――双月が、夜空の真上から地上を照らす時間帯。 静まりかえっていたはずのプチ・トロワ宮殿のとある一室から、そこを拠点とする主の金切り声が響き渡った。「伯爵家の当主が、こんなくだらない陳情出すんじゃないよ!」 どんなに気分が悪くても、仕事は待ってくれない。とはいえ、深夜まで執務室に籠もっていては肩が凝る。そこで、イザベラは自室のベッドでごろごろしながら回されてきた書類に目を通していたのだが――。「真面目に勉強しないガキを! 叱ってくれとか! 馬鹿か? 馬鹿なんだね!? 自分で解決しなよこんなもん! ほんと、王政府をなんだと思ってんだいこいつはさあ!!」 手にしていた羊皮紙をぐしゃぐしゃに丸めて床に叩き付ける。それだけではどうにも腹が納まらなかったイザベラは、ドスンという音を立ててベッドから飛び降りると、書類だったモノをげしげしと踏みつける。 ……相変わらず、一国の王女とは思えぬ行動である。 とはいうものの、ただでさえ従姉妹と父の件で精神が参っているところへこんなくだらない陳情書を出されたら、イザベラでなくとも怒る。実のところ、こういった貴族の家庭内問題が『北』に依頼されることは珍しくない。今回は内容はもちろんのこと、タイミングも最悪だったというだけのことだ。「えらくご機嫌ナナメじゃねぇか、イザベラ」 ぜえぜえと息を切らし、肩を上下させている王女に声を掛ける者がいた。「どうしたの? オーテンクン」 これが召使いや衛士の類なら切れ長の目で睨め付けていただろうが、王天君が相手ならばそうはならない。そもそも、こんなときに彼のほうから声をかけてくるということは……。「オメーに客だ」 予想通りの言葉にイザベラの口端が上がった。こんな時間に現れるなんて刺客の類に決まっている。いつものように王天君の『窓』から醜態を見届けた上で追跡者を放てば、多少は気が晴れるかもしれない。 そう判断したイザベラは、逡巡することなく『部屋』に飛び込んだ――の、だが。「久しぶりだのう。いや、今朝会ったばかりだったか」「ふえ!?」 奥の窓に、憎たらしい従姉妹のパートナーが鎮座していた。「な、な、ななな、なんで!?」「ああ、怖がる必要はないぞ。ほれ」 太公望は目の前の『窓』を叩いて見せた。鏡のように見えていたそれが、ゴンゴンと金属板のような音を立てる。「これこの通り。王天君の許可がなければ、わしはここから出られぬ」「そ、そんなことより! こんな夜中に王女のところへ来るだなんて、どういうつもりだい?」「かかか、相変わらず剛毅な娘だのう」「誤魔化すんじゃないよ!」「そういう訳ではないのだが……実はおぬしを見込んで、頼みたいことがあるのだ」 イザベラの目がすっと細められた。わざわざこんな真夜中に人目を忍んでやって来るほど重要、あるいは深刻な案件か。「まさか、あの子のことじゃないだろうね?」「全く関係がないというわけではないが……どちらかというとおぬしとジョゼフ王、ガリアという国全体に関わる可能性がある、といったほうが正しいかもしれぬ」「へえ、随分と大きく出たもんだね」 ちらりと王天君を見遣ると、彼は黙って頷いて見せた。(おそらく弟から話を聞いているんだろう。その上で放置できないと判断したからこそ、王天君はわたしを呼んだんだ) そう考える程度には自らのパートナーを信頼していたイザベラは、目線で続きを促した――。○●○●○●○●○ ――ガリア管区教会リュティス教区に属するボン・ファン教会は、旧市街に位置する静かな礼拝所だ。 新市街にそびえ立つ荘厳なリュティス大聖堂に比べると地味としか言いようのない建物だが、昔からそれで良いとされている。何故なら、ガリアの政治的中心地に最も近いこの場所は、代々ロマリアから派遣される神官たちが機密情報を入手し、総本山へ持ち出すための隠れ家――清廉を旨とするブリミル教会にも、暗部があるという事実を象徴する場所だからである。 そんな教会のとある客室で、ひとりの少年がベッドで頭を痛めていた。「昨日は酷い目に遭った。なんて非常識な主従だ……ある意味、古参の神官たちよりやりにくい」 特徴的な月目が苦痛によって細められる。 と、コンコンと規則正しいノック音が室内に響いた。「どうぞ」 来客は神官服を着た初老の男性だった。彼が手にしている銀のトレイには、硝子の薬瓶とタオルが乗せられている。「これはこれは司祭殿御自らのお越しとは、恐悦至極」「世辞なぞいらん。が、貴様のような若造がどうやって聖下に取り入ったのか……その一端を垣間見ることができただけでも、自ら足を運んだ価値があったわ」 憎々しげに吐き捨てると、司祭はトレイをサイドテーブルに置いて部屋から出て行った。「まったく、噂通り正直なお方だ」 だから、いつまでたっても司教の位階に到達できずにこんなところで燻る羽目になるんだよ。などと心の内で続けながら少年――ジュリオは上半身を起こし、薬瓶を手に取る。 栓を抜いて中身を飲み干すと、今までの苦しみがまるで嘘であったかのように全身から不快感が消えた。司祭は憎まれ口を叩きながらも良い薬を手配してくれたようだ。いや、だからこそあの態度だったのかもしれない。効果の高い魔法薬は、そのぶん値が張るのだから。 起き上がって服を着替え、軽く体を動かすと、酒精によって鈍っていた頭が回り出す。「さてと、これからどうしたものかな」 正直なところ、当初ジュリオはこの任務を甘く見ていた。 ジュリオは街を歩けば道行く女性はおろか、男性までもが振り返るほどの美形だ。普通なら不吉だとして忌み嫌われる月目も、彼の魅力を引き立てるアクセントになっている。 自分の〝武器〟を正しく理解している彼は、それを利用して少なくない女性の好意と支援を勝ち取ってきた。世間ずれしていない大貴族の娘なんて、簡単に意のままにできる……。 そんな風に考えていたのだが、その認識はドバドバと砂糖をまぶしたパウンドケーキより甘かった。件の姫君は色気より食い気で、ジュリオの魅力には欠片も興味を示さなかったのだ。 そのため、彼女に接近することができず、目的の人物であるのかどうかわからなかった。というか、煙に巻かれた。さらに使い魔の少年は隙だらけのように見えて、肝心なところは晒さない……そんな印象を受けた。 ただ、唯一気になったことがある。「食事中でも手袋を外そうとしなかった。見られたくないものがあるのかな? それとも、わざとそちらに視線を集めて本当に隠したいものから目を逸らしているのか……」 ――太公望に限らず、崑崙の者には食事中には帽子を取るとか上着を脱ぐといった習慣がない。手袋についても同様なのだが、そんなこととはつゆ知らぬジュリオはそれを〝擬態〟と誤認した。「彼が『盾』なら、大公姫殿下は機知に富んだ人物だが……もしも『心臓』だとしたら、つくづく悲劇の舞台に縁のあるお方だ」 ジュリオは部屋の隅に置かれた机につき、椅子の背もたれに寄りかかりながら思考を巡らせる。 これまでガリア管区教会を通じて集められた情報によると、シャルロット姫はメイジとして父親同様卓越した才能の持ち主だと評判だったが〝使い魔召喚の儀〟に失敗し、浮浪者も同然の子供を誘拐同然に喚び出してしまった。その途端、それまで彼女を支持していた者たちの多くが手のひらを返し、現王家に忠誠を誓っているらしい。 『優れた魔法の使い手を王座に』という建前でもって動いていたシャルル派が、簡単なコモン・マジックすら扱えない小娘を御輿にするわけにはいかない。 かといって、母親であるオルレアン大公夫人は毒薬の影響で狂人と化している。そんな人物を担ぎ上げるなど、己の野心を証明するようなもの。 故に、多くのガリア貴族たちが国内における政治基盤を固めつつあるジョゼフ王に頭を垂れるのは、ごくごく自然な流れであった。「それでも未だに彼女を担ぎ上げようとする連中がいるんだから……まったく、時勢が読めないにも程があるよ。おかげでぼくたちは色々と助かるんだけどね」 呟きの後、ジュリオの月目はトレイの上に載せられたタオルに視線を移す。「司祭殿のご厚意に甘えて、顔を洗ってくるか」 ついでに洗面器に水を張ってきてくれればいいのにな……などと身勝手なことを考えながら手を伸ばし、無造作にタオルを掴み取る。 立ち上がったジュリオは一瞬だけよろめいたが、すぐに姿勢を正すと部屋の扉を開けて廊下に出た。「おや、どこかへお出かけですかな」 偶然通りがかった若い神官に、ジュリオは爽やかな笑顔を向けた。「気分転換に、少し街をぶらついて来ようと思ってね」「大丈夫ですか? 今はだいぶ雨足が衰えているようですが、いつまた本降りになるかわかりませんよ」「心配してくれてありがとう。いざというときは、近くの店で雨宿りするさ。あ、そうそう。司祭殿に会ったらジュリオがとても感謝していたと伝えておいてくれると嬉しいな」 ひらひらと手を振りながら神官と別れたジュリオはそのまま水場へ向かい、顔を洗うと外門へ向けてゆっくりと歩き出した。 鈍い光を放つ短剣を、袖の中に隠し持ったまま――。○●○●○●○●○「なるほどねえ。世間知らずの初心な小娘がこんな男を見たら、コロッと参っちまうだろうさ」 特に、あの人形娘みたいな女なら――と、思わず続けそうになったイザベラだったが、紙一重でその台詞を飲み込むことに成功した。側であの男が聞いているのだから、あまり迂闊なことは言わないほうがいい。 着飾らせて王家主催の晩餐会に放り込んだら、参加している女たち――老いも若きも歓声を上げること間違いなし。そのくらい見目麗しい少年だった。ただでさえ整った顔立ちに月目というアクセントが加わって、妖しいまでの魅力を醸し出している。 目標に接近するために〝色〟を使うのはよくあることだ。従姉妹を籠絡するために送り込んだと言われたら、素直に納得してしまう。イザベラは、目の前の『芸術品』を見ながら昨夜のことを思い起こす。 ――太公望から「タバサに何者かが接近しようとしておる。あまりにも怪しいので、おぬしの人脈で捜査して欲しい」という聞き捨てならない依頼を受けたイザベラは、事実確認のため即座に『懐刀』を抜いた。 太公望曰く、 泥棒! という叫びと共に、黒猫が財布を咥えてタバサの足下を通り抜けようとした。 黒猫は飼い猫とは思えないほど痩せていて、毛並みも悪かった。 財布を奪われた被害者は、衆目を集めるような美形だった。 マントのような外套を身に付けていたが〝探知〟に反応がなかった。つまり平民である。 しつこくこちら、特にタバサと何らかの縁を繋ごうとしていた。 連れていかれた先の店で、従業員が「ブリミル教の神官さま」と呼んでいたのを聞いた。 これらの情報を脳内で精査したイザベラは、タバサとほぼ同じ結論に達した。即ち、このジュリオ・チェザーレと名乗る怪しい男がロマリア人で、何らかの目的を持って従姉妹に近付いてきたということに。 さらに、痩せた黒猫についても見逃せない。例の男が平民なら、彼を補佐するために自分の使い魔を放ったメイジ――おそらく貴族が最低ひとりはついているということだ。 使い魔にろくに餌も与えられない程に零落した貴族がオルレアン公の忘れ形見に接近しようとしている。それも、ロマリアの支援を受けて。「ったく、冗談じゃないわぁ~!!」 イザベラの献策と奮闘でようやく落ち着いてきた国内情勢を他国の横槍でひっくり返されてはたまらない。災いの芽は早急に摘み取らねば。 幸いなことに従姉妹本人の内心はともかく、従者は反乱を起こすことに消極的……というか逆に叩き潰す気まんまんである。 もしもこちらが先にこの情報を手に入れていたならば、理由をつけて忌々しい人形娘を処分できただろう。その危険を見越してわざわざ当日の夜中に宮殿へ――王天君の手助けもあるが――報せに来るということは、太公望がガリアの現状と主人の立場をしっかりと認識でき、かつ適切な行動を起こせる政治的バランス感覚の持ち主だと証明している。(やっぱり彼、欲しいわぁ~。王天君と一緒にわたしの手助けをしてくれたらとっても助かるのに) ……などとイザベラが考えてしまうのも無理はない。 なお、太公望本人にあえて「何故わたしに報告したのか」確かめたところ。「わしは、これ以上面倒くさいことに巻き込まれたくないのだ!」 という答えが返ってきて、隣で聞いていた王天君がゲラゲラと笑っていたのは余談である。「月目と透き通った蜂蜜色の髪が特徴の平民神官か。それだけ目立つ容貌なら、すぐに当たりがつくだろう」 イザベラの予測通り、睡眠はおろか休養をも必要としない彼女の『懐刀』は日の出前には目標を確認し――結果、ガリア随一の暗殺者の操り人形にされた男は王女らの前で棒立ちしている。 ……ちなみにだが、現在取り調べを行っているのは王天君の『部屋』の中である。いくら相手が平民とはいえ、万が一誰かに目撃されたら大変なことになる。ロマリアの神官を攫ってきたなどと知れたら国際問題どころか最悪異端審問にかけられても文句は言えないからだ。 ついでに説明すると『窓』越しに太公望もこの場に同席している。「面倒ごとに巻き込まれたくないんじゃないのか?」という問いに「知らないほうが面倒くさいことになる」と答えた上で。 座り慣れた『部屋』のソファーに身体を預け、イザベラは目の前の男に言を向けた。「わざわざ来て貰って悪いね。おまえには色々と聞きたいことがあるんだが、構わないかい?」「おおせのままに」 ジュリオは優雅に一礼して見せた。彼の瞳からは完全に光が失われている。「うぬぬぬぬ、便利だがおっそろしいのう」 『窓』の向こう側から聞こえた感想に、イザベラは得意げに鼻を鳴らして見せた。「ふふん、いいだろう? わたしの自慢の部下なんだ」 イザベラの『懐刀』であり、ガリアの裏で畏れられた暗殺者『地下水』は意志を持つ魔法の短剣だ。そんな彼(?)の能力は自身に触れた者を操り、その肉体を支配下に置くこと。 操られている間の記憶は『地下水』が好きなように設定できる。消してしまうのはもちろんのこと、夢の中の出来事であるかのように感じさせることも可能。もちろん、宿主の意識を保ったままにするのも自由自在。記憶の一部改ざんまでこなしてしまう。 このような状態なので、支配された者は嘘をつけない。聞かれたことはおろか、呼び出された記憶も完全に消されてしまうため、重要な情報を漏らしてしまったことにも気付けない。〝自白薬〟や〝誓約〟などよりも遙かに効率的な、尋問にうってつけの存在なのだ。 ジュリオの情報を得た『地下水』は、ボン・ファン教会に関わりのある人物に近付いて己に触れさせ、幾人もの手に渡りながら目標に迫った。〝彼〟をタオルに包みトレイに乗せて運んだ司祭の脳内には当然そんな記憶など残っていない。「なるほどのう。例の件は、こやつを使っておったのだな」「そういうこと。ま、まだ怒ってるのかい?」 ついついどもってしまうイザベラ。無理もない、彼女にとって太公望は〝本気で怒らせてはいけない人物リスト〟の上位にいる相手なのだから。 そんな彼女の心境を見抜いているのだろう、太公望は実にイヤな笑みを見せる。「それは今後次第だのう」「情報提供料はちゃんと払うよ。それで人形……いや、シャルロット襲撃の件はお終いだ」「ふむ……」 と、これまで黙っていた王天君がふたりの会話に割り込んできた。「太公望ちゃんよ。オメー、少しあの女に肩入れし過ぎなんじゃねぇか?」「……何が言いたい?」「美人三姉妹」 ピシリと太公望が固まる。「いや、ない! ないない! タバサとはそういう関係では断じてない!!」「なんの話だい?」「あぁ。婚約者がいるくせに別の女にかまけてるのはどうだなんだ、ってな」「婚約なんぞしてはおらぬ! あやつがそう思い込んどるだけで……!!」「あんだけ尽くさせておいてそりゃねぇんじゃねーか?」 愉悦に浸る王天君に、太公望は強烈なカウンターを浴びせた。「ふん、他人事のように言うておるがな。わしとおぬしは一心同体。逃げられるなどと思うなよ……?」「おいコラ巻き添えとかふざけんな!」「ククク、それはおぬしの心がけ次第だのう」 ――婚約者。 イザベラの背中を冷たいものが伝っていった。ぎゃあぎゃあと言い争いをしているふたりの話で、従姉妹と父が将来的に結婚するかもしれない、という件を思い出したのである。「あのさ。その話も気になるんだけど、ちょっといいかい?」「む? あやつの話を聞く前に片付けておきたいのか?」 頷くイザベラ。「だいたい想像はつくが、念のため確認するぞ。タバサとおぬしの父親の件でよいのか?」 やはり、この男わかっている。内心で舌を巻きつつイザベラは訊ねた。「あなたたちから見て、あのふたりが将来的に……その、結婚することってありえると思う?」「ねぇな」「ゼロではないが、まずなかろう」 即答だった。「その根拠は?」「状況が悪化するだけで、何の得にもならぬ」「どういう意味?」 薄ら暗い笑みを浮かべたまま口を閉ざした王天君をジロリと睨み付けると、太公望はイザベラに向き直った。「現状でタバサをガリア王妃に据えるメリットは何だ?」「シャルル派の沈静と、優れたメイジの血を王家に入れること……かしら」「よく考えてみるがよい。後者はともかく、前者には全く無意味だとは思わんか?」「どういうこと……って、ああ、そうか。そういうことかい……」 イザベラは苦虫を噛み潰したような顔をした。太公望の言うとおり、従姉妹姫の名誉を回復して王妃に据えたところで、シャルル王子が死んでいることに変わりはない。派閥の沈静という意味では効果がないのだ。 結局のところ父を排除したい輩にとって、理由は何だっていいのだ。なにせ、ジョゼフが正統な王位継承者である証拠品が揃っているにも関わらず、屁理屈を述べて反乱を企てたような連中なのだから。 こんな状況下で、父と従姉妹が結婚したらどうなるか。「我らがシャルロット姫すら汚した怨敵」 などと言い出して暴発しかねない。なるほど、ある程度事態が沈静化している現状ではこの上ない悪手だ。従姉妹憎しで凝り固まっていた自分ならまだしも、政治家としての手腕に優れる父が気付かない筈がないではないか。 胸に渦巻いていた不安を消し、さらに肩に乗せられた荷を下ろすことに成功したイザベラは安堵の溜め息を吐いた。それから、王天君に非難の声を浴びせかけた。彼が浮かべていた笑みと……それを見た弟が兄を睨んでいた意味が、ここにきてようやく理解できたからだ。「最初からわかってたのね。どうして教えてくれなかったのよ! オーテンクンのいじわる!!」「オメーなら気付けると思ってたからに決まってんだろ」「うぐッ……」「感情に振り回されて時間はかかったが、結局答えに辿り着いたんだから問題ねぇよな」「あううう……」 茹でた青菜のようになってしまったイザベラを眺めつつ、太公望がぼやく。「王天君。おぬし、相変わらずだのう……」 そんな彼らのじゃれ合いに割り込んできた者、もとい〝物〟がいた。『そろそろいいですかね? イザベラ様。この男、あんまり長時間連れ出しておくとヤバそうなんですが』「あ、ああ。そうだったね。じゃあ、とっとと始めるとしようか」 ――仕切り直し後。 イザベラは、腹心の術に敗れ去った哀れな犠牲者に声をかける。「待たせちまって悪かった」「とんでもございません、ミス」 恭しく礼をする男に、イザベラは微笑みを返した。この顔を彼女付きの召使いたちが見たら、その場で震え出すこと間違いなしの凄みを効かせて。「わたしは堅苦しいのは嫌いなんだ。もっと楽にして構わないよ」「そうかい? なら、そうさせてもらおうかな。実を言うと、僕も礼儀作法とかそういうのは苦手でね」 そんな彼女の態度に一切動じず、くすくすと笑うジュリオ。端から見ると不自然極まりない。女狐のアレも相当なモノだが、この『地下水』も記憶はおろか人格をも操れるという意味では同レベルだ。「早速だが。おまえ、ロマリア出身の神官だってのは本当かい?」「ああ。生まれはよくわからないけど、育った場所はロマリアで間違いないし、宗教庁に籍を置いているのも嘘じゃないよ」「生まれがよくわからない?」「孤児院の院長の話では、両親の手がかりになるようなものは何も残ってないらしいから」「そ、そうかい。悪いことを聞いたね」「気にしないでいいよ。もう慣れているから」 なるほど、従姉妹たちに語った出自は嘘ではないらしい。最初の確認を終えたイザベラは、ずばっと核心を突く質問をする。「なるほど。そんなあんたが、一体何のためにシャルロットに近付いたんだい?」「そんなの『聖地』を取り戻すために決まってるじゃないか」 はぁ? という気の抜けたイザベラの声を耳にしながら、太公望は表面上何でもないように装いつつも、内心で唸り声を上げていた。まさかとは思ったが、やはりそういうことなのか……?「意味がわからないよ。最初から全部説明しな」 ごくごく素朴な疑問から発せられたこの言葉が、まさか数十年に渡りガリア王家を蝕む毒を知る最初の一歩になるとは……質問を投げた本人は想像だにしていなかった。○●○●○●○●○「あくまで伝聞だけど……この計画の大元は、今から30年くらい前に始まったらしいよ」 イザベラの目が鋭さを増した。30年前ということは……父はまだ子供で、数年間に亡くなった母と婚約すらしていない。そんな大昔から続くロマリアの計画とは一体何なのだろう。 『聖地』へ至るのが目的ということは、裏から手を回してガリアの軍部を掌握しようでもというのだろうか?「当時の教皇聖下のところに、リュティス管区教会からガリアの王子たちに関する情報が入ったんだ。第二王子のシャルルは6つで風のトライアングルに到る程の天才なのに、兄のジョゼフはドットスペルもまともに唱えられない『出来損ない』だってね」「ふうん、それで?」「ガリアは広大な土地を持っている上に、王政府がしっかり機能していて隙がない。おまけに、例の『交差する杖』のせいで内乱も起こらない。おかげで、どんどん富を蓄えて手がつけられなくなってきた。なのに、宗教庁が何度もブリミル教徒の悲願である聖地奪還を訴え出ても、国王は首を縦に振らない。だから教皇の言うことを聞いてくれる信心深い人物に戴冠してもらって、信徒としての務めを果たしてもらおうと考えたわけさ」 イザベラを取り巻く周囲の空気が急激に冷えた。当然のことながら、操られているジュリオは気付けない。「そんなとき、リュティス大聖堂の告解室に当時のガリア王妃がやって来た。彼女には深い悩みがあったんだ」 本来、告解室で語られたことは絶対の秘密とされている。だからこそ多くの迷える民が訪れ『始祖』に懺悔する。連中はそんな人間の弱い部分を利用しているのか。全くもって度し難い――。「どんな悩みだい?」 凍り付いた湖の底から響いてくるような声で、イザベラが続きを促す。「息子たちのどちらも可愛くて仕方がないのに、ついつい出来の良い次男にばかりかまけてしまい、長子をないがしろにしている自分は母親として失格なのではないか……それが王妃さまの悩みであり懺悔だったのさ」 知らなかった。父上をまるで汚物のように扱い、その娘であるわたしを一顧だにしなかった祖母が、そんなふうに悩んでいただなんて――。 静かな衝撃を受けていた王女の頭上に、さらなる爆弾が投下される。「報告を受けた先代は、王妃の告解を利用することにした。ガリアの王宮に小さな噂話を流し込むことによってね」『シャルル王子はあんなに魔法がおできになるのに、ジョゼフ王子はあまりにも出来が悪い』『もしや、ジョゼフ王子は国王陛下の血を引いておられないのではないか?』「ふたりの王子は『ガリアの青』を色濃く受け継いでいるし、王と王妃の仲も睦まじかった。だから、そんなことは絶対にありえないんだけど――噂の効果は絶大だったようでね。身に覚えのない不実を王宮のそこかしこで囁かれた王妃は、またしても告解室の扉を叩いた」 ――わたくしは悪い母親です。くだらない噂に惑わされ、罪の無い子に酷いことを言ってしまった……。 涙を流しながら『始祖』に懺悔する王妃に対し、教会は言葉という名の毒を注ぎ続ける。 曰く、より優れた子を遇するのは民を統べる王族として当然である。 曰く、ブリミル教の敬虔なる信者であれば、後継者に魔法の腕を期待するのは間違っていない。 曰く、才能はまだしも努力が足りないのは母親が悪いのではなく長子自身の責任だ。 曰く、奇跡の御技を磨く努力を怠る者に愛情を与えるなど『始祖』に対する冒涜である。 故に、怠惰な子に罰を与えるのは罪ではなく必要な教育であり、始祖の御心に適う行為だ。 こうして、ロマリアの悪意に蝕まれたガリア王妃は静かに……だが、確実に狂っていった――。 ジョゼフを「不虞の子」となじり、シャルルに過剰なまでの愛情を注ぐ。それを見た貴族たちも王妃に追従を始める。王宮内部の空気は、毒された王妃というフィルターを通り抜けることによって、加速度的に悪化した。「ここまでくれば、もうこっちのものさ。どこにでも現状に不満を持っている層はいる。そんな連中に『ジョゼフ王子よりも優れているシャルル王子が王位を継いだほうが、絶対にガリアのためになる』そう焚きつけるだけでよかった。あとは彼らが勝手に――正義感やら打算やらで動き出して『交差する杖』はふたつに割れた」 イザベラは深い、深過ぎる溜め息をつくと、目の前の男の手に握られている短剣に訊ねた。「なあ『地下水』。こいつの話は本当に……本当なんだろうね?」『へえ。嘘をつけないように心を縛り付けてますから』「魔法や薬で無理矢理思い込まされてるってことは?」『そういう形跡は全く見当たりませんね。少なくとも本人は真実だと確信してますぜ』「悪いね、おまえの腕を疑ってるわけじゃないんだけどさ……」『お気になさらず。むしろ、雇い主として頼もしいくらいでさ』「ありがと。今回の報酬も弾ませてもらうからね」『へへへ、ほんと得難いお客さまですよ、王女殿下は』 『地下水』の追従を半分聞き流しつつ、イザベラは『窓』に視線を移した。「わしやタバサの仕込みでもないぞ。こんな明け透けな話を聞かされて、逆に驚いておるくらいだ」「ああ、大丈夫。そのくらいわかってるよ」 なんならその短剣を掴むことで証明してもいいとまで申し入れてきた太公望を制し、イザベラは答えた。彼らがそんな使い古された手を使ってわたしを騙そうとする程度の輩なら、従姉妹はとうの昔に父親の後を追ってヴァルハラへ旅立っているだろうし、この男は王天君と共に自分の元で働いていただろう。 『裏』を司る王女は、改めて得意げにロマリアの陰謀を語った男を観察した。 ただの虚言と断じるには説得力がありすぎる。ロマリアが、送り出した間諜にあえて偽の情報を刷り込ませ、捕らえた相手を混乱させようとしたと仮定してみたが……この状況では害にしかならない。 そう考えると目の前の優男が語ったことは真実なのかもしれないが、裏を取らなければ動けない。かの国は昔からこの手の情報戦に長けているし、何よりたったひとりの自白(?)でふたつの国を揺るがすような行動を取るほど『北』の騎士団長は迂闊ではない。 だが。「そういや、このところとんと『交差する杖』の話を聞かなくなっていたね」 ――そうなるよう、仕向けた相手がいたのだとしたら?「あれもこれも……全部、おまえたちの仕業だったってわけだ」 実の祖母から「父親そっくりの出来損ない」と蔑まれ。 努力して何事かを成しても「魔法が下手では意味がない」と貶められ。 父からは遠ざけられ、母からも疎まれて。 王宮内の貴族はおろか平民の召使いたちから、出来の良い従姉妹と比較され続け。 幾度となく『正義』の名の下に命を狙われた。「わたしですらこれだ。なら、父上はどんな扱いを受けていたんだろうね……」 こいつの話が真実ならば。 母と子が、兄と弟が、従姉妹同士が憎しみ合うことになる原因を作り出したのは、ロマリアのクソ神官共か。それも『聖地』なんていうどうでもいいもののために! 悔しさのあまり、ギリッと歯軋りをする。怒り、憎悪、殺意といったマイナスの感情がぐしゃぐしゃに混じり合いイザベラの心をかき乱そうとしたが、王女は必死の思いでそれらを押さえ込む。つい先ほど、似たような焦燥を持て余して失敗したばかりではないか。同じことを繰り返して、王天君に失望されたくない……だけど。「……裏が取れたら潰す。今はまだ無理だけど、いつか……いつか、必ずだ!」 ――この日。イザベラが掲げる生涯の目標が定まった。そのための第一歩として、まず確認すべきことがある。「おまえは一体何者だい? ただの平民神官にしちゃあ知り過ぎてる」 従姉妹を誘惑するためだけに送り込まれた間諜とは思えない。かといって、使い捨てにするには惜しい存在だ。もしかすると、ロマリア宗教庁でもかなり高い地位にいる者の片腕か何かなのではないだろうか。『裏』を預かる者として極めて順当な思考から出た疑問だったが、ジュリオの回答はそんなイザベラをして、想定すらできないようなものだった。「僕はジュリオ・チェザーレ。聖エイジス三十二世の使い魔〝ヴィンダールヴ〟さ」