禅城葵という名の少女に出会ったのは、まだ四歳の頃だった。
禅城の家に臓硯が赴いた時、いまでもなぜか分からないが、俺を伴っていったのだ。
「……あおい、といいます。今後ともよろしく、お願いいたします」
丸覚えしたらしく、たどたどしい定型句の挨拶が、妙に似合っていたのを覚えている。
その後は二人で庭先に出た。互いに魔術の存在は知っていたが、葵の方が若干詳しいのを悔しく思った。
そんなちっぽけな対抗心から、何気なく悪口を言ったのがきっかけだった。
なんと言ったのか、もう憶えていない。葵も暫くは憶えていたが、中学に上がる頃にはすっかり忘れてしまっていた。
「言ったわね、バカ!」
ともかく、葵は先程までの優雅さをかなぐり捨て、言い返してきた。
そこからはもう止まらない。
バカ、間抜け、頭でっかち……途中からは自分でも分からない言葉を使って言い合っていた。多分、悪口じゃない言葉を悪口であるかのように言ったりもした。
そうして、いつしか二人とも疲れてしまって――
「……ごめん」
「……私も、ごめんなさい」
それが、馴れ初め。
そこから同じ幼稚園に通っていることが分かった。
魔術を知る者というマイノリティだったこともあって、すぐに親しくなった。
幼稚園という閉鎖された空間で、秘密を分かち合う存在がいるというのは、親しみを感じさせるのに十分な材料だった。
葵は、俺の数少ない友人になった。俺も、葵の数少ない友人になった。
まだ魔術の痕跡や魔術師としての常識を隠せるほど成熟していなかった俺と葵は、少々友人というものが作りづらい環境にあった。
当時の俺は、自分の家の異常性も分からず、ただ邸内にいつも漂っている、薄暗く不気味な空気に不快感を覚える程度だった。使い魔、特に蟲を扱う魔術であることは知識として持っているだけで、その悍ましさを体感してはいなかった。おそらく、そうでなければ葵と親しくなることもなかっただろう。
小学校も同じところに進んだ。
葵から目を離せなくなったのは、その頃だ。
幼児から少女へと育っていく葵は、眩しいほど美しかった。
相変わらず、お互いにとっての一番の親友は、お互いだった。
ただ、少し違う部分もあった。
俺は魔術師としての教育を施され、蟲について深く知るにつれて、間桐の魔術の醜さと悍ましさを知って、魔術を忌避するようになった。
一方の葵は、魔術師の妻としての心構えを身につけ、性格も温和になっていった。
少しからかっても、昔のように反撃してこないのを、どこか寂しく思った。
中学生になった頃、なにかが違うと気づいた。
俺と葵の距離は、知らぬ間に離れていた。
葵さん、雁夜くんと、他人行儀に呼び合うようになっていた。
呼び方だけではない。実際に、親しく遊んだり付き合ったりすることもなくなっていた。
葵は友人がいなくとも耐えられる、鉄の精神を既に身につけていた。時に我が子を切り捨てねばならない魔術師の妻に、友人を必要とするような脆さは禁物だということだ。
俺はといえば、葵との仲を復旧することなど気にしている余裕はなかった。家への反抗を表立って始めたのが中学一年生になってすぐだったからだ。
静と知り合ったのも中学二年生の時だ。
典型的な反抗として家出を敢行していた夜、宿の代わりに公園の遊具を使用していた時に出会った。
これは別の話なので、また別の機会に語ることにするが。
さて、高校生になってから、俺と葵の亀裂は決定的なものとなった。
幼馴染としての絆が、唯一、俺と葵をかろうじて繋いでいた。
俺は、彼女をずっと愛していた。
それでも、俺が魔術と距離を取るべく努力すればするほど、葵との距離も離れていった。
彼女は、間桐の悍ましさを理解してくれなかった。それもそのはずだ。あれは実際に見なければ理解できないだろうし、俺も具体的な内容は何一つ示せなかった。具体的な内容を部外者に伝えることは禁止されていたからだ。
一時期は、魔術師の家に生まれた者としての責務を放り投げようとする者として――そしておそらく、それ以上に、自分には選べない一般人への道を選ぼうとする裏切り者として――俺に、負の感情がこもった視線を投げつけてきた。
それも、高校二年性になる頃には和らいでいた。
諦観ではなく、誇りを。
流されるのでなく、進むことを。
せめて自分の人生を、自分だけでも尊ぼうと、そう決めたように見えた。
俺の反抗に羨望の視線を向けることも、軽蔑の眼差しを投げることもなくなった。
そして、来る日。
「お別れだ、お父さん――いや、臓硯」
「好きにするが良い。修行も碌に行わず逃げてばかりおる凡才など、別段惜しくもない」
その日、俺は家を出た。高校は中退した。
街を出て働こう。決別の言葉を臓硯に放つずっと前から、そう決めていた。
それでも――その前に、葵を呼び出した。
言いたいことが、あったから。
「雁夜くん、一体どうしたの?」
「……来てくれ、葵さん。話したいことがあるんだ」
禅城の家まで行き、近くの公園まで半ば無理やりに引っ張っていった。
そして、全てを話した。
間桐を捨てたこと。
冬木を出ること。
魔術師ではなくなったこと。
なにもかもを聞く葵は、とても穏やかな顔つきだった。
あまりに穏やかなそれに、胸がざわめくのを感じた。
「それが貴方の幸せなのね」
「ああ」
頷きながら、俺は一つ決意していた。
長年の想いを、ここで伝えると。
いまここを逃せば、二度とチャンスはこない。そんな気がしたから。
胸が苦しくなるのを感じながら、俺は葵の目をまっすぐに見た。
――駄目だ。
そう囁く声が、頭の片隅に生まれた。
目の前の葵は、呼び出したときからなにも変わらず、不自然なほどに凪いだ瞳をしている。
(ああ、なんだ、そういうことか)
そこで不意に気づいた。
既に遅いのだと。もう手遅れだと。
「じゃあ、これで」
「ええ。――健やかにいてね、雁夜くん」
「……葵さんもね」
少し寂しげな微笑に背を向けた。
ここで告白したところで、どうしようもないと悟ってしまったから。
本当は引き止めて欲しかった。
魔術を捨てるなんてバカな真似はよして、冬木を出るなんて無茶よ、と。そんな風に言って欲しかった。
葵の価値観はよく知っている。彼女は魔術を捨てるなど理解できないし、考えもしないだろう。
ならば――なぜ、俺が魔術の道を捨てても、なにも言わなかったのか。
かつて向けられていた羨望と妬心の塊が失せたとき、きっと葵の中では全てが終わっていたからだ。
自分には理解できない人間だと――そう、間桐雁夜の存在を定義づけたのだ。
愛の反対は憎悪ではない。無関心だ。
昔は、俺のことを愛してくれていた。
だからこそ、あんなにも憎まれた。
そしてそれが終わって――なにも残らなかった。
俺が魔術を捨て、冬木を出ると聞いても、彼女の心に波風が立つことは無かった。だからあんなにも瞳が凪いでいた。
きっと葵は、翌日から何事もなかったかのように過ごすのだろう。ほんの少し幼馴染の不在を気にかけて、僅かな寂寥感を抱えるくらいには俺のことを想ってくれている。幼馴染だから。
だが、強がるわけでもなく、取り繕うわけでもなく、すぐに忘れてしまうのだろう。
つまるところ、禅城葵にとっての間桐雁夜とは、その程度の取るに足らない他人でしかなかったということだ。
この瞬間、ある意味で俺の初恋は終わった。告白して振られるよりもこっ酷く打ちのめされて。
外に出てからは、ずっと憧れていた記者――ルポライターになって、慣れない仕事に苦労しながらも少しずつ独り立ちしていった。
それでもその間、葵の面影が消えることは無かった。ルポライターの知識や土産を理由にしてなにかと会いに行ったのは、情けないことにそれが理由だ。
それが完全とはいかないまでも、少し吹っ切れたのは、その二年後――彼女の婚約を聞かされた夜かもしれない。
静と一夜を共にして。その後、消えてしまった彼女に呆然としながらも今までどおりに暮らしていると、突然飛び込んできた知らせ。
結城静と名乗る女性が、自分の子を懐妊しているといって診療所に飛び込んできたと聞かされたときは、文字通り思考が止まるのを感じた。
なんでも、破水した状態にも関わらず自分でタクシーに乗り、診療所にやってきたのだとか。
葵に会いに来ていなければ、間違いなく知らない間に出産していただろう。そう考えると、運命というものを感じる。
飛鷹を――最愛の息子を産んだ彼女は、その翌日、やけに満ち足りた顔で、遺言の一つも残さずに逝った。
まるで、自分の役目は終えたとでも言いたげに。
後に残されたのは、わけも分からず父親になった俺と、無邪気に母親を探す赤ん坊。
なにも知らない赤ん坊の姿は、あまりにも弱々しく脆く見えて――守らなければ、素直にそう思った。
そうして、今の俺――間桐雁夜も生まれた。