」
これもまた、予測済み。
予定調和に特有の白々しさと、気味の悪さがあった。
ただ、その他にも引っかかるものがあった。
根拠や証拠はないが、強いて言うならば違和感に近い嫌な予感。
この臓硯が、すんなりと取引を済ませるわけがないという確信。
そんなものを出会って間もない飛鷹に抱かせるほど、臓硯は悪辣な人間だった。
「さて、決断を下す前に、ワシは肝心なことに気付いた。これは、ワシの一存で決められることではないと」
「……」
飛鷹は口を開かない。
臓硯はなにが言いたいのか、これ以上ないほどに明確だったからだ。
本当に、嫌がらせが上手い。普段ならばそんな的外れな感嘆も浮かぶだろう。しかしそんな余裕はなかった。
飛鷹にとって、最も痛い部分を突いてきた。
「全部聞いたぞ、飛鷹」
飛鷹の背後から、昨日の焼き直しのように同じ声が聞こえる。
ただし――今度の声は、戸惑いで揺れても、驚愕で震えてもいない。
紛れもない怒りで、彩られている。
――手強そう。
直感しながら、飛鷹は雁夜の方へと振り向いた。
蟲に虐められていなくて良かった――そんなことを、ふと思った。
雁夜はなにもかもを理解していた。当然だ、雁夜も全く同じ動機でこの憎き生家へと帰ってきたのだから。
雁夜が桜を救わんと行動したのは、彼女がかつての想い人、そして今も余人をもって代え難い幼馴染の、大事な娘であるからにすぎない。桜が見ず知らずの少女であったなら、雁夜はただ、その身に訪れた不幸を憐れみ、不条理を哀れむのみであろう。自分を責め、苛みながらも、飛鷹のためだと自分に言い聞かせて逃走することを選んだだろう。しかし、そうはならなかった。
つまり、雁夜がこの戦争に身を投じるのは、桜のためではない。無論、桜のことを全く気にかけていないわけではなく、むしろ愛おしく思ってすらいるが、その根底にあるのはあくまで葵への想いの成れの果てなのだ。
だから、雁夜には飛鷹の選択が、動機が、覚悟の程が、我が身のことであるかのように理解できる。
理解して、それでもなお、受け入れ難かった。
雁夜は、紛れもなく、飛鷹を息子として愛しているから。
これを飛鷹の選択として尊重したい思いも当然、その結果として桜が一時的とはいえ完全に解放されるのも喜ばしいことだ。だが、少しでも人並みの心を持ち合わせているならば、どこの親が実の息子を地獄に放り込みたいなどと思うだろうか。
それは、蟲蔵のことを、ひいては間桐の魔術がどれほど非人道的であるかをよく知っている雁夜ならば、尚更であった。
この地獄へと取り込まれたが最後、誰よりも愛しい息子は、死ぬことすら許されない。
「飛鷹……お前、なにを考えてるんだ!」
その確かな親心ゆえに、雁夜が我を忘れて怒鳴りつけるのは自然なこと。
対する飛鷹は怯まず、ただ雁夜と向き合った。
「お前を、ここに入れるなんて許さない! 桜ちゃんの身代わりに、お前を差し出せって言うのか!」
熱された雁夜とは対照的に、飛鷹の目は冷たかった。あの夜の葵を彷彿とさせる、冷め切った目だ。感情の全てをその奥に閉じ込めて、無関心だけを前面に押し出した、無機質な目だ。
雁夜の怒りの原因は、それを見たことにもあった。
現時点では文句無し、ぶっちぎりで第一位のトラウマ。それを目の前で実の息子に魅せられては、苛立つなという方が無理な相談である。
ちなみに、第二位は飛鷹に苦しむ姿を見られたことだ。つい二日前の出来事だけに、生々しく尾を引いている。
「そんなこと言わないよ、お父さん。ぼくが、自分で決めた。桜ちゃんとぼく、一人と一人、交換するって決めたんだ」
「ふざけるな! そういう話をどこで聞いたのか知らないが、お前はまだ」
「もし桜ちゃんが葵さんだったら、お父さんはどうするの?」
「……それ、は……」
雁夜は、ぐうの音も出なかった。
というか、つい先日、雁夜は桜のために命を捨てると宣言したに等しい。それが葵のためであると飛鷹には見抜かれている以上、どれほど気のきいた言葉を思いつこうとも今更、語るに落ちるというものである。
飛鷹の言葉はまだ続く。
「お父さん。ぼくは桜ちゃんを助けたい。助けるって決めたんだ。その後、僕を助けるのは、お父さん。お父さんが勝ちさえすれば、なにもかも終わるんだから」
汗の一筋も流さず、恐れの欠片も表に出さず淡々と言い切る飛鷹。
――なんなんだ、この子は。
ここまでくると、相手は我が息子ながら、雁夜は不信と狼狽を隠せなかった。
自分が七歳のとき、はたしてこれほど強固な意志と、整然とした思考回路を持っていたか。否、断じて否である。
かくあるべし、と育てられる貴族の家であっても、ここまで理路整然と言葉を並べ、挙句の果てに自らの人生と父親の命を賭け金にした勝負を、他人のためだけにできるだろうか。否、断じて否である。
普通、子供は確固たる信念も知らず、貫き通す意地も覚えず、生々しい野望も抱かない。それらを抱けるほどに情緒も感情も、そして理性も育ち切っていないからだ。
だというのに、目の前の息子は、まるで成熟し切った大人であるかのように――いや、自らを一個の素材として見ているというほうが正しい。
魔術師というよりは、むしろ、完成された兵士かなにかのようだ。雁夜は、そう感じていた。感慨もなく、自尊もなく、冷徹に自分の価値を測る。目的と釣り合うようならば、自分自身を投げ出す。
そして、そこには微塵の躊躇もない。
(いや。たとえ子供に似つかわしくないことばかり口にしていたとしても、その原動力は紛れもなく、桜ちゃんに対する好意だ)
――多分。
雁夜は、そう締め括って自分を納得させようとして、見事に失敗していた。しかし、息子に対して覚えてしまった感情の渦は、表に出る前になんとか心中へと押し込む。
ふと、ずっと前に見た公園の情景が蘇っていた。
飛鷹と、桜と、凛。三人で遊びながらも、飛鷹の言葉や何気ない気遣いは、やはり桜に向きがちだった。そのことを凛にからかわれては怒り、それを宥める桜と話すだけで嬉しげに笑い、また恥ずかしそうにする。その光景は、かつての自分と葵を写し取ったかのようだった。
あのとき、飛鷹もまた年相応の男の子であることを、雁夜は初めて知ったのかもしれない。
子供として父に甘えるだけでなく、一人で大人びた様子を見せるだけでなく、初恋というものを知った男の子特有の、心の動き。その言動。
あまりにも身に覚えがありすぎて、一時はデジャヴュかと思ったほどである。
そして、昨日の涙が立て続けに思い出される。
あれはもしや、飛鷹の中に残っていた最後の弱さを、躊躇を、一緒に流しきったのではないか。
図らずも自分は、息子の背中を押してしまったのではないか。
今更、飛鷹を止めてしまっても――その幸せとは別物なのではないだろうか。
雁夜は混乱の極致にあった。
「お父さん、お願い。桜ちゃんを助けさせて。なんでもするから。終わった後、ずっと良い子にしてるから」
「……」
考えを纏める時間は与えられず、雁夜は、答えを求める飛鷹から目を逸らした。
あくまで落ち着いて説得を続ける飛鷹に、結局、雁夜はなにも言えなかった。
桜を切り捨て、息子を助ける。その二者択一が、どうしてもできなかった。
それは、桜への罪悪感からくる逃避のみならず――桜を切り捨てた、と葵に知られたとき、他ならぬ葵によって自分の心が受けるだろう傷、それに対する恐怖を多分に含んでの、黙殺。
そして、雁夜は知る由もないが、飛鷹と同じ悩み――一人の男が決めた道を、自分の一存でとやかく言ってしまって良いものか、という躊躇いからくる、優柔不断。
そんな雁夜の沈黙を承諾と受け取ったのか、飛鷹は雁夜に少しだけ頭を下げると、臓硯に向き直った。
「おじいさま、答えを言ってください」
「ふむ……」
臓硯は暫し考え込む。しかし、それは外見のみだと、雁夜にもある程度の予測はついていた。
あの臓硯が、これほど異常な事態に心躍らせぬわけがない、と。
やや時間を空け、臓硯はフン、と不快気に鼻を鳴らす。しかし、実際は少しも不愉快になど思っていないのだと雁夜は、そしておそらく飛鷹も分かっていた。
間桐臓硯という醜悪極まりない化け物は、愚か者が跳ねまわる姿を見るのが大好きなのだから。
「まあ、雁夜に異論がないならばよかろう。飛鷹、おぬしの要求を容れてやる。桜の教育は中止する」
雁夜にとっては、祝福であり呪いでもある答えだった。
◆◇◆◇
よかった――と内心で飛鷹は息をついていた。
父親である雁夜に本気で反対された場合、この精神が抗いきれるのか、自信がなかったからだ。
この場に居合わせた二人から見れば、飛鷹は七歳児とは思えぬ対応を見せていた。しかし、その内実は平静を保っているように見せるだけで精一杯。本能からくる嫌悪感と恐怖が表層にまで噴き出さないように、大人の理性と子供の意地、二人分の精神力で持って無理矢理に抑えつけていただけである。
ゆえに、飛鷹は望む。
教育が始まったとき、自分ができるだけ早く壊れてしまうよう。
桜と引き換えに我が身を救ってくれ、と懇願するようになる前に、精神が崩壊してしまうことを。
きっと、臓硯はその期待を裏切らない。
「じゃあ――」
「まあ、待て。答えを言う前に、一つ決めておこう。雁夜は席を外せ」
臓硯はそう言って、本題に入るべく口火を切った飛鷹を制止する。
同時に、やや青ざめていた雁夜の表情に、一瞬で赤みが差した。怒りが再燃したようだ。
「ふざけるな爺ぃ! 俺は飛鷹の父親――」
「父親であろうと母親であろうと、ここから先は関わりのないこと。魔術師同士の取引に部外者は必要ない。ほれ、分かったならば、疾く去るがよい」
路傍の石でも相手にしているかのような対応。
雁夜を関わらせるつもりなど、欠片もないのだということが如実に伝わってきた。
その一方で、ギリギリという歯ぎしりの音が飛鷹にも聞こえる。血を流さんばかりに悔しさを、文字通り噛み締めているのだろう。
いまにも飛びかからんばかりの怒気を発しながらも動きを見せないのは、臓硯の恐ろしさを熟知しているからだろう。初対面から飛鷹は二日、それにひきかえ雁夜は十年以上の付き合いである。ここで暴れても無駄だということが分からないほど短い年月ではない。
とはいえ、このまま引き下がるつもりもなさそうだった。
本当、余計なことする嫌な人だな――そんな気持ちを大きくしつつ、飛鷹は雁夜の傍へと歩み寄った。
「飛鷹。こればかりはならんぞ。雁夜を同席させることは許さぬ」
釘を指す臓硯に、頷く動作で返答する。
「お父さん、大丈夫だから行って。話しても大丈夫だったら、後で相談するから」
「そういうわけには――」
「お願い」
雁夜の手を弱く握り、頭を軽く下げる。
反応は目に見えて変わっていった。
戸惑うように体が揺れ、憤るように手を震わせ、そして諦めたように肩を落とす。
「……後で、全部聞かせてもらうぞ」
すごすごと背を向けた雁夜が部屋を出た瞬間、ひとりでに扉が閉まっていく。
最後の最後、雁夜と飛鷹の視線が交錯する。
――飛鷹。
――ごめん。
目だけで縋り付く雁夜に心からの申し訳無さと罪悪感を示して、再び飛鷹は臓硯と向き合う。
背後で、扉の閉じきった音が聞こえた。
自分の未来まで閉ざされた気分だった。
「さて……」
「なんですか。早く言ってください」
臓硯は、その不安を煽るように勿体つけて、飛鷹の周囲をぐるぐると歩き回る。
飛鷹としては不安のみならず苛立ちをも煽られるだけの行為であり、段々と大きくなるそれは、隠すのも難しくなってきていた。
それと比例して、なにが飛び出してくるのかという不安も高まる。
時間を取り、怖がらせたからといって、それだけの用件が飛び出してくるのかどうかは分からない。嫌がらせや趣味でそれくらいのことはしそうである。
ただ、そうではない可能性も高い。
見計らったように、ぴたりと臓硯の足が止まった。
その口唇が、ゆっくりと開いていく。
なにが出る、なにを言われる、さあ、なにが――
「飛鷹、おぬしは今日この時より、間桐家の次期当主となれ」
「――え?」
文字通り、飛鷹の思考が止まった。
間桐の当主――意味が分からない。
当主という言葉を“一番偉い人の呼び方”程度にしか考えていない飛鷹にとって、臓硯の言葉は、やや不可解に過ぎる台詞だった。
なんのために、そんなものになれというのか。そうすることで、臓硯はどう得をするのか。全く見当がつかない。
「まあ、正式に継ぐのは第四次聖杯戦争が終わってからになるが……」
「ちょ、っと、待って。とうしゅ……?」
つっかえつっかえ、どうにか発した言葉。
どんな恐ろしいものが出てくるかと思っていた矢先にこれでは、弛緩するのも無理はない。
臓硯はなぜか頷いているが、飛鷹は完全に置いてけぼりである。
「桜に魔術の教育を施すな、という条件をワシは飲んだ。ただ、跡継ぎ不在のままでは困ることは変わらん。対面も悪い。ならば、おぬしという新たな跡継ぎを立てた方が都合が良いではないか」
「……そう、ですか」
場にそぐわない、至って平凡な反応。今度は失望に近い反応をされたように見えたが、それ以外に取れる反応がなかったというのが正直なところである。
つい数日前まで一般人だった飛鷹が、魔術師の常識など知るはずもない。そういうものなのか、と納得するしかない。
落ち着け、飛鷹は自分に言い聞かせる。
「当主……になったら、どうなるんですか」
「ふむ。おそらく、おぬしは魔術が使えぬ。ゆえに答えに窮する問いではあるが……強いて言えば、権力は手に入る。財力もな。そして聖杯戦争への挑戦権は間違いなく得られような。無論、ワシの指示には従ってもらう」
「ぼくが、次の当主に……」
飛鷹は呟く。どうも実感がない。
ふわふわと、雲を掴むような話に聞こえるのだ。
端的に言えば、怪しい。
上手い話など、この外道が持ってくるものか。そんな偏見、先入観があった。
が、ふと思いついたものがあった。
「当主って……えらいんですか?」
「まあ、偉いと言えるじゃろう。この間桐家における当主であれば尚のこと」
そっか、偉いのか。そんな風に飛鷹は思う。
なら、これも叶うのかな。そう思って、ふと言ってみたくなった。
これもまた、昨夜の内に考えていたことだ。
「桜ちゃんを遠坂さんの家に戻してください」
「それはできん」
臓硯の即答。予想はできたが言って欲しくなかった答えを、飛鷹は少し怪訝に思う。
より正確に言うならば、なんの役にも立たない桜を、手元に置いておく意味が分からなかった。
無論、自分を教育するために桜を利用するというのも考えられない話ではない。しかし、雁夜から聞いた体験談によると、間桐の教育は基本的に絶望や怒り、恨み、憎しみといった負の感情を原動力にしたものであり、自分の好きな人――臓硯の認識では、おそらく友達――である桜を置いておくのはデメリットが大きい。
あるいは、物惜しみか。
その才能を手放すのは躊躇われるということか。
ほとぼりが冷めた頃に、教育しようという心積もりなのか。
飛鷹が臓硯にとって興味の対象となり得たのは、おそらくその珍しさゆえである。その珍しさが完全に解明されてしまえば、飛鷹の存在は抑止力ではなくなる。桜を守るものは何一つ存在しなくなる。
それが分かっているからこそ、こうして桜を避難させるよう、要求したのだ。
ただ、拒まれた理由はなんなのか。
臓硯は一体どういうつもりで桜の返還を却下したのか。
その真意を読み取ることができれば、今後の行動も読みやすくなる。
そんな考えを見透かしたかのように、臓硯が口を開いた。
「あの娘は、既に間桐の秘奥の一端に触れておる。そして一度でも触れた以上、あの者は永久に間桐の人間よ」
白黒が反転した目からは、なにも読み取れない。
こちらの考えが、本当に全て見透かされているような気持ちに陥り、飛鷹は床へ視線を移した。
きっとその行為には意味などなく、一般にはそれを無駄な足掻きというのだろうが。
「……ぼくだけじゃ足りないんですか? 欲張りです」
強がりながら口にした抗議は、もはや反論ですらなく、当然ながら鼻で笑われる。
「フン。小童が知った風な口をきくではないか。お主は知らぬやもしれんが、間桐の魔術は絶対的に門外不出。他家より子を招くということ自体がおかしいというだけのことよ。みすみす桜を返して、間桐の魔術を遠坂に解析されるという危険を冒すわけにはいかん。なに、雁夜が聖杯を持ち帰ればよいではないか。そうすれば、皆が幸せになれるのだ」
幸せなどという言葉をいけしゃあしゃあと口にして、呵々と笑う老人の皮を被った化け物を前にして、飛鷹は内心で歯軋りした。
飛鷹の決定的な弱点、それは間桐にとって自分が部外者であるということだ。
かつて家を出奔した雁夜は、間桐の家の最新情報を掴んでいるわけではない。あれから掟が変わったから、余所者には分からないだろうな……こういった言葉には、何一つ言い返せないのである。
ゆえに、嘘だ、と断じることはできない。自分にはなんの知識もないのだから。それに、どこからどこまでが秘すべき領域なのか、決めるのは臓硯である。出奔した長男の私生児にすぎない自分が、どれだけ異を唱えたところで無駄だ。
もちろん、仮に雁夜が戦争で敗れようとも、自分が臓硯に身を任せる限り、桜は無事だろう。少なくとも、暫くの間は。
だが、家族の元に帰ることはできない。血と因縁と妄執が絡みついたこの家で、長い時間を過ごさなければならない。
さらに言うならば、臓硯の言葉も信用ならなかった。
まず、桜の教育は中止すると確約しただけで、再開しないとは言っていない。屁理屈ではあるが、この屁理屈こそが理屈となりうる可能性を、飛鷹は無視できない。
また、全く別種のなにかが行われた場合、それは取引の外と考えられるかもしれない。
たとえば、桜の魔術は鍛えない、しかし解剖する。実験台に使う。そんなことを言われる可能性がある。邪推とも取れるが、この老人がそれくらいしかねないということは分かっている。
しかし飛鷹からすれば、桜が辛い目にあうというだけで、現在の努力が全て水泡に帰するのだ。
「でも、おじいさま」
「くどい。それにの、飛鷹。よもや桜を遠坂の家に返しても、今まで通りの付き合いができるなどとは思うておるまいな? おぬしはいずれ、間桐の当主となる身。ならば遠坂はいずれ敵となる。あの娘を返せば、おぬしの仇敵となるやもしれんぞ?」
「……」
無言でいながらも、飛鷹は自分の顔から血の気が引いて行くのを感じていた。
いま、雁夜の追い込まれている状況が正にそれだ。
雁夜は、遠坂時臣と戦わなければならない。しかも、最大の敵の一人として。
ならば――その妻である葵とも、また同じく。
時臣を殺そうとすれば、その前には葵が立ち塞がること、必定である。
その矛盾に、雁夜は耐えられるのだろうか。
「あの娘、どうやらおぬしのことを悪く思うてはおらぬらしい。どうじゃ、元通りにできぬなら、いっそ自分の物にしてしまえ。ワシの狙いはあくまで第五次聖杯戦争、お主と桜の子が聖杯を取れば文句はない」
「……やめときます」
ようやくそれだけを絞り出し、飛鷹は目を閉じた。
大丈夫――自分に念じ、言い聞かせる。
雁夜が勝てば良い。いや、雁夜が勝てなくても良い。自分が耐えれば良い。
最悪の場合――自分が耐える必要すらない。
目の前で笑う老人。
間桐臓硯。
この男を弑逆してしまえば、全てが終わるのだから。
だが、いまはまだ、時期尚早である。
諦めたように見せかけ、ゆっくりと牙を研がなければならない。この老人が、どれだけの切り札を、奥の手を隠しているのか知らなければならない。
「ほう? 良いのか、飛鷹。雁夜の話は聞いたであろう。躊躇えば――失うぞ」
「……」
今度こそ、飛鷹は顔面蒼白になった。
いつ、この老人は、自分の恋心を知ったというのか。
この屋敷に着いてから、一度たりとも、それと確信させるような素振りは見せていない。まして口にしてもいない。
監視されていた、それならば説明はつく。ならばいつから。まさか、あの墓参りに行くタクシーの車中を、既に監視していたとでもいうのか。
いや、監視などせずとも、桜の身代わりになる、という取引を交わしたのだから、そういった推測はできるかもしれない。ただ、雁夜のために動いていると思われていたはずだ。だからこそ、こうして雁夜に知らせるという陰湿な嫌がらせを行なったのだから。
「……く、ク」
飛鷹の思考を打ち破ったのは、微かな笑い声だった。
驚愕は疑念に変わり、疑念は確信に変わる。
「別に……ぼくは、どうでも……」
「どうでもよい、と? ならば桜のことに口を出さずとも良いではないか。いまからでも教育を開始するとしようかの」
「……」
好きにしろ、などとは間違っても言えない。言質を取られれば、臓硯はまず間違いなく、そして遠慮なく桜を地獄へと叩き落とす。
しかし、桜は大事です、と素直に言うわけにもいかない。
結果として、沈黙を余儀なくされていた。この場面での沈黙は、ある意味で千の言葉よりも雄弁な皇帝であると知っていながら。
なにもかも遅かった。いまになって興味がないように振舞おうとも、先の動揺が全てを物語ってしまっている。そして、一度放たれた言葉は往々にして取り返しがつかないものである。
「そう恐れるな。おぬしの気持ちは、よぉく分かった。この爺にも伝わったわ」
臓硯の楽しげな、笑いすら含んだ声。
自分はどれほど酷い顔をしていたのだろうか。飛鷹は無性に鏡が見たくなった。
きっとぐちゃぐちゃなんだろうな、ということだけは想像がついた。
「さて……本題に戻るとするかの」
飛鷹はいまの今まで気づいていなかったが、部屋の中心にある机、その上に、一枚の紙が乗っていた。それを臓硯は手に取り、ひらひらと振って飛鷹に示す。
普通の白い紙とは違う。妙な色合いに、おかしな見かけの紙だった。例えるなら、年始の書初めで使う和紙に似ている。
その上に流麗な筆跡で書かれた文字は、見覚えのない外国語らしきもの――というよりは、いつだったかテレビで見た、エジプトの象形文字のようなもの――で記されており、意味を読み取ることは叶わない。
ただ、なにかしら特別な意味が篭っていることは分かった。明確な根拠があってのことではないが、その紙からなにやら怪しげな雰囲気が漂っていたからだ。
また、よく分かんない物が出てきた――それが、飛鷹の偽らざる心中だった。
もう、妙ちくりんな神秘やら、摩訶不思議な法則の産物やらは満腹になるまで押し付けられた後である。この上、用途が分からないどころか文字まで読めない書類など願い下げだった。
「これはな、自己強制証文(セルフギアス・スクロール)という、魔術師が契約――いやさ、おぬしには約束の方がわかりやすいか。約束の際に用いる小道具の一つじゃ」
「せるふぎあ……」
「ここに書かれた内容を当人が理解し、自らの意思を持って署名する。そうすることで魔術的な約束が成される。これは少々改変してあるゆえ、血判を押すことで作用する」
なんとなく、その用途は分かった。
成程、魔術師が全て臓硯のような人間だとすれば、こうして紙に残し、保証を用意していなければ、約束一つ交わすのも躊躇うに違いない。
そしておそらく、この紙を用いて交わした約束には、なんらかのリスクも伴うはずである。
「約束を、破ったら……?」
「モノにもよるが、これはワシの手製でな。まずはその不届き者の全身を耐え難い激痛が襲い、それに伴って黒い模様が体に浮き出る。それを見ても約束を守らなければ――最終的には死ぬ」
嘘ではない。そう飛鷹は判断した。
死ぬというのが真実かどうかまでは分からないが、それくらいのペナルティは有って当たり前だ。
ただ――飛鷹には、これに血判を押す勇気がない。
相手は読めるが、こちらは読めない契約書にサインするビジネスマンはいないのと同じだ。
書かれた内容を当人が理解し、自らの意思を持って血判を押すことで作用する――そもそも、その言葉を信用する根拠がどこにもない。
無論、臓硯に契約内容を読み聞かせてもらえばいいだけのこと――だが、臓硯が誠心誠意、偽りなく契約内容を読み上げるという保証がどこにあるというのか。
「先に言うておくが――おぬし、これを読めるはずじゃ」
「え?」
半信半疑ながらも、臓硯が突き出してきた紙を受け取り、眺める。
裏返す、斜めから見る、光に翳す――どうやっても意味を持った文字には見えなかった。どこからどうみても、図形と絵と、謎の文字を落書きしただけにしか見えない。
「いや、こんな文字見たこと――」
言いかけた口が思わず止まった。
目の前の意味不明な絵図が、いつの間にか日本語の文章として見えていたからだ。
少々読めない漢字もあるが、意味が分からないわけではない。
「ほんの数秒、凝視せねば分からぬように細工してある。無論、読み解くことができるのは、ワシとおぬしだけだがな――さて、その条件で納得したならば、血判を押せ」
飛鷹は慎重に目を走らせる。
まず、飛鷹は臓硯の指示に必ず従うことが明記されている。ただし例外として、桜と雁夜に危害を加える類の指示には不服従が許されているようだ。
また、飛鷹が前項の約定を違えぬ限り、臓硯は桜への教育を行わないこともはっきりと記されていた。
その教育の意味も、蟲、その他、桜に身体的、精神的苦痛をもたらす魔術的な行為として定義されているため、抜け穴はないように思える。
他にも、目を皿のようにしておかしい点を探すが、どこにも見当たらない。
そして、それこそがおかしいことのように思えて仕方ない。
「さあ、どうする? 先に言うておくが、ワシがそれ以上の譲歩をすることはないぞ」
その一言が止めだった。
そもそも、口約束に過ぎなかったものが、こうして拘束力を持つ契約へと変化するのである。飛鷹からすれば願ったり叶ったりというものだ。
だというのに、この程度のリスクや不信に尻込みをして、絶好の機会を逃してしまうのか。否、有り得ない。
「けっぱん、どうやって押すんですか」
また一つ、地の底へと近付いた。それはきっと、錯覚ではない。
それでも、自分で選んだ道ならば、進む他にない。
臓硯はなにかを懐から取り出し、飛鷹の手の平に乗せる。
それは、小さな針だった。
「その針で親指を少し刺せ」
「……っ」
躊躇いながらも刺すと、ちくりと痛みが走り、次の瞬間、そこから血が不自然に流れ出す。
血は瞬く間に親指の表面を覆い、赤く塗装した。
「その親指を、ほれ、ここの部分に押し付けるのだ。判子を押すのと変わらん――よし、針を寄越せ」
飛鷹が血判を押し終わると、臓硯も同じように血判を押し、くるくると紙を丸めて袖に仕舞い込んだ。
「これで契約は交わされた。どれ、一つよろしく頼むぞ」
ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべながら、臓硯は右手を突き出す。
握手を求めているのだ。
当然、飛鷹には握手するつもりなど欠片もない。
肌が泡立つどころではない、本能的に忌避してしまうほどの嫌悪感を感じる相手の手を直に握るなど、頼まれてもお断りだった。
加えて言うならば、これは指示ではないのだから、拒否しても問題無い。
「……お父さんが心配してるから」
そう言って、早足で扉へと向かう。
背後で忍び笑いが聞こえた。なにに対して笑っているのか、飛鷹には分からない。
ただ、なにか邪悪な動機で笑ってるんだろうな、ということだけは理解していた。
扉を開け、体を出して、後ろ手に閉める。
たったそれだけの動作である。
にも関わらず、飛鷹の全身からどっと汗が吹き出した。
「ふー……」
大きく息を吸い、吐く。少しでも気持ちを落ち着かせるべく、心を静める。
臓硯と同じ空間にいた後は、いつもこうなる。呼吸を忘れてしまうことも少なくない。それだけの緊張と覚悟を持って臨まねば、あっという間に呑まれてしまいそうだからだ。
取り敢えずは自室へと戻るべく、飛鷹は足を動かした。
そして、すぐに止まった。自室への途上にある扉の前で、不安げに立ち尽くす少女がいたからだ。
起きて廊下に出てきたはいいが、どうすればいいか分からなくなって途方にくれているのだろう。如何にも彼女らしい。
沈鬱だった心が、少し暖かくなった。
「……おはよう、桜ちゃん」
「あ、ヒダカくん! おはよう!」
ぱた、ぱた、ぱた。
スリッパの柔らかな音を立てながら、満面の笑みで桜が駆け寄ってくる。
姉の凛から貰ったらしいリボンが、髪の毛と一緒に揺れていた。
「ヒダカくん、ここにいるって聞いたときはびっくりした。あんまり仲良しじゃないって、お父さんから聞いてたから……」
「ぼくも、桜ちゃんがここに来るって分かったとき、ほんとにびっくりした。遠坂さんの家にいると――ごめん」
桜の顔がすっと翳った。飛鷹は自分の迂闊さに苛立ちながら、慌ててフォローに回る。
しかし、桜はふるふると首を振った。
「ううん、いいの。お父さまは、私のためにこうしたんだって、お母さまが言ってたから……それに、ね。ヒダカくんがいてくれるから、すごくうれしい。最初は、ひとりぼっちになっちゃうと思ってたんだよ? だから、ヒダカくんとカリヤおじさんがいてくれるだけでもいいの」
そっと、桜の手が飛鷹の手を握る。
暖かく、しかし小さい手が、紛れもなく飛鷹に縋っていた。
言い表せない、快感とも戦慄ともつかない、電撃のようななにかが、背筋を走った。
ぶるりと震える体を抑え、桜の言葉を待つ。
「ねえ、ヒダカくん――いっしょに、いてくれるよね?」
はたして、その言葉は、なによりも望んだものだった。
――ありがとう、桜ちゃん。これでぼくは、がんばれる。
心の中で静かに感謝し、感極まりながら、飛鷹は言う。
自分もまた笑って、いまから返す言葉が少しの嘘を抱えたものであると知りながらも、言う。
「……うん。ずっと、いっしょだよ」
この少女を、命に代えても守りたい。
きっと、その気持ちに嘘はなく、偽りは含まれず、どこまでも真摯で、なによりも強く尊い。
だから飛鷹は、笑うことができた。
これから、なにが待ち受けようとも、もう大丈夫だと、そう思えたゆえに。
最期の最後まで、この選択を悔いることはないのだろうと、思えたからこそ。
心で泣いて、顔で笑えたのだ。
運命に翻弄された父子。
しかし彼らは、翻弄されるだけでは終わらない。
逃れ得ぬ強大なものに牙を剥き、爪を突き立て、見苦しく足掻く。
それがはたして、意味のあることだったのか。
全ては、一年後に問われる。
それら全てを意に介さず、聖杯は、ただ待ち続ける。
自らを手にするに相応しき者の訪れを、静かに待つ。
負けたッ! 第一部・完ッ!
いや、長かった……
一年間の話をちょいと書いて、余裕あったら閑話も書いて、でもまあ、なるべく早く戦争にレッツゴーしちゃいたいと思います。
どうか、暖かなご声援、厳しいご意見とご指摘をお願いします。
裏事情……間桐の家は呪術に秀でているので、自己強制証文みたいなのは得意分野になります。改造なんて真似ができたのはそのためです。
という妄想ですごめんなさい。
あと、なんか桜>雁夜みたいな描写になっちゃった気がしますが、飛鷹くん、雰囲気に酔ってます。雁夜が目の前にいたら、雁夜>桜みたいな心理描写入ること間違いなしです。
でもまあ、人間って、そんなもんですよね。