雁夜と飛鷹が会い、言葉を交わすまでの二時間。
臓硯から図らずも与えられた空白の二時間で、飛鷹は、あることについて考えていた。
それが、第三の選択肢。
少なくとも、そんなものがあるかもしれないという可能性に気付いた。
雁夜を置いていくことはしたくない、しかし桜を完全に見捨てていくのは望まない。それでもどちらかを選ばなければならない。
そんなジレンマを、もしかすると解消できるかもしれない一手。
雁夜を置いていかない。
桜を見捨てない。
そのどちらをも叶えることができる、第三の選択。
不確定要素はあまりにも大きく、情報は皆無で、選択肢として成り立つかどうかすら怪しいものだ。それでも、思いついた。
ただ、それを可能性として数えるには、少しだけ――本当に、少しだけ――勇気が足りなかった。
どうしようもないほどに甘美なものに思われたそれは、臓硯に突きつけられた選択にすら存在していた大前提を、根底から放棄するものだったからだ。そしてその報いは、そのまま飛鷹に襲いかかる。
どのような報いが降りかかるのか、その内容まで飛鷹は正確に予想していた。
もちろん、そんな選択肢は存在しないかもしれない。飛鷹の一人相撲に過ぎず、臓硯に鼻で笑われるかもしれない。
だが、もしも、それが本物の選択肢だったなら――飛鷹は、自分が叩き込まれる地獄の窯の蓋を、わざわざ自ら開いたも同然だ。
その未来を考えるだけで、震えが止まらないほど恐ろしい。吐き気が収まらないほど悍ましい。
誰も、飛鷹がその道を進むとは思わないだろう。雁夜も、桜も、臓硯でさえも、おそらくは一切の例外なく予想だにしていない。飛鷹自身、ふと思いつくその瞬間までは頭の端にすら上げていなかったのだ。
明らかな狂人の道。救いはなく、一条の光明さえ見えることはないかもしれない。
だが――だからこそ、意味があるものでもあった。
◇◆◇◆
話し出してから、一時間と少しが経過していた。
雁夜は一旦口を閉ざし、大きく息をつく。
「大雑把だが、これで大体のところは話した。後はお前も知ってる通り……臓硯と取引をして、桜ちゃんを救うために聖杯戦争に出ることにしたんだ」
「……うん。ありがと」
頷く飛鷹は、雁夜の動機を、おそらくはこれ以上ないほど完璧に理解していた。
要するに、葵を桜に置き換えて、ここに連れて来られたのが凛だとしたら、自分がどうするか、どんな気持ちで動くのかを考えればいいのである。
もちろん、自分が凛を助けるのに理由はいらない。ただ、なにを一番に期待するかといえば――
――ヒダカくん、ありがとう。
そう、花のような笑顔で言ってもらえるかもしれないということ。
そして、かけがえのない姉を救ってくれた頼れる人として、桜に好かれる。
やはりそこに尽きるのだ。
好きな人のためになにかしてあげたい――結局は、そんな気持ちが、雁夜の中で最も大きなウェイトを占めているのだろう。
無論、もっと高潔な志から動いている部分はあるのかもしれないとも思う。
たとえば、贖罪という言葉は知らずとも、その概念ならば飛鷹にも分かる。雁夜の中に、それがあることも。
自分が家を逃げ出さなければ、桜は必要なかった。過去の逃避のツケが、巡り巡って桜に降りかかった――少なくとも雁夜はそう思っている。そのことを飛鷹は十二分に理解していた。そして、その理論にはある程度の正しさがあるかもしれないということを、薄ぼんやりとした理解の上ではあるが認めている。
しかし、こうも思うのだ。
いつでもどこでも、好きな人に好かれたいと思うのは当たり前じゃないか――と。
桜という一人の少女を救いたい。
自らの罪を償いたい。
その上で、葵の好意をも勝ち取りたいと思ってしまうのは、これはもう仕方の無いことである。少なくとも飛鷹はそう思うし、その正当性を認められる。自分自身、一人の少女に恋をしている男なのだから。
先程の例で考えても、桜への想いを完全に排除して、純粋に、無私の心で凛を救うなど不可能だ。飛鷹は聖人ではない。そして雁夜もまた、一人の男である。
「そっか。よく分かった。お父さんの気持ち」
飛鷹の心は、穏やかな諦観で満たされていた。
雁夜が、自分には理解し難い信念や倫理、あるいは使命感といったもので動いていたなら、きっと飛鷹は雁夜を無理にでも連れ出していた。
ただ、雁夜が誰のためでもなく、自分と愛する人のために戦うというのなら――
「ありがとう。子供のぼくに、全部話してくれてありがとう」
雁夜の帰国から始まった、激動の二日――その中でも、これまでになく静かな気持ちだった。
選択肢があるからこそ、人は悩む。しかし、自分にとって正しい選択はなにかを見つけることができたならば、惑うことも悩むこともない。
進むべき道、選びたい道が明瞭になるということが、どれほど素晴らしいことなのかを、飛鷹は実感していた。
同時に、それに伴う覚悟をすることの難しさも、僅かに予感していた。
自分がいまからすることは、確実に雁夜を悲しませる。
その上、途方もない勇気と、不退転の覚悟が必要だ。それも一瞬だけではなく、長期に渡って維持し続けなければならない。
自信があるか、と聞かれればそうでもない。しかしやらねばならない。
飛鷹もまた、飛鷹であるために。
ただしその前に、聞かねばならないことがあった。
「ねえ、お父さん。なんで桜ちゃんが呼ばれたの? 遠坂の人たちが魔術師だってことは分かったけど、わざわざ桜ちゃんを呼ばなくてもいいよね。ぼくも、いままでずっと放っておかれたのはなんで?」
「……そうだな」
雁夜は暫し考え込み、また語りだす。
「まず、あいつの望みは不老不死になることだ。そのために聖杯を求めている。聖杯戦争については聞いたんだろ?」
「うん。それで?」
「桜ちゃんは、とってもすごい魔術の才能を持ってる。だから、桜ちゃんの才能を持つ子供が欲しいんだ。その子なら、きっと聖杯を持って帰るだけの強さがあるから。飛鷹が無事だったのも、その才能がないからだ」
「……そっか」
あまり良い知らせではなかった。
桜の利用価値が臓硯にとって大きければ大きいほど、飛鷹の考えた第三の道は狭くなる。
さらに、自分にはその価値がないことも明らかになった。
残る交渉材料は、一つ。
上手くいくかどうかは分からない。しかし、決めた以上は当たって砕けるのみである。
「飛鷹。お前――なにを考えてるんだ?」
雁夜の不審がる声が聞こえる。
当然だとは思いつつ、その道理に答えることができないことを申し訳なく思った。
自分がやると決めたこと、それを雁夜に話してしまえば、これもまた確実に止められる。そして、その制止に抗いきれる自信がないのだ。
故に、土壇場まで秘する。
なにもかも手遅れになるか、飛鷹が自分の意思をしっかりと貫き通せる確信が持てるまで黙っておく。
「おじいちゃんと少し、お話してくるね。すぐ戻ってくるから」
「は? おい、ちょっと待て! 一体どういう」
雁夜の声に耳を貸すことなく、飛鷹は部屋を走り去った。
目的地は臓硯の私室である。そこに臓硯がいなければ、また次の場所へ行く。臓硯に会うために、飛鷹は走っていた。
廊下ですれ違ったメイドが驚くのを、窓から見える桜がどんどん近づくのを、その目で見ながら走り続ける。
心臓の鼓動がやけに煩かった。
胸が締め付けられて呼吸がし辛い。
涙まで溢れてきた。
それでも、走るのを止めようとは思わなかった。
立ち止まってしまえば、二度と走り出せない。それを痛いほど自覚しているからこそ、走る。走り続ける。
泣きながら、飛鷹は走った。
臓硯を探して邸内を駆けずり回った。
応接間――いない。走る。
臓硯の私室――いない。走る。
寝室、いない。走る。応接間、いない。走る。二階、いない。走る。正門、いない。走――
「ヒダカくん!」
なにが起こった。飛鷹はそう思った。
聞こえないはずの声が聞こえたので、気になり顔を向けた。
すると見えないはずのものが見えた。信じられずに足を止めた。
耳と目がおかしくなったのかな――真剣にそう思いかけた。
「ヒダカくん、おむかえにきてくれたの? ありがとう……すごくうれしい」
そういって微笑む眼前の少女。
何度見ても変わらない。いないはずの人がいる。
否――いてはならないはずの人がいる。
「さっ……桜、ちゃん?」
震える口唇で紡いだ名前。
どうか否定してほしい、怪訝な顔をしてほしい。そんな人知らないよ、そう言って馬鹿にしてほしい。
懇願にも等しい強さで願う飛鷹の正面、中庭と邸内を繋ぐドアの前で佇む少女は、飛鷹のよく知る笑みを見せながら――
「うん」
――とてもとても嬉しそうに、頷いた。
思考が停止していたのは、数秒か、数十秒か、それとも数分か、数十分か。
短くも長い停滞は解け、飛鷹は混乱の渦中にあった。
よく考えれば、臓硯は、いつ桜が来るかを口にしたことがない。桜が養子にくる明確な期日を、飛鷹は聞いたことがない。
ならば、そう、今日たったいま狙いすましたかのように桜が来たとしても、なにも矛盾はないのだ。
全ては、飛鷹の思い込みだったのだから。
「大丈夫? ヒダカくん、なんだか変だよ」
「――あ、ああ、うん。大丈夫。ちょっと、そう、ちょっと驚いちゃっただけだから」
嘘ではない。絶望や悲しみ、後悔といった感情が入り込むには、あまりにも忘我の境地にある。ただし驚いたどころの騒ぎでもない。つい十秒ほど前には鉄のように固めていた意志と、心中で纏めていた台詞が、一緒くたに吹き飛んでしまった。
それだけの大きさを持つ存在だったのかと、改めて桜に対する想いを新たにする。
「おお、桜。飛鷹と会えたようじゃな。重畳重畳」
その一声で、飛鷹は本来の目的に立ち返った。
桜の後に続いて臓硯が入ってきたのだ。
その矮躯を見た瞬間、飛鷹は衝撃で白紙に戻った心へと、新たな色が継ぎ足されるのをはっきりと感じた。
覚悟の代わりとでも言わんばかりに飛鷹の心を満たしたのは、これまでの生涯で、一度たりとも感じたことがない感情。
それがなんなのか、三拍ほど自分でも図り損ねた。それほどに濃く、強い色。しかし理解してしまえば簡単だった。
激怒である。
よくも桜ちゃんを巻き込んだな――その一念からくる激烈な怒りが、臓硯への恐怖、魔術への畏怖を諸元に消し飛ばしていた。
「……大事なお話があります。でも」
ちらりと桜に視線を向けると、臓硯も鷹揚に頷いた。
「話は応接間でな。桜、ちと席を外す故、ここで待っておれ。すぐに戻る」
「はい、おじいさま」
傍から見ても分かるほど楽しそうに顔を歪ませた臓硯は、二階へと向かう。
ぼくの答えを聞いたら、どんな顔になるのかな――そんなことをふと思いながら、飛鷹も階段を上る。
緊張と怒りからか、応接間までの距離は恐ろしく短く感じられた。
奥にある椅子に座り込んだ臓硯は、期待と欲望で濁りきった瞳を飛鷹に向けた。
「さて――答えを、聞こう」
「おじいちゃん……おじいさま」
言い直す。ただそれだけの行為である。にも関わらず、飛鷹は断崖絶壁への一歩を踏み出したかのように錯覚していた。
燃え上がる怒りは、崖からの転落というあまりにもリアルな驚異を前にして下火になりつつある。
蓋をしていた苦悩、恐怖、絶望――それら全てが、飛鷹の心を蹂躙し、屈服させようと暴れまわる。
命を守るために、心が自衛を試みていた。
だが、その先――自分の心すら裏切って初めて道は開ける。
「おじいさま。ぼくが――」
思い切るように言葉を繋ぐが、肝心の言葉がどうしても出てこなかった。
たった一文。
その一文を口にするのが、どれほど難しいことか。
手足の震えを隠す余裕もない。
目の前では、老人の皮を被った化け物が垂涎の面持ちで、今か今かと待ち構えている。
それらと戦う動機はただ一つ、愛のみである。
それは、あまりにも儚い。
「ぼくが、桜の代わりになります」
だが、それで十分だった。
勇気を手にした雛は、自らが鷹と成りうることを示すだろう。
愛しき人を救うために、その身に秘めたる価値を存分に見せつけるだろう。
その結果――自らの風切り羽を失うことになると、悟っていようとも。
中二病なんて、思っても言わないでください。お願いします。