――時は、数日前の朝まで遡る。 エレオノールは鏡に映った自分の顔を見て、笑みが溢れ出るのを止められなかった。「う、うふ、うふふふふ……まるで学生時代に戻ったようだわ! これって、やっぱり『瞑想』の付加効果よね」 末妹ルイズに起きた異変について、かの『東の参謀』太公望を頼った際に、話の流れで教えてもらった東方の秘術が、彼女のご機嫌を最高の状態にまで高めていた。「毎日1時間実行するだけで、お、お肌の張りが……髪のツヤが……あの『魔法酒』に浸したときのように、ツルツルのすべすべになるだなんて! 本当に素敵ですこと」 そもそも仙人界における『瞑想』は<生命力>の回復と精神の安定のために生み出された技術であるため、実行すれば『仙酒』ほど強力ではないものの、ほぼ同様の効果が現れるのは至極当然のことであり――お肌の曲がり角を意識し始める妙齢の女性にとって、到底抗い難い魅力があることは言うまでもない。「ミスタ・タイコーボーが、未だに子供のような姿を保っておられるのは、もちろん『妖精の祝福』があってこそなんでしょうけれど、この『瞑想』の効果もあるのではないかと思うわ。ああ、もう! なんて素晴らしい魔法なのかしら!!」 そう口に出した瞬間。エレオノールは、大変な事実に気がついた。「い、いいい、いま、わたくしは、何と言った、かしら?」 素晴らしい魔法。すばらしいまほう。スバラシイマホウ。「そそ、そうよ……こ、これって……精神力と身体を、か、回復してる……魔法よね。つまり、杖も、ルーンすら用いずに行える<治癒魔法>の一種じゃないのよ!」 エレオノールは、その場で冷えきった青銅の彫像と化した。 実際には、仙界流で言うところの<星の意志>が集約し、具現化した存在たる精霊の助力を得て奇跡を行使するのが精霊魔法、つまり<先住魔法>なのであって、それと『瞑想』とは根本から性質が異なるのだが、そのようなことはエレオノール――いや、ハルケギニアの人間たちには関係ない。 なにせ、彼らはゆりかごの中にいる時から、「神の御技たる魔法は、杖と魔法語を用いて行われる奇跡である。しかるに、異教を信ずるエルフや妖魔どもは、それらを使わずに魔法を行使する。偉大なる『始祖』ブリミルの業績を認めぬ、罰当たりな亜人たちが扱う邪悪な技。それが先住の魔法なのだ」 ……このように教わり、育てられているのだから。 乱暴な話だが、彼らの間では『杖』と『魔法語』つまり、ルーンを用いずに行使される魔法的事象は、コモン・マジックという一部の例外を除き、全て『先住魔法』という名のカテゴリとして一括りに纏められてしまっているのが現状だ。 つまり。彼らハルケギニアの民の間に広まっている常識と照らし合わせて考えるならば。エレオノールは、なんと邪悪な異教の技とされている『先住の治癒魔法』を身につけてしまったことになるのだ。 その、とてつもない現実を前にしたエレオノールは、自分の身体からざあっと血が引いていく音を聞いたような気がした。「も、もしも、ここ、これがブリミル教の、神官に知られたら、い、異端認定確実よ。アカデミーから除名される程度じゃ済まない。その場で拘束されて、聖堂騎士団に引き渡されるかもしれないわ。そうなれば、ま、間違いなく異端審問にかけられた挙げ句に有罪判決を下されて、釜茹で。もしくは火あぶり」 たとえ寺院に気取られずとも、問題は山積みだ。その筆頭が『烈風』カリンこと、エレオノールの母親の存在である。 『鋼鉄の規律』などという仰々しい二つ名を持つ母に、先住魔法を覚えてしまいましたなどと告げたらどうなるか。ほぼ間違いなく、厳しい裁きを受けることになるだろう――それこそ、異端審問など生ぬるいと思える程に苛烈のものを。 そこまで思い至ったエレオノールは、その場で小さく蹲り、ガタガタと震え出した。 それから彼女はすぐさま『始祖』に許しを請うべく、身を清めて屋敷の礼拝堂に籠もり、一心不乱に祈りを捧げた。「いくら意図して行ったことではないとはいえ、ブリミル教の教えから外れてしまったわたくしに、どうか、どうか、お慈悲を賜らんことを――!」 ――彼女のことを笑ってはいけない。これは敬虔なブリミル教信者の視点から見た場合、ごく当たり前ともいえる反応なのだ。むしろ、何の疑問もなく『瞑想』を受け入れてしまった『水精霊団』の面々のほうがおかしいのである。 もっとも彼らの場合は、この――ブリミル教信者にとっては――忌むべき技が内包する大変な問題に、ちっとも気が付いていないだけのことなのだが。 思わぬことから魂の危機に瀕したエレオノールであったが、しかし。幸いなことに、彼女は希望の光ともいえる『道』を見出しかけていた。それが、『始祖ブリミルが、太公望の祖国からハルケギニアへやって来た可能性がある』 と、いう彼女自身が打ち立てた学説である。「そうよ。わたくしの説が正しければ『始祖』生誕の地では、ごく当たり前とされている、別系統の魔法を身につけただけ。そういうことになるのよ!」 ただの屁理屈。現実から目を逸らしているだけだと言われてしまえば、全く持って反論できないことではあったのだが、それでも。エレオノールには他に縋るものがなかった。よって彼女は――その時以降、より熱心に自説の証明のために奔走した。 ……そして、現在に至る。 結果として。『始祖』は彼女に微笑んではくれなかった。期待3割、不安7割で提示した論文に目を通した後、彼女の学説を証明してくれるであろう人物から、改めて現実を突き付けられてしまった――こう問いかけられたことによって。「真理を追い求めるためならば『輪の外』に出る……そう、たとえ『異端』と後ろ指を差されても良いと言えるだけの覚悟がありますか?」 ――と。つまりは、そういうことだ。結局のところ、どう足掻こうとも現在のブリミル教の観点からすれば『瞑想』が異端視されてしまうことに変わりはなかったのだ。 これを聞いたのが、数ヶ月前の彼女であれば――その場で席を立ち、太公望を「異教の手先」「不信心者」などと激しくなじった上で、頬のひとつも張っていたかもしれない。 だが、現在のエレオノールはそうしなかった。いや、できなかった。 誰にも――家族はおろか、アカデミーですら突き止めることができなかった、末妹ルイズが起こす失敗の原因と、すぐ下の妹カトレアが抱えていた病の根源を見出すために用いられた『異端』の技が、間違いなく有用なものであることを知ってしまっていたから。 あの技がなければ――<虚無>は現代に蘇ることなく、その『担い手』たるルイズは、おちこぼれと周囲から蔑まれたまま、潰れてしまっていたかもしれない。原因不明の病に苦しんでいたカトレアは、衰弱し続け――最後には寝たきりになっていただろう。 彼女の大切な妹たちが『異端』によって救われたのは、確かな事実であり――目の前にいる人物は、紛れもなく家族の恩人だ。エレオノールは、それを充分承知していた。 とはいえ、これはすぐさま「はい」と言えるほど、軽い問いかけではない。 『始祖の教え』すなわちブリミル教は、彼女――いや、ハルケギニアに住まう人間……特にメイジにとっては全ての価値観の土台となるものであり、頭ではなく魂に刷り込まれた、まさに己を形成する根幹に関わるものだからだ。 その『教え』から外れろというのは、現在持っている地図を捨て、道先案内人どころか灯火も無しで、闇に包まれた樹海の中へ飛び込めと言われているに等しい。 突如迫られた『選択』に、エレオノールは細かく肩を震わせ、ただ押し黙ることしかできなかった――。○●○●○●○● ――いっぽう、そんなエレオノール女史の葛藤などつゆ知らず。溢れる期待に胸を踊らせている者がいた。 それはもちろん、自身の使い魔・ハツカネズミのモートソグニルを通して、こっそりと『覗き』もとい『盗み聞き』を敢行しようとしていたオスマン氏である。「これは、将来国を背負う若者たちの未来を憂いての行動であって、決して単なる好奇心からくるものではないのじゃ。それにしても……エレオノール君の発言も気になるが、あのガキジジイがどんな反応をするのかも見物じゃて。うししししし……」 現在の彼は、なんというかもう、いろいろとダメな大人の見本と化していた。 オールド・オスマン。既に100歳、いや、それどころか300歳を越えているなどと噂されるかの老爺は、メイジとしての力量のみならず、偉大な教育者としても名の通った存在なのだが――そんな彼にも、たったひとつだけ、どうしようもない悪癖があった。 ……隙を見て、かつての秘書ミス・ロングビルのお尻を触ろうとしていたことなどからもわかる通り、彼は自他共に認める女好き――とんでもないスケベジジイなのである。 スキンシップと称して、美人秘書の身体にタッチするなど序の口。使い魔のハツカネズミを女性の足元に忍び寄らせ、身につけている下着を覗き込んだり。酒場で、酔ったふりをして給仕の女の子の胸目掛けて倒れ込んだりなど、事例を挙げればきりがない。以前起きた『破壊の杖盗難未遂事件』も、元はといえば、彼の女癖の悪さが招いたものだ。 しかもだ。そういった行為を他者から窘められても、「何故おなごに触れたがるのかじゃと? そんなものは決まっとる。そこに女体があるからじゃ! わしは決して悪くなんかない! 美人はな、ただそれだけでイケナイ魔法使いと化すんじゃからして!!」 ……などと、反省するどころかおかしな逆ギレをかます始末。これさえなければ、立派なお方だと手放しで評価できるのに……というのが、彼の側近くにいる者たちのほぼ全てが、共通して持つ認識である。 オスマン氏なりのストライクゾーン、或いは良心の呵責なるものが存在するのであろう、生徒には絶対に手を出さないだけ、まだマシなのであるが……『老いてなお盛ん』などとキュルケその他関係者一同から評価されている通り、女性に対する(悪い意味での)行動力及び好奇心が、とにかく半端ないのだ。 そんなオスマン氏が、このような面白い場面を見過ごすわけもなく。 とはいえ『遠見の鏡』では、直接部屋の中を覗くことはできないし、たとえやれたとしても、あの『感覚』の鋭い男なら、感付いてしまうかもしれない。かといって、窓越しでは肝心の音声が拾えない。そこで、ふたりとも<サイレント>の魔法が使えないことを承知していたオスマン氏は、隣室の戸棚の裏へ巧妙に隠されていた、ごくごく小さな亀裂を通じてモートソグニルを忍び込ませたのだ。「よしよし、潜入成功じゃわい。さぁて、なにを話しておるのかの~」 にやけ顔で耳をすましたオスマン氏の元に、早速室内の声が飛び込んできた。(わたくしとしたことが、少し先を急ぎすぎましたかな。その、驚かせてしまって申し訳ありません)(え……あ……) オスマン氏の目が、くわわっ! と、見開かれた。なんじゃ? この妙に冷静かつ意味深なセリフにかぶさってきた、エレオノール女史の動揺しきったような声は。(ですが、どうしても確認せざるを得なかったのです。エレオノール殿から頂戴したのは、その……実に複雑な問題をはらんだ内容でしたから)(は……はい……) 張り詰めたオスマン氏の全神経は、完全に使い魔の『耳』だけに集中した。(今すぐに答えを出すのは、まず無理でしょうな……お互いに、立場や価値観といった分かちがたいしがらみによって、縛られておりますので)(そ、そうですわね……おっしゃる、通りです)(ですから、この先へ進むためには、エレオノール殿にとって……いや、このわたくしにとりましても、相応の時間が必要であると考えます)「さ、先に進むとは、どういうことじゃい!?」 オスマン氏は考えた。もうエレオノール女史からの告白は終了していて、あやつはその返事を保留しておるということか!「いや、それならば最初の意味深なセリフはなんだったんじゃ? まさか、エレオノール君の想いを受け入れた上で、手のひとつも握りおったのか、あのガキジジイめが!」 もちろん、これは完全なる誤解であるのだが……そんなことは、初めから話を聞いていたわけではない彼にはわからない。オスマン氏は、両の手を握り締め、足を踏み鳴らしながら羨ましがった。「おのれ、娘が3人に曾孫までおる楽隠居の分際で、あんな美人に言い寄られるとは……うらやまけしからん話じゃ! くそッ、わしに娘のひとりくらい紹介してくれてもバチは当たらんのと違うか!?」 普段は明晰であるはずの彼の頭脳は――何故か、女性がからむことによって、おかしな方向へと走り出してしまうのであった。 ついでに言うと。娘を紹介しろなどと言われたら、太公望は肩の荷が下りたとばかりに喜び勇んで、自分が面倒を見ている3姉妹の世話を任せるはずだ――ただし、下のふたりはともかくとして、長女については無理、いや無駄だろう。なにせ、彼女は心の底から太公望に惚れ抜いている上に、彼の妻を自認しているのだから。 ……そんな真相を知らぬオスマン氏の思いとは裏腹に、室内での会話は続いていた。(とはいえ、このままお帰りいただくというのは、さすがに失礼かと存じますので……少しお話をさせていただいてもよろしいですか?)(えっ! ええ、はい……喜んで!)「カァーッ! なぁにが『お話をさせていただいてもよろしいですか』じゃ! 子供みたいなツラして、一丁前に気取りおってからに!」(あ、あの、それと……もう、そのような慇懃な言葉遣いはおやめいただけませんか?)(……ふむ、そうか? ならば遠慮無くそうさせてもらうぞ。だいたいわしは、堅苦しいのが苦手なのだ)「おいおい! ふたりとも、もう清く正しい男女交際なんて年齢じゃなかろ!? いっきにガッと行かんかい、ガッと!!」 興奮して、思わずドンと机を叩いたオスマン氏であったが、学院長室の扉をコンコンとノックする音が、そんな彼の無駄に盛り上がりまくった気分に水を差した。「く、ここからが本番じゃというのに……入りたまえ」 扉を開けて部屋に入ってきたのは『疾風』のギトーであった。「ったく、風メイジなんじゃから空気読めっちゅうの……」「はっ、何か?」「いや、こっちの話じゃ。で、何用かね?」「いえ、まもなく職員会議が始まるのですが、学院長がお見えにならないので……」「なぬ、もうそんな時間じゃったのか! むむむむむ……了解した。すぐに支度をして向かうので、今少しだけ待つよう、皆に伝えておいてくれんか」「承知しました」 そう言うと、ギトーの姿はその場でかき消えた。どうやら<遍在>を寄越したらしい。「はあ、まったく……げに悲しきは宮仕え、か」 立場上、会議に集中しなければならない。それに、客室内に使い魔を放ったままにしておいて、万が一客人たちに発見されたら目も当てられない。仕方なく、モートソグニルに自分の元へ戻るよう指示を出すオスマン氏。彼の愛鼠は、命令を受け即座に引き返してきた。「実にええところじゃったのに。のう? モートソグニルや」「ちゅう、ちゅう!」 駄賃に好物のナッツをもらったモートソグニルは、オスマン氏が抱く複雑な思いなど、どこふく風といった様子で嬉しげに鳴いた。 ……こうして。オスマン氏の中で、またしても言葉のすれ違いによって、妙な方向にエレオノールとその相手に関する誤解が深まってしまったことを、念のためここに記す。○●○●○●○●「あ……あの魔法が、まさか、そんな……! で、でも、確かに……」 その話を聞いたエレオノールは、驚きを顕わにしていた。「どうやら、理解してもらえたようだのう」「ええ。そういうことでしたの……だから、おちびは他の魔法が一切できなかったにも関わらず<サモン・サーヴァント>と<コントラクト・サーヴァント>を成功させることができたのですね。かの魔法が――虚無の系統に属するものだったから」 ルーンではなく口語で編まれ、かつ自分の系統に合った魔法だった。故に<爆発>させずに済んだ。そう結論したエレオノールに、太公望は頷いた。「そうだ。最初にコルベール殿から『コモン・マジックのほとんどが、元は系統魔法の初歩の初歩の初歩とされていた』という事実を発見したと聞いた時に、もしかすると、そのふたつがそうなのではないかと思い当たったのだ。しかし残念ながら、確証を得るには至らなかったのだ」「ですがミスタは『始祖の祈祷書』の中に、同じ『空間移動』に属する<瞬間移動>が記されていたという事実によって、それを確信なさったというわけですのね」 エレオノールが提示した説に、太公望は頷きつつも補足を行った。「そもそも、遠く隔てた『空間』同士を繋ぐ『扉』を作るのみならず、使い魔との意思疎通を図るための『翻訳機能』や『感覚の共有』などといった、とてつない特殊効果が付与されている魔法がコモン・マジックとされている時点でおかしいのだ。あ、いや……だからこそなのかもしれんがのう」 エレオノール女史の眼鏡の端が、キラリと光った。「もしかすると『始祖』ブリミルは、自らの後継者――『担い手』を見出すために、あえて魔法語――ルーンに翻訳せず、口語のままとされておられたのかもしれませんわね?『伝説』を呼ぶことができる者を、探し出すために」 太公望は、同意の印に頷いた。「案外、それが真相なのかもしれぬな。エレオノール殿の言う通り、伝説の使い魔を呼び出せた者が『担い手』となる――すなわち『秘宝』を受け継ぐことができると考えるのが自然だろう。現に『使い手に最も適した系統を判断する』ための儀式専用魔法として、長く利用されてきたわけだからのう」 もしも本当にその通りならば、これはコルベールの論文をも越える歴史的な大発見だ。エレオノールは、それを思うと悔しくてならなかった。 その気になれば、妹の話を一切からめずとも、この説を展開させることは可能だろう。だが、少なくともトリステインのアカデミーには持ち込めない。 何故なら『失われた系統』『始祖の魔法』とされ、神聖視されている<虚無>が、実は失われてなどおらず、汎用魔法(コモン)のひとつとして現代に伝わっていたなどという学説が――たとえ、それが紛れもない事実だったとしても――現在のアカデミー内部に蔓延る風潮やブリミル教における観点から考えれば、絶対に認められようはずがないからだ。 それどころか、逆に『罰当たり』『異端論者』などと非難され、首席研究員の資格を剥奪されてしまう可能性のほうが高いだろう。 エレオノールは、深く嘆息した。ほんの少し、他と違うものを表に出すだけで『伝統』や『異端』という名の、分厚い壁に阻まれてしまう現状に。 そして、彼女は『瞑想』のみならず、自分が書いた論文そのものが『それ』に抵触するものなのだと気が付いた。今、目の前にいる人物が――自ら危険を冒してまで、ブリミル教という名の概念を外れる覚悟があるかと問うてきたのは、そのためだったのだ。 俯きながら、金の髪の女史は言った。「ミスタの、おっしゃる通りです。今のわたくしは、立場やしがらみだけではなく……これまで学んできた伝統や、価値観に強く囚われています」 だが、彼女はその言葉を発した後、ぐっと顔を上げた。「自分から押し掛けてきておいて、このようなことを申し上げるのは大変失礼なことですが……この論文について、いったん取り下げてもよろしいでしょうか。今はどうしても『輪の外』へ出る勇気が持てませんの。お恥ずかしい話ですが……」 しかし、その言葉を受け止めた人物は、笑みを浮かべていた。「いいや。むしろ、即答されなくてほっとしたわ」 驚いた顔で自分を見つめるエレオノールに、太公望は言った。「確かに、外を見る勇気は自分を成長させる上で必要なものだ。しかし時には立ち止まり、じっくりと周囲を確認することも、また大切なことなのだ。何事も、ただまっすぐに突き進めばよいというものではない――勇気と無謀は、別物なのだから」○●○●○●○● ――それから、数時間後。 王立アカデミーの正門前に、家紋入りの豪奢な馬車が停められていた。たまたま部屋の中からそれを見かけたヴァレリーは、小さく呟いた。「あら、もう出張から戻ってきたのね」 ヴァレリーの予測通り、馬車から降りてきたのはエレオノールであった。従者に大きな書類鞄を持たせたエレオノールは、足取りこそしっかりしていたものの、その顔には深い疲労の色が浮き出ていた。「ずいぶんと疲れてるみたいだけど、大丈夫かしら?」 そこまで口にしたヴァレリーは、はたと気が付いた。「うふふ、ちょうど疲労回復の『魔法薬』を調合したばかりだったのよね。何本かエレオノールに差し入れてあげようっと」 彼女は、アカデミーの中でも特に優秀な<水>の使い手であり『魔法薬』調合の名手でもあった。ヴァレリーは、手近の棚に並べられていた小瓶を数本ばかり手に取ると、足早にエレオノールの研究室へと向かった。 ――エレオノールは、自室に戻ってからも悩み続けていた。 歴史と伝統を守ることは、とても大切なことだ。しかし……本当に、このままで良いのだろうか。 以前見せてもらった<フィールド>が、この国を発展させうる技術であることは間違いない。だが、現状では『あれ』を取り入れることなどできないだろう。展開する際に杖を構えていたとはいえ、ほぼ確実に『異端』認定される。それほどまでに異質な技だった。オスマン氏が平然と受け入れていたこと自体が信じがたい。 『瞑想』にしてもそうだ。精神力を回復するのみならず、最大量を増加させた上に、なんとお肌がスベスベに――いや、それはともかく。明らかに利益に繋がるものでありながらも『異端』に触れるため、使うことができない。髪もツヤツヤになるのに――だから、それは脇へ退けておくとしてだ、惜しいなどという言葉で片付けるには、あまりにも――。 と、そこへ遠慮がちなノック音が響いた。「どうぞ」 扉を開けて入ってきたのは、エレオノールの同僚ヴァレリーだった。その手に小瓶を数本持っている。「だいぶお疲れみたいね。これ、良かったら飲んで」 微笑みながら差し出されたのは、疲労回復によく効く飲み薬であった。時折、彼女はこんなふうに自作のポーションを差し入れてくれるのだ。「まあ、ありがとう。喜んでいただくわ」 何らかの香草を付け加えてあるのだろう、瓶の中から清涼感に満ちた香りが溢れ、エレオノールの鼻孔をふわりとくすぐった。「素敵な香りね。あ、ひょっとして新レシピかしら?」「ご名答。季節の花のエキスを加えてあるの。もちろん、薬効があるもの限定よ。効果は実証済みだから、安心して飲んでちょうだい」 新レシピ。新しい調合。自分の言葉に、エレオノールは引っかかった。「そうよ……調合……回復薬は新しくても問題にならない……でも……だから……」 薬を飲む前に、突如トリップしてしまったエレオノールを前にしても、ヴァレリーは全く動じない。研究所の同僚たちがいきなりこんなふうに考え事を始めるのは、今に始まったことではないからだ。「ねえ、ヴァレリー。ちょっと質問があるんだけれど、構わなくて?」「まあ、何かしら? 少し香りが強すぎた?」「いえ、そういうことじゃないの。いい? あくまでもたとえ話よ!? もしも、自分の目の前に<精神力>を回復したり、増幅するような効果のある、全く新しい道具や薬があったとしたら……あなたは、欲しいと思う?」 その質問に、ヴァレリーは目を丸くした。「あらあら、ずいぶんと『異端』的な考えじゃないの! エレオノールったら、らしくないことを聞くのね」「やっぱり、あなたもそう思うわよね……」 だが、溜め息混じりのその声に対して戻ってきた反応は。エレオノールの予測していた、遙か斜め上を行っていた。「実はね、わたし……作ったことがあるのよ」「えっ?」 ちろりと舌を出しながら、ヴァレリーは言った。「ここだけの話よ? わたしね、昔『精神力増幅薬』の調合について、研究したことがあるの。だって、上手くいったら絶対に売れること、間違いなしでしょう!?」 エレオノールは仰天した。大人しい顔をした同僚が、まさかそんなとんでもない真似をしていたなどとは、思いもよらなかったからだ。「で、でも、それって……『異端』よね!?」「その通りよ。研究の途中で最高評議会にバレて、即刻中止させられたわ」 おかげで、首席研究員の席につくまでに時間がかかっちゃったわ。そう言って肩をすくめた同僚を、エレオノールはぽかんとした表情で見つめた。そういえば……ヴァレリーはアカデミーで最も優秀な水の使い手にも関わらず、自分よりずっと出世が遅かった。まさか、それが原因だったのか。「そ、それで……調合には、せ、成功したの?」 そう声に出すのがやっとだったエレオノールに、ヴァレリーは苦笑でもって応えた。「それがね、確かに増幅させることはできたんだけど。酷い副作用があったの」「副作用……あ、まさか!」「ええ。たぶん、あなたが思った通りよ。<精神力>は、怒りや悲しみ、それに喜びといった『感情の揺れ』に大きく関わるものでしょう? 一時的に、器を大きくすることはできるんだけど、それと同時に感情の動きが激しくなってしまうの。最初に自分で飲んで試してみたんだけれどね……狂ってしまうかと思ったわ」「む、無茶をしたものね……あなたが無事で、本当に良かったわ。だけど、よく異端審問にかけられずに済んだわね、それ」 エレオノールが口元を引き攣らせながらそう言うと、ヴァレリーはふふんと笑った。「まったく、馬鹿馬鹿しい話よね……異端認定だなんて。まあ、わたしから言わせてもらえれば『異端』なんて言い方自体がおかしいんだけど」「……えっ?」「薬で精神力の増幅をしたら『異端』? 『始祖』ブリミルが、そんなことを仰ったわけじゃないでしょう? わたしの研究を『異端』と認定したのはアカデミーの最高評議会よ。そもそも、地元の司祭さまにこの話をしたら、お怒りになるどころか、興味津々って顔をされたくらいなのよ!」「異端認定をしたのは……最高評議会……? 司祭さまは、反対しなかった……と?」「そうよ! それどころか、本当にそんな『魔法薬』がこの世にあれば、救われる命が増えるかもしれないのに。なんて、残念がっておられたわ」 ブリミル教の司祭さまが認めておられるのに、最高評議会は異端認定した。これはいったいどういうことか。エレオノールは、足元が大きくぐらついたような感覚に陥った。「みんなが幸せになれるかもしれないのに、なんでもかんでも異端、異端って。結局、自分たちが理解できない新技術が出てくるのが気に入らないだけなのよ、上の連中は!」「理解できないから、気に入らない……だけ?」「そうよ! 『異端』って、本当に便利な言葉だわ。それで下を脅して、押さえつけておくだけで、あのひとたちの地位は、ずっと安泰なんですもの」 自身の過去を思い出したのであろう、痛烈なまでの皮肉を放ったヴァレリー。だが、エレオノールはそこに確かなものを見出した。「安泰……だから、異端……新しいものを……否定……それが『輪の中』……」 ――新しいもの、つまり今までの『常識』の中になかったものを、ずっと否定し続けていれば……それは現状維持に繋がる。発展や進歩はないかもしれないが、常に安定する。 現状を維持することで、利益を得る者たちがいる。だからこそ、彼らは声高に『異端』と叫び続ける。多くの民を『伝統』や『格式』という名に彩られた、見かけだけは美しい『輪の内』に無理矢理閉じ込めて、外の世界へ一歩も出さないようにしているのだ。 ――わたくしは、いま、とてつもない『真理』を掴んだのではないだろうか。「ねえ、ヴァレリー。明日の夜、時間を取ってもらえないかしら?」「え、ええ。それはかまわないけれど……何かあるのかしら?」「夕食を一緒にどうかと思って。どうしても、あなたにお礼がしたいの」「ええっ!? わ、わたし、そんなつもりで『薬』を持ってきたわけじゃ……」「もちろん、それだけじゃないわ! あなたはね、本当に素晴らしいものを、わたくしにもたらしてくれたのよ!!」 突然、自分の身体を抱き締めてきたエレオノールに、ヴァレリーは目を白黒させた。 こうして。思いも寄らぬ場所で<天啓>を受けることとなったエレオノールは、自身の中にあった頑迷な『鎖』のうちの1本を、見事断ち切ることに成功した――。