暖かい。
雁夜はふと、そんなことを思った。
ずっと冷たくて暗い館の中にいたからだろうか。
ここは、とても暖かで――
「……お父さん」
唐突に、覚えのある声が聞こえた。
起きないと、と思って目を開ける。
「……飛鷹?」
飛鷹が、柔らかな笑顔で自分を見つめていた。
おかしい。なにかがおかしい。
だって、いま、ここに飛鷹がいるはずはなくて。
そもそも、ここはどこだ?
こんな暖かさ、■■の家にはなかった。
(……あれ?)
自分は、いま、なにを考えていたのか。
(そうだ、たしか、■■臓■と取引をして、■を■■……駄目だ)
頭に霞がかかったかのように、記憶がない。
あるのは分かっているのに、霧が立ち込めていて方角も詳細も分からない。
雁夜は頭を振って、意識を覚醒させようと努める。
そう、それは、決して忘れてはいけないことだったはず。
一体、自分は、なにを忘れてはいけないと思っていたのだろう――
「飛鷹……ここは……」
「大丈夫」
飛鷹は笑って、雁夜の胸に顔をうずめる。
その体には紛れもない、人の熱が通っていて、雁夜には心地よく感じられた。
まどろみの中にあった雁夜は、眠りの闇へと落ちて行きそうになるのを必死に堪える。
そんな雁夜を、顔をあげた飛鷹は、どこか悲しげな笑みで見つめていた。
「もう大丈夫。休んでていいんだよ。お父さんは、頑張ってくれたから」
「……そっ、か……」
なら、いいか。
雁夜は、あっさりと眠った。
神様だってこれくらいの休憩は許してくれるさ、と思いながら。
自分は、頑張ったのだから。
(きっと、みんな、しあわせに――)
雁夜は眠る。
ひと時の、幸せな夢を見ることを許されて。
それは、他ならぬ自分が決して許せないだろう怠惰だとも知らずに。
それを許せないと感じる理由が、記憶の消去によって奪われていることも知らずに。
雁夜には、ある措置が施されていた。
暗示による記憶消去、及び改ざん。
範囲は、魔術に関する全ての記憶。
暗示をかけたのは、もちろん臓硯である。
「……寝たか?」
「はい」
「そうか」
そんな会話をしているのは、飛鷹と守。
飛鷹の後ろでは、後部座席を占領して雁夜が昏々と眠っている。
冬木市を後にする一台の車に、三人の姿はあった。
運転席に座る守は、車を走らせながら問う。
「……良かったのか?」
「はい」
寸分の淀みもなく、飛鷹は答えた。
その背後には、あれほどに望んだ、最愛の家族が、意識もなく横たわっている。
昨晩の内に、体内に巣食う全ての虫を取り除かれ、また飛鷹の要望により一切の記憶消去を行われた雁夜は、心なしか安らかな寝顔を見せていた。
臓硯によると、体力を消耗しすぎて眠っているだけらしく、守の孤児院につく頃には自然と目が覚めているはずだとのこと。
暫らく、沈黙が訪れた。
走行の振動と、エンジン音だけが耳に響く。
守は、思い出したように口を開いた。
「……そういや、あのときはよくも逃げてくれたな。おかげで、この時期の冬木市内を駆けずり回る羽目になっちまったじゃねえか」
「……すいません」
それっきり、また沈黙。
飛鷹が、やけに凪いだ表情をしているのが、守の癇に障った。
もっと子供らしく、感情を出せば良いものを。
なにか、人間として大事なものが欠けてしまっている、そんな顔だった。
守は、飛鷹から全ての経緯を聞いた。魔術の知識がある彼は、おそらく飛鷹よりも深く事情を理解している。
心当たりなど、ひとつしかない。
守は苛立たしげに片手で頭をかき、舌打ちをひとつ漏らす。
「なあ、おい。七歳児にこんなこと聞くのは間違ってるってことくらい、俺にも分かってるさ。だがそれでも聞くぜ。お前は本当に」
「いいんです」
守の言葉を断ち切り、飛鷹は呟く。
その左手で、しっかりと雁夜の右手を握りながら。
もしも守が、面と向かって飛鷹と話していたなら、空いた右手が小刻みに震えていたことに気付いただろう。
しかし守はなににも気付かず、気まずげに、また黙り込んだ。
それからややあって、飛鷹はまた、呟いた。
「これで、良かったんです」
そう、これが最善。
最初の目的であった、雁夜の発見は果たした。そして、救出までも成し遂げた。
なにもかも、飛鷹の望んだ通りになった。
「……ったく」
それなのに、なぜだろう。
「そんなセリフを、泣きながら言うんじゃねえよ、バカが」
涙が、止まらないのは。
なにが自分の胸を苛んでいるのか、飛鷹には分かりすぎるほど分かっている。
罪悪感。
桜を見捨てたことに対する罪悪感。
そして――間桐雁夜という個人を消してしまったことに対する罪悪感。
魔術に関する記憶を消去、改ざんしたということは、雁夜の中核を成す部分を改編したということだ。
きっと、次に雁夜が目を覚ましたとき、それは以前の父親ではないだろう。
それを代償に求められると知ってもなお、父親に生きていてほしかった。
自分の身勝手な望みのために、家族の生き様を穢した。
自分は、父親を殺したも同然だ。
飛鷹は声も出さず無表情のまま、涙だけをぽろぽろと流し続ける。
その時だった。
パンッ。
そんな、どこか小気味よい音が響き、飛鷹は思い切り横に引っ張られる。
そして、頭を強く打ちつける。
「たっ!」
「うおっ!?」
飛鷹の呻きと、守の悲鳴が重なった。
どうやら、なんらかの理由で車のコントロールを失ったらしく、守は必死にハンドルを回して立て直そうと試みている。
「な、なにがっ、起こってるんですか!」
「知るか! 知らんが、とにかくっ、やば――」
その瞬間、三人の乗った車は崖へと激突する。
そして。
(……え?)
時間が引き延ばされるような感覚に陥りながら、飛鷹は聞いた。
車のボンネットがスロー再生をしているかのようにひしゃげるのをその目で見ながら、聞いた。
――次はないよ。
なんのことか聞き返す間もなく、飛鷹の意識は激しい衝撃と共に途絶えた。
◇◆◇◆
それを、遠く、視覚共有で見る老人が一人。
「……やはり、面白い」
そう呟いて笑いながら、臓硯は使い魔である虫とのリンクをひとまず切断した。
臓硯は嘘をついていない。
雁夜を解放し、飛鷹と共に冬木から脱出することを許した。ならば、その後に飛鷹をどうしようと、それは臓硯の勝手だ。
そして、雁夜に危害を加えているわけでもない。ゆえに臓硯の襲撃を縛るものは、何一つなかった。
尤も――もはや、雁夜は必要ない。
一体、誰が想像しようか。魔術回路を持たぬ人間が、魔力に依らぬ障壁を張って衝撃を和らげ、生き延びるなど。
元より死なせるつもりはなく、一度きりの防護壁を張るアミュレットを服に忍ばせていたのだが、それが発動する前に飛鷹は対処した。
ただし、暗示を用いて聞き出したときの反応は決して偽りでは有り得ない。臓硯の知る魔術には依らぬ、なにかしらの異常を持って生まれたと考えて然るべき。
臓硯はそこまで推測を済ませると、脇の机に置いてある電話を手に取った。
そのまま迷いなく、ある番号を押す。
『はい、もしもし』
電話に出たのは特筆するところもない男の声。
ただし、ただの人間ではない。
弱小とはいえ、れっきとした魔術師の家系に生まれ、そして当主を継いだ男である。
「小竹の坊主か? 久しいな」
『……これは臓硯殿。お久しぶりです』
小竹進は、最初と変わらぬよう思える、静かな声で返した。
しかし、臓硯からすれば僅かな声の震えが聞いて取れる。
つまり、以前と変わらず、進は臓硯を畏怖の対象として見ていることを再確認できたということだ。
ゆえに第一段階は滞りなく完了。
「おぬしに教えたいことがあるのでな」
『……臓硯殿が、わざわざですか?』
進の怪訝そうな顔が透けて見えるようだった。
それもそのはずである。臓硯が進と話すときは、大抵が心理的に圧迫して楽しむ……要するに虐めるか、極めて威圧的かつ高圧的に「依頼」するかだ。
今回のような切り出し方は、進の頭にはなかったのだろう。
ただし、嫌な予感も感じているようだが。
「応とも。そちらの兄、守とかいう男がおるであろう」
『兄が、なにか』
「なにか、どころではない。ワシの息子である雁夜と、孫の飛鷹を連れて冬木を出た。雁夜がワシと取り交わした、魔術師としての盟約を一方的に破ってな。ゆえに、始末させてもらったぞ。じゃが、その際に守が無駄に足掻いた。そのために雁夜は死んだわ。まったく、厄介なことになった……」
『……』
沈黙。
絶句ではなく、沈黙。
おそらく、色々と推測しているのだろう。
ややあって、進は絞り出すように問い返した。
『なにが言いたい。断じて私の差し金ではないぞ。あの落ちこぼれの兄が愚行を犯したからと言って、私に責を問うのは筋違いだ。まして、兄は一般人だ。いちいち魔術師の私が関与してはいられないに決まって――』
「貴様の差し金などと言うつもりは、もとよりない。しかし、魔術を知る親族がどのような行動を取るか、考えてなにかしらの対応を取っておくべきじゃろう。貴様の兄は何も知らぬ赤子ではない。ならば、その責は残された家族――そう、保護責任者が負うべきであろう? 連れ出しただけならばともかく、雁夜が死に、ワシが被害を受けた以上は、な」
『…………ならば、どうしろと?』
進の声は、いまや隠しようもなく震えていた。強気の皮は、もう少しで剥がれるだろう。
だが、剥がしきっては後々に厄介の種を残すことにもなりかねない。臓硯はやや声を和らげた。
「なに、特になにをせよというわけではない。ただ、このことを忘れてもらっては困る、というだけのこと」
『それは……無論です』
「ならばよい。ワシも忙しい身、これで終わるとしよう」
色よい返事が返ってきたのを確認した瞬間、臓硯は通話を一方的に終了した。
こうして、臓硯は格好の実験材料と、小竹の家に対する大きな借りを手に入れた。
臓硯は部屋を後にし、廊下を歩きながらほくそ笑む。
そしてふと、思う。
(飛鷹の母親は誰であったか、知らんな……まあ、支障はない)
が、すぐに忘れた。
魔術師の家に生まれた者ではないと分かっているし、別に優れた才能を秘めているとかでもない。
飛鷹を解剖(しら)べていけば、分かることでもある。
(さて、とりあえずは……)
潜ませておいた虫の大群に指令を送り、飛鷹を連れ去るよう命じた。軽度の神経毒を注入し続けながら森を経由して間桐邸に連れてくるように。
雁夜は記憶もない状態である。のたれ死のうと生き延びようと、臓硯に関係することは無いだろう。
さらに言うならば、臓硯は雁夜に手出ししないよう飛鷹と確約したのだからして、手助けもできない。――無論、助けるつもりなど毛頭ないが。
そして同時に、小竹守を喰らい尽くせ、骨も残すな、とも。
事情を知る者は、生かしておけぬのだから。
飛鷹を連れ去ってから、丸一日が経過した頃。
「……どういうことだ」
臓硯は困惑を隠しきれずに呟いた。
その眼前には、全裸で横たわる飛鷹。
外側こそ無傷に近い状態だが、その体内には臓硯の虫が無数に潜り込み、体内を精査しつくした後である。
特筆すべきは、魔術回路の多さだ。小竹の当主から聞き出したところによると、飛鷹に魔術回路がないことは生後すぐの検査で確認済み。だからこそ臓硯は飛鷹を捨て置いたのである。しかし臓硯の検査では、メイン二十九本、サブ六本の回路がたしかに確認できた。雁夜の息子であることを考えれば望外の多さだ。
ただし、完全に閉鎖されている。
これを開こうと思えば人ならざる者への改造を施すしかなくなるだろう。それも、成功した前例がない取っておきの外法を用いる必要がある。
ただし、その処置が成功したとしても寿命や体の健康さは期待できない。なにより、間違いなく生殖能力は失われる。そうなっては仕方がない。ゆえに役立たずである。
その他には、運動能力、筋力、反射神経などは同年代の常人とほぼ変わらず。
肝心要の脳の構造にすら、特異な点は見受けられない。
七歳児らしからぬ知能を見せたことについての説明はつかないが、こと魔術の世界において、脳の発達度など大したことではない。臓硯の興味はすぐに失せた。
つまり、飛鷹は完全に一般人であるということが判明しただけに終わってしまったのだ。
臓硯も魔術師の端くれ、研究者である。解明できぬ謎というものは、いたくそそるが、それ以上に苛立ちと困惑が先立った。
なぜ後天的に魔術回路が増加――否、生成されているのか。
飛鷹は如何なる手法を用いて、崖との衝突を無傷でやりすごしたのか。
興味は尽きず、さりとて分からず。
さらに言うならば、使い道にも悩まされる。
桜に子を孕ませるならば、慎二と掛け合わせるよりはむしろ、飛鷹と掛け合わせたほうが良いことは明白だ。なにせ慎二には、回路そのものが存在しないのだから。それに比べ、二十七本の回路というのは申し分ない。
それに、飛鷹単体で見たとしても価値はある。臓硯の次の宿として十二分、不足ない肉体だ。
飛鷹の体を乗っ取った臓硯と、念入りに育て上げた跡継ぎの二枚羽で、次々回の聖杯戦争に挑む――一分の隙もなく、蟻の一穴すらない布陣に思える。
だがやはり、一抹の不安は拭えなかった。
飛鷹が、臓硯には知覚できない、そして飛鷹自身も自覚していないなにかしらの力を秘めているのは、既に明らかだ。おそらくは雁夜の相手、母親の魔術要素を継いだ結果であろうという部分までは予測できるが、それ以上はなにも分からない。そんな存在を、自分の寄生先として育成するのは躊躇われる。同じ理由で、桜との交配も簡単には決断できない。
種馬にも、延命機械としても使えないならば――破棄するしかない。
(が、惜しい)
その思いこそが、臓硯にその最終手段の行使を躊躇わせていた。
飛鷹ほどの素材が、この時期に手の内に転がり組んでくるというのは、臓硯の記憶している中でも最大級の幸運である。
桜と飛鷹の子ならば、必ずや聖杯を持ち帰るであろうとまで思える。そもそも、桜と慎二の子を勝たせるために色々と小細工を弄するつもりでいたのが、マスターの能力だけ格段に上がるかもしれないとなれば、その期待も当然であろう。
(……まあ、とりあえずは蟲蔵に放り込んでおくとするかの。どの道、間桐に染めねばならぬことは確定事項じゃ)
そう考え、臓硯はひとまず対応を保留した。
虫による調教は対応の内にすら入らない。解剖、殺害、いずれの手段も取らなかったことが、保留である。
そして、臓硯は歩き出す。
行き先は玄関。
目的は唯一つ――
「応、よく来たな、桜」
「……はい」
哀れな獲物が、また一人。
欠かせぬピースが、もう一つ。
運命は、より狂った形で、転がり落ちるように加速し始める。
◇◆◇◆
最初、飛鷹は悪い夢を見ているのだと思った。
自分は、雁夜と共に車に乗って、守が経営する孤児院へと向かっていたはずが――闇の中にいたからだ。
(……どうなってるんだろ)
暗闇の中にいる不安からか、自分の心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
まさか臓硯か、という考えが第一に浮かんだが、飛鷹は首を振って否定した。
魔術師という生き物が約束というものをなによりも重んじるということは、守からお墨付きをもらっている。あの老人とて魔術師の端くれには違いなく、おいそれと約束を破るはずがないと思われたからだ。
とりあえずは起き上がろうと思い両手を突けば、ずぼりと右手が、手首の辺りまで一気に沈み込んだ。
「~~っっっ!」
声にならない悲鳴を上げながら、飛鷹は急いで右手を引き抜く。
すると、その勢いで今度は左手が飲み込まれた。
まるでテレビ番組で見た流砂のようだ。飛鷹は動くのをやめ、細心の注意を払いながらそっと左手を引き抜いた。
案の定、大きな力をかけなければこの地面は耐え得るらしかった。二足歩行ができるなどとは思わないほうがいいだろうが。
「……お父さん、守さん」
囁くように、あるいは呼びかけるような音量で何度も二人を呼ぶが、答えはない。
飛鷹の脳裏に嫌な想像が湧き上がる。
実は、二人は既に目覚めぬような状況に陥っているのでは?
そう、たとえば、この流砂のような地面に飲み込まれ、頭まで沈んでしまったのかも――
「お父さん! 守さん!」
恐ろしい未来図を振り払おうと、飛鷹は努めて大きな声を出した。
声は思いの外よく響き、かなりの広さを持つ場所であることが分かった。
しかし、肝心の返事はない。
どうしようもなく、途方に暮れたそのとき、ボウッと、炎の燃え上がる音が上方から届いた。
見上げれば、どこか見覚えのある薄緑の炎が、なにもない空中に浮き上がって部屋の全体像を浮かび上がらせていた。
そう、ここは。
「……ムシ、グラ?」
その可能性に思い至り、思わず下を見て――流砂のような地面は、無数の蟲が積み重なって構成されているものだということも分かった。
そしてそれに気付いた瞬間――あるいは、この点火が合図だったのかもしれないが、待ち構えていたかのように蟲が動き出す。
「ひ……あぁあっ!」
飛鷹は悲鳴を上げながら、必死に体から蟲を叩き落とすが、その勢いで体そのものがずぶりずぶりと沈んでいく。
程無くして体は沈み切り、服の隙間から入り込んだ虫は、獲物の体内に侵入を始める。
全身を蟲に包まれた飛鷹は、七年という人生の中でも、とびっきりに最悪な経験をすることとなった。
定められた務めを終えた蟲たちが体から出て行った時、どれほどの時間が経っているのか、飛鷹には分からなかった。
ただ、無限にも等しい時間を、ひたすら犯されぬいたような体感であるにも関わらず、実際に経過した時間は一日にも満たないだろうということは分かっていた。
「あ……ぁ……」
言葉にならない呻きを漏らしながら、這いずるように階段を上っていく飛鷹。
衣服や靴は蟲に食い荒らされ、いまや裸同然になりながらも、その眼から光は消えていない。
ただ、その光も、弱弱しく瞬くほどにまで小さくなってしまっていた。
それでも、遅々として進まない歩みを繰り返し、ようやく階段を登りきったそこに――それはいた。
「まずは生き残ったか。重畳、重畳」
「……まぇ、は」
しょぼくれた矮躯。
ねじくれた木の杖。
黒と白がひっくり返った不気味な目。
間桐臓硯が、そこにいた。
飛鷹の頭の中で、全てが思い出される。
二人きりの平穏が壊されたのも、
桜が害されるのも
自分がこんな苦しい目に合うのも、
なにもかも、この老人の所為だ。
「ひんひゃえ……ひねっ……ころふッ……!」
度重なる虫の出入りと疲労で呂律の回らない口を必死に動かし、飛鷹は怨嗟の言葉をぶつけようとする。
そしてそれすらも満足にできない自分に歯噛みし、滂沱の涙を溢れさせ、それでもなお、抗おうと体をくねらせる。
「やれやれ、反抗心だけは一人前か。まあ、それもじきに消えて失せるじゃろうがな……まったく、力の伴わぬ反抗は見苦しいことこの上ない」
声と裏腹に、臓硯の顔は心から喜び、嬉しんでいるとしか思えない顔だった。
その唇は限界まで吊り上げられて歪な三日月を描き、目は細められ、なによりも声が嗤っている。
「うる、さ……」
そこで息切れし、荒い息をつく飛鷹の前から、臓硯は悠々と歩み去る。
「その言葉、いつまで聞けるか楽しみにしておるぞ。まあ、二日と持つまいがな。呵々々……」
不快な笑い声と入れ替わりに見知らぬ男が入ってきたかと思うと、飛鷹を担いで後に続く。
飛鷹は、絶望の先触れを頭の片隅に感じながら、湧き上がる寒気を必死にこらえていた。
約一ヵ月後。
飛鷹は、完全に折られた心の残骸と、小さな身一つで蟲蔵に向かいながら、霞みがかった頭で考えていた。
(……なんで、こうなっちゃったのかな……)
どうして上手くいかなかったのか、いくら考えても分からなかった。
正当な対価を支払って、雁夜を助けた。
桜を見捨て、雁夜を取った。
一と一、等価交換、どこからどうみても非の打ち所のない話である。
もしも、この世界が正常で公平だったなら、こんなことにはならなかっただろう。
しかし、飛鷹が思うほど、この世界は正常でも、公平でも、そして優しくもなかった。
ただそれだけのことに気付き、認められるだけのエネルギーは、もう残っていない。
それでも、ずっと考え続けていた。
そして今日、決定的な転機が訪れる。
――だよ、やだ、ああぁあっ!――
「……誰?」
蟲蔵に入った飛鷹は、あることに気がついた。
誰かの悲鳴が聞こえている。
まだ嬌声は聞こえず、ただ痛苦のみが含有された叫び。
そう、最初に放り込まれたときの自分のように。
しかし、取り立てて何を思うでもない。
珍しくここに放り込まれはしたものの、結果だけ見れば、哀れな犠牲者がまた増えた、それだけの話である。
興味も薄く、ゆっくりと階段を下る。
下るに連れて、蟲に苛まれている人の顔が良く見えてくる。
見たところ、まだ体は小さい。自分と同じ――いや、もっと小さい。
声からして少女のようだ。
(……あ)
ふと閃くものがあって、飛鷹は階段を駆け下りる。
冷え切った心の中に、種火が放り込まれた。
目には理性と思慮の光がよみがえる。
(もしかして――)
この蔵に落とされる少女など、心当たりは一人しかない。
自分が愛おしく思った、そしてもう忘れかけていた少女。
飛鷹は瞬く間に蔵の底に辿り着き、迷うことなく蟲の海に分け入ると、その少女の手を握った。
名前を思い浮かべた瞬間、その言葉は自然と口をついて出た。
「桜ちゃん……」
「い、あっ……ヒダカ、くん? うくぅうっ!」
桜は、信じられないとでも言いたげに目を見開き、すぐに顔を歪ませる。
無理もない。蟲の責め苦は終わっていないのだから。
「桜、ちゃん……桜ちゃん、桜ちゃんっ!」
我に返り、桜の体を引き寄せる。
自分も、既に慣れつつある痛みと快感の坩堝へと呑まれつつある。
それでも、この手だけは離せない。
この手を離せば、最後に残った自分まで失ってしまうと、直感しているから。
「助けて、助けてヒダカくん! やだ、やだぁ!」
「桜ちゃん!」
お互いの名前を呼び合い、体を引き寄せあい、ようやく二人は間近に接近を果たす。
泣いて助けを求める桜と、その体をどうにか上へ逃がそうとする飛鷹。
しかし非力な飛鷹と桜では蟲の大群を振り払うことなど到底できない。
しかし。
「ぎ、ぐ、ぅ、うああぁああああああっ!」
全身全霊、掛け値なしの全力で、飛鷹は桜の体を蟲の中から引きずり出した。
そしてその一秒後、さらなる数の暴力に呑まれ、二人の体は今度こそ蟲の中に消えた。
そのまま、二人は蟲に蹂躙されていく。
苦痛に呻く桜を離さぬように、寸前で抱きしめた飛鷹は、決してそれを解かない。
桜も、母に縋る幼子のように、飛鷹に抱きついて離れない。
そうして少年と少女は、堕ちていく。
目の前に広がる、深い絶望を覗きこまぬように、お互いの瞳にお互いだけを映しながら。
それは、少し昔のこと。
救いはない、と理解してしまった男の子と女の子が、闇の中で生きていこうと決めた、それだけのこと。
今日も、二人は蟲蔵の底で、お互いへの愛と執着を、睦言のように囁き合う。
「飛鷹く、んぅっ!」
「桜ちゃ、あぐっ!」
肉の感覚に翻弄されて、手に入れられたはずのもっと純粋で暖かな光は、どこかに失せてしまっていても。
歪で狂った愛の形でも。
やっぱり愛し合う二人は、幸せに暮らしましたとさ。
すいません。
本当は、にじファンの感想欄にあった「蟲蔵end」を題材として、二人をやばい感じにイチャラブさせて終わりたかったんですが、細かく描写しようにも、作者の耐久力が持ちませんでした。あと、stay nightのゲームやったことないという致命傷がここにきて響きました。
アンリマユに愛を注ぐ桜と飛鷹とか……書けないよ……
終わらない地獄の中で、共(狂?)依存させたかったなぁ……
まあ、そこは妄想補完でお願いします。たぶん、十八禁描写も余裕で入りますし。作者には荷が重いです。
ちなみに、守さんは、あの後に飛鷹くんを探しまわり、しかし見つかるわけねーと諦めモードになります。
そして雁夜とも連絡なんざ取れません。で、どうしようどうしようと焦りながら一夜を明かしたら、飛鷹から連絡入ったと。
ま、この話では見事に貧乏くじ引きましたが。