「なんて無茶したんだ!」
雁夜が出て行った後の一晩、守からの逃走、タクシーに乗って辿り着いた不動産、車で迎えに来た臓硯、そしてすべてを知った今日の出来事――車の中で意識を失ったこと、突き付けられた選択、これら二つを意図的に隠した、九割九分の真実に一分の嘘を交えた話。
それを聞いた雁夜から出た一言は、当然ながらお叱りの一喝だった。
これ以上小さくなりようがなさそうなほどに縮こまった飛鷹の前で、雁夜の叱責は続く。
「守を騙して、一人でタクシーに乗って、挙句の果てにこんなところに来て……自分がなにをやったか、分かってるのか! なにか一つ間違ったら危ない人に攫われてたかもしれない、車に撥ねられてたかもしれない。その果てに辿り着いたのは、そっちの方がマシだと思えるような場所なんだぞ! それなのに――」
「でも……最初に嘘ついたのは、お父さん、だよね」
「それ、は……」
精一杯の反抗、途切れ途切れの反論。
しかし、怒涛の如く流れだそうとしていた残る叱声が、ピタリと止んだ。
その様子を的確に言葉で表すとすれば、まさしく――ぐうの音も出ない、といったところだろう。
先程までの怒り、その根底にあるのは飛鷹への愛に他ならないと、飛鷹も分かっている。ただ、腹に据えかねるものはあった。
雁夜が飛鷹を責めるために使った理屈は全て、雁夜にも当てはまるのである。
晩御飯までには帰るという約束を破り、
迎えの人が来るかもしれないということを告げずに出て行き、
挙句の果てに、飛鷹の与り知らぬ場所で勝手に命を賭けている。しかも、飛鷹よりも余程際どいところで、だ。
それら、なにもかもを棚上げして一方的に責められては、飛鷹も堪ったものではない。
「そ、それはッ! 飛鷹を危険な目に合わせたくなくて、それで」
「ぼくだってそうだよ」
雁夜の言い訳に対して、今度は飛鷹が言い返す番だった。
溜まり続けていたストレス、一度も放たれてこなかったフラストレーション、それらがいま、身の危険を考えずにぶつけられる相手と口実を見つけ、一気に解き放たれた。
「お父さんが出て行って、ずっと怖かったのに、心配してたのに、どうしてなにも言ってくれなかったの? 大人の事情だから関係なかったって言いたいの? お父さんがどうなっても、ぼくには、なんにも関係ないの?」
「……お前に言えば、どうなる? こうなるに決まってる。飛鷹、お前を大切に思ってるからこそ、お父さんは黙って行くしかなかったんだ」
「そんなの家族じゃない。お父さんは勝手だよ、なんでも自分のことで、ぼくには関係ないみたいにして。お父さんのことなら、ぼくにだって関係あるよ」
飛鷹は言葉と共に雁夜の目を見つめる。
不意に視線をそらした雁夜は、納得していないことが明らかな顔で、そうだなと言って頷いた。
「なにも言わなかったのは悪かった。心配させたのも。でも、もういいだろ、飛鷹。今すぐにここを出て守と会え。早く冬木を出るんだ」
「やだ」
飛鷹の即答を聞いた雁夜の顔が、見る見るうちに険しくなった。飛鷹の見立てでは、怒りと焦りと悲しみを三等分ずつくらい含有していたのが、いまでは怒り三、焦り七といったところである。
「飛鷹は、お父さんを困らせたいのか?」
「そうじゃないけど、やだよ。お父さんと一緒にいたい」
「……なあ、飛鷹。お父さんはな、お前の我儘聞いてる場合じゃないんだ。あの爺ぃ……おじいちゃんが、いつお前に手を出すか分からない。そんな場所に大事な息子を置いときたいなんて思う親はいない。飛鷹が大切だからこそ、冬木から早く出て行ってほしいんだ」
やだ――同じ答えを返そうとした飛鷹は、思わず怯んだ。雁夜の言葉の端々に苛立ちが垣間見えていたからだ。
多少なりとも心を通い合わせた父子ならば、実の父親が本気で怒る、すなわち自分が本気で叱られる兆候を、子供というものは本能的に感じ取れるものである。
そして子供にとって最も恐ろしく、また悲しく思うこととは、父親が親であることをやめ、一人の男としての本性をむき出しにすることに他ならない。母親の場合も然りである。
幼少期に一番ショックを受けた出来事を聞かれて、両親の夫婦喧嘩と答える人は少なくない。親が自分の庇護者ではなく一人の人間となることは、感受性の強い幼児にとって、自分の世界の崩壊にも等しい出来事だからだ。
もちろん飛鷹も例外ではない。
「……やだ」
それでも、ここで折れはしない。
雁夜の額に血管が浮き出始めていた。それがいわゆる青筋ではなく、怒りに反応した刻印虫であるということは飛鷹には知る由もない。
「じゃあ、どうすれば良いんだ」
「全部、教えて。お父さんがどうしてここいにいるのか、なんでこうしようと思ったのか。最初から全部。それを聞けば、ぼくもどうするか決められるから」
効果は、いっそ劇的とでも言うべきものだった。
一瞬にして雁夜の怒りが霧散し、戸惑いが表情に色濃く出る。
「決める……? なんだよそれ、どういう意味だ。そんなことしてる場合じゃ」
「お願い。おじいちゃんも、この話の間は待つって約束してくれてるから」
「臓硯と約束だと? 飛鷹、お前一体なにを……」
「お願い。お父さんが話してくれたら、ぼくも全部話すから。なんにも秘密にしないから」
暫し雁夜と飛鷹は見つめ合う。
雁夜は、百面相のように目まぐるしく顔色を変えた。
なぜこうなったという困惑、ふざけているとしか思えない問いへの怒り、無駄に時間を浪費しているという焦り、問いの真意が分からず抱いた疑問――そして、得体の知れないものへの恐怖。
それらの色をさっと見てとった飛鷹は、僅かに胸が痛むのを感じた。
飛鷹は、自分の精神が歪であり、二人分の心が混ざっているということを雁夜に明かしていない。
幼い頃は、それが当たり前だと思っていたために取り立てて言うこともなく。
それが異常だと分かるようになってからは、雁夜の拒絶を恐れて話すことができなかった。
自分が、いわば奇形児と同じ存在であることを、精神的な奇形児であるからこそ理解していた。
ダウン症、サヴァン症候群……その原理は分からずとも、そういった存在と五十歩百歩――否、より飛び抜けた人間として生を受けてしまったのだと。飛鷹が飛鷹である故に理解していた。
そしてその異常性こそが、自分を構成するピースの中で最も大きなものだ。
だから飛鷹は自身を否定しない。卑下しない。胸を張って、その知性と理性を隠さず活用する。
それでもやはり、二人で一人の心を持つということは明かせずにいた。
理由は様々だが、最大のものを挙げるならば、飛鷹自身がさして重要なことではないと思っていることに起因している。
たとえば、飛鷹は自ずと知っている。“子供”の飛鷹と、“大人”の誰かが混ざり合って間桐飛鷹は生まれたと。しかし、その根拠はどこにあるのかと問われれば言葉を濁す他ない。
黒と白を混ぜているところを見たから、黒と白の混ざり合った灰色と知っているのではない。灰色を見て、黒と白を混ぜたのだと悟っているだけ。最初から灰色だった可能性も有り得なくはない。そう飛鷹は考えている。
自分が誰なのかという哲学的にして根源的な問いを抱かないのは、幼さと、前述した悟りのためだ。
要するに、自分でもはっきりとは分からないのである。
ならば、余計なことを話して混乱させる必要もない――それが、飛鷹の考えだった。
だが、その異常性が実の父に恐怖の対象として見られるなど、飛鷹は望んでいない。
たとえ自分が何者であろうとも、雁夜を愛する心には一点の曇りもないのだから。
少しの時間を経て、雁夜の顔は落ち着きを取り戻していた。
凪いではいない。さざ波は消せていない。それでも、飛鷹を信じる。
(そんな感じだったら、嬉しいんだけど……)
想像を働かせる飛鷹の前で、雁夜は重たげに口を開いた。
「――飛鷹。お前はいま、自分がどんな場所にいるのか分かってるのか? 蟲蔵を見たって言ったな。それに俺のアレも見たと。なら嫌でも気付くだろ」
雁夜の声は怒っていない。ただ聞くべきことを聞いているかのような淡白さがある。
飛鷹もまた、淡々と答えた。
「うん。でも、いまはこれが一番大事なことだから」
「……そうか。お前が言うんなら、そうなのかもしれないな」
そして――雁夜は目を閉じた。
飛鷹が一歩も退こうとはしないと理解したのか、体からも力が抜けた。
「……本当に全部話そうと思えば、長い話になる。一時間、二時間、そんな話だ。それでもいいのか?」
「うん」
「そうか――そうだな、あれは、十数年……いや、二十年以上も前になる」
飛鷹の即答にため息を一つ吐き、雁夜は語り始めた。
すべての始まりと、出会いの話を。
◇◆◇◆
同日、同時刻、間桐邸正門にて。
臓硯の専用車であるはずの黒塗りの車から、一人の少女が降り立った。シンプルで子供らしい意匠のワンピースに身を包み、挙措には礼儀の正しさが垣間見える。
遠坂桜が間桐桜となるのは、今日だった。
それを玄関先で迎える臓硯は、いつもの和服に杖。
わざわざ迎えに来たのは理由あってのことである。
養子縁組の話をまとめる過程で、桜の素質――すなわち、架空元素・虚数のことについては聞いている。どこかに話が漏れ伝われば、刺客が差し向けられてもおかしくないレベルの貴重品を迎えるにあたり、自分以外の誰かに任せるのは心許ないのだ。
さらに、聖杯戦争を間近に控えているためか、邸内の結界が不安定になっていることも不安に拍車をかけた。いざというときに、侵入者を排除する仕掛けが作動しなければ一大事である。改良した結界を張り直すには時間も材料も足りず、確実に桜を迎えるには自ら赴くのが最も確実だった。
そんなわけで、臓硯の和服の下には、戦闘用に改造された蟲がうぞうぞと蠢きながら出番を待っている。
桜は、そんな諸々の事情を知る由もない。それでも臓硯直々の迎えという状況はかなりの威圧感を与えたらしく、視線が地面に向かっては臓硯の顔まで上がり、また光の速さで下がるということを繰り返していた。
遅々として進まぬその歩みは、ようやく臓硯の元へとたどり着く。
「おお、よう来たな、桜。さ、入るが良い」
「は、はい…。遠坂桜です。まだまだみじゅくものですが、よろしくお願いします……おじいさま」
「なに、構わぬ。若き頃の人とは誰しも未熟なものよ。――それよりも、桜。お主に耳寄りな話があるぞ」
後ろ手に扉を閉め、桜を邸内に招き入れながら、言う。
「お話……?」
「応とも。お主――雁夜と飛鷹を知っておるじゃろう?」
桜の驚く顔を見た臓硯は、ニタリと邪悪な笑みが溢れるのをそれなりに努力して堪えなければならなかった。
かくして、舞台の幕を上げるための役者が揃う。
物語の第一部が、始まる。
ようやっと、間桐家の皆さんが勢ぞろいです。ここまで長かった……
にしても、ほんとにバトルもなんもないな、この小説……読んでいただいてるみなさんに申し訳ないです。
できれば、もう少しご辛抱いただきたいです。