間桐雁夜には、今もなお心底惚れている幼馴染がいる。
かつての名を禅城葵。かつては魔術師の家系であったが、いまは没落している家系だ。
ただ、やはり元を辿れば魔術師の家系である。なにか因縁でもあったのか、雁夜と葵は幼馴染として出会った。
そして雁夜は葵に惚れた。
それからは他の誰よりも長い時間を共に過ごし、それなのに――別の男に負けた。
魔術師の名門、遠坂家当主である遠坂時臣が葵にプロポーズしたのだ。
魔術師の家に嫁げば魔道に関わることは避けられない。葵も、その子供たちも、普通の幸せな生活は送れないだろう。
自分のためか、葵のためかも分からない。それでも激情に駆られて葵の元へと向かった雁夜は、彼女の顔を見て敗北を悟り――それでも理解しきれず、諦めきれず、問いを投げかけはしたが――身を退いた。
葵もまた、時臣を憎からず思っていることが分かったからだ。
自分がここで秘めていた想いをぶつければ、彼女は友情と恋慕の狭間で苦悩するだけだ。ならばいっそ――
そう考えた雁夜は、逃げるようにその場から立ち去った。
その夜の雁夜は飲み明かしていた。
あちらこちらの酒場を渡り歩き、前後不覚になるまで浴びるように酒を飲んだ。
明日は仕事? 酒の飲みすぎは毒? んなもん知るか――
長年の初恋は実らず、それどころか完膚なきまでに敗北を突き付けられた雁夜は半ば自棄になっていた。
ただ今だけは、なにもかも忘れてしまいたかった。
やがてはしごも四件目に達し、雁夜はバーにいた。
酒ばかり飲んでいたせいだろう、尿意を覚えた雁夜はトイレに向かい、手早く用を済ませてすっきりしたところで手洗い場の鏡に映った自分の顔を見る。
酒で酩酊し真っ赤になった顔。
髪はいつの間にか濡れてぼさぼさになり、しかもどこかで酒を被りでもしたのか、妙に酒臭い。ひょっとすると自分の息のせいかも知れないが。
ズボンや上着にも新しい汚れがついていた。鼻を寄せてみれば、ゴミ捨て場特有の悪臭がする。
「……酷い様だな」
そう口に出し、自分の惨めさを嘲笑った。
好きな女と十数年という時間を共にしておきながら、最後の最後で横取りされてしまった自分が情けなくて仕方がなかった。
こうして酒に逃げながら、明日になれば全てはただの悪夢で終わるのではないかと馬鹿な望みを抱く自分が、女々しくて仕方なかった。
トイレから出て再び席に着く雁夜を、カウンターの内側に立つ店員が迷惑そうに見る。
ひょっとすると雁夜の被害妄想にすぎないのかもしれない。しかし完全に酔っ払ってしまった雁夜には現実と幻の区別すらつかなかった。
いや、それどころか、
(どいつも、こいつも……俺を嗤ってやがる……)
今の雁夜には、そんな光景すら見え始めていた。
たしかに、一部の客や店員から好意的とは言い難い視線を向けられていたのは事実である。しかし、決して嘲笑う理由などない。むしろ目を合わせないようにしていたくらいだ。
だが、今の雁夜には関係がない。僅かな悪意や軽蔑の視線は雁夜の中に眠る自嘲と結びつき、それが心の奥底に眠っていた憎悪や嫉妬とさらに結びつき、アルコールによる思考力の低下がそれを助長する。
そして古今東西、酔っ払いに激情を足して起こることは決まっている。
「嗤うな……」
「え?」
当然、店員からすればなんのことか分からない。聞き返すのは至極当然のことだ。が、今の雁夜にとってそれは火に油を注ぐ行為である。
ついに臨界点を勝手に超えた雁夜は、店員の胸倉を掴んで引き寄せる。
「俺を、嗤うなぁあああっ!!」
「ガッ!?」
そして、思いっきり顔面を殴り飛ばした。
雁夜はそれなりに筋力がある。店員は殴られた勢いで後ろの棚にぶつかり、落下してきた多量の酒瓶による追撃を受けて沈黙した。
それを見て、しまった、と思ったのは雁夜である。一時の昂ぶりが治まった今、自分がどれだけ醜い行為をしたのかが分かりすぎる程に分かった。
「あ……す、すまない! 大丈夫か!?」
酒瓶とはいえ、打ち所が悪ければどうなるか分からない。最悪の事態を考えて思わず顔面蒼白になった。おそるおそる声をかけると、
「大丈夫なわけがないでしょ? なにやってるのよ、貴方は」
背後から唐突に声をかけられた。
聞き覚えのある声に一瞬だけ固まり、ゆっくりと振り返る。
案の定、よく知った顔の女性が立っていた。
長い黒髪を背中でくくり、白いワンピース姿で佇んでいる。
清楚なはずの衣装は、女性自身が放つ女豹のような空気で別種の印象を抱かせた。
「……なんで、ここに?」
ようやく雁夜がそれだけ呟くと、
「あら。私がここにいちゃいけないなんて、誰が決めたのかしら?」
そう言って、雁夜のよく知る女性――結城静は艶然と微笑んだ。
雁夜は男の常としてその美しさに息をのみ、ついで舌打ちをする。
「何の用だ、結城。間桐を捨てた俺に、魔術師のお前が今さら会う理由なんぞ無いはずだ」
「あら、友人に会いたいだけなのに家の名前が関係あるかしら?」
「それは……」
咄嗟には気の利いた反論ができず、言葉に詰まる。
そんな雁夜を静は呆れたように見つめ、首を振った。
「まあ、細かい話は後ね。まず逃げるわよ」
「は? 何言って――お、おいっ!」
雁夜は静に唐突に腕を掴まれ、引きずられるようにバーから出る。
背後からは我に返ったらしい人々の怒号が響く。が、もう遅い。
驚くほどの速さで、静と雁夜は入り組んだ路地を駆け抜けていった。
「おい待て、待てよ!」
「あは、あははは! 楽しいわね雁夜!」
雁夜は戸惑いながらも静を制止するが、静は止まらない。子供のように笑いながら、走るのに不向きなはずのヒールで走り続ける。
「この……待てと言ってるだろう!」
止まらない静に業を煮やした雁夜は掴まれた腕を使って逆につかみ返し、力任せに引き寄せる。
その拍子に、静が雁夜の腕の中に飛び込んだ。
「……っ!」
女性特有の柔らかさと、やや高めの体温、それに色気を感じさせるなにかの香水が鼻孔をくすぐり、雁夜は思わず喉を鳴らした。
男としての本能が目の前の女性を求めていた。酒に酔って理性の箍が緩んでいたのもあった。
その直後、僅かな理性の揺り返しと同時に猛烈な自己嫌悪に陥る。
(俺は今、なにを考えた?)
まだ自分には好きな人がいるというのに、たかだかこの程度の誘惑に負けそうな自分がますます惨めで――
「雁夜」
呼ばれたかと思うと首に手を回され、頭を引っ張られた。
そして唇に温かい感触が伝わる。
驚きで見開かれた視界は彼女で埋め尽くされ、その美しい顔が驚くほど近くに見える。今ならば、その睫毛の一本一本まで数えられるだろう。
どれほどの時間がすぎたのか雁夜には分からなかった。とにかく、一秒にも、一分にも感じる時間がすぎ――静は唇を離す。
「雁夜」
もう一度、名を呼ばれる。
一度目とは違う。雁夜は、その響きに込められた願いを、意図を、正確に察した。
時に百万の言葉よりも雄弁な一言がある。これは正にそれだった。
そして、次に発せられる言葉もまた、これ以上ないほどに雄弁だった。
「来て」
乞われて、また腕を取られる。今度は優しく、そして導くようにゆっくりと引っ張られていく。
恐らく、ここで拒めば彼女は引き下がるだろう。この幻のようなやり取りは終わり、夢は覚める。尤も、今見ているのは悪夢なのか、それとも違うものなのか、雁夜自身にすら分からなかったが。
(駄目だ、俺は、葵さんが――)
そんな思考が一瞬だけ頭をよぎり。
同時に、つい半日前に見た、葵のはにかんだ慎ましい微笑が脳裏に浮かんだとき――
また唇が合わさった。
最初のどこかプラトニックなものとは違い、口内に舌を差し入れられる。
蹂躙され、征服される。惑わされ、捕食される。骨と肉を通して直にその音が伝わり、快感と背徳感、酒気も相まって朦朧とした頭に、もう考える力は残っていなかった。
「……ぷはぁ」
長く深い口づけを終えて少し離れた静が、舌で自分の唇を薄く舐める。
その仕草は普段の誇り高くしなやかな女豹とは違った。獲物を絡め捕った女郎蜘蛛のようだ。あまりにも美しく、そして妖しい。
雁夜は目が離せない。
今度こそ雁夜は、手を引かれるがまま、まるで亡霊のように夜の帳に消えていった。
この夜、雁夜は過ちを犯す。
文字通り一夜の過ちだった。
そして、たった一度きりの過ちでもあった。
しかしその過ちが、将来の間桐雁夜にとって致命的な重荷になろうとは当時の雁夜自身、思ってもいなかった。
そして来たる日、雁夜は最初のツケを払う羽目になる。
◇◆◇◆
冬木市郊外、とある産婦人科クリニック。
こっそり中絶したいだの、駆け落ち同然の出来ちゃった婚夫婦だの、そんなひと癖もふた癖もある客ばかり見るということで一部の人間には有名な場所だった。
今にも夕日が水平線の向こうへと沈まんとする黄昏時、このクリニックに一人の男が訪れた。
彼はクリニックの前に停車したタクシーから脱兎のごとく飛び降り、猛烈な勢いで走りだす。形振り構わず委細構わず、ただひたすらに走る。
その勢いのまま乱暴に扉を開き、受付に物凄い剣幕で詰め寄った。
「すいません、連絡を受けた間桐です!」
息も絶え絶えになりながら、パーカーに薄いズボン、整える時間も惜しいという風情でくしゃくしゃにしたままの黒髪、という姿で疾走していたのは、間桐雁夜その人であった。
彼はフリーのルポライターとして生計を立てているために、ここ冬木市に戻ってくることはあまりなかった。現地に行かなければ記事が書けないのは当然ながら、それ以上にこの因縁と業と、一人の醜悪な老人の悪意が渦巻く地に留まりたくないという嫌悪感が大きかった。もしも彼の実家である間桐の家が存在していなければ、なんらかの形で滅んでいれば、彼は冬木市に留まることを忌避しなかっただろう。
「はい、はい。一番奥の分娩室です」
雁夜が欲していた情報は、やや生温かい目をした受付嬢から、たったの一言と廊下の奥に向けられた指で受け渡された。
ここまで喧しく騒がしい客には一言くらいの注意もあって然るべきなのだが、事情を承知している職員は大目に見ている。仕方ない。誰だって――自分の子供が生まれるとなれば、平静を保ってなどいられないだろうから。
そんな仄かな思いやりなど知るはずもなく、雁夜は多くの焦燥と少しの混乱、そして微量の後悔を混ぜ合わせたまま奥へと突き進む。
そして最奥のドアを開く直前。
おぎゃぁあああああ――
「っ!」
そんな赤ん坊の泣き声が聞こえ、雁夜は思わず動きを止める。身が竦んだと言ってもいいだろう。
同時に少しだけ安堵していた。我が子とその母親が、まだ恐れていた事態に陥っていないと分かったからだ。
しかし、それでも震える。震える手でドアノブを掴み、握りしめる。
行かなければならない。この扉を開いて、その先にあるものを見なければならない。
この先にあるものこそ、己の罪の証であるゆえに。
「……頼む」
絞り出されるように零れた呟きは、まさしく懇願だった。
自分の一時の、短絡的な欲望によってこの世に産まれた子供が、父親の業によって嬲り者にされるなどという未来が訪れぬよう必死で祈っていた。
そして意を決した雁夜の手で、その扉が開かれる。
中には、医者も誰もいなかった。
ただ、ベッドの上で上半身を起こした女性が、生まれたばかりらしい赤ん坊を抱いていた。
「……遅かったじゃない」
そう言って雁夜を出迎えた静は、胸元に赤ん坊を抱いていた。
流石に疲労したのか、顔色は悪く声にも張りがない。全体的に精彩を欠いている。
そんな憔悴しきった顔で、それでも笑っていた。