「……お父さん」
天井を見上げながら、飛鷹はポツリと呟いた。
何の気なしに発した言葉である。しかし、それは思いの外強く飛鷹の胸を抉った。
泣き崩れて選択などできそうにない飛鷹を見かねたのか、臓硯は一日の猶予を飛鷹に与えた。
そうして、飛鷹は最初に目覚めた部屋のベッドに横たわっているというわけだ。
しかし、それから二時間が経過してもなお、飛鷹の頭は纏まらなかった。
ぼくは知らなかった。お父さんがあんな目に逢ってるなんて――
ぼくは知らなかった。あんな信じられないくらい悪い人が、桜ちゃんを狙ってるなんて――
そういったことを考えれば考えるほどに、胸を針で刺されたかのような、鋭い痛みが走る。
そして、その悪の権化が突き付けたのは、二者択一。
父か、初恋の少女――雁夜か桜の二択、ではない。
ここで真に問われているのは、雁夜の命を優先するのか、本人の選択を尊ぶのか。
肝心なのは、臓硯の言葉である。
あの老人は「聖杯と遠坂の小娘」を交換すると言った。つまり、桜を救いたければ雁夜は勝たなければならない。この選択は、実は桜を確実に救うものでは決してないということに、飛鷹は遅まきながら気づいていた。
そこに気付いた瞬間、選択肢の真の姿が見える。
なにであろうとも、命に勝る価値はないと断じて雁夜の命を救うのか。
命よりも優先すべきものがあると信じて、雁夜の選択を尊ぶのか。
前者をとれば、桜は蟲の海に呑まれ、二度と上がってくることはないだろう。おそらく飛鷹と会うこともない。
そして、飛鷹は桜を見捨てたという負い目、罪悪感を抱えたまま一生を過ごすことになる。
さらに言うならば、その選択肢を選んだ瞬間に雁夜は記憶の一部を書き換えられる。それはつまり、雁夜という人間を殺し、そっくりな別人を仕立て上げるのも同然の行為だ。
そんな雁夜を父親として愛せるのか。父親の選択に唾を吐き、その勇気に泥を塗ることは正しいのか。別人となった雁夜は、はたして以前と変わらずに自分を愛してくれるのか。
そもそも――自分が雁夜の命を救いたいと願うのは、雁夜のためなのか、それとも自分のためなのか。
問いの答えは、飛鷹自身にも分かりかねた。
では、後者を取ればどうなるか。
まず、雁夜が先程の苦しみを受け続けなければならないことは明らかだ。そして苦しみを乗り越えた先には、生死をかけた戦いが待っている。過去三回、勝者は皆無の絶望的な戦いだ。その戦いを勝ち抜く、あるいは生き残ったとしても、そのときの雁夜は五体満足でいられるかどうか怪しいものだ。
三度にわたって、万全に万全を期して戦いを挑んで、それでも勝てなかった戦い。そこに素人同然の雁夜が、たった一年の付け焼刃で挑めばどうなるかは、火を見るより明らかだ。
無論、これらのことは承知の上で、雁夜は勝ちにいくだろう。それに比例して死の危険も高まることを承知で。
十中八九、勝ちを拾えないことは明白な勝負に命を賭けて――そして恐らくは、散る。
ゆえに、雁夜を戦争へと送り出すのもまた、飛鷹にとって看過し得ることではない。
悩めば悩むほど、飛鷹はどうすればいいか分からなくなっていた。
そもそも、どちらかを取ることが不可能といっても過言ではないからこそ、臓硯とて楽しめるのだ。
飛鷹は気付いている。
あの老人がこのような選択を自分に強いるのは――娯楽の域を出ないと。
誰かが血の涙を流して慟哭する姿を見るのが、苦しみの大きさに摩耗しきって膝をつく様子を観察するのが、あの老人の趣味であると。
しかし、その趣味から突き付けられた二択のうちどちらかを選ばなければならないのもまた、事実。
飛鷹は改めて考える。自分はどちらを選ぶべきなのか。
建前も綺麗事も脇に置いて、自分の偽らざる気持ちに問いかけた場合、天秤はどちらに傾くのか。
(……やだ……!)
沈思して得られたのは、計り知れないほどの、喪失に対する恐怖だった。
成程、雁夜を無理にでも連れだせば、自分は一生消えない傷を負うことだろう。それは桜を見捨てたという意味でも、雁夜を穢してしまったという意味でもそうだ。
しかしそれ以上に、厳然たる事実が飛鷹の前に立ちふさがっていた。
曰く――死。
雁夜は負ける。臓硯から伝え聞いた僅かな情報から考えても分かるほど明確に、雁夜の敗北は決定されている。
そして、負けた敵兵を生かしておく戦争がどこにいるというのか。
雁夜は死ぬだろう。なにもなかったかのように、初めから存在していなかったかのように、死ぬだろう。
それを考えただけで、飛鷹は震えが止まらない。
母を知らない飛鷹にとって、雁夜は唯一の家族である。
桜が大切ではないのか、雁夜だけが大切なのかといえば、もちろんそうではない。桜に限らず、遠坂家の皆はかけがえのない存在だ。
葵の細やかな優しさは心の琴線に触れる。まるで本物の母のように。
時臣の気品は、飛鷹が目指す“理想の大人”そのものだ。
凛の明るさは、さながら太陽のように飛鷹の悩みを吹き飛ばしてくれる。
そして桜の――そう、本当に桜の花のような、儚くも鮮やかな笑顔。
あの日、星空の下で一度だけ見たそれを、飛鷹はいまでも克明に思い出せる。
それでも、雁夜を捨てることは――
(……あれ?)
そこで唐突に気付いた。
なにを思って雁夜があのような死地に赴いたのか、この家を出るに到ったきっかけは何だったのか。
それらを一度でも聞いたことが――はたして、あっただろうか。
考えてみれば、自分の父親の決意、人間性――それらの起源を、飛鷹は何一つ知らないのだ。
雁夜との会話。これを成さねばなにも始まらないのではないか。そんな思いが、俄かに飛鷹の心中を占めつつあった。
雁夜のことを知らなければならないという思いのどこにも嘘偽りはない。
飛鷹は、たとえ一瞬でも雁夜を助けてほしいと思った自分を悔いていた。
いま、もし雁夜を助けてほしいと言えば、それは自分のためでしかない。断じて雁夜のための決断ではない。
犬を去勢し、その首に首輪をつけ、家に縛り付けて愛玩動物にすることと同程度の愚行である。
そこに雁夜の誇りはなく、意志もなく、ただ飛鷹の自己満足だけがある。そのとき、飛鷹と雁夜はもう家族ではない。
(……でも……)
ふと、飛鷹の脳裏に疑問が浮かぶ。
なにもかも知った上で、それでも雁夜の選択を覆す――自分がそう決断したとき、はたしてそれは自己満足ではないと言えるのか。所詮、自分のためでしかないのではないか。
唐突に不安を覚えた飛鷹は、あえて自問をやめ、そこから意識をそらした。
それは、雁夜との対話を望む心が――飛鷹も意識しない部分ではあるが――最後の決断を下すという結末を、できる限り先延ばしにしたいという意志の表れ、一種の逃避でもあることの証明に他ならなかった。
「入れ」
ノックに答えた臓硯が、私室に入ってきた人間を見て愉快そうに顔を歪めたのを、飛鷹は見逃がさなかった。
何に対してかなど、考えるまでもない。飛鷹の苦渋と葛藤を酒の肴にでもするつもりなのだろう。
こうして眼前に立たせておくのも憎いが、同時に吐き気がするほど醜かった。その異形の感性に触れたくないと、本気で願うほどに醜悪だった。
「さて、ここに来たということは、選んだということか?」
「違います」
飛鷹の即答に、臓硯は意外だという意味のこもった吐息を漏らし、眉を寄せた。
「……ならば、何用だ」
「お父さんと話をさせてください。そうしないと、なにも決められないから」
見て取れるほどに不機嫌になった臓硯を正面から見据え、飛鷹は言う。
さらに二段階ほど、臓硯はどこか嫌そうな顔をしながら目を細めた。
「雁夜と、話す? 何故じゃ」
「ぼくは……ぼくは、お父さんの気持ちをなにも聞いてません。どんな気持ちでここに来たのか、それを聞かないと、きっとなにも決められないんです」
「……カッ! 小童めが、生意気な口を叩きおって」
どの辺りが臓硯の癇に障ったのか、飛鷹には計り知れなかった。そもそも、正常な人間であれば臓硯を理解するのは無理な話だろう、とも思う。
ただ、強いて言うなら、お預けをくらった犬のような空気を発していたように感じる。
対する臓硯は、忌々しそうに、カツンと強く杖を打ちつけた。
飛鷹は知る由もないが、それは、雁夜に寄生している刻印虫の活動を休眠させる合図である。
「良かろう。もう二時間もすれば口も利けるだけの体力が戻る。そこから先は好きにしろ」
「はい」
即答した飛鷹は、表面上、なんでもないかのように平静を装っていた。
同時に、その後ろ、背中に隠した両手にじっとりと滲む手汗が気付かれないよう、強く拳を握った。
◇◆◇◆
「――お父さん!」
飛鷹に与えられた部屋から、少し離れた一室。
そこで力なく横たわる雁夜は、まるで死体のようだった。
しかし、駆け寄る飛鷹の叫びを聞いて眠たげに瞼を開けた。
「……ひだか?」
状況が飲み込めていないのか、それとも幻だと思っているのか。
どちらにせよ、その茫洋とした瞳は一瞬の間を空けて一気に覚醒した。信じられない、どうして、なぜ――そんなメッセージが、合わさった視線から怒涛のように伝わる。
二秒ほど、言葉にならない思いをどうにか口の端に乗せようと足掻く時間が続き――
「飛鷹……怪我は、ないのか」
ようやく、それだけを口にした。
飛鷹が無言で頷くと、我に返っていきなりその肩を掴み、一気に引き寄せて至近距離から顔を合わせる。
「なにをされた。どうしてここにいるんだ。臓硯はなにをした。なんでお前が――」
「お、落ち着いてお父さん! ぼくはなんともないから!」
「なんともない? なんともないだと? この状況のどこがなんともないって言うんだ! ひだか、飛鷹ッ! なんでここにいるんだ! 嘘だろ畜生ッ!」
雁夜は吼えた。
その勢いのまま飛鷹を押しやり、涙を流しながら、拳を床に叩きつける。何度も、何度も、皮がむけ、鈍痛が鋭さを増し始めても。
もちろん拳からは血が飛び、激しい感情に触発された刻印虫の休眠が解けかけるが、そんなことには構わない。
自分の全てを犠牲にして、自分以外を救う――そのために間桐に戻ってきた雁夜にとって、飛鷹がこの死地にいるというのは、悪夢以外の何物でもない。
飛鷹はと言えば、突然のことに呆気に取られていた。雁夜の様子があまりに鬼気迫るものであったことも一因である。
止めていいのかな――そんな阿呆のようなことまで考えてしまうほどに、雁夜の狂乱ぶりは常軌を逸していた。
「俺は、俺は飛鷹を守るために桜ちゃんを見捨てたんだぞ! なのに、こんなことが、あって……ッ!」
それ以上は言葉にならず、息を切らして両手で顔を覆う。
そして、そのまま仰向けに倒れたかと思うと、心底疲れた掠れ声で呟きだした。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け……喚いて、なんになるってんだ……落ちつけよクソッ!」
ドン、と一際強く拳を床に打ちつけた雁夜は、暫く荒い息をついて、それから緩慢な動作で起き上がった。
その眼は曇りながらも、強い意志の光を宿している。
その光は、雁夜の憤怒に怯える飛鷹をまっすぐに射抜いた。
「飛鷹。どうしてここにいるのか、教えてくれ。お父さんが家を出てから、なにがあったのか。どうしてここにいるのか。なにも隠さないで全部、言ってくれ」
「……うん」
飛鷹は、居心地悪そうに応じた。
傍から見れば、それはまさしく、父親に叱られる息子の図であった。
こんにちは、作者です。
「にじファン」のぬるま湯感覚と字数感覚が抜けなくて困っています。書き直しが全然できない……
データが消去される期日が迫っているので書き直しは置いといて、ひとまず転載することにします。