待つこと三十分。
スモークガラスをはめた黒塗りの車が、間桐不動産の前に停車した。
「臓硯様の専用車……飛鷹くん、おじいちゃんが迎えにきたみたいよ」
「はい。おにぎり、ありがとうございました」
飛鷹は、“仕事を中断して連絡を取るだけでなく、おにぎりまでくれた優しいお姉さん”に礼儀正しくお辞儀をし、急いで外に飛び出る。
この車に乗れば、お父さんに会える――そんな認識すら持ちつつあるほど、飛鷹は焦りと寂しさの裏返しである期待を抱いていた。
願望、と呼んでもいい。
子供に限らず、人間という生き物は、自分に都合のいい未来を想定する習性があるものだ。飛鷹の在り方は、生物として歪ではあったが、その部分は変わらない。
外に出た飛鷹の前で後部座席のドアが開き、そこから出てきたのは――杖。
杖を突き突き地に降り立ったのは、禿頭で背中の丸まった老人だった。
「げっ!」
「……あれ?」
車から降りたのが誰かを見た木本は、店内で人知れず呻き声を上げ、飛鷹は予想外の事態に首を傾げた。
木本はその人物をよく知っており、もしかすると事の重大性が自分の想像を遥かに超えた、さらにその先を行っているのではないかという恐れから。
飛鷹は、現在の状況下でここにやってくる老人には一人しか心当たりが無く、しかしそれを殆ど予想していなかったことから。
「えーっと……おじいちゃん、ですか?」
「カカッ。そう呼ばれるのも新鮮なものよのう」
そう言って笑った老人は、見かけに寄らぬ素早さで飛鷹と額をつき合わさんばかりに近づく。
「間桐臓硯じゃ。おぬしが雁夜の一粒種、飛鷹じゃな」
「は、はいっ! はじめまして、ぞうけんおじいちゃん!」
「ぶふっ!?」
店内からなにかを噴出させたような音が聞こえた気がして、飛鷹は振り向いた。しかし、澄まし顔の木本がガラスの向こうにいるだけだった。
今しがた聞こえた音の正体を考えるが、いくら考えても心当たりがない。
「どうかしたか?」
「え、いや、なんにもないです」
飛鷹は、すぐに意識を臓硯へと向け直した。祖父との初体面を悪印象にするわけにはいかないのだから。
幸い、臓硯は怒るでもなく、笑みを浮かべたままである。
(……この人、悪い人?)
が、その笑みにどこかぞっとするものを覚えた飛鷹は、一瞬だけそんなことを思い、
(ううん、顔は怖いけど、きっと良い人だよね……きっと)
そう自分に言い聞かせて、心のざわめきを抑え込む。
仮に悪い人だったとしても、雁夜に近付くための唯一の手掛かりなのだから。
「まあ、まずは乗れ。話はそれからじゃ」
「は、はい」
促され、先に後部座席へと乗り込む。
続いて臓硯が乗り込み、扉が閉まった瞬間。
――逃げ道を塞がれた。
そう、思ってしまった。
飛鷹はやはり、嫌な予感、胸の中に生じた警戒心、猜疑心といったものを振り払えずにいた。
この直感は自分を裏切ったことがないと知っているために、尚更。
それでも、この道以外に残された活路はない。
(こけつにいらずんば、こじをえず……だよね)
雁夜がいつだったか、教えてくれた言葉を思い返し、決意を新たに固めなおす。
飛鷹にとって、多少の危険や冒険は覚悟の上である。
別れ際に雁夜が浮かべた表情を見れば、どれほどの死地に最愛の父親が踏み入ったかは想像に難くなかった。たとえ、経験も知識も持たない飛鷹であっても。
それでも後を追うと決断したのだから、いまさら躊躇うはずもなかった。
最初に家を飛び出したのが勢いだったのはご愛敬だ。
「さて。では、早速始めるかの。飛鷹よ」
「は……ぃ……?」
臓硯の呼びかけに応じて顔を向けた飛鷹は、そこに混沌を見た。
渦を巻く、黒く濁った瞳を見た。
気付けば、その渦から目を離せなくなっている。
その淀んだ澱のような黒い波が打ち寄せ、自分というものが侵食される。
(お父さ、ん……桜ちゃん……)
飛鷹は反射的に、頭痛がするほど頭の中で思考を巡らせた。
自我を侵食されることに対する恐怖が成せる咄嗟の行動であり、全くなにかを意図して行ったわけではなかった。しかし結果的に、それは暗示を一時的に抵抗(レジスト)することに成功する。
「む? どれ、もうひと押し……」
「あ、う、ぁ…………ぁ…………」
そして結局――いとも簡単にとまではいかず、やはり無意識にある程度は抵抗(レジスト)したが――思考の糸が緩んだところで呆気なく暗示にかかり、その意識を喪失した。
臓硯が飛鷹を迎えにきた理由は、こうして暗示をかけるためである。
ならばなぜ暗示をかけたのかというと、ただの嫌がらせでしかなかった。
蟲に苛まれる雁夜の姿を、この子供に見せつけてやりたい。
いまの姿を息子だけには見られたくないと思っているだろう雁夜の顔が、息子に拒絶されたことで絶望に染まるのを見てみたい。
ただ、それだけの理由だった。
暗示をかけたのは、飛鷹と雁夜の間柄を詳しく聞き出すため。後は、飛鷹の精神性をやや臆病な方向へと傾けておくためでもある。万が一にも、虫唾が走るような自己犠牲の精神や家族愛を発揮されては堪らないからである。
目頭が熱くなるような絆と情に満ちた話を聞いた後ならば、ああ、その親子が破滅する様は、より甘美なものとなるだろう。
子に化け物と呼ばれ、嫌悪され、父親としての矜持を失った雁夜の目は、一体どれだけ暗く染まるのか、考えただけで震えが来るほど笑みが零れる。
今回の出立は、その程度の気持ち、いわば趣味でしかなかった。
飛鷹が、暗示への抵抗(レジスト)を成功させるまでは。
虚ろな目で頭をぐらつかせる飛鷹を、臓硯は冷たく見下ろしていた。
その顔は、孫に祖父が向けるものでは、無論ない。それどころか、策略を練り、悪逆非道の限りを尽くす妖怪の顔ですらない。
それは、遊び道具を見つけた赤子の顔を、何倍も濃く、そして醜くしたもの。
知的好奇心をそそられるものを見つけたときの、魔術師(けんきゅうしゃ)の顔。
怖気を催すほど純粋な、鬼の顔。
(こやつには、魔術の心得も、知識も、それどころか認識すらないはず。その状態で、ワシの暗示に二度も抗うなどありえん。まして、一度とはいえ完全に抵抗(レジスト)するなど……)
先程までは侮蔑と冷笑の色しか浮かんでいなかったその瞳に、いまでは暗い喜びと好奇の光が宿っている。
もしこれが手駒として用いる予定のない者であったなら、迷いなく研究材料として扱っただろう。
暗示とは、精神力だけで耐えられるような類の力ではない。血によって磨かれた、確かな抗魔力が必要となる。根性やら気合いやらは、気休め程度にしかならない。
ならば、魔術回路がないとされていたはずの飛鷹は――如何にして、この五百年を生きた魔術師の暗示を防いだというのか。
「これは、もしかすると思わぬ拾い物となるやもしれん……いたく、そそるのう」
臓硯は、飛鷹の体を起こし、顔を覗き込む。
口の端からは涎が垂れ、目は虚ろ、体からは力が抜けている。
(ふむ、強くかけすぎたか……)
いまの暗示は、記憶障害などが残る類のものではない。一時的に思考力を麻痺させ、現実感を希薄にさせるというもの。その後で、臓硯に対する親近感のようなイメージを植え付け、口を軽くしてから色々と質問をする予定だった。
しかし、その手前の段階、思考力を麻痺させる暗示を強くかけすぎたのか、意識が飛んでしまっている。おまけに現実感も希薄になりすぎたらしく、見た目だけなら麻薬中毒患者のような有様である。
暫し考え込んだ臓硯は、袖口から一匹の虫を取り出した。
二本の指でしっかりと挟まれたそれは、持ち主の意図を察したのか、それとも自然と動いてしまうのか、細長い糸のような体をのたくらせている。
「行け、穿虫(せんちゅう)よ」
呟き、臓硯は穿虫を飛鷹の首筋に落とす。
首の皮膚に着地した穿虫は、その頭をずぶりずぶりと飛鷹の中に潜り込ませ、やがて体全てが飛鷹の体内に埋まった。
少しの間、血管のように脈打って進む様子が見えていたが、それもすぐに見えなくなる。
理由は単純だ。
「――っ!」
飛鷹の目が光を取り戻し、突然苦しそうに体を痙攣させる。
「うあっ! がっ! ぎぃいっ!」
やがて痙攣などと生易しいものではなくなり、後部座席全体を使ってのたうちまわり始めた。口から洩れる苦悶の声も、拷問をされているようにしか聞こえない。
穿虫。寄生者の神経に潜り込み、痛覚やその他の感覚を、内側から直接、しかも魔力を使って刺激する虫である。
痛みを与える拷問にも、逆にこの世のものとは思えぬ快楽を与えるためにも使える。また、脳細胞の様々な部分にも刺激を与えることができる。そういう意味では、非常に用途が広い虫だった。
今回は、いうまでもなく痛覚を刺激していた。過去の使用法から平均的にみれば、これでも控えめではああるが。
なにせ、この虫を使う場面といえば、誰かを責め抜いて精神崩壊させてしまうときが殆どなのだから。痛みの意味でも、快楽の意味でも。
「……戻れ」
臓硯が魔力を込めて指示を送ると、飛鷹の中で暴れていた穿虫はぴたりと動くのをやめ、するすると体内を移動、首筋の入り口から外に飛び出した。
飛び出したそれを臓硯はさっと掴み取り、再び袖の中に入れる。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
荒く息を吐く飛鷹の目は、先程と比べるべくもなく、正気を取り戻していた。ただし、全身から汗を吹き出させ、涙と鼻水の入り混じったものを滴らせながら。
臓硯からすれば、失禁しなかっただけ上出来だった。
「やれやれ、とんだ手間をかけさせてくれたものよ……それ」
再び、臓硯は飛鷹の目を覗き込む。
いまの飛鷹に、抵抗などできるわけもなく。
「ふむ、飛鷹」
「……は、い」
呼びかけに応じたのは飛鷹。しかし、声に精彩を欠いている。
暗示が無事にかかったことを確認し、臓硯は問いを投げた。
「魔術、という言葉を聞いたことは?」
「あり、ます」
「どこで?」
「朝のアニメで」
「その他には?」
「ありませ、ん」
息も絶え絶えな返答に、臓硯は一人頷く。この子供が魔術を知らないということは事前に確認済みでもあったし、あの雁夜がわざわざ魔術の存在を教えるわけもないとは分かっていたが、それでも偶然耳に入ったという可能性がないわけではなかったからだ。
しかし、これではっきりとした。
飛鷹は魔術を知らない一般人でありながら、臓硯の暗示を抵抗(レジスト)したということが。
「ますます面白い。……時に、飛鷹」
「はい」
「おぬしは、父をどう思っておる?」
「だいすき、です」
「ふむ、どの程度か?」
「わからないです」
臓硯の脳裏に、刻印虫を受け入れるための下地として、蟲の苗床になっている雁夜の姿が浮かび上がる。
――少し質問を変えることにした。
「ならば飛鷹よ。おぬし、父のために命を捨てられるか?」
「はい」
「雁夜は、おぬしのために命を捨てると思うか?」
「はい」
またも臓硯は頷く。雁夜の性質を熟知している臓硯は、飛鷹の答えが紛れもなく正しいものであることを知っていた。
だからこそ、この親子の間に固い絆が結ばれていることを実感して、将来の愉悦を確信した。
この二人は間違いなく、自分にとって極上の道化となるだろう、と。
「クク、カカカ……全く、待ちきれぬな」
臓硯の頭の中は、既に暗い未来予想図で満たされていた。
黒塗りの車は、深山町へと近づいていく。
なにも知らない、哀れな父親のもとへと。