「んぅ……」
ここ、どこ?
目覚めた飛鷹が最初に思ったのは、そんな素朴な疑問だった。
なにせ真っ先に視界に飛び込んできたのが豪奢なシャンデリアだったのだから。
上半身を起こすと、自分はベッドに寝かされていることが分かった。
服は柔らかく上等そうなパジャマに取り換えられ、リュックサックは脇の机の上で鎮座している。
(わけ分からない……けど、とりあえず)
とりあえず、腹が減った。
コン、コン。ノックの音が室内に響く。
どこかデジャヴュを覚えながら飛鷹が、はい、と答えると、小さく音を立てながらドアが開いた。
入ってきたのはメイド服に上品な感じで身を包んだ女性だった。美しいとか可愛いとかいうわけではないが、上品さが感じられる。
メイドは完璧な一礼をして口を開いた。
「起きられましたか?」
「え……あ、はい。あなたは……?」
「この家の家政婦です。ここは間桐家の館……臓硯様、つまり飛鷹様にとってのお爺様の家です」
「そう、ですか」
飛鷹は必死になって記憶の糸を手繰る。
家を出た。
タクシーに乗った。
優しい人に出会った。
自分の祖父に会った。
そして車に乗って――
(――どうなったんだろう)
そこから先は、なにも覚えていなかった。
「飛鷹様は、車の中で唐突に気を失われたとのことです。そのまま放っておくわけにもいかず、この部屋でお休みいただきました」
「そう……ですか」
少し頭が痛んだ。
なにかが違う、違うような気がする。しかし、なにが違うのか分からない。
話の内容が違うのか、環境の変化に戸惑っているだけなのか、それとも他のなにかが違うのか、飛鷹には分からない。
「飛鷹様が車中で倒れられてから、そう時間は経っていません。すでに晩餐の用意をしておりますので、これより食堂へとお越しいただければと」
「……はい、分かりました」
飛鷹はぐらつく意識に力を込め、今度は足がふらつくことに気付く。
「あれ? あれ?」
立とうとしても立てず、転びかけた体をメイドに支えられる。
「す、すいません……」
「お疲れになったのでしょう。ご無理をせず、こちらにお乗りください」
そう言ってメイドが指したのは車椅子だった。
「え、いや、そんなのいいです。大丈夫ですから。ほんとに」
「しかし、飛鷹様になにかあれば、私の責任でもあります。私のためと思ってお乗りください」
「……」
自分の性質をなぜか熟知しているメイドに抱えられて車椅子に乗り込みながら、飛鷹はふと思った。
思って、聞いた。
「あの、お父さんは知りませんか? ここにいるかも、って思って来たんです」
飛鷹を下ろしたメイドの動きが、静止画のようにピタリと止まった。
その反応に、なにか不吉なものを覚える。
ややあって、メイドは何事もなかったかのように背筋を正した。
「……雁夜様のこと、でしょうか」
「はい! 会わせてほしいんです!」
やった、とうとう辿り着いた――歓喜に震える飛鷹に構わず、メイドは車椅子を押し始めた。
「雁夜様は、ただいま外出されています」
「え…………そう、ですか……」
一瞬で喜びがしぼんだ。飛鷹は俯いて零れそうな涙を先んじて堪え、拳をぐっと握り締める。
それを見かねたように、メイドが溜息をついて言った。
「雁夜様がいつお帰りになられるのかは分かりません。ですが、臓硯様が然るべき時に会わせてくださるでしょう。いまは晩餐をお楽しみください」
飛鷹は答えず、泣きそうな顔を拗ねた表情に切り替えた。
車椅子で食堂に到着した飛鷹は、とりあえず見回す。
部屋にあった物と同型だが、明らかにそれよりは巨大なシャンデリア。
自分が着せられている明らかに高級品であろう服。
また、高価そうな本棚やらグラスやら壺やら、その他にも様々な調度品が発見できた。
雰囲気は少し――いやかなり――陰気ではあるが、そこに目を瞑れば、どこか遠坂邸にも似ているような。
飛鷹は、傍に控えている先程のメイドに思わず問うていた。
「あの……」
「なんでしょうか」
「おじいちゃんって、すごいお金持ちだったり……するんでしょうか」
「おじいちゃ……いえ、そうですね」
なぜか狼狽した様子のメイドは少し黙りこみ、ややあってから、
「お金持ち……そうですね。一般的にみれば、富豪に位置づけられるとは思います」
どこか砂を噛んだような調子で答えた。
その意味を尋ねようとした瞬間、見計らったように料理が運ばれてくる。
(……まあ、食べてからでいいや)
空腹に負けた飛鷹は、とりあえず瑣末な疑問を後回しにして食事に専念しようと決めた。
そして、それっきりその疑問を忘れてしまった。
――たとえ問うたとしても、まともな答えは返ってこなかっただろうが。
◇◆◇◆
同日、同時刻。
間桐邸、別室。
「ぐぅ、おぉオあああ!」
内臓をじかに抓られたような痛みに、雁夜は与えられた部屋で七転八倒していた。とはいえ手足はベッドに拘束されて、体を痛めないようにしているが。
今日、雁夜は、体内で虫が孵化するという嬉しくもない経験をする羽目になっていた。
体内に植えつけられた刻印虫の卵が一晩かけてゆっくりと雁夜の魔力を吸収し、孵化を迎えたのだ。
孵化した刻印虫は、魔術回路へと這い進み、その内部に潜り込んでさらに成長を重ねる。そして魔術回路が供給する魔力を貪欲に食いつくす。
刻印虫が育つことで魔術回路は拡張される。引っ張られたゴムが伸びるように、回路もまた太くなる。刻印虫は成長することでさらに多くの魔力を必要とするが、太くなった魔術回路ならばその要求に応じることができる。ある意味、究極の一人芝居である。
ただし、それは尋常でない痛みと、神経も同然の魔術回路に異物が潜り込むというおぞましさを伴う。
それは雁夜が予想していた以上の苦しみだった。
「ぎ、がぁああァああッ! くそ、この……虫けらめ……ッ!」
山のように悪態をつき、はばかることなく涙を流し、滝のような汗をかく。失禁など、この一時間前にやらかしてしまっている。
それでも体液が出る間はまだマシだ。
最も苦しく辛いのは、この先――魔術回路という安住の場所を見つけられなかった刻印虫が、生きるために足掻きだしてからである、
魔術回路の内側に潜り込める刻印虫は僅かだ。
今回、雁夜の中に植えつけられた卵の数は実に数千。しかし、その虫をすべて受け入れられるほど、雁夜の魔術回路は多くも太くもない。ならば、自然と余りモノが生まれるのである。
そうして生まれた残りの虫は、自分が生き残るために他の境遇を同じくする刻印虫と連携し、擬似的な魔術回路へと変貌を遂げる。魔術回路に侵入した刻印虫を通して魔力を盗み取り、それを余りモノの刻印虫に効率よく供給するためのネットワークを形成し、一個の群れとして生き延びようと試みるのだ。
その過程で、刻印虫は根を張る。肉に突き刺さり、神経に巻きつき、まるで蜘蛛の巣のようにしっかりと張り付く。その痛みに耐え抜いた人間は今まで一人もいない。
だが、そこを超えれば後はマシだ。
それらの刻印虫はある程度まで――回路を模した群れが自然に維持できる段階まで――育つと、成長を止め、最低限の魔力で生きる方向へとシフトし、回路に住み着いた虫を殺して除去する。要するに、宿主との共存を図るのである。
結果、省エネの刻印虫が食いきれない分の余剰魔力が生まれ、魔術回路の劣化版が体内で張り巡らされることとなる。
これが、魔術回路の本数を増やすという間桐の秘儀、その正体だった。
そもそも、魔術回路が多いからといって、魔力の総合量が増えるわけではない。一定期間内に運用できる量が増えるだけだ。
本数が少なく、細ければ使える魔力も小さい。
逆に太く多ければ、使える魔力は大きい。
当然の法則だ。
それを超えて魔力を使おうとすれば、その先に待つのは魔術回路の自壊という末路。
だからこそ魔術師は連綿と魔術刻印を継ぎ、血を絶やさぬように子を成してきた。
臓硯が生み出したのは、その常識に当てはまらない。常識の埒外にある。
いわば魔術回路の複製、魔術刻印の贋作とでもいうべき技術である。
ゆえに、刻印虫。
この技術が間桐の魔術師に多用されなかった理由は、単純だ。
一つは、刻印虫を使って魔術師として強くなったとしても、その子供には受け継がれないということ。
たとえば、整形手術をして絶世の美女になろうとも、その子供に受け継がれる遺伝は整形前のものだ。それと同じ理屈で魔術回路もまた、後天的に増やしたところで仕方がない。
そしてもう一つは――これこそが主な理由なのだが――あまりにも成功率が低いのである。
過去、間桐の歴史上で刻印虫を使用したのは、雁夜を除いて三人。その三人全てが痛みに耐えかねて発狂、魔術師として使い物にならなくなっている。
後継ぎを生むだけの女に使用するならばともかく、戦争に出す大事な手駒に使うにはあまりにリスキーだった。
ただし、最初から捨てるつもりだった戦争に、とうの昔に捨てた手駒が出るためならば――使うことも惜しくはないということだ。
「があアぁあああァアあああッ!」
シーツをちぎり取らんばかりに握りしめ、体はガクガクと痙攣し、時折口から吐血する。
皮膚が不定期に脈打ち、体内の虫が移動していることを示していた。
――狂う。
そう思った瞬間、雁夜の脳裏に浮かぶのは二人の影。
優しげに笑う、可哀そうな幼馴染と、
輝くように笑う、太陽のような息子。
(葵さん……飛鷹……!)
その二人にしがみつく様にして、雁夜は正気を保っていた。
桜を――ひいては葵を救えるのは自分だけだ。
一年は地獄を見るだろう。桜は消えることのない傷を心に負うだろう。だが、生きて帰ることはできる。
雁夜のいなくなった後に飛鷹に訪れるだろう空白を、あの少女ならきっと埋めてくれる。桜もまた、息子と傷を舐めあうようにして立ち直っていくだろう。
桜が決定的に壊れてしまわなければ。
飛鷹が完璧におかしくなってしまわなければ。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫……)
それを信じて、雁夜は終わりの見えない痛みと戦う。
そうでもしなければ、耐えられそうにない。
――トキオミサエ、イナケレバ――
心の奥に眠る、ドス黒い感情から努めて目を逸らしながら。
一度覗きこんでしまえば、抑えきれずに溢れてしまうと、頭の片隅で気付いていたから。