飛鷹は一瞬、目の前のものがなんなのか分からなかった。
行動らしい行動といえば、血走った目で虚空を見つめ、見ている側まで辛くなるほど体を痙攣させ、口からはただ叫び声を上げるだけ。
血を流し、汗をかき、涙を零し、大小便を漏らし、それら全てが混ざり合った異臭を纏っている。
視覚、聴覚、嗅覚、どれを取っても、その無残な姿は自分の父親とどうしても重ならない。
それでも、飛鷹が雁夜の顔を見間違えるはずはない。
紛れもなく、あれは――
「……おとう、さん……?」
おそるおそる、かけた声。
しかし男はその声に反応して飛鷹を見据え、
「ひだ、が、うあああああっ!」
ひだかと、確かににその名を呼んだ。
間違いなく、これは雁夜だった。
自分が探し求めた、最愛の父だった。
「お父さん、お父さんっ! しっかりして、死なないで! お父さん!」
泣きながら駆けより、その手を握る。暴れる体に抱きついて抑える。
だが、雁夜にはその声も、その動作も、もう認識する力が残っていなかった。
「……それが、魔術」
飛鷹の後ろで、臓硯が愉快気に語る。
「魔術の目的は根源に至ること、とワシは言ったな。だが、それは一代で成せるほど安い業ではない。何代にも渡って交配による改良を繰り返し、少しずつ進んでいく類のもの。雁夜の安い信念や薄い血では、死ぬ確率のほうが高いであろうな」
「……るさい」
「事実を言うておるだけのこと。ああ……そういえば、ひとつ言い忘れておったな。あの不動産におぬしを迎えにいったのは、全てこの瞬間のためでしかない」
「うるさい」
「なぜか知りたいであろう? 意味などない。強いて言えば、ワシの趣味じゃ」
「うるさいッ!」
飛鷹の中で、なにかが引きちぎれる音がした。
飛鷹は、生まれて初めて、誰かを憎んだ。
存在すら許されない仇敵と化した老人を黙らせ、雁夜を救う手段を聞き出すべく、飛鷹は臓硯に飛びかかり――空中で静止した。
「な、なんで……!?」
その瞬間、飛鷹は燃え盛る怒りすらも忘れて驚愕していた。
なぜ、自分は、空に浮いているのだ?
その答えは、突然鳴り響きだした羽音に反応して、後ろを振り返ったときに与えられた。
「あ――」
絶句する。
最初はそれがなにか分からず、一拍置いてから理解が追いつく。
自分の拳ほどもある羽虫が、パジャマの襟を掴んで飛行していたのだ。
しかも一匹や二匹ではない。見えない範囲も含めれば、背中や肩の後ろにも引っ付いているらしく、数えるのが馬鹿らしくなるレベルだ。
非現実的にも程があるそれに、飛鷹は口を開くことを忘れていた。
「悪童には、灸をすえてやらねばならん」
臓硯が、指をくるりと回す。
それに呼応して、天井の通風口から無数の羽虫が新たに飛来し、飛鷹に襲いかかった。
顔に、腕に、足に、服の中に、至る所に虫がいる。
「うわああぁあああああっ!」
思わず飛鷹は悲鳴を上げ、がむしゃらに腕を、足を、体全体をバタつかせた。
生理的な嫌悪が、根源的な恐怖が蘇っていた。人間を食い殺せるだろう虫が、何百匹も自分の体に纏わり付いているというのに、誰が冷静に振る舞えようか。まして、飛鷹はまだ七歳である。“大人”の精神が混ざった異端児とはいえ、耐えられないものはある。
いくら暴れても、羽虫の拘束は揺らがない。襲撃は終わらない。小学二年生でしかない飛鷹の力は弱い。なおかつ空中に浮いていて踏ん張りは聞かず、羽虫の数は異常に多い。
この状況下で、飛鷹が勝つ要素はなかった。
恐慌状態に陥った飛鷹を見てご満悦の表情を浮かべる臓硯は、満足したのか腕を振り上げた。
「ワシに害を加えようなど、百年早い。調子に乗るな、小童」
そういった臓硯が指を一振りすると、飛鷹はゆっくりと地面に降り立った。無論、自分の意思によるものではない。羽虫が羽ばたきを少しずつ弱めて器用に着地させたのである。
襲いかかっていた羽虫は天井の通風口に消え、残りはパジャマを離してすぐに飛び立った。
「や、いやだ、やめて、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
飛鷹はガチガチと歯を鳴らし、背中を盛んに触り、叩き、羽虫がいなくなったことを確かめてほっと息をついた。
しかし、恐怖はたしかに残っている。
耳元に、あの羽音が残っている。
背筋がまだ寒い。
「……魔術とは、並大抵の努力で継げるものではない。また、身に付くものでもない」
そんな飛鷹を見下しつつ、臓硯の話が再開する。
「かつての雁夜は、その業を継ぐことを拒んだ。そこでなにもかも諦めればよいものを、いまになって戻ってきた報いが、その苦しみじゃ。ワシの虫に耐えられるはずもないことを分かっていながら、それでも自己満足を求めてワシに縋った、愚か者の末路よ」
臓硯が杖を床に打ちつける。
それに呼応して、雁夜の刻印虫が活動を停止したことを見届けると、臓硯は背中を向けた。
「おぬしには全てを話す。おぬしもそれを聞いた上で、どうするか決めるがよい」
臓硯の言葉の大半は、飛鷹の耳に入っていなかった。
ただし、ある部分だけはしっかりと聴き取っている。
――ワシの虫――
瞳に力を取り戻し、臓硯を睨みながら、ゆっくりと飛鷹は顔を上げる。
その手には、脇の机に置かれていた注射器が握られている。雁夜の体内に刻印虫の卵を植え付ける際に使用したものだ。
飛鷹は、映画で見て知っていた。
人間の血管に空気を注射すれば、心臓になにかが起きて死ぬということを。
この老人ならば、それは確実に致命傷となるであろうことを。
怖い。恐い。目の前のちっぽけな老人が、恐ろしくてたまらない。あんな異能を発揮された後では尚更だ。
でも――
飛鷹の目は、臓硯をしっかりと見据えている。
扉を開き、たったいま、まさに部屋から出ようとしている、その刹那。
飛鷹は駈け出した。
全力で、躊躇わず、一メートルもない距離を全速力で詰める。
「な、がっ!?」
振り返った臓硯をタックルで押し倒し、間髪入れず注射針を首筋に突き刺す。
臓硯の焦ったような声が聞こえたが、飛鷹は構わず親指でピストンを押し込んでいく。
時間を与えれば、あの虫が天井から戻ってくるだろう。そうなれば飛鷹の負けだ。
そして、天は味方したのかどうなのか――ともあれ、ピストンが全て押し込まれた。
「おまえを、殺せば――お父さんは助かるんだよね」
飛鷹の言葉を聞いて、苦しみ始めた臓硯に理解の色が浮かび――次の瞬間、その体から力が抜けた。
恐怖することと、その恐怖に屈することは、イコールではない。
そして、飛鷹にとって、雁夜の命は自分のそれよりも重い。
臓硯はそのことを知っていながら、その点を見誤った。
子供にすぎない飛鷹が、それほどの勇気を持つとは思っていなかった。
だからこそ、飛鷹の不意打ちは成功した。
「……やってくれる」
――途中までは。
「え……なん、で……?」
茫然とした飛鷹の下で、臓硯の体が蠢く。
大慌てで飛びのいた飛鷹の眼前で、臓硯は何事もなかったかのように立ち上がった。
落とした杖を拾い上げ、服の埃を軽く払う。
「……ワシの体は、特別製でな。ワシは不老不死を研究し続けておるのだ。その過程で――生命力だけは虫並みに向上しつつある。血中の酸素濃度を弄られた程度では、とてもとても、死にはせぬ」
一歩。
臓硯が一歩、飛鷹に近づく。
「あ、あ……あああああああっ!」
それだけなのに、飛鷹は雁夜の横たわるベッドまで下がり、手当たり次第に物を投げつけた。
しかし、その全てが切り裂かれて地に落ちる。
臓硯の周囲に突如として出現した、先程とは別の羽虫が飛び回ったかと思うと、なにもかも切断されていたのだ。
「飛鷹よ、これ以上はワシとて看過できぬ――分かるな?」
頷くことすら忘れて、飛鷹は怯えていた。
――こんなの、悪い夢、夢だ――
必死で、自分の心にそう言い聞かせながら。