(大丈夫かな、飛鷹(ひだか)……)
間桐雁夜は、日本に向けて飛ぶ航空機の客席で思った。
かつて若かった雁夜も、今年で二十七歳。四捨五入すれば三十歳である。
体力や筋力はまだまだ衰えないが、時間の流れというものを感じ始めていた。
自分が間桐の魔術を忌み嫌い、出奔してから十年。
自分の大事な息子が産まれてから七年。
あの赤ん坊が、もう七歳になって葵の娘たちと遊びまわっている。
それは、雁夜に父親としての自覚を呼び覚ますには十分だった。
父親となって自分は変わった。そう、雁夜は思う。
その最たる例は、今もなお好意を寄せる幼馴染、葵への感情だ。葵への焼けるような想い、その量は変わらずとも、それをある程度は制御できるようになった。
葵の他に愛するべき、そして愛したい人ができたからだ。
それこそが最愛の息子――間桐飛鷹。
結城静との間に生まれた、正真正銘の一人息子である。
かつての、飛鷹が生まれる前の雁夜は、精神的にどこか子供のままだった。しかし子供を持った親は成長するものだ。
もう子供ではいられない。大人の男として飛鷹を守っていかなければならない。自分一人の体ではなく、過ぎ去った恋に執着してはいられない。その思いが、雁夜に人間的な成長を促したといえる。
さて、雁夜はルポライターという職業柄、遠いときは異国に向かうことも珍しくない。飛鷹が産まれてからは出来る限り冬木の近場で仕事をしていたが、今回はどうしても外せない仕事が海の向こうで持ち上がり、その間、飛鷹は葵に預けていた。
しかし、帰国は予定よりも一カ月ほど早い。飛鷹が唐突に熱を出したという報せを受けたからだ。なぜか熱は二、三時間ほどで引き、病院に連れて行っても異常はなかったが、大事を取って家で安静にさせているという。
もちろん雁夜はいてもたってもいられず、急ぎ帰国することとした。仕事も一応の区切りはついており、後は知り合いのライターに助けてもらえばなんとかなりそうな出来に仕上がっていた。
雁夜は窓の外に広がる暗闇を見る。
飛鷹。自分の一夜の過ちによって産まれた、望まれぬ子。
一時は、間桐の家に奪われるくらいならこの手で――そんなことまで考えていたことを思い出す。なぜか手出しはされず、知り合いの魔術師に無理を言って飛鷹を調べてもらったところ、飛鷹が魔術回路を持ち合わせていないことが分かり、心から安堵したことを覚えている。
おそらく臓硯もなんらかの方法でそれを知り、さっさと飛鷹に見切りをつけたのだろう。無論、雁夜はそちらのほうが嬉しい。
自分が家を出奔したときに望んだもの、ささやかな幸せ。その全てを飛鷹が満たしてくれていた。
だからこそ、一時的とはいえ高熱を出して寝込んだなどと聞けば、雁夜は気が気ではない。
(飛鷹に、なにもなければいいんだけどな――時臣なんかに土産買ってる場合じゃなかった)
やや不機嫌ながらも、飛鷹が生まれる前の雁夜を知る者には想像もつかないほど、穏やかな心境。
雁夜を乗せた飛行機は、あと十三時間で日本に至る。
◇◆◇◆
目を覚ましたのはいつのことだったか、そもそも目を覚ます前は一体どこの誰でどのような存在だったのか、彼はもう覚えていなかった。
ただ、目を覚ました時、自分は間桐飛鷹と呼ばれるはずだった唯一の存在と本来の自分自身が混ざり合って構成されたなにかだ、と分かった。いわば混血ならぬ混心である。
まさしく子供のように奔放で、しかし無邪気な飛鷹の精神と。
ある程度まで成熟した大人の理性と知性を持ち、世の中の残酷さの一部を知る誰かの心とが、混ざっていた。
それは子供と大人を持ち合わせた、前代未聞の人間の誕生でもあった。
「……あつい」
目を覚ました飛鷹は薄く眼を開けた。
視界は明瞭なものの、頭の中が引っ切り無しに痛んでいた。熱は既に引いたが、それによって消耗した体までもが、すぐに回復するわけではない。
とはいえ窓の外では小鳥が鳴き、朝日の光が射しこんでいる。しかも他人の家で預かってもらっている身である。ここで起きないわけにもいかない。そう思い、ゆっくりと体に力を込める。まだ倦怠感があり手足も重いが、起き上がれないほどではなかった。
熱で寝込んでいた際の疲労で、体調は決して良くない。それでも起きないのは失礼な気がして飛鷹は布団を除け、ベッドから降りた。この辺りに大人の理性が垣間見える。
と、いつもと違う感覚に戸惑う。
(なんか……熱い?)
熱はもうないというのに、体の中に不思議な熱さを感じるのである。
不快な熱さではない。だが一つ間違えば痛みに転化しそうな類の熱さだった。
コン、コン。
戸惑っていると、ノックが聞こえた。叩き方にも人柄が出るのか、やや控えめなノックだった。
飛鷹もこの叩き方には覚えがあるので、さっさと許可を出す。
「どうぞ」
声をかけるとドアノブが回り、ドアが開く。
「おはよう、ヒダカくん」
「ん……おはよ、桜ちゃん」
扉を開けて入ってきたのは、黒い髪に青い瞳をもつ少女だった。名は遠坂桜――ここ遠坂家の二女である。
まだ五歳の彼女は、二つ上、つまり七歳である飛鷹を、どうやら実の兄のように慕っているらしかった。姉の凛がやや奔放にすぎる反面、大人の心からくる落ち着きが好ましいのだろうと、飛鷹はなんとなく思っている。
「もう大丈夫なの? すごい熱だったけど……」
「大丈夫、もうなんともないよ。心配してくれてありがと、桜ちゃん」
「別にいいの。それより、朝ご飯できたみたい」
「そっか。じゃあすぐ行くね。――あ、ひょっとして、ぼくを待ってたりする?」
「あ、でも、つらそうだったら別にいいって、お母さんが」
「ごめん! すぐ行くから先に行ってて!」
「……うん。待ってるね」
桜が躊躇いながらも頷き出ていくなり、飛鷹はすぐにドアを閉めて着替える。
着替えは自分の家から持参した物である。手慣れた作業を一分ほどで済ませると乱れた布団をさっと整え、廊下に飛び出て全速力で居間へと走り出す。
まずい、凛に怒られる――そんな予感があった。居候の分際で食事に遅れてくるなんて云々と言われかねない。
凛も、昨日まで原因不明の高熱を出していた人間に突っかかるほど短気ではない。しかし子供の早とちりと大人の知識を兼ね備えた飛鷹の思考は空回り、そこまで思い至らない。
そして居間につながる曲がり角に差し掛かった時、反対側から誰かが歩いてくるのに気づく。止まりきれない。そのままぶつかる――
「気をつけたまえ、飛鷹くん。廊下を走ってはいけないよ」
直前で相手が飛鷹の肩を掴み、止めていた。
飛鷹は聞き覚えのある声に上を見上げると、予想通りの人物が、あまりよろしくない表情で立っていた。
深紅を基調とする服装に身を包み、確かな気品を感じさせる男性。
立ち居振る舞いからその精神性も含めて、常に優雅さを忘れぬ、古き時代の誇り高き貴族のような人物。
滅多に会うことはないものの、初めて出会ったときからの、飛鷹の密かな憧れの的。
遠坂 時臣であった。
「ごめんなさい、時臣おじさん」
「次からはしないように。葵、それに凛と桜が待っているから、早く行きなさい」
表情の険を和らげた時臣は飛鷹の肩を優しく叩き、そのまま歩き去る。
飛鷹は暫しの間、その後ろ姿を憧れのこもった目で見つめる。
ああ、いつかあんな大人に――
「なにしてるのよ! 早く来なさいよ!」
桜たちを待たせっぱなしだということに気付いたのは、背後から凛が怒鳴りつけてからだった。
そんな、いつもと少しだけ違う遠坂家の朝の一幕。