飛鷹の食事が終ると、見計らっていたかのように食堂の扉が開く。
臓硯が、例のごとく杖を突き突きやってきた。
「飛鷹よ。調子はどうじゃ?」
「あ、もう大丈夫です。ありがとうございます」
畏まって頭を下げる飛鷹を、臓硯は笑う。
「なに、そう畏まらずともよい。それよりも、おぬしには話すべきことがあるでな、こうしてやってきたというわけじゃ」
「話すべき……こと?」
「うむ。というよりは、知っておくべきこと、というべきかもしれん」
どこか勿体つけた言い方に、飛鷹は胸騒ぎを覚える。
この祖父と一緒に車に乗り込んでからの記憶が何一つ残っていないというのも理由の一つではあったが、それ以上に、眼前の老人の笑顔が邪悪の権化にしか見えなかった。
しかし、次の瞬間に臓硯が放った言葉に、その悪寒と予感を差し置いて、飛鷹の体は反応した。
「雁夜がおぬしを置いて出て行ったことにも関係し」
「なにがあったんですか」
声音も口調も、やけに凪いでいた。
しかし、この凪は嵐の前の静けさにも等しいと、飛鷹自身はもちろん、臓硯もメイドも気づいていた。
この声は、薄皮一枚の下に火山のような熱を秘めていなければ出せない声だ、と。
飛鷹が求めてやまないもの――事情の糸口をようやく掴んだことで、礼を失さぬように心の奥底に閉じ込めていた憤怒と焦燥が、空腹や疲労で一時的に忘れられていた激情が、表に噴き出ていた。
もう待てない。ここより他に手がかりがない。もしもここになにもなかったら――そんな恐怖と闘いながら、この館に留まっている飛鷹にとって、いまの一言はなによりも求めていたものだった。
「ふむ。そのことを説明するためには、まず」
ゴクリと、飛鷹は固唾を飲んで待つ。一言一句、細大漏らさず聞き取ろうと身構える。
「魔術について教えねばならんな」
「……へ?」
魔術? それってオカルト? 意味分かんないよ。
飛鷹はその一瞬、なにもかも忘れて呆けた。
あまりにも予想外な一言に、思考が停止していたのだ。
そして、一拍置いて、先よりもさらに大きな怒りが込み上げる。
「ふざけないで、おじいちゃん。魔術とお父さんと、どう関係あるのさ!」
敬語など忘れて、怒りのままに叫ぶ。
これが実の祖父だと聞いていなければ、掴みかかっていただろう。
当の臓硯はというと、涼しい顔で飛鷹を見て――否、少し笑っている。
「まあ、落ち着け。ワシも話さぬとは言うておらん」
「……でも」
「順序立てて話さねば、理解できぬこともあろう? 魔術の話をせねば、雁夜がなぜワシの元に来たのかは理解できんだろうな。それでも構わぬというならば、好きにせよ」
飛鷹は言葉に詰まり、ややあってからうなだれた。
「……ごめんなさい。お話、お願いします」
「では魔術についての話を始めるとしよう。――簡潔に言う。魔術は、実在する」
躊躇いもなく、迷いもなく言い切った臓硯を、飛鷹は若干冷たい目で見る。
なぜ魔術の話が必要なのかにも納得しない内に、この老人、もしかして本物の電波ではないかと疑う材料ばかり与えられているのだから無理もない。
実は狂人でした、などという終わりならば、飛鷹はどうしていいか分からない。
「信じておらぬ目だな。おぬしほどの年頃ならば、無邪気に信じると思うていたが。つくづく、子供らしからぬ奴よ」
「空想と現実の区別ぐらい付きます。あと、もう七歳です」
完全に冷え切った飛鷹の声を聞いて、臓硯はなにがおかしいのか肩を震わせて忍び笑いを漏らした。
「空想、空想か。まあ無理もない。本来の魔術は、小童を喜ばせるために作られた娯楽にあるような、暴力的で浅はかなものではない。神秘の探求こそがその本質。その目的は、根源への到達――すなわち、この世を含めた全ての始まりの地点を目指すことに他ならぬ。炎を出そうが、光の矢を放とうが、それは副産物にすぎぬ」
「つまり?」
「おぬしのような、ただの小童は、そのような事情を知る由もない。ゆえに魔術の存在を知るはずもない」
焦れる飛鷹を尻目に、臓硯は嫌味なほどゆっくりと飛鷹に背を向け、食堂の外へと歩き出す。
「付いてこい。魔術というものの本質を見せてやろうではないか。おぬしが求める者とも会えるやもしれんぞ?」
「……嘘じゃないですよね」
「ついてなんになる? じゃが、雁夜に会いたくないというのであれば話は別。部屋に戻り、疲れを取るがよい。なに、心配せずとも世話は――」
「行くよ! ……行けば会えるんだよね?」
「応とも……会える」
返事を聞いて、臓硯が振り返る。
飛鷹はその瞬間、確信した。
――この人は、悪い人だ――
さながら、巣にかかった哀れな獲物を見て舌なめずりする蜘蛛のように、臓硯は笑っていた。
どこまでも狡猾に、厭らしく、忌まわしい顔で。
◇◆◇◆
《ほう、最初の峠を越えたか。ひとまずは狂わずに済んだというわけだ》
「……何の用だ、臓硯」
これ以上、惨めな姿はそうあるまい。雁夜は自嘲しながら、突如としてやってきた仇敵の声を聞く。
この魔術師と対峙するときは、いつも恐ろしさで膝が笑いそうになったものだ。しかし、いまではその恐怖すら鈍ってしまっている。あまりの痛みと苦しみに、現実感を失っているのだ。
天地も、朝か夜かも明らかではない。ただ僅かな浮遊感と、まどろみのような脱力感と、慣れ切ってしまった痛みの残滓だけがある。
《なに、少しばかり教育を早めようと思うてな》
「なにを……があッ!?」
訝しむ暇もあればこそ、雁夜の体内で休眠していた刻印虫が動き出す。
「ぞう、けん、てめぇ……がぼぁっ」
口から特大の血塊が吐き出され、雁夜の言葉は途切れる。
しかし、臓硯は雁夜の言いたいことを察していたらしい。
《殺すつもりか、と? いやいや、まさか。少し予定を前倒しにせねばならぬ事情ができたというだけのこと。なに、案ずるな。死ぬ寸前で止めてやろう》
「ギッ、あああぁあああがああああああっ!」
七転八倒することすら許されず、ただひたすらに苦しむ。
その状況で、雁夜はひとつのことを考えていた。
――何のために?
意味もなくこのようなことをするほど、臓硯は愚かでもない。ならば娯楽か? 否。歪んではいるが、このようなやり口は臓硯の性癖に合致しない。肉体的に痛めつけるのはあの老人の趣味ではない。むしろ、絶望へと人を突き落とすのが大好きな外道だ。
痛みでまともな思考もままならぬ状態ながら、その疑問は雁夜の頭を回り続けた。
「……おとう、さん……?」
聞きなれたその声が、耳に届くまでは。
幻聴だ。そう思いつつも、首を動かすと――
「ひだ、が、うあああああっ!」
痛みの奔流が流れ出す。
脳髄の奥に直撃する狂おしい痛苦の中、雁夜はもう考えることをやめていた。
きっと、これは夢なのだ。
それもとびっきりの悪夢に違いない。
目が覚めたとき、自分はあのアパートにいて、
飛鷹が隣の布団で寝ていて、
それをからかうと、飛鷹がむくれてしまって、
慌てて謝って、ご機嫌をとって、
そんな日々が帰ってくるのだ。
「お父さん、お父さんっ! しっかりして、死なないで――」
だから、きっと、いま見ているものは嘘。聞こえているものは偽り。
飛鷹が自分の手を握って泣きながら縋りつくなんて、ありえないのだから。
最愛の息子は、冬木にいないのだから。
こんな地獄にいるなんて、臓硯の手の内に入ってしまっているなんて、そんなこと――