――サー・ジョンストンがニューカッスル城の宝物庫前で、憤怒のあまり口から泡を飛ばしまくっていたのと、ちょうど同じ頃。 アルビオンから遠く離れた空の上、高度8000メイルの位置に停泊した『イーグル』号の甲板から、箒ではなくデッキブラシに――艦内には、箒に近いものがそれしかなかったので――腰掛けたルイズが、天駆ける流星の如く大地へ向けて飛び立った。肩に、その小さな身体には不釣り合いとしか思えない、大振りの書類鞄をぶら下げて。 太公望からルイズへ与えられた任務とは、領内の誰にも姿を見られることなく、彼女の父であるラ・ヴァリエール公爵へ、アルビオン国王からの親書と太公望が纏め上げた状況報告書を手渡すことだった。 任務の内容を詳しく聞いたとき、ルイズは少なからず驚いた。「父さまに書類を届けるって……わたし、ずっと王党派の行き先はゲルマニアだと思ってたのに」「かかかか、そう思わせるのが狙いだったのだよ。逃げ出す前に本当の避難先を報せてしまっては、どこかから情報が漏れる可能性があるからのう。わざわざ貴族派連盟の者どもに、付け入る隙を与える道理はあるまい?」 そのために、あのときわざとらしくキュルケへ視線を投げたのだ。そう教えられたルイズは、完全に引っかけられたことをちょっぴり悔しく感じたのと同時に、嬉しく思った。それだけ、ヴァリエール家が信頼されているということなのだから。 しかも――だ。あんな手酷い失敗をした自分が、こんな大切な役目を任せてもらえる。信じてもらえている。その事実が、ルイズを奮い立たせていた。 ――今から、数時間前のこと。 ルイズは、内心で怯えながら太公望に確認を取っていた。「確かに、わたしにしかできないことかもしれないけど……こんな大切な仕事、わたしなんかに任せて、本当にいいの?」 だが。戻ってきた答えは、彼女にとっては思いも寄らないものだった。「おぬしなら、必ずできると確信しているからこそ頼んでおるのだ」「で、でもわたし、いつも失敗ばっかりで……アルビオンへ来ることになったのだって、元はといえば、わたしがろくに考えもしないで動いたせいだもん」 しゅんとして俯いたルイズへ、太公望は柔らかい声音でもってこう言った。「おぬしはこれまで、どんなに失敗しても、決してくじけなかったであろう?」 ルイズの身体が、ピクリと動いた。「何度魔法を失敗しても、ぼろぼろになっても諦めなかった。フーケのゴーレムが現れたときも、ほとんどの貴族たちが怯え、隠れていたにも関わらず、おぬしは飛び出していった。己の力量をきちんとわきまえとらんかったのは確かにいかんかったが、自分なりに何とかしようと努力したことについては評価できる。これは、おぬしが持つ最大の美点だ」 太公望の言葉に、ルイズは小さく首を振った。「そんなことない。だって、わたし……逃げたもの」「なぬ? もしやおぬし、王子に亡命するよう説得するために、わしへ話を振ったことを逃げたなどと言っておるのか?」 ルイズは思わず目を見開いた。「全部わかってて……それで王子さまのこと、助けてくれたの!?」 しかし、その問いに太公望は頷かなかった。代わりに彼は、ふうとため息をついた。「あのときはわからなかったが、返却された手紙の内容を確認して、ようやく理解できた。おそらくだが、例の密書のほうに亡命を勧める文章が記されておったのだろう。姫君は手紙の奪還にかこつけて、想い人を救い出そうとしていたのだ」「じゃあ、あれってやっぱり恋文だったのね……」「おぬしな、わかっとったなら、もっと早く教えんかい!」 くわっと目を剥いた太公望を見て、ルイズは思わず首をすくめた。「し、知ってたわけじゃないわ! わ、わたしも、ウェールズ殿下にお会いするまでは全然気がつかなくて」「まあ、それはともかくだ。おぬしは別に、責任を放棄して逃げたわけではない。自分よりも上手く説得できそうな相手に仕事を振ったのだ。結果として、その試みは成功しておる。何ら恥じることなどないであろうが。胸を張ってよいのだぞ? おぬしの的確な判断によって、避難民を含む1000余名の命が救われたのだから」 しかし、そこまで言われてもなお、ルイズは顔を上げようとしなかった。「もしかすると、そうなのかも、しれない、けど」「けど?」「ミスタに声をかけたのは、また失敗したらどうしようって、怖かったからで」 なるほど……と、太公望は思った。以前からなんとなく察してはいたが、ルイズを常に前へ前へと突き動かしているものの正体は、やはり勇気ではなく恐怖なのだと悟った。 これまで、メイジとして『あたりまえ』のことができなかった。そのために、周囲から見捨てられるかもしれないという畏れ。それが、時に無謀としか思えない暴走を引き起こしていたのだと。<念力>を習得して以降、徐々に落ち着いてきていたのがその証拠だ。「ルイズよ。失敗を怖がるのはな、決して悪いことでも、恥ずかしいことでもないのだ」「え……?」「そもそも『失敗を怖がるな』という台詞は、それが致命傷にならず、後に経験として生かすことができる場合にのみ使うものなのだ。たとえば、前に授業で赤土先生が<錬金>の魔法をおぬしにやらせようとした時に、こう言ったな。『失敗を怖がっていては、何もできませんよ』と」 そういえば、そんなことがあったわね……と、ルイズは過去を思い起こした。「あれは、魔法が失敗したところで悪いことなど何も起きないと確信していたからこそ言えた台詞なのだ。実際には、石ころが爆発して大騒ぎになったわけだが――」「い、い、いまここで、そそ、そんなこと蒸し返さなくても……!」 真っ赤になって抗議するルイズを制し、太公望は続けた。「しかしな、世の中には本当に取り返しのつかない過ちというものが存在するのだ」「今回、わたしが受けた任務みたいな?」「そうだのう。これも出立前の夜に説明した通り、もしも失敗していたら、トリステインが火の海になっていたかもしれぬな」 これを聞いて首を竦めたルイズの姿を見ていた太公望の脳裏には、かつて自分がしてしまった取り返しのつかない過ちが、まざまざと蘇っていた。 ――師より『封神計画』を受けた当初。『女狐』さえ倒せば、全てが終わると過信していた、あの頃。策を弄して人質をとり、上手く敵の根城に潜入できたところまではよかったのだが、標的には寸分の隙もなく、逆に囚われの身になってしまった。 そして皇帝暗殺未遂の罪に問われ、処刑場に引き立てられていった彼が目にしたものは。同じ羌族の出身者――奴隷とするために捕らわれ、都で強制的に働かされていた者たちが、多数の毒蛇が待ち構える穴の底へ突き落とされてゆく様だった。「彼らは関係ない、やめてくれ!」 叫ぶ太公望に応えたのは、女狐でも、皇帝でも、ましてや処刑人でもなかった。それは、今まさに殺されようとしていた羌族たちの魂の声。「俺たちが殺されるのは、お前のせいだ!」「たいした<力>もないくせに、蜂の巣を突くような真似をするから――!」 その後生じた混乱に上手く乗じた黄飛虎の手によって、命を救われた太公望は、この失敗を心に刻み、ひとりでは到底勝ち得ぬ強大な敵に立ち向かうための<力>となってくれるであろう仲間を集め始めた――。 そんな己の苦い過去を思い出しながら、太公望は語る。「誰にでも失敗や間違いはある。だが、そうならぬよう努力することはできるのだ。多くを学び、選ぶべき『道』を見極めることも、そのひとつだ」「ミスタにも、やっぱり失敗が怖いと思うことがあるの?」 ルイズの問いに、太公望はおどけるように答えた。先程までの思いを振り払うために。「もちろんだ。というか、怖いことだらけだ。失敗なんてしたくないし、傷つけたり、傷つけられたりするのはあちこち痛くなるからイヤなのだ。おぬしはどうだ?」「わたしも、あちこち痛いのはイヤ。だから、これからはもっと考えるようにするわ」 クスリと小さく笑ったルイズの頭に、太公望はぽんと手を乗せて言った。「失敗がイヤなわしが考え抜いた結果、おぬしに任せることにした。それが最も成功率が高いと判断したからだ。これで、少しは自信が持てたか?」 返事の代わりに、ルイズはぎゅっと鞄を抱きしめた。 ――フネを飛び立ってからしばらくして。ラ・ヴァリエール公爵家の屋敷から、10リーグほど離れた森の中に舞い降りたルイズは、側にあった木にデッキブラシを立て掛けると、しっかりと鞄を抱えて<瞬間移動>のルーンを紡ぎ出し――『空間』を駆けた。 良く知るラ・ヴァリエール公爵家の屋敷内で、ルイズは細かい<跳躍>を繰り返した。広い実家の中では、常に大勢の使用人たちが忙しく立ち働いている。瞬間移動時にできる『空間把握』で、彼らの動きを完璧に掴み取り、その隙間を縫うように移動を繰り返す。そして十数回目の跳躍で、彼女はついに目的の人物を捉えた。 何の予告もなく、ルイズが自分のすぐ側に現れたとき。書斎の書き物机に着いていたラ・ヴァリエール公爵は、一瞬目を丸くしたが――すぐさま隣の――自室以外の何処とも繋がっていない扉の奥へ、愛娘の手を引いて移動した。 それからルイズの顔をじっと見つめると――静かに彼女を抱き寄せた。「え、あの、と、父さま!?」「良かった……おまえが無事に戻ってきてくれて、本当に良かった。もう二度と、あんな無茶な真似はしないでくれ!」「と、父さま! ま、まさか、任務のこと、ご存じで……」「ああ、もちろん知っていたとも! おまえが姫殿下から無茶な役目を請け負ったことも、友人たちと連れ立ってアルビオンへ赴いたことも、全部だ!」 どうしてそこまで知っているのか。そう問おうとしたルイズは、抱き締められた腕の中から父を見上げ、はっとした。普段は威厳溢れる父親の目は赤く、顔には深い心労の色が浮き出ていた。 父さまは、本気でわたしのことを心配してくれていたんだ。ルイズの胸は、それだけで暖かなものに満たされ、自然と口から謝罪の言葉が漏れ出た。「父さま、心配かけてごめんなさい……」「全くだ! さあ、ルイズや。わしの心臓へ負担をかけた償いをしておくれ」 ルイズは父の首へ静かに両手を回し、その頬へキスをした。ラ・ヴァリエール公爵は、愛おしそうに娘の頭を撫でた後、すぐさま普段の優秀な為政者の顔に戻り、問うた。「おまえがわざわざひとりで飛び込んできたということは――わしに宛てて、何か厄介事を持ち込んできたのだろう?」 ルイズはコクリと頷くと、父へ書類鞄を手渡した。○●○●○●○●「いや、まさか……こんなことが……!」 ラ・ヴァリエール公爵は、ひととおり報告書に目を通した後――両手で顔を覆った。そこに書かれていた内容が、あまりにも衝撃的だったからだ。 アルビオンへの道中で起きた、二度にも及ぶ襲撃事件。それだけでも目を回しそうだったところへ、なんと5万の軍勢に取り囲まれた王党派本陣へ、ルイズが直接出向く羽目になったこと、『レコン・キスタ』総帥が仕掛けたとおぼしき下劣極まりない罠――そして。「アンドバリの指輪、か……」 この忌まわしき指輪が元凶と思われる数々の事件が、ラ・ヴァリエール公爵の精神を徹底的に打ちのめした。正直なところ、これは数年もの間ラグドリアン湖の管理を怠っていた、トリステインの大失態といって差し支えない。もしもアルビオンのテューダー王家に責任を問われた場合、反論することさえ難しい状況だ。 そういった意味では、対岸のガリアも同罪なのだが――皮肉にも、かの王国は湖周辺の干拓事業に成功していたがために、ごく最近まで水害に見舞われなかったらしい。第一、隣国の領地まで常に監視しておけなどというのは、いくらなんでも無理がある。よって、ガリア王国に連座を求めるなど論外だ。 指輪の盗難に関連する調査の過程で、湖の管理を任されている貴族が宮廷政治にうつつを抜かし、住民の訴えを無視し続けていたことが判明している。彼は近い将来、相応の罰を受けることになるだろう――それはさておき。 ラ・ヴァリエール公爵は、報告書を手にしながら言った。「これを読んだ限りでは、おまえたちが『アンドバリの指輪』が盗まれたという情報を得た時点で、もう既に手遅れだったようだな」「そんなことないわ! わたしたちが、王政府へちゃんと連絡していれば……きっと、ここまで酷いことには……」「いいや。むしろ、報告しなくて正解だった」 父の言葉に、ルイズは思わず眉を吊り上げた。「そんな! どうしてですか!?」 今の王政府では、どのみち情報が上へ届く前に、途中で握り潰される――とは言わず、ラ・ヴァリエール公爵は別の角度から娘に問題提起をした。「よく考えてみなさい、ルイズや。もしもこのような怖ろしい指輪の存在が何処かから漏れて、野心ある者たちに知れ渡ったりしたら……どうなると思う?」 父親からそう諭されて、ルイズは考えた。野望を持つ人物が『アンドバリの指輪』が持つ効果を知ったとしたら、いったいどうするだろう。今回の一件で、人間が持つ心の闇というものの一端に触れることになったルイズは、すぐさま答えに行き着いた。「指輪を巡って、別の戦争が起きるということですか?」 ルイズの解答に、ラ・ヴァリエール公爵は真剣な表情で頷いた。「そうだ。その結果、指輪の行方がわからなくなれば……さらに厄介なことになる」 父の言葉に、ルイズは首をかしげた。「行方がわからなくなる?」「今は『レコン・キスタ』の元にあるとわかっているから、対策の立てようがある。だが、この情報が広まって、相手に警戒されれば――奪還が極めて難しくなるのだ。それにだ、もしも指輪の争奪戦が起きて、別の誰かに奪われでもしたら……対応自体ができなくなってしまうのだよ。そうなれば、より大きな悲劇が引き起こされるだろう」 それが理由で、ラ・ヴァリエール公爵は太公望から前もって警告を受けていながらも、調査が終わるまでは王政府へ報告することができなかったのだ。「それに、水の精霊から『クロムウェル』という名前を聞いたというだけで『レコン・キスタ』総帥を犯人と断定するわけにはいかない。証拠もなしに相手を盗人呼ばわりすれば、国の評判を落とすばかりか、向こうに戦争を起こすための口実を与えることに繋がる」「で、でも、ウェールズ殿下や、王さまたちは信じてくれたわ!」「王党派が『指輪』の存在を認めたのは、ウェールズ殿下と一部の兵士たちが、その直前に『他者を魅惑して操る』という強烈な魔法具の効果を体験していたことや、状況がある程度噛み合っていたこと。さらに、彼らが心身共に疲弊していたからに過ぎない。もしも彼らが瀬戸際まで追い詰められていなかったら、たとえ水の精霊との対話が可能なモンモランシ家令嬢の言葉といえども、すんなりと納得させるのは難しかっただろう」「う~ッ、アンドバリの指輪のことを世界中にバラしちゃえば、あいつらの言う『正義』を壊せると思ったのに!」 悔しげに唇を噛むルイズを、ラ・ヴァリエール公爵はなだめた。「そのためには、もっと確実な証拠が必要になる。魔法具を使っていることを証明するのはとても難しいことなのだよ。それが<魔法探知>に反応しない先住の秘宝であれば、なおさらだ。第一、戦争に魔法具を用いてはならないなどという決まりはない」「そんな! 貴族の礼節を重んじる父さまのお言葉とは思えないわ!」「確かに、貴族が用いる手段としては卑劣極まりないものではあるのだが、戦とは、礼儀正しさを競うものではないのだよ。それだけに、相手方を崩す理由としてはあまりにも弱い。せめて、何かもう一押しが欲しいところだ」「それは政治的な意味で、ということですか?」「ふむ。魔法学院では、そのようなことまで教えるようになったのかね? 結構なことだ。さてと、アンドバリの指輪の件については、今は置くとしてだ。急ぎ、返書の作製とフネの着陸場所を指定せねばならんな。まだ、上空で待っておられるのだろう?」「はい。二艘とも国境へは近付かず、雲の中に隠れて空の上に停まっています」「その判断は正しい。今は国境近辺の警戒が厳しくなっておるからな。では、わしは急いで用意をしてくるので、お前はそこで待っていなさい」 ――それから、約1時間後。 再び鞄を抱えて<跳躍>した愛娘を見送ったラ・ヴァリエール公爵は、受け取った報告書を1枚ずつ暖炉の火にくべながら、思わず溜め息を漏らした。「これは、自領の運営にばかり熱心で、王室を顧みようとしなかったわしへ『始祖』が与えられた罰なのだろうか。『王権』など、ひとつだけでも充分重いというのに……まさか、ふたつも手元へ抱え込むことになろうとは」 その後。王党派と彼らの主が乗るフネは、フォンティーヌ領に降り立つこととなった。 かの地は、病弱な次女カトレアの療養地とするべく、王室へ特別にと願い出たラ・ヴァリエール公爵が、自領の一部を分け与えたものだ。高い山と森に囲まれ、他貴族の領地から完全に隔絶されたその土地は、異国の客人たちを隠すにはうってつけの場所であった。○●○●○●○● ――3日後。ケンの月、エオローの週、エオーの曜日。 秋も深まり、冬の足音が徐々に近付いてきていたその日。マザリーニ枢機卿は、王宮の廊下をすたすたと足早に進んでいた。黙って聞き逃すには、正直危険に過ぎる噂話を耳にしていたからだ。 すぐに目的の場所へたどり着いた枢機卿は、両隣に控える衛士を下がらせると、扉をコンコンと軽くノックした。「姫殿下。わたしです」 声をかけてから、しばしの間を置いて。ガチャリと鍵が開く音がし……続いて静かに扉が開いた。扉の奥へ進んだマザリーニは、軽く眉を顰めた。姫君の居室の中央に、以前は置かれていなかった『始祖』ブリミルの像が飾られていたからだ。「お勤めの最中でございましたか。これは大変失礼をば致しました」 アンリエッタ姫は、憂い顔でそれに答えた。「いいえ、気にせずともよいことです。いつなんどきいらしても、同じこと。わたくしは、朝目覚めてから夜更けまで、ずっと『始祖』へ祈りを捧げておりますから」 マザリーニは、一切の感情を映さぬ目で姫君を見つめた。アンリエッタ姫が自室に閉じ籠もり、一日中お祈りをしているという宮廷雀たちの噂話は、本当だったのだ。「姫殿下。このような真似をなされては困ります。日頃の習慣にないことをされては、臣下の者たちが、いったい何事かと騒ぎ立てますゆえ」「ですが、この無力な姫は……ただ『始祖』に祈ることしかできないのです」 姫君の言葉に、枢機卿はかすかな違和感を覚えた。どこかずれた――根本的な何かが噛み合っていないような、そんな感覚が彼の嗅覚に触れた。 再び姫を問い質すべく、彼が口を開こうとしたそのとき。扉の外から近衛衛士のひとりが現れ、アンリエッタ姫に来客を告げた。その瞬間、姫君の顔は華やぎ――枢機卿の緊張は、一挙にほぐれた。 客人の名は、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールであった。 アンリエッタは、マザリーニに下がるよう命じた。だが、彼は頑としてその場から動こうとはしなかった。姫はふうとため息をつくと、客人を通すよう、衛士へ申し渡した。 髭面のいかつい近衛衛士――幻獣マンティコアの刺繍入りのマントを纏った青年によって案内されてきたルイズの姿を見たアンリエッタの顔が、まるで陽光の下にある噴水のように輝いた。それを受けたルイズの瞳も、夜空に点在する星々のように煌めいた。「ルイズ!」「姫さま!」 ふたりは、室内にいる人々が見守る中、ひっしと抱き合った。「ああ、ずっとあなたの帰りを待っていたのよ。ルイズ・フランソワーズ!」 衛士が一礼して退室した後。ルイズは、姫へシャツの内ポケットの中に入れていた件の手紙をそっと見せると、恭しく手渡した。「姫さま。どうかお確かめくださいまし」 アンリエッタは手紙を一瞥すると大きく頷き、ルイズの手をしっかと握り締めた。「やはり、あなたはわたくしのいちばんの『おともだち』ですわ!」「もったいないお言葉です、姫さま」 それから周囲を見回したアンリエッタは、ルイズの他には才人の姿しか見えないことに気付き、顔を曇らせた。「ウェールズさまは……?」 ルイズは目を閉じ、顔を伏せた。できれば本当のことを話して、姫さまを喜ばせて差し上げたい。だが、父親と太公望だけでなくアルビオン王、おまけにウェールズ皇太子本人の口から、絶対に王党派のアルビオン脱出に関する話をしてはならぬと念を押されていた。 自分を信じ『おともだち』と呼んでくれる姫殿下を騙すのは心苦しいが、王党派の人々のみならず、トリステインの命運をも左右する大事だと言われてしまっては、どうにもならない。ルイズは、ただその場で唇を噛み締めることしかできなかった。「そう。あのかたは、祖国と父王に殉じたのですね」 アンリエッタは、かつて自分がウェールズへ宛ててしたためた手紙を見つめながら、はらはらと涙を零した。「ねえ、ルイズ。ルイズ・フランソワーズ。あのかたは……ウェールズさまは、わたくしの手紙を最後まで、きちんと読んでくれたのかしら?」「はい。ウェールズ皇太子殿下は、間違いなく姫さまの手紙をお読みになりました」 それを聞いたアンリエッタは、弱々しく首を振った。「ならば……あのかたは、わたくしを愛してはおられなかったのね」「では、やはり……あの密書で、皇太子殿下に亡命をお勧めになられたのですね?」「ええ。だって、死んで欲しくなかったんですもの。愛していたのよ、心から」 哀しげな顔で手紙を見つめたまま、アンリエッタは呟いた。かたや、それを間近で聞いていたマザリーニはというと、喉の奥で小さく呻き声を上げた。 姫を問い質したあのとき、彼はそんな話を聞いてはいなかった。いや、遠慮などせずにもっと突っ込んで聞いておくべきだったと、枢機卿は己を責め立てた。それからすぐに、姫君の誘いに乗らなかったアルビオンの皇太子ウェールズに、心の底から感謝した。 もしも彼が、姫の勧めるままに亡命を図っていれば――最悪の場合、世界最強と謳われるアルビオン艦隊が、王子の後を追ってそのままトリステインへと攻め寄せて来たかもしれないからだ。 そんな枢機卿の思いとは裏腹に、姫君は呆けたような声で言葉を続けていた。「ウェールズさまは、わたくしよりも名誉と誇りのほうが大切だったのですね」 アンリエッタの呟きを耳にした才人の身体が、ピクリと震えた。それは違うと、大声で叫びたかった。ウェールズは、名誉のために戦おうとしていたのではない。お姫さまとトリステインを守るために、自分の意志を押し殺したのだと告げたかった。だが、王子と固く約束を交わしていた才人には、どうしてもそれを口にすることができなかった。「名誉と誇りを守るため、勇敢に戦い……死んでゆく。殿方の特権ですわね。あとに残された女は、いったいどうすればよいのでしょうか」 ルイズも才人も、姫君の問いに答えることができなかった。それぞれ全く別の理由から。ふたりは、ただ黙って下を向いていた。そんな彼らを見たアンリエッタは、にっこりと笑った。それは、無理矢理造り出したとしか思えない、寂しげな笑みであった。 そしてルイズの手を取ると、務めて明るい口調で言った。「わたくしの婚姻の妨げとなる暗躍は、未然に防がれました。これで我が国は、何の憂いもなくゲルマニアと同盟を結ぶことができます。そうなれば『レコン・キスタ』とて、簡単に攻めてくるわけにはいきません。あなたは、祖国を危難の淵から救ったのですよ。ルイズ・フランソワーズ」 ――それからしばらくして。 ルイズと才人のふたりが部屋を辞去した後、マザリーニは物憂げに窓の外を見遣る姫君を問い詰めた。「姫殿下。いったいどういうおつもりですか?」「……何のことです?」「言わずとも、おわかりのはずです。我が国がウェールズ皇太子殿下の亡命受け入れを表明すれば、貴族派連盟に戦を起こす格好の口実を与えることになったのですぞ!」 しかし、枢機卿の言葉に姫君は頷かなかった。「たとえウェールズさまが亡命しようがしまいが、攻めてくるときは攻め寄せてくるでしょう。戦とは、個人の存在だけで発生するものではありませんわ」 マザリーニの心臓が凍り付いた。いま、姫は何と言った――?「ウェールズ皇太子殿下を『個人』と。そう、仰いましたか?」「ええ。言いましたが……それが何か?」 マザリーニは――ようやく自覚した。己がしてしまった、最悪の失敗について。いや、より正確に言うなれば。この国の貴族たちが、等しく犯していた罪を知った。 トリステインの王室――マリアンヌ王妃とアンリエッタ姫は『王権』の持つ権力と責任というものを、全く理解していない。自分を含む側仕えの貴族は皆、彼女たちにそれを正しく認識させることができていなかったのだと悟った。 傾いた国を立て直すことに汲々としていた先帝ヘンリーとマザリーニは、次代の養育を王妃ひとりに任せきりにしていた。それでも、公務や政治の心得などについては、姫君と顔を合わせるたびに、口が酸っぱくなるほど教え、聞かせてきた。しかし王族が背負う重責について正しく教育できていたかと問われれば――現状を見る限り、否と答えざるを得ない。 姫は、優秀な生徒であった。口喧しい教師である枢機卿を避けるような素振りこそ見せてはいたものの、まるで乾いた土に水を零したが如く、教えたことを余さず吸収した。 マザリーニは、それだけで満足してしまっていた。一番肝心なことを伝え切れていないと気付かずに。思い起こせば、これまでに兆候らしきものはいくつもあった。にも関わらず、彼はそれを拾い上げることができなかった。「わたしは役立たずの『鳥の骨』であるばかりか『馬の骨』だったというわけか……」 そもそもが、夫の喪に服すなどという理由を掲げ、数年間もの長きに渡って王位継承を頑なに拒み続け、国の頂点にいながらも政務を放置してきたマリアンヌ王妃に、王族たる者の心得を娘に伝える能力など、あるわけがないのだ。何故それに気付かなかったのだろう。 権力の怖ろしさを知らぬ子供に、政治を語る。それはまさに、火が有する危険を教えぬまま、火災が起きる可能性が高い木造の家屋の床で、焚き火をさせるようなものだ。 これは『始祖』より与えられた罰だとマザリーニは思った。今回の事件が起きたのは、そんな基本的な――それでいて大切なことに今の今まで気付けなかった大間抜けである、自分が負うべき罪科なのだと。 ――だが。そうと判明したからには、即座に間違いを正さねばならない。 想い人を失い、嘆き悲しむ気の毒な少女を責めるのは心が痛む。しかし、どうしてもやらねばならない。たとえ、姫君との間に決定的な亀裂を作ることになろうとも。 マザリーニは、心を鬼にしてアンリエッタに向き合った。「ヴァリエール嬢が無事に戻って、ようございましたな。姫殿下」 アンリエッタは、マザリーニの声音が1オクターブ下がったことに気付かなかった。「……ええ。彼女は、本当によくやってくれました」「まことに。もしも彼女が――いいえ、ヴァリエール嬢だけではありませぬ。彼女の仲間たちのうち、誰かが戦場に斃れていれば……トリステインは『レコン・キスタ』に攻め込まれるまでもなく、滅亡の憂き目に遭っていたでしょうから」「それは、どういう意味ですの?」「姫殿下は、全く確認しようとなさいませんでしたな。ヴァリエール嬢が、どのようにして任務を達成したのか。彼女を守りし『水精霊団』とは、いったい何者なのかを」 そういえばと姫は思った。部屋を訪れたのは、ルイズと――以前顔を見たことのある、護衛士の少年だけで、共にアルビオンへ向かったという仲間たちの姿はなかった。もしかすると、控えの間にいたのかもしれない。しかし、正直なところ。今のアンリエッタには、他者と何かを論じるほどの気力がなかった。「今日はわたくし、どうしても気分が優れませんの……わかるでしょう? ですから、その話はまた日を改めてすることに致しましょう」 枢機卿は姫君の哀願を受け入れず、そのまま言葉を紡ぎ続けた。「『水精霊団』とは、オールド・オスマンが魔法学院の中でも特に優秀と認めた者を実験的に選抜し、秘密裏に指導を行っていた『金の卵』たちなのです。そこには、家柄や出自などは加味されませぬ。ただ実力のみを評価され、大切に育まれておりました」 アンリエッタは、小さくため息をついた。いつもの政治談義が始まると思ったのだ。「そのことに、何か問題が?」「トリステイン魔法学院は、他国からの留学生も受け入れております。と、ここまで申せば――姫殿下におかれましては、もうおわかりですな?」 アンリエッタは戸惑いを隠せぬまま、枢機卿の言葉を待った。「わかりませぬか? では、お教え致しましょう。かの集団には、ガリアやゲルマニアから留学してきた子供たちも所属していたのですよ。もちろん、我が国の有力貴族の子弟も」 未だ事態を飲み込めないアンリエッタに対し、マザリーニは叩き付けるように言った。「姫殿下はよくご存じではなかったのですかな? ラ・ヴァリエール公爵が、自分の娘たちを、それはもう猫可愛がりしていることを。かの人物が、今回の件を――姫殿下の無体な御下命により、愛娘が危うく生命を失うところだったと知ったら! いいや、実際に彼女がアルビオンの戦場に散っていたら、どう動いたと思われますか!!」 既に、自分の口から報せているなどととまでは話さない。実際にありえたことのみを姫君に突き付けるマザリーニの表情は、普段とは打って変わって険しいものだった。「死んでいたかも……しれなかった? わたくしの、大切な『おともだち』が……?」 アンリエッタは、震えた。これまで乳母日傘で育てられてきた彼女は、今、こうしてマザリーニから噛んで砕いたように話して聞かされるまで、唯一『おともだち』と呼べる幼なじみの少女とその仲間たちを、死の淵に追い遣ったという意識が無かったのだ。オーク鬼や火竜を倒す程の実力がある傭兵団がついているのだから、ほんの少し危険なお使いするだけ。そう思っていた。「そんな、わ、わたくしは、そんなつもりでは……」「では、明日にも攻め滅ぼされそうな国へ使者を送るという意味を、全く考えずに命令を下したと。そう仰るのですな?」 言葉を失い、青ざめた姫君に、さらに残酷な台詞が浴びせかけられた。「姫殿下に想い人がおられたように、彼ら『水精霊団』にも家族があり、その身を案じる者たちが存在しているのです。今回は幸いにも成功し、事なきを得ましたものの――姫殿下。あなたは一歩間違えば、トリステインはおろか、ハルケギニア全体を戦火の只中に突き落とすところだったのですよ」「世界中が、戦に……」「そうです。そうなれば、どれほど多くの民が住処を……いや、生命を失うことになったのか、このわたしにもわかりませぬ。この世は、それこそ宮廷付きの楽師が時折歌うような、地獄と化していたことでしょう」「それもこれも、全てはわたくしの軽はずみな行動のせいで……?」 姫君のか細い呟きに、枢機卿は重々しく頷いた。 『水精霊団』は優秀な傭兵団とだけ知らされていて、その実情を何ひとつ調べようとしなかった己の迂闊さに、アンリエッタは総毛立った。 悲恋に酔い、ウェールズのことばかり考えていたが、確かにマザリーニの言うとおりだ。ルイズや彼女の仲間たちの身に何かがあれば、トリステイン国内でもアルビオンのような内乱が起きていたかもしれない。息子を、あるいは娘を喪った他国の貴族が王を焚きつけ、宣戦布告してきた可能性もある。元より吹けば飛ぶような小国なればこそ、隣国ゲルマニアの皇帝も強気になり、同盟したくば姫を嫁に寄越せなどと申し入れてきたのだから。 敏腕の宰相をうまく出し抜けた、などと内心で舌を出していたあの時の自分の頬を、思い切り張ってやりたい。アンリエッタの瞳から、悲しみではなく悔恨の涙が零れ落ちた。「おお……わたくしは、わたくしは、なんという浅はかな真似を……!」 両手で顔を覆い、机に伏せたアンリエッタに対し、マザリーニはさらなる猛攻を加えた。それが、姫君だけではなく自分の心の傷口へ、塩を擦り込む行為であると認識しながら。「姫殿下は、先程こう仰いましたな。『自分は無力な姫である』と。どうか、自覚してください。あなたの声は、決してか細き小鳥のさえずりなどではありませぬ。たったの一声で、国を滅ぼすことすら可能な――強大な<力>なのです」 その言葉を最後に、渋面の宰相は姫君の居室を後にした。残されたアンリエッタ姫は、ただただ震え、泣き続けることしかできなかった。つい先程まで祈りを捧げていた『始祖』の像に、ひしと縋り付きながら。○●○●○●○● ――同日、夕刻。 トリステインから、遙か数百リーグの彼方にある巨大な宮殿群の最奥。 昼もなお薄暗いその部屋で、ガリア国王ジョゼフ一世が小さな人形を手に、まるで気が触れたような笑い声を上げていた。もしも彼の周囲に在る者たちがその姿を見たら、即座に典医を呼びに走ったであろう。そのくらい、異様な光景だった。「ハハハハッ、これはまさしく傑作だ! あの老いぼれに、この期に及んで撤退を選ぶ勇気があったなどとは、思いも寄らなかったぞ! しかもだ、いつ、何処から消えたのかすら掴めぬとは。実に楽しませてくれるではないか!」 と……せわしなく部屋を歩き回っていたジョゼフが、ふいに歩みを止めた。「待てよ。あの耄碌ジジイに、このような決断ができようはずもない。とすると、これは息子の仕業だな! いやはや、かの王家はとんだ牙を隠し持っていたものだ。おかげで、欲しかった玩具が手に入らなかった!」 人形を机の片隅に置いたジョゼフは、自慢の世界模型に近付くと、その中にある島――アルビオン大陸の端に置かれていたふたつの駒のうち、王冠を頭に載せていたほうを指で弾き飛ばした。「風は遍在する――か。何処にでも在り、何処にも無い。火の秘薬と、どうとでも受け取りようのある言葉を残して現場を混乱させ、時間を稼ぐのが狙い。そう見せかけて、こちらの出方を探って来るとは。参ったな、かの若造は思った以上の指し手であった。やはり、余は皆が申す通りの『無能王』だ!」 それからふっとため息をつくと、彼はやや影のある表情で呟いた。「始祖の御代から続く兄弟国が、たったひとつの指輪によって、歴史の舞台に幕を降ろす。そして神聖皇帝の名の下に、新たな国が興る。皇帝を守護せし者は、死体となってもなお、指輪の魔力によって操られる亡国の王子! ああ、なんと悲劇的な話だろう。その様を最後まで見届ければ、あるいは余の悲願が達成できたかもしれぬのになあ……!」 ジョゼフは顎髭をしごきながら、世界盤を見渡した。「さてと、こういう場合でもルールを違える訳にはいかん。決まりごとを、自分に都合良く書き換えては、ゲームがつまらなくなる。いつも通り、これを使わねばな!」 机の上から大理石で造られたサイコロを3つ鷲掴みにしたジョゼフは、それを模型の端に向かって乱暴に放り投げた。カタ、カタンという軽快な音を立て、サイコロが転がる。「賽の目は、ふむふむ、なるほど。この数値が出たときは……」 手元の紙束と賽の目を見比べながら、蒼き髪の狂王は人形に向かって何事かを呟いた。 ――その夜。 アルビオン大陸の端、岬の突端に立つニューカッスルの城は、天を焦がすような爆炎に包まれた。その有様は、遠くハヴィランド宮殿からも望むことができたという。 それと同じ頃。魔法学院へ帰還したコルベールは、駆け足で自分の研究室へと向かった。そして、数々の書物や模型類に埋もれた机の引き出しにかけられた鍵を外すと、中に入っていた小箱を取り出した。彼の両手は、かすかに震えている。「やはり、そう、なのか……?」 小箱には、古びた指輪が収められていた。台座には、丸い深紅の石が留められている。その奥で、ちろちろと小さな炎が踊っていた。「これなのか。これがために、私は今、此処に在るというのか」 コルベールの頬を、一筋の涙が伝って落ちた。彼の手元で輝く指輪。それは、白の国の王子が填めていた『始祖の秘宝』と、留められている輝石以外の全てが酷似している。 かつて犯した大罪の証が、紅き光を放ち『炎蛇』の貌を静かに照らした。