――魔法学院の学院長室を起点に、妙な事件が発生しようとしていたのと同日。 ガリア王家が迎えに寄越した風竜の背に跨ったタバサと太公望は、途中で街道へと舞い降りてトリステインの国境を越えると、そのまま旧オルレアン大公領に佇む公邸――タバサの実家へと立ち寄っていた。 今まで通り、出迎えに現れた老僕ペルスラン――彼とそっくりの魔法人形は、これまたいつもタバサが訪れたときと変わらず、食事と寝所の用意をしてくれた。彼曰く、時折王家から差し向けられた兵士たちが見回りに来るものの、特に変化はないとのことだった。 つまり、屋敷はかつての状態のまま、そこに在るということだ。 既に母さまたちは異国ゲルマニアへ脱出し、元気でいる。頭ではわかっていても、屋敷の惨状を――特に、狂乱した母親の姿をした人形によって壊され、飛び散った陶器の破片で散らかった部屋を目にしたとき、タバサの心は酷く乱れた。 正直なところ、こんな偽りの姿を見続けるのは辛い。立ち寄ることすら苦痛だ。しかし、目を背けてはいけないのだ。かつてと同じように、機会があるときは、こうして出向かなければならない。王政府に、屋敷内の異変を悟らせないためにも。 ここはもう、ただの人形屋敷なのだ。そう思い込むことによって、なんとか悪夢を払おうとしたタバサであったが、やはりその夜も……うまく寝付くことができなかった。 そして、明けた翌朝。日が昇る前に屋敷を後にしたふたりは、一路ガリア王国の首都リュティスへと向かった。その日の朝に出頭するよう、厳命が下されていたからである。 ――ニイドの月、フレイヤの週、オセルの曜日。 壮麗な大宮殿ヴェルサルテイル、その一画を占める小宮殿プチ・トロワでは、そこの主である蒼い髪の王女イザベラが、ネグリジェ1枚でベッドに寝そべり、菓子をつまむという、一国の王女とは到底思えぬだらしのない姿で、暇を持て余していた。 イザベラは枕元に置かれたベルを鳴らし、侍女を呼びつけた。「人形娘は、まだ来ないの?」 呼び出された侍女は、困惑した表情で告げた。「シャルロットさまの到着時刻は、その……」 これを聞いたイザベラは、ベッドから飛び起きると、猛然と侍女に詰め寄った。「おい、お前! 今、なんて言った!?」「もも、申し訳ございません!」「あれはね、わたしの玩具なんだ! どこにでもある、ただの人形なのさ! 二度と『シャルロットさま』なんて呼ぶんじゃないよ! わかったかい? ええおい、こらッ!」「申し訳ございません! 申し訳ございません!」 侍女の耳をつねり上げ、大声で叫ぶイザベラに、侍女は何度も謝罪の言葉を述べる。しかし彼女の主人はそれだけでは満足せず、侍女の耳から手を放すと、すらりと杖を抜いた。「あう……ひいッ……」 恐怖のあまり顔を歪め、侍女はその場で、がたがたと震え出した。「ふふん。馬鹿なお前を、少し利口にしてやるよ。最近、便利な呪文を覚えたんだ。他人の心を操り、意のままにする魔法……」「ど、どうか、お慈悲を……」 跪いて許しを乞う侍女の姿を見たイザベラの顔が、愉悦で醜く歪む。 毎度のことながら、この王女に暇な時間を与えると、本当にロクでもない行動に走る。つまりこれは、イザベラの退屈しのぎに他ならないのだ。 と、そこへ呼び出しの衛士がやってきて、イザベラが待っていた人形姫と、その使い魔の来訪を高らかに告げた。報せを受けたイザベラは、顔中に笑みを浮かべる。ただし、それは慈愛や微笑と呼べるものからは、ほど遠いものであった。「ここへ通しなさい」 現れた者たちの様子は、前回会ったときとは大きく異なっていた。イザベラの従姉妹姫であるタバサは、いつも通りの無表情。だが、もうひとり――太公望の瞳に、初めて謁見したときと同様の光が戻っていた。 どうやら『惚れ薬』の後遺症はなさそうね。当時のことを思い出し、うっかり吹き出しそうになるのを堪えながら、イザベラは視線を太公望へ向け、じろじろと眺め回すと……おもむろに口を開いた。「よろしい、ちゃんと略章を身に付けて来たね。いい子だ」 と、そのイザベラに、太公望が疑問を投げかけた。「あのう……王女さま。お聞きしたいことがあるのですが」「なんだい?」 王女の下問に、太公望は頭を掻きながら、心底困ったといった声で答えた。「これ、お返しすることはできませんかのう?」 この発言に、居合わせた衛士と侍女が顔色を変えた。 無理もない。国王から受け取った騎士団章を返却するということは、つまり――この国に仕えたくないと言っているにも等しい、不敬極まりない行為であるからだ。だが、それを聞いたイザベラは怒るどころか、遊び甲斐のある玩具を見つけた子供のような顔で訊ねた。「どうしてだい? その『花壇騎士団章』はね、欲しいと思っても、なかなか手に入るものじゃないんだよ」「ご主人さまにも、同じことを言われたんですがのう。ですが、わたくしは――このような大きなお国から、勲章をいただけるような働きなど、何もしておりません。それなのに、こんな大層なものを身につけるというのは……その、重すぎるのです」 イザベラは、美麗な顔に愉悦の笑みを浮かべた。「あっはっは、何を言っているんだい。お前はね、とてつもない戦果を挙げたんだよ!」「戦果、とは?」 おかしくてたまらないといった風情で、イザベラは続けた。「なんだ、わかっていないみたいだね……まあ、いいわ。お前がそれを身につけているだけで、さらに戦果は拡大するんだ。いいや、縮小すると言ったほうがいいかもしれないねえ。いいから、大人しく受け取っておきな」「そうなのですか。王女さまがそのように仰るなら、そうします」「ふふん、素直でよろしい。それじゃ、これも渡しておくわ」 イザベラが再びベルを鳴らすと、控えていた侍女が部屋の中へ入ってきた。その手には、黒塗りの盆が乗せられており、そこには2枚の羊皮紙と、品の良い装飾が施された小箱が置かれていた。「『騎士』と『東花壇警護騎士団』着任の任命状に、騎士団章だ。父上からの手紙に書いてあったと思うけれど、今後はそれを身につけるようになさい。それと……」 イザベラは、手元にあった紙と太公望とを交互に見ながら、声を出した。「お前の正式な所属先は、この『北花壇警護騎士団』だ。人形娘から聞いているかもしれないけれど、うっかり抜けているところがあるといけないから、このわたしが自ら説明してあげるわ。光栄に思いなさい」 ――そして、イザベラは改めて『北花壇警護騎士団』についての説明を行った。 この騎士団は、ガリア王国の『裏』仕事を一手に引き受ける部署であること。 表向きは存在しないとされているため、本来の所属を明かすのは禁忌であること。 ここに所属する者は、互いに名前では呼び合わず、番号で名乗る決まりがあること。「お前に割り振られた番号は『8』だ。最近ちょうど空きが出てね。ご主人さまの隣で覚えやすいだろう? よかったね!」 本人としてはにっこりと――端から見ると、ニヤリといった表現のほうが正しい笑顔で、イザベラは先を続けた。「それと、年金についてだけど……財務庁に任命状を持っていけば、持っている勲章に応じた額が、月割りで支払われる仕組みよ。最初は、ご主人さまに連れて行ってもらいなさい。そうそう、毎月ガリアへ戻ってくるのは大変でしょうから、最大3ヶ月分まで前借りができるようにしておいたわ。どう? わたしって、とっても優しいでしょう?」「はい、ありがとうございます」 この返事を聞いたイザベラは、さも驚いたといった顔をした。「おやまあ。最初の頃と違って、ずいぶんと大人しくなったじゃないか。お前、やっと使い魔の『しつけ』をする気になったみたいだね」 ようやくイザベラから言を向けられたタバサであったが、いつもと変わらず、まるで人形のように表情を動かさない。「なんだい、結局『心』は返したってわけかい。もうしばらく、あのままのほうがよかったんじゃないか? そうすれば、あんたの父親に忠実だった連中から、同情が引けたかもしれないよ!? おお、なんとお気の毒なシャルロットさま! あんなに涙を零されて……なんてね!」 その言葉にも、タバサは答えを返さない。「ふん! 相変わらず、少し魔法ができるからって、余裕気取っちゃって。まあいいわ、今回の任務に、その無表情は役立つでしょうし」 イザベラの顔が、さらに凶悪な笑みで歪んだ。部屋の両脇で不安げな表情を浮かべている侍女たちへ向けて、口早に命じた。「ほら、お前たち! さっさとこの子たちを連れて行きな。例の支度をするんだよ」 そう言うと、イザベラはあごをしゃくった。それを、侍女たちの後についてゆけと解釈したタバサと太公望は、静かに部屋を後にした。○●○●○●○● ――それから1時間ほどして。まずは、太公望が謁見の間へ姿を現した。 彼の装いは、先刻までとは一変していた。 銀糸の入った上品なシャツに濃緑色のベスト、白い乗馬ズボンという服装に、騎士団の象徴とおぼしき刺繍が裏地に縫いつけられた、フードつきの紺色のマントを身に纏い、さらに彼の頭には、巻き帯部分に薔薇の花と茎をあしらった小さな銀細工がついた、つば広帽子が被せられていた。これは、花壇警護騎士団に所属する者が身につけている隊服である。「ふうん、なかなか似合っているじゃないの。どう? ガリア騎士の格好をした感想は」「首のあたりが、えらく窮屈です」「あはははっ、すぐに慣れるから我慢しなさい! と……お前のご主人さまが、支度を終えてきたみたいだよ」 イザベラに促された太公望は、視線を扉のほうへと移した。そして、入ってきたタバサの姿を見て、思わずほう、と唸った。 おそらく湯浴みをさせられたのであろう。やや赤く上気した顔には、華麗な化粧が施されていた。ゆったりとした豪奢なドレスを身に纏い、全身を宝石や装飾品によって飾り立てられたタバサは、その内に隠されていた神秘的ともいえる高貴さが浮き彫りとなり、どう見ても完璧な姫君そのものであった。後ろについてきた侍女たちも、タバサの可憐な姿を見て、感嘆のため息を漏らしている。「ふん、まあまあってところかしら」 イザベラは、席を立ってつかつかとタバサの側へと歩み寄ると、その手で従姉妹姫の頭をぐりぐりとこねくり回した。そして、邪悪と言ってもいい笑みを浮かべながら、自分の頭に乗せられているものを指差した。それは、宝石がふんだんに散りばめられた、ミスリル銀製の冠であった。「ねえ、シャルロット。お前、これが欲しいんだろう? もしかすると、お前のものだったかもしれない、王女の冠よ」 その言葉によって、室内にいる者たちの間に緊張が走った。だが、タバサは相変わらず無表情のまま、空虚な瞳でそれを見つめている。「ほら! かぶってみたいでしょう、ねえ? 素直に、欲しいって言ってごらんなさいな。そうしたら、あげてもよくってよ」 イザベラは冠を取り、なんとタバサの目の前で、指を入れてくるくると回し始めた。表情を変えぬままそれを見ていたタバサは思った。今のわたしが目指しているものは、それではないと。そんなタバサの様子を見たイザベラが、フンと下品に鼻を鳴らした。「相変わらず頑固ね。ま、いいわ。それじゃあ、今回の任務について説明するよ」 そう言って冠をタバサの頭にかぶせたイザベラは、手を叩いて室内にいた者たち全てに退出を促すと、ベッドへ腰掛けた。それから、部屋の中に自分たち3人しかいなくなったことを確認すると、イザベラは声を上げ、ひとりのメイジを呼んだ。緞子(どんす)の影から、若い騎士が姿を見せる。「お呼びでございますか」 歳のころは20をいくつか過ぎた程度であろうか。手入れの整った髭が凛々しい、なかなかの美男子であった。「東薔薇警護騎士団団長バッソ・カステルモール、参上仕りました」 カステルモールと名乗った騎士は、イザベラの前で膝をつくと、一礼した。「カステルモール。そこにいるのが、例のリョボー・タイコーボーだ。父上から説明は受けているわね?」「はっ、書面にて頂戴致しております」「本来は、わたしの預かりなんだけど……表向きは、お前のところに所属しているということになる。面倒を見てやってちょうだい」「承知仕りました」 カステルモールは、立ち上がってくるりと振り向くと、太公望へ視線を投げて寄越した。それを見た太公望は、慌てたように、ぎくしゃくとした礼をする。「よ、よろしくお願いします」「ふむ、最低限の礼儀は心得ているようだな。しかし、いくら姫殿下の御前で緊張しているとはいえ、その礼はいただけない。これからは、名誉ある東薔薇花壇警護騎士団の一員として、相応しい所作を身につけるよう努力せよ」「か、かしこまりまして、ございます」 そんなふたりの様子を、実に面白そうに眺めていたイザベラが、口を挟んだ。「挨拶は済んだようだね。じゃ、そこにいる『人形』に、例のものを」「御意」 イザベラの命令に頷いたカステルモールは、すらりと杖を引き抜いた。青白く鈍い光を放つ、相当に使い古された杖である。これほど見事な古杖を持っているということは、年齢によらず、かなりの使い手なのだろう。この若さで、花壇騎士団の長に抜擢されるだけのことはある。タバサは、カステルモールをそのように評価した。 カステルモールは素早く呪文を唱え、タバサに向けて杖を振り下ろした。すると、タバサの顔に変化が現れた。なんと、イザベラと瓜二つになったのだ。 風と水の合成魔法。スクウェア・スペル<フェイス・チェンジ>だ。<風>ひとつ<水>を3つ重ねる必要があるため、基本が風系統であるタバサには、未だ使いこなすことができない、非常に高度な魔法である。 とはいえ、全身を完全に変化させることのできる『如意羽衣』とは異なり、この魔法では顔形を変えることしかできない。しかし、どうやら今回言い渡される任務には、これで充分なようであった。「あっはっは! そっくりじゃないのさ」 大声で笑いながら、イザベラはタバサの眼鏡を取り上げた。こうして顔を突き合わせているところを見ると、まるで双子の姉妹のようだ。「わたしね、地方の領主に招かれて、今日から旅行をするの。お前は、その間の影武者ってわけ。理解できた?」 イザベラの問いに、タバサはコクリと頷いた。「お前はちっぽけで、やせっぽちで、おまけに、美貌では到底わたしには及ばないけどさ。こうやって顔を変えた上で、ハイヒールを履いて、胸に詰め物でもすれば、なんとか誤魔化せるでしょう」 出発予定時刻まであと2時間と、予定が押している。イザベラは3人に命令を下すと、ひとり居室に残った。イザベラは、その細く切れ長な目をさらに細めると、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。「あの<召喚>の日から、今日でぴったり2ヶ月目。偶然って、本当に怖いわぁ~」 その声に応えるかのように、イザベラの耳元に小さな『窓』が開く。「なぁオイ、本気であいつに仕掛けるつもりなのか?」 声の主は、王天君だ。「もちろんよ。でも、心配しないで。あなたの弟を傷付けるような真似はしないから。だいたい、そんなことをしようと思っても、できないでしょう?」「まぁな。だが、約束通り、今回オレはついて行かねぇからな」「大丈夫。わたしだけでも、絶対に成功させる自信があるから! それにね、これはあくまで『遊び』なの」 そう言うと、イザベラは凄みのある笑みを浮かべた。「ただし。遊びでも、あなたから学んだように……決して手を抜かない。あの人形娘を、苦しめて、苦しめて、苦しめ抜いてあげるわ。そういうのが、わたしの趣味だから」○●○●○●○● ――ガリアの首都リュティスから、南西に100リーグほど離れた地方都市グルノープルへ向かう馬車の中で、イザベラは機嫌の良さを隠そうともしなかった。 彼女は、王女付きの侍女に変装していた。なんと、自慢の蒼い髪をわざわざ栗色に染めるほどの念の入れようだ。新しく雇い入れた女官という触れ込みで一行に紛れ込んだイザベラは、身分を隠し、他の召使いや侍女たちを欺いているのであった。「どう? わたしの変装術は。誰もわたしが王女だなんて、気付いてないわ!」 イザベラは、自慢げに――すぐ隣に座っている、王女の衣装に身を包んだタバサに声を掛けた。変装術というよりは、イザベラが生まれ持った資質――ありていに言えば、まるで王女らしくない立ち居振る舞いや、その性格面からくるものであるのだが、この場に居合わせた者たちは全員、それを口にするほど愚かではない。 現在、馬車の中にいるのは4名。影武者であるタバサと、そのお付きの女官に扮したイザベラ。そして、彼女たちの護衛という扱いでカステルモールが同乗しており、さらに、王女から「道中の退屈しのぎに東方の話を聞かせろ」という気まぐれという名の命令によって、正式にガリア騎士となったばかりの太公望が一緒に乗り合わせていた。 今回の旅行中、王女の護衛を担当するのは、東薔薇花壇警護騎士団と、西百合花壇警護騎士団、そして影ながらイザベラに付き従う、北花壇警護騎士団の精鋭たちである。 この旅行は、現地滞在が3日、往復にかける時間が4日という予定であった。アルトーワ伯爵領は、竜籠を利用すれば数時間程度で到着できる距離にあるのだが、そこをあえて時間のかかる馬車で行くのが、王族というものである。これは、ガリア王家の権威を国民たちに見せつけるための、大切な行事なのだ。 一行は、先頭にガリア王家の紋章が描かれた青い旗を掲げた騎士を立て、中央の列には、王女たちが乗る豪奢な装飾の施された四頭立ての馬車と、その前後を挟むかのように並べられた護衛の兵士や召使いを乗せた馬車を従え、その後ろについたふたつの騎士団が、整然と隊列を組み、威風堂々と街道を征く。 行く先々では、周辺の通り沿いに住まう者たちが整列し、歓呼の声を投げかけてきた。「イザベラさま、万歳!」「ガリア王国、万歳!」 小さく開いた馬車の窓からタバサが軽く手を振ると、住民たちはさらに熱狂した。「あははははっ! みんながお前のことを、本物の王女さまだと勘違いしてるわ! よかったねえ、気分だけでも王族に戻れて!」 げらげらと笑い続けるイザベラには目もくれず、タバサは黙々と手を振り続けた。「今回向かうのは、アルトーワ伯爵が治める地方都市グルノープルよ。お前は、彼のことを知っていて?」 タバサは、外に向かって手を振りながら、小さく頷いた。「ガリア王家の分家筋」「あら、よく覚えてたじゃないの。外国生活が長いから、とっくに忘れているものだと思ってたのに。ああ、ひょっとして自分の味方になってくれそうな人間だから、前から目を付けていたってわけ?」 イザベラは、タバサの頭に被せた冠をつつきながら問うた。「そんなこと、考えてない」 と、そんなタバサの口調が気に障ったのか、カステルモールが窓の外には見えぬよう、すらりと杖を引き抜いた。「おのれ、影武者風情が。なんだ、その口の利き方は! 姫殿下を愚弄するか!」「おやめ、カステルモール。今はわたしが話しているのよ」 イザベラの言葉で、若き騎士団長は杖を収めた。だが、その顔は怒りに歪んでいた。「失礼致しました。しかし……敬愛する我らがイザベラ姫殿下に対して、あのような態度を働く無礼に、このバッソ・カステルモール、我慢がならなかったのであります」 口を閉じてなお、タバサを睨み付け続けるカステルモールの態度が、どうやらイザベラにはお気に召したらしい。すっと左手の甲を差し出した。「お前の忠誠に、疑うところなどないわ」 笑みと共に差し出された手を、カステルモールは恭しく取ると、そっと口付けた。「ねえ、シャルロット。お前はずっと外国暮らしだから知らないでしょうけど、ここ最近リュティスを中心に、新教徒たちが大暴れしているの。このあいだは、王軍の施設が襲撃を受けてね、怪我人が大勢出たわ」 タバサは、何も答えない。実際、そのような事件が起きていたことなど、彼女はこれまで知らなかったからだ。「旅行なんてやめたほうがいい。そう思うでしょう? けどね、そうはいかないのよ」 ふっとため息をついたイザベラは、今度はタバサの頬を指でぷにぷにとつつき始めた。「アルトーワ伯爵はね、長年ガリア王家に忠誠を誓い続けてきた、本当に誠実な紳士なの。そんな人物が、半年以上も前から申し込んで来ていた園遊会への招待を、たかが襲撃騒ぎ程度で断るわけにはいかないのよ。王家の威信に傷がつくものね。ああ、王族でいるのって、本当に辛いわ!」「だから、わたくしのご主人さまを影武者にされたのですか?」 太公望の言葉に、イザベラは満足げに頷いた。「その通りよ。見てご覧なさいな、この蒼い髪」 イザベラは、タバサの髪を撫で回した。この色だけは、どんな魔法の染料を使っても真似できない。高位スペルである<フェイス・チェンジ>をもってすら、再現するのが難しい輝きを放っているのだ。「お前のご主人さまは、わたしの影武者には最適なのよ。この子はもう王族じゃないけど、髪の色だけは、王族のままだからね! とはいえ、シャルロットだけをアルトーワ伯爵のところへ送り込むわけにもいかないのよ。わたしが側にいないと、対応できない事もあるでしょうから」 そう言うと、イザベラは髪を掻き上げながらタバサに告げた。「そういうわけさ、人形7号。王女さまのお仕事は、お前に任せたよ」○●○●○●○● ――その日の夜。 タバサたちは、街道の途中にある宿場町へ到着した。前もってガリア王家からの予約を受けていた、その町の宿という宿は、100人を軽く越える王女さまご一行の到着で、全て満室となっていた。 タバサには、町でいちばん上等な宿屋の2階にある、最も豪華な部屋があてがわれた。イザベラは、その客室までタバサを案内すると、恩着せがましい口調でこう言った。「ここが、お前の部屋。こんな上等な客室で過ごせるだなんて、夢のようだろう? せいぜいわたしの慈悲に感謝するんだね」 そう言い残すと、侍女姿のイザベラは、召使いに扮していた数名の北花壇騎士団の者たちと共に、階下の部屋へと引っ込んだ。太公望はというと、この建物へ来る以前に、カステルモールの手によって、東薔薇花壇騎士団の詰める宿へ連れて行かれてしまった。 広い部屋でひとりきりになったタバサは、奥にあった鏡台の前に立つと、じっとそこに映る姿を見つめた。王女が纏うドレス、そして冠……。 イザベラは「これが欲しいんでしょう?」と、光輝く冠を突き出してきたが、タバサは別に、そんなものが欲しいとは思っていなかった。彼女が今、探し求めているものは――。「妹の消息、そして父さまの死の真相に関する情報」 タバサは、ひとり呟いた。これが半月前ならば違っていただろうと。あのとき、わたしが欲しかったのは、イザベラ――あなたのお父さんの首。しかし、数多くのことを知ってしまった、今は違う。 簒奪だと思われていたジョゼフ王の即位は、大司教も認める正統なものだった。 心優しき善人だと信じていた父は、王座を狙い、人知れず暗躍を続けていた。 復讐を求めていると感じていた母の心は、王族として、国の安寧だけを願っていた。 一人っ子だった自分には、実は何処とも知れぬ遠地へと流された、双子の妹がいた。 父の人物像については、未だ真相はわからない。あくまで、母からの伝聞でしかないからだ。しかし、それ以外については――裏付けがほぼ取れている。 窓際に置かれていたサイドテーブルに冠を置くと、タバサは天蓋つきの豪華なベッドに、身体を横たえた。次いで、その小さな口から歌声が漏れだした。 それは、彼女が幼かった頃――まだ眠りたくないとぐずる自分を寝かしつけようと、母が枕元で唄ってくれた子守歌だ。かつて、タバサはよくこの歌を口ずさんでいた。何故なら、これは――希望への出口から垂れた、極細の糸であったから。 絶望の淵に囚われ、己の身の上を嘆くあまりに、自ら命を絶とうとしたこともあった。しかし、そうなれば必然と母を道連れにすることになる。今にも砕け散りそうなタバサの心と命を、かろうじて現世に繋ぎ止めていた、懐かしくも優しい思い出。ほんのわずかに過ぎないが、こうして歌うことによって、彼女の脳裏へ鮮やかに蘇るのだ。幸せだった昔と、微笑みに溢れた日々の記憶が――。 久しく歌っていなかった、その歌を紡ぎ出していると……コツコツと扉を叩く音がした。タバサは、側に置いてあった杖を手元に引き寄せる。その表情は、既に騎士のそれだ。「誰?」「わたしだ。カステルモールだ」 慎重に扉を開けると、そこに立っていたのは、間違いなくタバサの顔に<フェイス・チェンジ>をかけた、東薔薇花壇警護騎士団の長、そのひとであった。「何の用?」 短く問うたタバサに、片手の指を1本立てる仕草を見せたカステルモールは、慎重に周囲と部屋を見渡すと、さっと中へ滑り込み、後ろ手に扉を閉め<魔法探知>を唱えた。「ふむ……よし。怪しい者も、魔法で聞き耳を立てている輩もいないようだ」 ある意味、あなたがいちばん怪しい。一瞬そんな風に考えたタバサであったが、しかし。その場で恭しく帽子を取り、足元に跪いたカステルモールを見て、内心驚いた。もっとも、表情は相変わらず全く動かなかったが。「どうか、わたくしどもに姫殿下をお護りする栄誉をお与えくださいませ。昼夜を問わず、護衛つかまつります。隣の部屋に、隊員を待機させる許可をいただきたくあります」「必要ない。わたしは、ただの影武者」 タバサの否定に、カステルモールは首を横に振った。「いいえ。シャルロットさまは、いつまでも我々の姫殿下でございます」「どういうこと?」 そう訊ねたタバサに、カステルモールは静かに告げた。「わたくしめは……いえ、我ら東薔薇花壇警護騎士団一同は、表にできぬ、変わらぬ忠誠をシャルロットさまに、そして今は亡き大公殿下に捧げております」 どうやら、彼は亡き父に縁がある人物らしい。しかし、時期が時期である。こうして近付いてくる相手を、簡単に信用するわけにはいかない。タバサは、小声で聞いた。「昼間のあれは?」 カステルモールは、その声にビクリと身体を震わせた。「その節は、大変失礼をば致しました。『始祖』より賜りし王権を簒奪した者の娘に、我が心の内を悟られては……と、愚考した次第であります」 しきりに恐縮する彼の様子は、タバサの見たところ……演技だとは思えないほどに真摯なものであった。もしも彼が『本物』ならば、是非とも聞いてみたいことがある。「あなたは、父を知っているのですか?」 タバサの問いに、カステルモールは俯かせていた顔をぱっと上げ、瞳を輝かせた。「よく、存じております。今のわたくしがございますのは、亡き殿下……いえ、陛下のお引き立てがあってこそ。身分を問わず、誰にでもお優しいおかたでした」 彼は、父に何らかの強い恩義を感じているために、わたしを護ろうとしてくれているのだろう。タバサはそのように判断した。しかし、現時点では万が一にも騒動を起こすわけにはいかない。よって、受け答えは慎重に行わねばならない。そう考えたタバサは、思いついた言葉の中で、最も無難であろう答えを返すことにした。「ありがとう。その言葉だけで充分」「姫殿下。どうか、御身をお護りする許可を……」 だが、タバサは静かに首を横に振った。「今のわたしは、北花壇騎士(シュヴァリエ・ド・ノールパルテル)。それ以上でも、以下でもありません」 真剣な目で自分を見つめてくるタバサに、カステルモールはそれ以上に生真面目な瞳を向けて答えた。「姫殿下。あなたさまさえ、その気であれば……我ら、東薔薇花壇警護騎士団一同、決起のお手伝いをば……」 カステルモールの言葉を聞いたタバサは、はっとした。今、彼は『決起』と言った。つまり、いざというときは反乱も辞さないということだ。もしもこのまま放っておけば、このひとたちは……いつか、暴走してしまうかもしれない。それは、多くの血が流れる『道』に繋がる。瞬時にそう判断したタバサは、静かな声でこう告げた。「そのようなことを言ってはいけません。わたしはこれ以上、不幸になるひとを増やしたくなどないのです。その代わりに……」 続く言葉を紡ぐのを、酷く躊躇うかのようなタバサを、カステルモールは怪訝な面持ちで見つめた。「シャルロットさま……?」「いつの日か、あなたの知る父の話を……わたしに聞かせてくれますか?」 それを聞いたカステルモールの全身が、瘧のように震えた。タバサは、そんな若き騎士の姿を、静かに眺めて続けている。 それから、わずかの間を置いて。カステルモールは静かに立ち上がると、タバサの手を取り、そっと接吻した。「真の王位継承者に、変わらぬ忠誠を」「いいえ、わたしは北花壇騎士。感情を持たぬ、ただの人形です」「左様ですか……承知致しました。ですが、たとえ御身を地の底に落とされたとしても……我らが忠誠の在処は変わりませぬ」 カステルモールは、そう言い残して部屋を出て行った。顔の隅に、抑えようにも抑えきれぬ、僅かな笑みを浮かべて。「……また、巻き込んでしまった」 部屋に取り残されたタバサは、窓の外に浮かぶ双月を眺めながら、ぽつりと呟いた。真実を知りたいという、自分勝手な欲求のせいで、また無関係なひとを裏道へ誘い込んでしまった。彼らの暴走を抑えるという、自分の心に都合の良い言い訳をして。 タバサは、空に輝く双つの月に向かって小さく独白した。「わたしは、本当にこの『道』を歩んでもいいの……?」 だが、その問いに答えてくれそうな者は、今――この部屋にはいなかった。 ――バッソ・カステルモールは、己の内に沸き上がる感激を抑えるのに、全身全霊をつぎ込まねばならなかった。「昼間、あのような無礼を働いたにも関わらず、シャルロットさまは寛大なお言葉をかけてくださったばかりか、我らの身まで気遣ってくださった。さすがは、シャルル殿下が遺された姫君だ。あのかたと同じく、どこまでもお優しい心根をお持ちであられる」 で、あればこそ。何としてでも、御身をお護りせねばなるまい。若き騎士団長は、仕えるべき姫君の身を、心から案じていた。「ここ最近、国営施設に対する爆破予告や、襲撃事件が後を絶たない。それだけ、現在の王政府に不満を持つ者が多いということだ。そしてこの行幸は、あの厚顔無恥で畏れを知らぬ僭王の娘が、身の危険を感じて、わざわざ己の影武者を立てるほど危ういもの。敬愛する我らがシャルロット姫殿下を、あんな下劣な女の身代わりになど、してたまるものか!」 真の王位継承者を護ることこそ、我らの務め。心の底からそう信じているカステルモールは、タバサの部屋を出た直後。即座に彼が『簒奪者』と断じている者の娘・イザベラの元へと向かい、彼女の前に跪くという屈辱に耐え、必死の思いで『影武者』に護衛をつけたほうがよいと提案した。そうすれば、襲撃者が現れた際に、本物と錯覚するであろうという嘘までついて。 しかし、イザベラの許可は降りなかった。それどころか、彼ら東薔薇警護騎士団は――本来であれば、騎士団ではなく平民の警備兵が行うような、宿場町外周の警邏任務を命じられてしまった。まるで何事もなかったような顔をして、だが内心では激しく憤りながら、カステルモールは宿舎へと向かった。「警邏任務!? おまけに、よりにもよって件の『異邦人』まで一緒に連れて行けとは! かの者は、当初想像していたほどの礼儀知らずではなかったが、しかし……あのような子供を連れ歩くなど、我らにとって足手まとい以外の何者でもない」 せめて、外から賊が入り込まぬよう、精一杯努力しよう。敬愛するシャルロット姫殿下の御為に。そう決意したカステルモールであったが、しかし。その判断は、既に遅きに失していた――。